第2話

 翌朝、目が覚めてからひかりの中で溺れそうになったことにまず安心した。今日は、雪が降ってない。窓から差し込むひかりをみて、真っ先に頭に思い浮かんだのはそんなことだった。


「あっ、やっと起きた」


 左手で目を擦りながらベッドからゆっくりと身体を起こすと、鏡越しに目が合った。その声の主にあくびを混じえながら、おはよう、と言う。


「おはよ!そろそろ鐘が鳴っちゃうから、いつ起こしてあげようかなって思ってたとこ」


 部屋のちょうど真ん中にある丸テーブルに置かれた三面鏡を前にして、櫛で髪の毛をときながら陽だまりのような笑みを浮かべたのは沙羅だった。右手で手にしている櫛が上から下へと流れるように滑っていく。その手がふいに止まり、顔だけをこちらに向けてくる。


「そういえばさ、さっき新奈が寝てる時に愛莉が入ってきて今日の礼拝は夜の六時からに決まったって言ってたよ」

「そうなんだ」

「今回は村の人たち百人くらい来るらしいよ」

「そうなんだ」

「全く興味なさそうに言うよね。どれだけ礼拝嫌いなの」

「嫌いっていうか、興味ないんだよね。別に雪の妖精の子供になりたいとか、雪の妖精の子供ですとか私は言ってないし」


 言いながらため息をつきそうになった。この村に伝わる古くからの言い伝えも、風習も、礼拝も、私から何もかもを奪い去っていく雪も、全て冬がもたらすものだった。いっそのこと冬の季節ごと全部無くなってしまえばいい。


 私は冬が引き連れてくる雪が嫌いだ。心の底から憎んでもいる。だがそんな私を嘲笑うかのように、私の住む村では冬が訪れる度、毎年の決まり事かのように雪が降る。十二月の初旬には雪が積もり、それから三月の初旬頃までは、雪に染められた白い世界の中で生活していくことになる。そのせいか、村にはにわかには信じられないような雪にまつわる言い伝えがあり、それを子供の時からずっと聞かされた。雪が降る日には妖精が現れるとか、雪の妖精の子供と関わりを持つとご利益があるとか、森の奥深くには辺り一帯にどれだけ雪が降り積もろうとも全く積もらない場所があり、それは闇すらも呑み込もうとする一メートル程の穴で、その穴に落ちると二度と戻っては来られないなどと、まるでおとぎ話のようなくだらないものばかりだ。


 それに、雪の妖精の子供や妖精の忘れ物などと、まるで雪の申し子かのように、村の大人達は私をそう呼ぶ。そんな風に呼ばれている私が、心の底から雪を憎んでいるなんてとんだ皮肉だと思う。でも、自分を抑えることなんて出来なかった。私は冬という季節が嫌いで、その季節の風物詩かのように扱われている雪が、この世界の何よりも嫌いだから。


「沙羅、何時から起きてたの? 全然寝てないんじゃない?」


 昨夜は、さみしさや憎しみで高まった感情の波のせいで一向に眠れる気がしなかった為にあれからずっと雪を見続けていると、隣で寝息を立てていた沙羅が寝返りを打つと同時に目を覚まし、私の送る視線の先に目を向けると「えっ? 雪降ってるじゃん!」と飛び上がるようにして身体を起こした。気付いた時には、沙羅が二段ベッドの階段を足早に駆け下りており、それから小窓に手を添えて、「雪が実際に降ってるのとか初めてみた。ねぇ、雪の妖精もさ、いつもこうやって雪を積もらてんのかな」と子供のように無邪気に喜んでいた。雪に興奮が収まらなかったのか、沙羅は壊れた蛇口みたいに喋り続け、結局私たちは夜が明ける少し前までベットの背もたれに身体を預けたまま舞い落ちていく雪をみつめていた。私が寝過ごしてしまったのは、そのせいだった。


