悪魔(弟)の誘惑
私がリビングについたとき、護はその両手にお茶の入ったコップを二つ持って机に並べているところだった。
机の上にはすでに朝食が並んでいる。
献立は湯気の立つ真っ白な白米とナスの味噌汁に、焼きたての鮭とサラダ、護お手製甘めの卵焼きだった。
我が家……橘家の食事は基本護が作ってくれる。朝昼晩と。
なんだか護の料理の腕は最近ますます磨きをつけ、とどまる所を知らない。護が料理を始めたばかりの頃は私の方が全然上手だったのに、今では私が少し努力したくらいでは追いつけないほど見事に差をつけられている。
護は私に気が付くとにこりと笑った。
「あ、姉さん。ちょうど準備できたよ、いただきますしよっか」
「うん、もうおなかペコだから我慢できない」
二人して席に着き、手を合わせる。
「「いただきます」」
声はいつも通りぴったり重なる。
まず味噌汁に手を伸ばし、一口だけ口に含む。
「ん、美味し~」
昨日の晩ご飯にも出てきたけど、護の作った味噌汁はどれだけ飲んでも飽きない、私の好物の一つだ。
「やっぱり味噌汁の具で一番なのはナスで決まりね」
私の中では他の具と結構な差をつけて単独首位の座にずっと居座っている。ただ豚汁を味噌汁として扱うのはなんか反則な気がするからランキングに入れてない。豚汁って味噌汁なのかな?
「本当に好きだね。僕はやっぱりナスよりもタマネギが勝つかな」
「あ~うん。タマネギも美味しい。個人的にはその二つが二強で間違いない……。まあ結局、護が作れば何でも美味しくなっちゃうんだけどね」
言いながら焼き鮭とご飯を食べる。
「ん……ありがと」
護は褒められて少し照れている。ああ、なんと愛い奴よ。
それを眺めつつ味わう卵焼きはいつもより満足感が高い。八割増し。
「護はもういつ嫁に出しても恥ずかしくないね、うん」
「嫁がないよ。それに婿に出すでしょ、僕、男なんだから」
護はあきれたような表情で私を見ている。
「つまんないことにこだわるねぇ、世の中はジェンダーフリーの時代なんだよ?」
「いや、べつにそれとこれは関係ないでしょ……」
「世はまさに、大……?」
「それ海賊だし」
そんな冗談を言うものの、護が他所の家に行く……つまり、護にこの家を出られるのは、私にしても実はあまり考えたくない事態だったりする。
朝起きてから今までその影すら見えなかったことから分かるように、私と護の生活に両親はいない、いま住んでいるこの一軒家に二人で暮らしている。
お父さんは私たちが小学生の頃に事故で他界、母はお父さんが死んで一年後、別に……事故があって、それから病院でずっと眠っている。
そういうわけで、私たちが小さい頃にリフォームしたばかりの祖父母の家が今はもう空いていたのでそのままここに住んでいる。
もっとも、この家の持ち主は私たちじゃなくて私たちの保護者になってくれた飛鳥さん、私たちの叔母さんなんだけど。
その飛鳥さんは仕事の都合で一年のうち、七割ほどは海外で過ごしている。
だからほとんど私と護の二人暮らしだ。
なので、護が家からいなくなってしまうと私は一人暮らしになってしまう。
別に一人だと生活できなくなるわけではないけど、この広い一軒家に一人暮らしなんて私にはきっと寂しすぎる。
……少なくとも覚悟が必要なことに違いない。
「たまには、私が朝ご飯用意してもいいんだよ?」
「あ~、いいのいいの。一日でも家事から離れると無性に不安になってくるから」
「それワーカホリックと同じ症例なんだけど……」
護は口端を片方だけつり上げて。
「僕から仕事を奪おうとしたらどうなるか知らないよ?」
悪役みたいな笑い方をして言い放つ。
働き詰めで疲れてないか心配だったはずが、なんだか余計に心配になるようなことを言いだした。
「なに? 暴れるとか?」
「どうだろうね、ふふ……」
「痛いのはやめてね……」
「え、いや、何怯えてるの? 冗談に決まってるよ」
「痛く……しないでね……?」
「なんで頬を赤らめる!」
余裕ぶっていた態度はすぐ崩れた。護が
「まったくもう」
「暴れられたら困るけどねぇ……」
「いや、乱暴はしないって」
「…………」
「……姉さん?」
実はこの家で二人暮らしをするに当たって、家事の担当は食事以外もほとんど護が担っている。……いや、私が護に押しつけてるんじゃないよ?
