第3話

 時々、私はそこに存在するはずのないものをみる時がある。白い部屋だったり、上にも下にも長く長く続いている螺旋階段だったりと、幻覚のようなものがみえる。いつからだろう。ふと思う。けれど、いくら考えてもそれは思い出せなくて、私の心はきっと孤独に押し潰されて壊れかけているのだろうという結論に行き着くのだった。私は西館から本館へと向かっていた。施設は、本館、西館、東館と分かれている。女子寮は西館に、男子寮は東館に、そして食堂や教室や図書館、共有スペースや職員室などは全て本館にある。臙脂色えんじいろの絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、食堂の手前にあるトイレに一度入った。洗面所で両手いっぱいに溜めた水で顔を洗う。


「私の名前は、大城新奈おおしろにいな。今の季節は冬。私は雪が嫌いで、心の底から憎んでいる」


 鏡の前で、目の前に映る自分に向けてそう口にした。大丈夫。私は、おかしくない。頬を一度軽く叩き、その場をあとにした。


 臙脂色の絨毯を踏みしめながら廊下を進むと、両開きの大きな扉がみえてくる。ドアの傍には黒いファイルを手にしている男性の職員が立っていて、名前を言うようにと言われる。男性の短めの黒い髪は丁寧に切り揃えられており、身に纏っている上下真っ白な服がより清潔感を際立たせていた。


大城新奈おおしろにいなαアルファです」


 私は、男性の目を見て言った。朝食前の点呼だ。施設内にいる子供達が一同に集うのは、朝食と夕食の時だけ。だから必然的に点呼を取るのは朝になるのだと以前職員が言っていた。


「最後のギリシャ文字の所をもう一度言って頂けますか?」


 聞きそびれてしまったのか、ファイルに目を落としたまま職員がそう言うので、先程よりも少し大きな声で「αアルファです」と答えた。


 施設内に住む子ども達には、物心がつく少し前に名前とは別に一人ずつギリシャ文字が与えられる。αアルファβベータγガンマδデルタεイプシロンと続く24個ある中の言葉が一つだけ与えられており、今みたいな点呼などの際には必ず最後にその与えられているギリシャ文字を言う事になっている。たとえば、沙羅の場合はγガンマという文字が与えられており、私はαアルファだ。名前の端にαアルファと付く子は、今まで私の他に湊という男の子以外みたことがない。何故一人ずつにこんな文字が与えられているのか詳しいことは知らないが、子ども達把握する為にその名を付けられていると聞いたことがある。


「確認出来ました。新奈ちゃん、おはようございます」


 私は小さく頭を下げてから、食堂への扉を開けた。外にまで漏れていた子供たちの声が途端に大きくなって鼓膜に触れる。真っ先に視界に飛び込んでくる長方形の大きなテーブルが、部屋の奥に位置する厨房の手前までニ列に連なって続いており、入口の傍らでは小さな子供達が床にひかれたマットの上で職員の女性達と戯れている。泣いている女の子、鬼ごっこでもしているのか走り回る男の子達、職員の女性と積み木で遊ぶ子供達、窓辺から差し込む柔らかなひかりに抱かれながらそれぞれが感情を露わにして生きている。みながら、羨ましいと思った。私もあんな風に感情をさらけ出すことが出来れば、この孤独や虚無感を、誰かが拭い去ってくれるのだろうか。


 厨房へと足を進める。中に入る前に、着込んでいたコートを脱ぎ、壁際に設けられているラックに掛ける。赤と黒のチェック柄のコートで、それは私のお気に入り。施設を出ていく日に、凛花さんがくれた。「私が着ることはもう二度とないだろうから、これ良かったら着てね。いつかどこかでその服を着てる新奈をみれたら嬉しいな」と言われ、私の心は寂しさと悲しさの混じり合ったよく分からない気持ちで染まった。


 黄色のエプロンを身に纏ってから、皆の朝食を用意する女性達の輪に入った。十五人程はいるのだろうか。各々が与えられた仕事を黙々とこなしている。奥の方では、沙羅が焼きあがったバンをバケットへと盛り付けていた。私も厨房に入ると同時に職員の女性に促され、大きな寸胴の鍋の前に立たされた。この部屋に入った時からずっと玉ねぎを煮詰めた甘い匂いがしていたが、その中をみて、やっと今朝のメニューが分かった。


「新奈ちゃん、今日は鶏肉と玉ねぎのスープだから底が焦げないようにゆっくりかき混ぜてね」


 声をかけてきた職員の女性に私は笑みを向けた。昨夜と違って、今日はまだ気分良かった。今朝方に部屋の窓からみえたのは、触れてしまっただけで割れてしまいそうな程に綺麗な空だった。そんな空から雪が降るとは到底思えなかった。それだけで、私は私でいられた。