「目が覚めたのは六時くらいだけど、昨日は……あれ、何時に寝たんだっけ。覚えてないや」


 櫛で髪をときながら、宙を見上げ一瞬考え込む素振りをみせてから沙羅はそう言った。あぁ、そうか。覚えてないよね。私は胸の中で呟いてから、「そっか」という言葉だけを声に乗せた。昨夜に何時に寝たかということも、昨日は雪が降ったということも沙羅は知らない。覚えてないのだ。昨日は、雪が降ったから。


 私達は『妖精達の庭』と呼ばれる児童養護施設で暮らしており、沙羅は施設のルームメイトだ。それに私の彼女でもある。付き合ってから二年と少しが経つ。私と沙羅のように女性同士で恋を実らせたカップルは、施設の中では珍しかった。いや、その外にある村の中ですら珍しかった。私達の住んでいる冬の帳村の人口は八百人程で、四方を山に囲まれているこの村には何もない。施設内はともかくとしてその外で生きる村の人達の娯楽と言えば噂話くらいだ。そして、昔から伝わる言い伝えや慣習に重きを置く人達が多いせいか、私達のような関係をよく思わない人が多かった。


──女同士で手を繋いで色気まで出しおって。あんなの、みてられんな。


──可哀想にねぇ、きっとあの子達には親がいないからきちんと教育してくる人もいなかったんだろう。


──あれは、病気だよ。病気。


 当時の私達は時間の制限はあるものの、ようやく施設の外へと自由に出れる権利を得たばかりで、水を得た魚のように施設の外へとよく繰り出していた。そんな日々を続けていると、いつからか村の中を歩いているだけでもそんな声が至る所から聞こえるようになった。その時になって初めて、私達は村の人達の噂話の格好の餌食になっていたのだと知ったのだった。


──ほんとむかつくんだけど! 女が女と付き合ったら駄目って誰が決めたの? ってか私達のこと病気とか言ってたよね? そんな病気があるなら病名を教えて欲しいんだけど。新奈、気にしなくていいからね。あんなの勝手に言わせといて相手にしなかったらいいよ。


 いつだったか、二人で施設の外へと散歩に出て帰ってくるなり、今にも机をひっくり返しそうな勢いで沙羅が言った。私は、そんな沙羅に笑みを向けて、気にしてないよ、と言った。本心だった。私は沙羅が隣にいてくれたらそれでいい。誰に何を言われと、どう思われようと、そんなことで私が沙羅へと向ける想いの火が消えることはないのだから。


 当時の記憶に思いを馳せていたからか、私の瞳の中心には沙羅がいた。胸元まで流れた黒い髪には艶があり、上から下へとつかえることなく櫛をすり抜けていくかのような髪の毛は、よく手入れされていることがひと目に分かる。新雪のように白く透明感のある沙羅の肌が、その髪の黒さをより際立せていた。アーモンド型の大きな目以外の顔のパーツは全体的に小さめで、どこか幼さが残っている。私が付き合っているからという贔屓目を抜きしても、沙羅は綺麗だと思う。


 みとれていると、「なに、どうしたの?」と鏡越しにみつめてくるので、なんでもないよ、と笑みを作った。


「櫛終わったら、貸して?」


 沙羅の隣に腰をおろしてから、言った。すると、沙羅は一度頷いて、綿菓子みたいな甘い笑みを浮かべて私の首筋に顔を埋めてくる。鼻先で擦るように触れてきて、大きく息を吸い込んで、静かに吐き出している。息遣いを直に感じる為に少しだけくすぐったかった。


