第49話

 静まりかえった部屋に、アネットの少し苛立った声が響く。

「何をしてるの? 早く飲んで」

 コップに手をつけない者が五人もいる。アネットに急かされても手をつける様子はない。

 マーシアが、緊張で顔を強張らせながらアネットに小走りで駆け寄り、彼女の肩を軽く叩いて手を引いた。

「……貴方……まさか……」

 マーシアに手を引っ張られるアネットが、席を立ちながら信じられないと言うような目で、ある男を見つめる。

「前回のチェックは、アネットさんとルパートさん、ギルバートさん、アリシアさんが行ったと聞きました。聖水の扱いも注意したそうですが、話を聞いてよく考えると、難しいですけど聖水の瓶をすり替えられる人が、数名いる事に気がついたんです」

 ロニーは、アネットが見つめる男を見た。

「それに、奪還隊の予定を知っていたのは当事者と幹部の皆さんだけです。これは確認を取りました。アネットさんには、この会議に幹部の皆さん、特に貴方直属の幹部全員に必ず集まって貰うようにお願いしました。アネットさんの命令なら誰も逆らえないでしょうから」

 ロニーはゆっくりと席を立った。ルパート達も席を立って身構える。

「一家の下の人がチェックを受けている間、幹部の皆さんは、別室で貴方とルパートさんがチェックを行ったと聞きました……でも貴方や幹部の皆さんに使った聖水は、すり替えが可能な物だった。それに、仮にルパートさんが何かを疑っても、急に一家を継ぐ事になったルパートさんにとって、身近な大人として、子供の頃から可愛がってくれた貴方に意見なんて難しかったでしょうね」

 ロニーはゆっくりと歩き、腕組みをしたまま目を瞑って座る男の近くに立った。ルパートは雲行きの怪しさを見て取り、聖水を飲んだ人々に声を掛けて会議室からの退出を促した。彼らは時折コップに手を出さない男達を横目で見て、表情を強張らせたまま部屋を出て行く。

「僕達が、ひねくれているだけかもしれません。一口これを飲んで下されば疑いは氷解するんです。ギルバートさん、一家の大幹部の貴方が飲まないと部下に示しがつかないでしょう?」

 そう言いながらも、ロニーは油断なく身構えている。ギルバートは微動だにしない。

「僕は……奪還隊が壊滅した後、貴方が危険を顧みずテッド商会へ行くって言った時、貴方を凄い人だと思いました。でも、部下の下へ行くって事なら別になんて事は無いですよね……失望しましたよ!」

 吐き捨てる様に言ったロニーを、ギルバートが、ゆっくりと目を開けて見た。

「ふっ、まさか君達がここまでやるとは……敬意を表するよ。君の予想通り私がリッチモンド達のボスだ。気付かなければ、君達を、もう少し長生きさせても良かったのだがな……」

 ギルバートは、この状況でも落ち着き払っている。余裕があるのだろう。彼が、ゆっくりと立ち上がると、聖水を飲まなかった他の者も立ち上がった。

 ギルバートは、落ち着いて懐から一枚の札を取り出した。他の者もそれに続く。

 呪文の言葉を小さく一言呟いた彼の足下に、黒いモヤが立ち上ったが、それは即座に掻き消すようにしぼんだ。札を手にする男達が一斉に狼狽える。

 ギルバートも目を見開いて、力を放って灰になっていく札を見つめている。

「それは転移札かい? 転移術を使うって分かってんのに手ぶらで来るか! 町には警備局ネストが転移術封じの結界を張り巡らせたよ! それに金に飢えた腕利き警備局員ヴァルチャーと騎士団も控えてる。あんたらには、たっぷり賞金が掛かってるからな! 観念しろ!」

 ロニーは、険しい表情で怒鳴りながら剣に手を掛けたが、ギルバートは涼しい顔だ。

「ふっ、騎士団? つまらぬ嘘を。奴らが来たらラングドン一家はお終いだ。そんな事アネット達が飲むはずが無いだろう?」

「飲んだわよ? 私達だけじゃ無い。昨日、内密に聖水を飲んだ古参幹部も全員ね。貴方達は、いつもこの店にいるから知らなかったでしょうけど!」

 済まし顔だったアネットの顔に、徐々に怒気が満ちていく。

「騎士団は、もう全て知ってるわ! 知らぬとは言え、私達が怪物に踊らされて悪事を働いた事も……父さんや母さんが、いつの間にか怪物に入れ替わっていた事もね! 庭に埋めた奴らの死体も、怪物がいた証拠として見せたわよ!」

