僕の日常は姉のために始まる
—— 9月5日 5時58分 橘 護 ——
「いいかい護、護はまだ幼いから、お姉ちゃんの柊和に守ってもらってばかりなのは当然だ」
生前の父さんは毎晩少しだけ酒を飲むのが習慣だった。
けど酒に強くなかった父さんはコップ一杯でも顔を赤くして、若干呂律が怪しくなり始めていて。
そんな父さんを見て母さんも毎晩のことなのに、毎回呆れたような声をかけるのが日常だった。
でもそんな言葉とは裏腹に、父に向けられる微笑ましげな視線が小さい僕には不思議で、どうしてだろうと思っていたのを憶えてる。
「でもね、護」
そして酒に酔った父さんが僕に語る内容もいつも同じ話だった。
まだ幼かった僕には何度も繰り返されるその言葉がだんだん鬱陶しいと思わずにいられなくて。
でも、それは僕にとって当然だとおもっていたことを何度も言われて鬱陶しかっただけ。
『僕はちゃんとわかってるのに』って。
「いつか男の子のお前が、柊和を守れるようにならないといけないぞ」
そんな父さんの願いは僕の願いでもあったから。
──…………。
──パチッ、と目が開く。
頭の中に映像が流れ込んでくる。
まるでテレビの電源をいれたように。
停止していた思考は緩やかに脳内を巡りだす。
機械的な動きで最小限、首だけ動かして時計を見る……6時より少しだけ前。
姉さんと二人で暮らすようになってから、生活の役割も決まって、毎日決まった時間に目覚めている。
慣れてくると、いつの間にか目覚ましより少し先に目が覚めるように体が順応していた。
──ピピピピッ、ピピピピッ。
目覚めが悪くて、いつも目が覚めて少しの間はボーっとしてしまう、6時丁度になって目覚ましが鳴り始めてからようやく重い体を動かし、ベッドから脱出する。
「…………眠い」
今朝はいつもと変わらない量の睡眠はとれたけど、顔を洗ってすっきりしないと頭の中はずっと
二階の部屋から廊下に出て一階にある洗面台に向かう。
廊下の窓からは朝日が射していて明るく、外から鳥の鳴き声も聞こえてくる。
それ以外音のしないこの空間は落ち着いていて嫌いじゃない。
けど、あと一時間もすれば姉さんも起きる時間になって、僕と同じで目覚めは悪いはずなのに、起き掛けにちょっと無理して頑張ってハイなテンションで朝の挨拶をしてくれるだろう。
僕は、鳥の鳴き声に比べれば風情も趣もないような、そんな姉弟の時間の方が好きだった。
——…………。
洗面台についたら暗かったのでまず明かりのスイッチをつけた。
ここの明かりはちょっと強いので寝起きの目には少し眩しい。
痛みに耐えかねてつい目をぎゅっとつぶってしまう。
けどこの状況も毎日の事。目が上手く見えない状態で部屋から持ってきた制服に着替え始める。
着替えが終わる頃にはすっかり目は光に慣れていた、水道のハンドルに手を伸ばす。
蛇口から流れ出る水を両手ですくって貯めて、顔まで運ぶ。
頬に冷たい水が触れると意識は急速に鮮明になり、思考は正常に回り始める。
タオルで顔を拭いたら、歯磨きをして寝癖を整える。背に届くほど伸ばしている姉さん程ではないけど男にしては少し長いほうだし姉弟揃ってくせ毛ぎみだから割とめんどくさい。
……あ、ここも跳ねてる。
髪を整える段階まで終われば、自分の状態をチェックする。
髪良し、顔良し、歯良し。
順次確認していって、終わったら鏡に映る自分を眺める。
以前、真顔だと姉さんに似ていると同級生に指摘されたことがある。
バランスの完璧な輪郭、切れ長でも大きな目、長めのまつげ、高めの鼻梁、色艶の良い唇……。
そんな姉さんを思い浮かべながら自分顔のパーツを一つ一つ比べてみると、鏡に映る顔は確かに姉さんの面影を感じさせる。
とはいっても、面影を感じる程度だ。
やはり性別が違うから違いは結構あるし。
それに性格も違うから、基本はクールな印象の姉さんといつものんびりした僕とじゃ雰囲気も違う。
多少似てるといっても、姉さんに比べたら僕の顔の造形はやっぱり劣って見える。
というか、僕がどうこうというより、姉さんが良すぎるのだ。
恥ずかしいし面と向かって伝えることはあまりないけど、姉さんはどこか作り物めいて見えるぐらいに、恐ろしいほど綺麗だから。
……それに、明確な違いが一つ。
左の頬にそっと手を当てる。視覚にも触覚にもなにも異変はない。
僕には無い、顔の火傷痕。
中学に上がる前に負ったあの火傷痕はこれからもずっと残ったままと医者には言われた。
なのに、少なくとも姉さん自身はあれだけの痕でもそんなに気にしていないようで、精々が最初の数年長い髪でそれとなく見えづらいようにはしていた程度、今ではそれもなくなって、誇らしくさえ思っている節がある。
そうしていると、顔立ちや器量もあってもともと目立っていた姉さんは、更に人の目を引くことになった。
ただ、家の外だと品行方正な振る舞いをしてて、誰に対しても丁寧で温和な態度で接することで敵を作らない立ち回りも上手だった人気者の姉さんからしたら、大して深刻な問題にはならなかったらしい。
それどころか今だって人から尊敬され、好かれる僕の自慢だ。家の中だとちょっとだらしないけど。
なんなら、僕のほうが助けてもらってばかりだった。
父さんがいなくなって家族が三人になった時も、母さんのことがあって姉さんと二人きりになった時も、飛鳥さんに僕たちのことで迷惑をかけそうになった時も……。
他にも、まだまだ恩は数えきれないほどある。
僕たち姉弟は早生まれと遅生まれで、年齢はほとんど二歳の差はあっても学年はたった一つしか差がない。
それだけしか違わない姉さんに僕はずっと支えられてきた。僕が幼くて無力で、何かあっても泣いてばかりだったのに、姉さんはそんな僕の手を引いて前を歩いてくれた。
まず間違いなく、今僕がこうやって平和に生きていられるのは、僕が毎日幸せに過ごせているのは姉さんのおかげだ。
姉さんがいなかったら、僕は今どうなっているか想像すらつかない。
そんな姉さんとの思い出はどれも大切で、自分にとって宝物のような温かい記憶で、姉さんのことを考えていたら、そんな昔が頭の中で駆け巡って──。
……ああ、けれど。
──鏡に映る顔は少しも笑えていなかった。
「…………………………」
……どうやら、顔を洗ってもまだ寝ぼけていたみたいだ。
ここで出来る支度は終わったのに、鏡の前でいつまでもぼーっとしてしまっていた。
考え事に耽ると周りが見えなくなる。
こんなところだけは姉さんに似ているらしい。
けど湧き上がるのは煩わしさや妬み嫉みなはずがなく、むしろ姉さんとの共通点を感じたことで生じる嬉しさだった。
洗面所を離れてキッチンへと進む。
「今日の朝ご飯はどうしようかな」
最近はこの時期でもまだ気温が高くて汁物は足が早いから、新しく味噌汁を作り直して、鮭があったから焼き鮭にして、あとは卵焼きとサラダも用意しておこう。
あと数十分もすれば、姉さんを起こす時間になる。ぱっぱと準備を進めなければ。
今、僕ができる精一杯は、家事くらいしかないんだから。
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