「ねぇ、髪の毛せっかくといたのに変なくせとかついちゃうよ」

「大丈夫。私はプロだから」

 息継ぎをする間に、沙羅が言った。

「なんのプロよ」

「新奈の匂いを嗅ぐプロ」


 普段の声のトーンで、全く意味の分からないことを言われて、思わず笑いが込み上げてきた。自分が自然と笑えていることに笑ってから気付いて、泣きそうになった。時々、もし私の隣に沙羅がいなかったらと考えることがある。この時期はどうしたって気持ちが暗くなり、雪が降ることに怯える毎日をこれから数ヶ月は過すことになるかと思うと、死にたくなる。それでも、孤独と絶望から生まれた黒い靄によって腐食していく私の心が今もかたちを保つことが出来ているのは、きっと沙羅が私の隣にいてくれるからだと思う。


 胸の中で、本当にありがとう、と呟いて、沙羅の身体を腕で寄せた。細く、柔らかなその身体の感触が服越しにでも伝わってくる。「ねぇ」と言って沙羅が顔をあげた。それから少しの間みつめあって、互いの瞳の中に映る相手の姿に手を伸ばすように、顔を寄せて唇を重ねた。軽く、触れるように。一度だけ。沙羅の唇は真綿みたいに柔らかくて、顔を寄せるといつも甘ったるい匂いに包まれる。沙羅は私の匂いが好きだ、落ち着く、と言ってくれるけど、私も沙羅の匂いが好きだった。


凛花りんかさんがこの部屋を出ていくってなった時はさ、寂しくて死んじゃうって思ったけど、二人は二人でやっぱりいいよね。こんなこと、部屋の中で出来なかったもんね」


 毛先を指で通しながら照れ臭そうに笑う沙羅につられるように、私も笑みを溢した。少し前までは、この部屋にもう一人住んでいた。あと三週間程で十八歳の誕生日を迎える私と沙羅よりも二つ年上の凛花さんは、綺麗で、気品があって、名前の如く凛とした佇まいに私達は女性として憧れていた。私達の住むこの施設では十歳を境に男女ごとに三人から四人部屋が与えられ、十九歳の誕生日を迎えた日には施設から出ていかなければならないというルールがある。凛花さんはその取り決められたルールよりも幾分早く施設を出て、村からも出ていった。その為、今は女子二人にしては少々手広く感じてしまうこの部屋で沙羅と生活を共にしている。


 視界の端に差していたひかりが強くなった気がして、窓辺に視線を送る。白のレースのカーテン越しにみる外の景色は、うっすらと白んでおり、運動場が白く染まってみえた。

留め金が壊れ、二度と遮光を完全に遮ることの出来ないカーテンの隙間からは、ひかえめな陽の光が溢れており、触れてしまっただけで割れてしまいそうな程に透き通る青い空がみえた。今日は雪が降りそうにない。そんな空だった。それだけで心がだいぶ軽くなる。雪さえ降らなければ、沙羅が私のことを覚えていてくれるから。


 窓辺に視線を置いていると、内臓に轟く程の低い鐘の音が鳴った。それは午前七時を指し、起床する時刻を告げるものだ。私達の一日は、いつもこの鐘の音から始まる。途端にバタバタと寝間着から着替え始めた沙羅が「今日は食材の切り出しの当番だし急がないとやばいから先いくね。鏡の前に櫛置いてるから使って」と私の返事を待たずして部屋から出ていった。


 この施設での午前七時から午前八時までの一時間は、男女それぞれに役割がある。十五歳以上の男子達は、この時期だと雪かきや薪割り、切り終えた薪を運んだりと主に力仕事を担当し、女子達は給仕係の職員さん達と皆の朝食や夕食の用意をしたり、主に家事全般を任されている。沙羅は食材の切り出しの当番だと言っていたが、私も配膳の当番だった。急いで胸元まで流れた髪をとき、身支度を済ませる。後を追うようにして部屋から出て、ドアノブに手をかけた。力のいれる方向へと少しずつ扉が閉まっていく中、その隙間から部屋の小窓の向こうに冬のひかえめなひかりが充満しているのが見えた。ひかりに目がくらみ、でもその美しさに目を奪われ、ちょうど運動場の中央の辺りだった。そこにあるはずのない白い部屋がみえた。

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