「新奈ちゃんは本当に綺麗な目をしてるわね」


 具材をかき混ぜる為にトレイの上に置かれているおたまを手にしようとした時、覗き込むようにして私の顔をみて職員の女性が言う。


「そんなことないですよ」と顔を俯けながらも笑みを浮かべた。


「いや、本当よ。鼻筋もすっと通ってるし何よりも目が綺麗。それに、女の子なのに結構しっかりしてる所とかあるでしょ? それが余計に顔を綺麗にみせてる気がするのよね。私もあともう少し若かったら新奈ちゃんの顔に整形してもらいたかったわ」

「……ありがとうございます」


 言われた通りに底に溜まっている具材を持ち上げるようにゆっくりかき混ぜる。職員の女性は満足気に頷いて、私の手にしていたおたまを使ってスープを一杯掬ってからお皿にいれた。一人分の量はこれくらいで、具材もスープの量も出来るだけ均等にしてあげてねと言われる。私が分かりましたと頷くと、トレイを手にして奥へと消えていった。


「新奈、今日の朝飯って何?」


 光をさすような明るい声色が私の鼓膜に触れたのは、そんな時だった。灰色のセーターに身を包んでいる湊は、厨房に顔を覗かせて私をみると優しげな目をした。左の眉の上の辺りにある小さな傷がそれと一緒に下げられる。正面からみても分かる程の高い鼻梁に、くっきりとした二重に大きな目。睫毛は長く、髪の毛も耳が丁度隠れる程の長さがあり、左側だけが耳にかけられている。総じて湊に抱く印象は中性的な顔立ちだということ。いや、どちらかと言えば顔立ちは女の子よりで、身長差は確かにあるけれど私が湊のような髪型をすれば、きっと湊と見間違われるのじゃないだろうか。年は私と沙羅と同い年で、私にとっては心を許せる数少ない友人の一人だった。湊は小さな女の子を大切そうに胸元で抱きかかえていた。名前は陽菜乃ちゃん。年はまだ四歳だったはずだ。


「鶏肉と玉ねぎのスープだけど、湊って陽菜乃ちゃんとそんなに仲良かったっけ?」

「最近仲良しになってさ、今日も俺が薪小屋で薪割りしてたら外まで見に来たんだよ。可愛いだろ?」


 湊はそう言って、陽菜乃ちゃんの頰をそっと撫でた。それに応えるかのように、陽菜乃ちゃんは「お兄ちゃん大好き」と言って甘えた声を出している。そんな二人をみていると、気付けば私の頬も緩んでいた。


「陽菜乃ちゃん、お姉ちゃんも今日は土曜日で授業はお休みだから、朝ごはん食べたらお外に遊びにいこっか」


 陽菜乃ちゃんの顔をみながらそう言って、するりと窓辺に視線を滑らせた。その時だった。


「あっ雪だ」


 誰かの声が、聞こえた。水の中から声を発しているかのように小さくぼんやりとした声だったが、確かにそう聞こえた。それは、私だけではなかったようで、気付けば皆が窓辺に視線を向けており、子供達は時折窓を叩きながら笑顔でそれを見つめている。窓辺から差していた光はいつの間にか薄くなっており、あれだけ澄んでいた空はうっすらと陰っていた。その空からふわりふわりと灰のような白い小さな塊が舞い落ちている。雪だ。そう認識した瞬間、私の心には雨が降った。夕立のように突如降り注ぐ大雨が、私の心を今日も黒く染めていく。嘘だ。ねぇ、どうして? 今朝はあんなに綺麗な空だったのに。誰に届くこともない叫びを、胸の中で発していた時、誰かが言った。「雪が降ってるの、初めてみた」と。それに続くように子供たちも同じ言葉を口にする。私はそれを厨房の中から呆然とみていた。また、始まったのだと思った。毎年そんなことはないと思いながらも、心の奥底ではどこか期待をしていた。もしかしたら、もう雪が降らないかもと。降ったとしてもそれはまばらで、私がこの孤独に押し潰されそうになる日々は少ないかもしれないと。だが、そんな私をあざ笑うかのように毎年雪は降り続ける。氷のようなつめたさを孕んだ地獄のような日々が今年も始まったのだ。後ろから誰かに手を回されて、首筋に頬が触れた。身体を抱き締められたのと同時に甘い匂いに包まれる。振り返らなくても、誰かは分かった。


「皆が騒いでるから何事かと思ったら雪降ってるじゃん! 雪って本当にあんな感じで降るんだね。人生初めての雪が降ってるところを新奈と一緒にみれるなんて最高過ぎるんだけど」


 沙羅だった。曖昧に頷いて、昨日も降ったよ、という言葉を呑み込んだ。意味なんてないと思った。今言ったところで、明日には覚えないから。沙羅を含め、この村の人たちは誰一人として、今日は雪が降ったことすら覚えていないから。後ろから回されている手の上に、私の手を重ねようとして、小さく震えていることに気付いてやめた。代わりに、孤独で押し潰れかけている心を精一杯に偽って、無理に笑顔を作った。

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