第26話

 マーシア達は、濃い夜霧に包まれた道を懸命に走っていた。

 母達と分かれた後は、一度も怪物共と遭遇せずに済んでいる。恐らく怪物共は必死でこちらを追いかけていて、後ろを行く母とロニーに阻まれているのだろう。

 夜明けまで一時間ほどある。夜霧に覆われ、弱い月明かりの下では風精霊アネモスの案内だけが頼りだが、精霊は、こうしている間もなぜか徐々に弱っている。

 周囲に敵の気配は無い。近くの大きな川が流れる音と虫の声の中、足音が立たない様に注意しながら懸命に走った。

 先程の激戦が嘘の様な平穏さだが、マーシアの心には少しずつ不安が渦巻いていく。

 数十匹の怪物を繰り出して奇襲を掛け、それが失敗すると家を燃やす事を厭わなかった奴らが、こんなに簡単に自分達を逃がすだろうか?

 もしそうなら、怪物共は間抜け過ぎないか?

 母達が、後方の敵を食い止めて大きく遅れた事も気になる。後ろを振り返ると、時折、遠くで炎の閃光が見える。母達が追いすがる敵を撃退しているのだろう。

 敵には土地勘がある。数も圧倒的。家を燃やす二度目の襲撃までに時間もあった。

(……まさか……これは、あたし達を分断する罠じゃ?)

 その結論に至った時、マーシアの背筋が凍り付いた。包囲される事を恐れて、母達の指示通り自分達は先を急いだのは大失敗だったかも。

 このままではマズい。自分達か、母が敵の罠に飛び込んでいる。ならば多分……罠に掛かりつつあるのは先行する自分達だ。自分達を片付けた後で、母達を始末する策だろう。

 この周囲に隠れる物が無いのは昼間確認した。そんな所で大勢の敵に囲まれればどうなるか……心の底から恐怖が湧き上がって来る。

 マーシアは不吉な考えを振り払う様に頭を大きく振った。今更悔やんだ所でどうにもならない。懸命に打開策を考え始めた時、突然、前を行く風精霊アネモスの焦りに満ちた叫びが上がった。

みんな! 伏せて!」

 その声と共に横殴りの風が吹いたが、その風をものともしない何かが、咄嗟に屈んだマーシアの上を鋭い音を立てて飛んでいった。

 直後、後ろから二人の男女の苦痛に満ちた悲鳴が上がる。

「おい! ターナーーーッ! ネリーーーッ! しっかりしろっ!」

 ルパートの悲痛な叫びが響きわたった。

風精霊アネモス! 敵は?」

 マーシアが風精霊アネモスに尋ねる。

「百パスル(約三十メートル)ほど離れて大勢。半包囲されてるけど動く気配がないわ」

「分かった。敵が動いたらすぐ教えて」

「うん」

 離れる風精霊アネモスを見送ったマーシアがルパート達に駆け寄ると、弱い月明かりの下でターナーの左胸に一本、ネリーの胸と腹に二本の矢が刺さって倒れているのが見えた。

 ターナーは意識が薄れつつある様だ。トニーが矢を抜き、アンプルの液体を掛けている。

 その横では、クレアが懸命に治療術の詠唱をしている。彼はクレア達に任せる事にした。

 ネリーは、まだ意識がある様だ。ルパートと共にネリーの矢を引き抜いた後、ルパートが急いでアンプルを取り出す。マーシアも、急いでウェストポーチから傷薬のアンプルを出した。

 ルパートがネリーの腹の傷に薬を掛けているのを見て、マーシアはアンプルの蓋を折り、ネリーの胸の傷に掛けた。使った薬は、中級の治療呪文と同じ効果を持つ優れ物だが、中の薬を掛け終えても、あまり効いている様に見えない。

 戸惑ったマーシアは、彼女の傷口に触れた手に違和感を感じた。手が濡れているのはネリーの血だ。だが、他に妙なドロドロした物が着いている。匂いを嗅ぐと、血の臭いに混じって微かに甘ったるい妙な臭いがするが、傭兵のマーシアも、この物質には心当たりがない。