「……お前……自分が何をしたか分かってるのか? 縛り首にされたいのか?」

 ギルバートが見下す様な目を浮かべ、アネットを小馬鹿にする様に言い放つ。

「それが、そうでもないのさ。国立警備局こくりつけいびきょくの仲介でね。オレ達が洗いざらい吐いて、首都に潜む怪物退治に協力する事と引き換えに、騎士団は司法取引に応じたのさ。悪くない条件で刑罰の軽減を約束されたぜ。騎士団長様と交わした公式書類もあるけど、見るかい?」

 おどけた様に言うルパートの言葉を聞いて、ギルバートの顔が醜く歪む。

「くっ!」

「この前も言ったでしょう? 私達は弱く貧しい人の為に働きたい。その理念から外れた金儲けの為に罪を犯すのは止めましょうって……ましてや、怪物の犬になるなんて真っ平よ!」

 冷静だったアネットが、怒りにまかせて両手で机を力一杯叩き、吐き捨てる様に怒鳴った。

「馬鹿共が! 後悔するなよ!」

 ギルバートが叫ぶと、彼と聖水を飲まなかった連中が、窓を体当たりで割って飛び出した。

 知らぬ間に、彼らの頭に山羊のような大きな角が生えている。

 彼等の正体は、悪魔族の怪物なのだろう。

 道に降り立ったギルバートが、憎々しげな表情を浮かべ、ロニー達がいる会議室に向かって手を向ける。彼の手の先に小さな闇が現れ、それが赤いもやを纏いスパークを放ち始めた。

「マズい!」

 ロニーは、窓に駆け寄ってギルバート達を追いかけようとしたが、慌てて窓から離れた。

 その瞬間、壁が外から爆破され、部屋に瓦礫混じりの爆風が吹き荒れた。

 土煙が薄れると、天井と壁に大穴が開いているのが見える。

 まともに喰らっていたらマズかった。ロニーの背筋に寒気が走る。

 土煙が薄れて気付いたが、落ちてきた瓦礫に何人か巻き込まれたらしい。苦痛の呻き声が幾つか聞こえる。アネットとケネスも巻き込まれたようだが、これは埋まり方が浅かったため、マーシア達が、すぐに引っ張り出した。

「何人、巻き込まれました?」

 焦るロニーの問いに、土埃で汚れたアネットが咳き込みながら答えた。

「こほっこほっ……部屋から出た奴を考えると、あと三人くらいだと思う……ルパートは?」

「部屋から出ていないんだったら、瓦礫の中じゃ……」

 アネットは驚きで目を見開き、即座に瓦礫に向かって悲痛な声で呼びかけた。

「ルパート……? ルパートーーーッ! 返事をしてーーーーっ!」

 アネットの叫びが聞こえたのか、瓦礫の中からルパートの呻き声がする。即座にトニーとケネスとロージーが瓦礫に埋まった人々の救助にかかる。クレアは扉に走って、階下の者に大声で救助に来るよう叫んだ。アネットが、呆然とした顔でロニー達に振り向いた。

「……ロニーさん、アリシアさん、お願いだ。ギルバート達をやっつけて……礼は……礼は必ずする。貴方達が奴らにかけた懸賞金と同じだけ払う。それで足りないなら私に出来る事は何でも……何でもやる。私はルパートを……埋まってる人を助ける。だから……だから……」

 アネットは涙声だった。目を真っ赤にして、その目に見る見る涙が溜まっていく。しまいには崩れ落ちるように跪き、俯いて声を押し殺して泣き始めた。

 彼女は、つい先日、実の両親を失っていた事に気付いたばかり。立て続けに唯一残された弟も失うような事があれば、その悲しみはどれほどだろうか? 

 しかも、この不幸を招いた全ての元凶は、両親が重用し、彼女も幼い頃から信頼していたギルバートなのだ。信じていた者に裏切られ、心を踏みつけられた痛みはどれほどだろうか?

 立て続けに両親を亡くし、肉親のいなくなったロニーには、嗚咽する彼女の怒りと憎しみ、そして悲しみが痛い程分かった。

「任せて下さい。国立警備局ヴァルチャーズネストは怪物退治も役目ですから」

 ロニーは跪いてアネットを励ますように言った。涙目で頷いた彼女を見て扉に向かう。

「私達も行くわ」

 駆け出したロニーの後ろに、アリシアとマーシアが続いた。

 大急ぎで階段を駆け下りる彼らの横を、先程まで会議室にいた幹部達が、瓦礫に埋もれたルパート達を救助に向かう人々を引き連れて駆け上がっていった。

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