この家に越してきた当初は飛鳥さんを含めて三人暮らしで、初めのうちは三人で家事を分担していたし。(家事が死ぬほど下手だった飛鳥さんは、オーブンでパンを消し炭にしてから戦力外通告になったけど)
けど、護は三人暮らしが始まってから少し異常なやる気を見せて、自分に出来ることにいろいろと挑戦し、私が「二人で頑張ろうね」と意気込んでいたらいつのまにか護一人で全部背負い込んでしまっていた。
もちろん無理しないようにずっと気を配っていたし、私も家事は人並みにできるから、護が体調不良とかでどうしようもないときは私にお鉢が回ってくるけれど、やっぱり普段は護がすべて負担している。
元々家事を教えたのはほとんど私だったのに……。
一応、最後にもう一声だけは真面目な様子で心配な声を掛けてみる。
「……護が家事してくれるのは助かるけど、無理させてるんじゃないかって心配になるの」
すると護は少し笑って、視線だけ俯かせた。
目が合わないまま、護は話し始める。
「うん。本当に無理してないよ。たびたび声かけてくれるから気に掛けてくれてるなって分かるし、それは嬉しいんだけど。やっぱり家事は僕にやらせてほしいな」
「……そっか」
……水を向けても期待した結果にはならなかった。まぁ、護の言うように家事の分担の話は今までに何度もしてみたし、極めて望み薄だと分かってはいたけど、少し残念。
本来であれば二人で分担して家事を行うという状態こそ、私たちにとっては自然な状態のはず。なのにそうなっていないのは私ではなく、護に理由がある。
それは護の家事に懸ける執着が尋常ではないから。
勝手に家事をしたら人が変わったように怒り始めるというわけでもないし、雨が急に降ってきて洗濯物を代わりに取り込んでおいたときなんかは普通に感謝もしてくれる。
だけど、私が家事をしないようにさりげなく誘導しているのは確かだし、家事を分担するという提案には頑なに首を縦に振らない。
『──好きでやってるし、姉さんの手をわずらわせることはないよ』と。
普段は優しくて温和で、他人にいろいろ遠慮して損するタイプのくせに、こと家事に関しては強い独占欲を見せる。
けど、それは護が自分でやらないと気が済まない潔癖症だったり、ましてや家事をすることに無上の悦びを感じる特殊な感性をもった人間、という訳じゃない。
自分が家事をしないと気が済まないのはそうだけど、そういう事情では無い。
「護は……さ」
「ん?」
「いや……ごめんね、なんでもない」
「そっか? 分かった」
……護が家事に執着を持つ動機には一つ心当たりがある。
それは恐らく悩みと言えるもので、護が悩んでいるならなんとかしてあげたい。のに、今の私にはどうしたらいいのかさえ分からない。
護にとって家事をすることは、心のバランスをとるために必要な仕事のように見える、何か少しでも間違えて保たれていたバランスが崩れたら、大変な結果になってしまうかも知れない。
それだけ護にとって、そして私にとっても繊細微妙で大事な悩みだ。
幸い、まだまだ一緒にいられる時間はたくさんある、私は卒業してもこの家に住んだまま大学に行くから、最短でも護の高校卒業まではこの家で一緒に暮らすことになる。
焦る必要はない、ゆっくり慎重に事は進めよう。
——…………。
……気づいたらもう朝ご飯は食べ終わっていた。
朝はきっちり余裕をもって起こされたから、登校で家を出るための支度の時間を考慮してもまだ余裕がある。
護もそう判断したらしい。
「お茶飲む?」
「うん、お願い」
護の提案に間を置かず了解する。
こんな感じでのんびり出来る日はお茶と菓子を用意してゆっくりするのが私たちのお気に入りだ。
たまに朝、私が布団の上で粘って朝の時間が無くなるときもあるけれど、二度寝に入った私は起こすのが本格的に苦労すると護が泣きそうな顔で嘆いていたので、最近は頑張って起きようと頑張っている。うん、私偉いなあ。
護はキッチンの方へお茶とお菓子を用意しに行ってくれたので私はゆっくりと席について、適当につけたテレビの適当なニュースを眺めて待っていた。
──おい私。手伝わなくていいのか?
その疑問が浮かんで、瞬間。
ビシャァァン‼ と。
雷に打たれたような衝撃が頭の天辺から足の爪先まで走った。
さっきは護に対して家事の話をしてみたりしたけど、心配なことは護のことだけじゃ無かった。
最近あまりにも護が身の回りのことを何でもやってくれるから、少しずつそれを享受することに抵抗がなくなり始めている、というかぶっちゃけ全部護に甘えてしまいたくなるという事態に陥り始めているのだ。
だって! あの子、本当に気が利くんだもん!
家にいるだけで食事も風呂も洗濯も掃除も(さすがに私室は自分でするけど)全部やってくれちゃうし!
今みたいにさりげない時間にお茶とお菓子とか用意してくれるし! 生活で不便だと思うところが何一つとして挙がらないんだもの!
そりゃあ最初の頃は私も護ばっかりに家事させてることにもっと抵抗があったけどさ?
いやな顔一つせず、当然のことみたいな顔して全部こなしちゃうし!
護が抱えてる心の傷については心配だけど、でも護に家事を全部やってもらうことにだんだん慣れてきてしまっている自分がいる。
今みたいにやってもらうことが当然というスタンスが染みついてしまうのは絶対にいやだ!
一応、家事は全部任せているものの、二人暮らしを成立させる上で必要なことは二人で分担して、私の担当もあるからなにもかも頼りっ切りというわけでもない。
だからって、家事にノータッチで当然というのは護の問題に付け入ってる感じがして座りが悪い。
「深刻そうな顔してどうしたの?」
そんなことを考えていたら、護はもうお茶の用意を済ませてしまっていた。
「なに、大したことじゃないわ。私に迫りつつある邪悪な誘惑に、どう対抗してくれようと思考を膨らませていた所なの」
「なんでかっこつけた話し方してるの? はい、お茶請け」
「わぁ! ようかんだぁ!」
……つい子供みたいにはしゃいでしまった。だって好物なんだもの、羊羹。
「あ! しかもこれ駅前にある和菓子屋の栗羊羹じゃん! いつのまにこんな用意まで……」
「この前、駅前のスーパーへ買い物しに行ったときに、姉さんあそこの和菓子大好きだったな~って憶えてたから、ついでだよ」
「………………」
あぁ、私は……私はもう、駄目かも知れない。
護離れについて真剣に考えて克服を決意したばかりなのに、一瞬でまた堕落への道に心を惹かれてしまっている。
でも私は諦めない! たとえどれだけ
「あくっ……護には負けない!」
「なんの話か知らないけど、宣言されたら負かせたくなるね?」
護は余裕に満ちた目つきで、私に挑発的な笑顔を向けていた。
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