「ルパートさん! 変よ。この匂い嗅いで」

 マーシアが差しだした指をルパートが嗅ぐと、彼の顔が強張った。

「最近、出てきた毒だ! 二級以上の毒消しはあるか?」

「あるわ!」

 ルパートの緊迫した声を聞いたマーシアが、即座にウェストポーチをまさぐり始めたが、それを横目で見るネリーが息も絶え絶えに口を開いた。

「マーシアさん……も、もう良いです……アレなら……もう間に合わない……」

 虫の息のネリーがマーシアに告げたが、マーシアは構わずポーチからアンプルを次々と取り出して、急いでラベルを確認していく。

「ルパート……さま……お、弟の事を……お願いします……もう……身寄りが……」

「分かった! 弟の事は一切心配すんな! オレと一家が必ず面倒見る! だからお前も……おい! ネリーーーーッ!」

 ルパートはネリーの手を握っていたが、力の抜けた彼女の手が地面に落ちた。

「あったわ!」

 言うが早いか、マーシアはもどかしそうにアンプルの蓋を折り、毒消しを胸の傷にかける。

 だが、ネリーの目は見開いたまま。彼女の脈を確認したマーシアは、目に涙が浮かぶのを止められなかった。

 どんな術も道具も、死んだ者を生き返らせる事は出来ない。その様な物は見つかっていない。

「……ご免なさい。あたしが遅かったばかりに……」

 マーシアは、そっとネリーのまぶたを閉じるルパートに詫びた。

 小さく、クレアのすすり泣く声が聞こえる。ターナーも助からなかった様だ。

「……いや、よくこんな高い薬や毒消しを使ってくれた。この礼は必ずさせて貰う。ネリーも恨んでなんかねえさ」

 ルパートが、マーシアが使った二本のアンプルを見て、礼を言うように呟く。

「ちっくしょう……怪物共……リッチモンド……それにテッドの野郎め……許さねぇ!」

 ルパートの恨みに満ちた声にマーシアは少し気圧されたが、すぐに気を取り直した。

「……ルパートさん、怪物が来ないって変じゃない?」

「……そうだな、矢を一回撃っただけだ。あの毒は即効性だから勝ったと思ってるのかもな」

 マーシアは、我に返った様に母とロニーを思い出した。母達はどうしているだろう。この待ち伏せと即効性の毒の事をすぐに教えないと危ない。

「ルパートさん、この毒を知ってるんですか? そうなら待ち伏せの件も合わせて後ろの母さん達に伝えないと!」

「これは、先月、闇の商人が海外から試しに少し密輸したって話だ。裏社会にもサンプルが少し出回っただけだし、テッド商会が買ったとしても大量には持ってない筈……多分、多くてあと一回分って所だろう」

 ルパートが、ネリーから引き抜いた矢を見つめた。矢尻にネリーの命を奪った毒が塗られている。

(さすがは裏社会大手のラングドン一家ね。裏の情報が早くて詳しいわ)

 ルパートの情報の詳しさと早さに舌を巻いたマーシアが、さらに尋ねようとした時、風精霊アネモスが慌てた様にやって来た。

「敵が動き始めたわ! 包囲を狭めてきてる」

「分かったわ。もう籠に戻って」

 風精霊アネモスが姿を消すと同時に、彼女の声が聞こえたのか、トニーとクレアが中腰で駆け寄ってくる。

「……なぁ、どうする? 討ち死に上等で血路を開くかい?」

 ルパートに問われて、マーシアは顎に手を当てて思案を始めた。怪物共は撃ってくる気配がない。待ち伏せをして撃ってきたからには、この闇で自分達を発見する手段がある筈。ならば今、自分達が生きている事も分かっているだろう。なのに撃ってこないという事は。

「……いえ、機会を待ちましょ。奴らは家を燃やしてでも、あたし達を皆殺しにしたかった。襲われた理由が分からないけど、多分、ここが怪物の巣だって秘密を守るためだと思う。奴らの目論見は半分成功したけど、母さん達が逃げ延びれば、あたし達は母さん達を呼び寄せる人質として使える」

「なるほどな」

 ルパートが深く頷く。

「いつまでも撃ってこないという事は、母さん達を捕まえるか殺すまで捕虜にするつもりじゃないかな? 術が効かない原因が分からないけど、それさえ何とかなれば逆襲の機会があるかもしれない」

 マーシアは、敵の聞き耳を警戒して小声で喋った。

「分かった。ならオレも討ち死により逆襲の機会に賭けるぜ。お前達もそうしてくれ」

「分かりやした」

 ルパートの要請にトニーが重々しく答える。涙目のクレアも覚悟を決めた様に頷く。

 彼等の顔に、先程までの恐怖や狼狽は窺えない。

 マーシアが、母達が来ているであろう方向を振り向くと、霧の向こうで小さく炎の術と思しき光が煌めいた。距離はまだ遠い。

「出でよ、水精霊ネロ

 マーシアの囁きと同時に、透明な水精霊ネロが現れた。

「話は聞いたわね? すぐ母さんに今の事を伝えて、どんな手を使ってでも母さん達を安全に逃がして。それと絶対に無茶はしないでって伝えて」

「うん」

 水精霊ネロが、即座に地面にしみ込んでいく。

 程なくして、淡い月明かりの下、霧の向こうに大勢の怪物達の姿が浮かび上がってきた。

 完全に包囲されたマーシア達は、背中合わせになって武器を構える。

 怪物達の中から一際大きな怪物が近づいてきた。こいつはラングドンに化けた悪魔に似ているが、体格がそれより少し大きい。恐らくリッチモンドの正体だろう。

「やはり、生きてる奴がいたか。こいつらの飯になりたくなくば武器を捨てて投降しろ」

 怪物が、この世のものとも思えない腹に響く低い声で喋った。

 誰も返事をせずに黙っていると、周囲の怪物達がにじり寄ってくる。

「ふ。ならば三つ数えるまで待ってやる。返事ができんなら死ね」

 怪物が、手をマーシア達に突き出した。

「ひとぉつ……」

 怪物は、伸ばした手の指を一本立てた。

「ふたぁつ……」

 怪物が二本目の指を立てる。

「分かった! 投降するわよ!」

 吐き捨てるように言ったマーシアは、諦めた様にショーテルを足下に捨てた。

 ルパートが、舌打ちしながら剣と弓を投げ捨て、トニーとクレアもそれに続く。

「よーし、こいつらを縛り上げろ。猿ぐつわを忘れるなよ」

 命令を受けた怪物達が、マーシア達を後ろ手に縛り、口に厚手の布を巻き付けていく。

「後は狼小僧とエルフ女か。少しはやる様だが人質がいれば簡単よ。テメェら、そいつらとそこの死体を連れて持ち場に戻れ」

 マーシア達は怪物達に体や服を捕まれて暗闇の中へ運ばれていく。動く物が無くなった後、周囲は再び何事も無かったかの様に、川の流れる音が響き渡った。

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