空を跳ぶ
凪村師文
☆空を跳ぶ☆
「私の言うとおりにしなさい」
「紗綾を思って言っているのよ」
わたしの母の口癖。昨日も今日も言われた。
「北里先生。人生とは何ですか」
コーヒーを飲みながら倫理学の本を読む先生にわたしは問う。先生は、ずれ落ちた眼鏡の位置を右手で直しながら本から視線を離さずわたしに言った。
「どうしたのですか急に」
その問いに答えることなく、わたしはさらに先生に問う。
「わたしは今本当に生きているのでしょうか」
その言葉に反応するように、先生は初めて本から視線を外してわたしを見た。
「ええ、もちろんです」
「……。そうでしょうか。わたしは今自分が死んでいるように思えます」
「それはなぜですか?」
「……わかりません。ただ心の奥が冷たくて痛いんです」
「……」
先生はそれに何も答えず、また一口コーヒーを飲んだ。
「宮原さん。今あなたは何がしたいですか?」
先生が唐突に聞いてくる。唐突だけれども、どことなく話の筋からは外れていないような気がして。
「わたしは……楽になりたい。すべてを捨てて、自由を感じたい」
父の顔をわたしは知らない。母はわたしが幼いころに病気で亡くなったと言っているが、高校生にもなればそれが嘘だということくらい察する。家に父がいた痕跡が何一つないから、わたしの母は父にすれば遊びだったのだろう。しかし何かの間違いで私を身籠ってしまった。それを知って父は母を捨てて逃げたのではないか。
「……人生とは何か、とあなたは聞きましたね。わたしなりにそれにお答えするなら、『ただの暇つぶしです』」
予想外の答えに一瞬思考が停止する。真面目だと思っていた北里先生からそんな言葉を聞くとは思っていなかった。
「人生とは運命の連続で構成されているとわたしは考えます。わたしがいつ死ぬのかも、あなたがいつ死ぬのかもすべてずっと前に決まっているのです」
「……」
「……けれども、その運命に逆らう方法が一つだけあります。……それはすべてを捨てて空を跳び、空を翔けることです」
「えっ?」
「あなたは先ほど、楽になりたいとおっしゃいましたね?」
「はい……」
「ならば、覚悟を決めて、今を全力で生きなさい。今あなたをとりまくあらゆるものを斬って、蹴って、投げ捨てればよいのです」
先生はなおも私を見つめて言う。
「運命とは、はるか彼方からつながり、はるか彼方へ繋がるレールです。それから逃げたければ、あなたの今ある全力で脱線しなさい」
なんだろう、この気持ちは。すっきりしたわけではないけれど、細い糸が私の心を引っ張ろうと、胸の中を搔きむしっているようなこの感覚は。
「人生なんて、脱線してこそだと私は考えます。一つの大きな脱線でその人が死ぬわけではないのです。所詮死ぬまでの暇つぶしですから、失敗しようが何をしようが、やりたいことをやればいいのです。周りに何と言われようと、気にすることはありません。教師という立場上、このようなことを言うのは良くないのかもしれませんが、あえて伝えます」
「……宮原さん、好きに生きなさい。自由を感じたければ、全てを捨てて今あるレールから脱線しなさい。それでもしどうしてもうまく行かなくなったら誰かを頼るのです。教師というのは、教えるためにあるのではなくて、支えるためにあるのです。あなたたち生徒がとても辛くて苦しい時に、隣に立って一緒に敷かれたレールから脱線するためにいるのですよ」
ああ。こんな先生が世の中にいたのか。わたしの心を完璧に読み、解いてくれる人が。
「所詮子どもなんて親の言うとおりに育つことはあり得ません。親の期待を裏切って子どもは初めて羽を開けるのです。あなたはとても優しい子だと担任の先生から聞いています。おそらく親の期待を裏切ることに、親の敷いてくれたレールから逸れることに罪悪感を抱いているのでしょう」
「……そうかもしれません」
「でしたら……親の期待に応えることがすべてでは無いということを、あなたのその温かい心にとめておきなさい」
先生はまた一口コーヒーを飲んだ。真っ赤な空から、校舎の端っこに位置するこの社会科研究室に、しずかに、けれども眩しく夕日が差し込んでいた。
空を跳ぶ 凪村師文 @Naotaro_1024
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます