最終話
【サメ出現まであと三時間】
最寄りの駅から、別の路線へと乗り継いで、遠く遠くの街へ向かう。窓からは見知らぬ景色が流れていく。肺を凍らせそうな冷たい空気と、柔らかな光。人気のないガラガラの電車は、孤独な宇宙船のように、静かにわたしたちを運んでいく。
「……何してんだろうね」
「何してるんでしょうね」
「あーあ、学校サボるなんて初めてかも」
「私もですよ」
「ずっとクソ真面目で通してたのに」
「いいじゃないですか、一日くらい」
「うん」
「今日は元気そうで良かったです」
「うん、ちょっと、話したいことあるから」
「私もです」
「準備できたら、話すから」
「はい」
やがて知らない名前の駅で降りると、またバスに乗る。
海岸沿いの、小さな水族館に辿り着いた。
【サメ出現まであと一時間】
平日の昼前である。館内にはわたしたち以外に老夫婦と、地元の幼稚園児たち一行しかいなかった。
小さな水槽がいくつも並び、その中にはまた小さな魚やクラゲが泳いでいた。まるで宝石みたいにキラキラと輝く。暗い廊下と、ぼんやり光る青は切り取られた海底みたいで、わたしたちは黙々と道順を進んだ。
わたしはいつまでたっても話すタイミングがわからなくて、また黙りこくってしまった。モジャ子も催促することなく、アクアリウムに見とれながら後ろを着いてくる。
あっという間に出口の標識が見えてきた。コンパクトな規模の水族館だ。事前にちゃんと調べておけば、サメの展示がないことくらいわかったはずだった。
「……サメいなかったね」
「いませんでしたね」
波音が二人の沈黙を埋める。目を細めて眺める館外には冬の海が広がっていた。
「海岸、歩いてみようよ。サメ、いるかも」
「はい」
馬鹿馬鹿しい言い訳なのに、彼女は頷いてくれた。いつまでわたしはその優しさに甘えるつもりだろう。覚悟を、決めてくれ。
【サメ出現まであと十分】
砂浜に足をとられて、うまく歩けない。ローファーの中は砂粒でジャリジャリする。強烈な潮風は髪とマフラーをたなびかせ、やがて地平線の上に立つ風力発電のプロペラを回していた。口の中がしょっぱい。波際は、寄せては返すを繰り返し、どんどんこちらに満ちてくる。
「ごめんね、こんなところまで連れ回して。……サメ、やっぱりいないかなあ」
「白雪さん。言いにくいなら、私から喋ってもいいですか?」
彼女は歩みを止めて、こちらを見据えている。わたしは茫然と、彼女を見返す。
「私たちは、今日でもう終わりにしましょう。今まで、ありがとうございました」
「……え?」
「毎日サメ映画に付き合ってくれて、こんな私に気を遣ってくれて、嬉しかったです。でも、これ以上は迷惑をかけられません」
「迷惑って、何?」
「二学期の終わり、勉強会の後に、池谷さんたちに言われたんですよ。二人は付き合ってるのかって。誤解だって否定しましたけど、変な噂になっても困りますもんね。もう、会ったりしないほうがいいと思います」
「何言ってるの」
「白雪さんも、きっと同じこと言われましたよね? 昨日の様子を見ていればわかります。そんなふうに思われるのは心外だって。……私ってば白雪さんが良くしてくれるから、ずっと浮かれて、勘違いしてました。本当にごめんなさい。私なんかが、白雪さんの隣にいちゃダメなんです。白雪さんは善い人だから、薄汚い私でも友達扱いしてくれる。でも、もう無理しなくていいんです。距離を取るべきなんです。いっそ、ハッキリ嫌いと言ってください。そのほうが諦められます」
「ねえ聞いて――」
「私は! サメ映画を見ているだけで、それだけで満たされていた! それ以上の幸せなんて要らなかったのに……、そこに突然白雪さんが現れて、どんどん接近されたら、勘違いしちゃうじゃないですか。白雪さんは外見も綺麗だけど中身も素敵で、そして私を抱きしめてくれた。こんなに誰かと一緒にいたのは初めてだった。どうしようもなく、尊くて、好きになっちゃったんです。もう、心の中には白雪さんのことがいっぱい溢れて……。告白しても、白雪さんはずっと傍にいてくれて、そして私を助けてくれた。……でも、私の好きとあなたの好きは違う! 高望みする自分が気持ち悪い。ただの、意思のない抱き枕でいれば良かった。こんな気持ちがなければ、苦しまなくて済んだのに……!」
荒ぶる高波にかき消されないくらいの大声で、彼女は悲痛に叫んでいた。
「あなたの幸せの中に、私はいられない。……もう、私に関わらないください」
彼女は顔をクシャクシャにして、大粒の涙を流し続けた。
泣かせたのは誰だ。
他ならぬ、わたしだ。
『わたしに関わらないでください』
わたしが今まで多くの人に告げた言葉。
自分が傷つかないための言葉。
でも、それは逆に多くの人を傷つけた言葉。
誰かの好意を無下にして、簡単に踏みにじってきた言葉。
今、自分が言われた言葉。
わたしを傷つけた言葉。
わたしは馬鹿だったと痛感する。
ちゃんと、向き合って話そう。
話さなきゃ、わからないよ。
「――アオイ、わたしの幸せの中から、あなたはいなくならない」
「白雪、さん……?」
「もしも、今この瞬間、海岸からサメが現れてわたしたちを食べちゃったら。それで終わりだったら。……最悪なクソ映画だよ。わたしはそんな結末にさせない。サメの鼻を殴って気絶させて、歯を全部抜いて、チェーンソーで切り刻んで、調理して二人で食べるの。結局クソ映画かもしれないけど、わたしたちの邪魔をするものは、何だって許さないんだから!」
わたしは一歩一歩踏みしめて、彼女へと歩み寄る。呼吸が早まって、鼓動がうるさい。
「昨日は無愛想で、誤解させるような態度でごめん。あなたの気持ちがわからなくて、怖くなってた。今は、あなたに答えたい。ちゃんと気持ちを伝えたい」
涙声になりそうなのを、息を吸い込んで、無理矢理止める。
今度は落ち着いて、染み入るように、彼女までの空気を震わせよう。
届いて。
「――アオイが好き。友達以上に好き。あなたが思っている以上に好き」
胸の奥に、つっかえていた重りが溶けていくようだった。足取りが軽くなり、彼女の前で堂々と立っていられた。
「……わ、わ、私なんかが、学校一番の美少女と、つつつつつ吊りあいがとれません。迷惑かけちゃいます」
「そういう言い方やめて。アオイはもっと自己肯定してよ。わたしの思いが無駄になっちゃう。あとね、学年一とか学校一の美少女とか呼ばれるのもやだ。わたしはブランド品のアクセサリーじゃない。誰かの評判で決めないで、あなたにとっての一番かどうかが重要なの!」
「にょえええ」
「わたしとサメ映画、どっちが好きなの?」
「うぐぅ、ずるいですよ。その質問」
「悩むの……?」
「…………白雪さん、です」
「よく聞こえない。ちゃんと、名前で呼んで」
「あ、アリスさんが、好き、です」
わたしたちを結ぶのに、それ以上何が必要だろうか。我慢できずに、彼女の身体を思いっきり抱きしめた。
「抱きしめたい……!」
「も、もう事後です!」
それでも彼女は困ったように泣きべそな顔で、こちらを向いてくれない。こっち見ろ。
「まだ、信じられません」
「こんなにドキドキしてるの、聞こえない?」
「これは、私のドキドキです」
まだ何か証明が必要なのか。少女漫画脳のわたしは閃く。そっと彼女の肩を掴み、向き合い、顔を寄せた。
「……ま、まだダメですって。幸せの致死量が超えちゃいます。息が、できない」
「むぅ」
彼女の人差し指の制止によって、唇を奪うことは失敗した。I will give you all my loveだったのに。
「私は、こういうの、もっと時間をかけてからにしたいです」
……女の子の扱いって難しくない? 全然、少女漫画の通りにいかない。
「アリスさんって、クールなのに妙なところで積極的ですよね? こっそり胸とかお腹とか撫でてくるし。ちょっとおじさんっぽい……」
嘘だろ、バレてたのか。わたしの心は鋭い矢で突き刺されたような痛みが走る。おじさんって……。
「……幻滅シマシタカ?」
「そういうことするときは、ちゃんと声かけてください。びっくりして恥ずかしいんで。……ふふっ、そんなションボリした顔、初めて見た」
ようやく、彼女は笑ってくれた。安心する。この笑顔に何度も救われる。可愛いなあもう。
「ねえ、さっき告白したのどうのって言ってたけど、いつの話? ごめん、全然身に覚えがなくて」
「わ、忘れてください……」
「気になるって」
「夏休み、お泊りした日、お風呂場で……」
「あっ……、もしかして、あのポエムみたいなの? あれ告白だったの?」
「もーっ! 恥ずかしすぎて死にたい……! 私は、真面目に必死に、あれからずっと悶々としてたんですよ!」
彼女に半年間も、宙ぶらりんの精神状態を強いてしまっていたのか。わたしは冬休みの間だけでも辛かったのに、それ以上の時間を――。
頬から耳まで真っ赤にした彼女の柔らかな輪郭を、壊れないように、そっと撫でる。
「これから全ての時間を使って、大事にします」
「大げさですよ。もったいなきお言葉」
私の頬にアオイの手が触れる。いつの間にか流れ出した涙の粒を、小さな指で拭ってくれた。
「本当に、綺麗です」
褒められて、こんなにも胸が熱くなるのは初めてだった。
それから二人は手を取り合って、指先の小さな熱を感じた。互いの息吹を聴きながら、海の向こうを眺め続ける。足元が波に浸っても、そのままそこに
「――あ、あれ、もしかしてサメじゃないですか?」
「嘘、どこ?」
「あそこ!」
アオイの指先を見ると、遠く波の隙間から、黒いものが見えた。背びれかな? 漂うゴミにも見える。
「サメかな?」
「サメですよ」
「襲ってくるのかな?」
「……実は、人喰いサメなんてほぼいないんですよ。エサと勘違いされない限り、食べられません。むしろ、人のほうがサメを食べてます」
「じゃあ映画の中で逆襲されてるのも当然なんだ」
「そうかもですね」
「ねえ、なんか近づいて来てない? 間近で見られるかも」
「え、怖いです! 逃げましょう!」
「サメ見たくないの? 食べられることないって言ったじゃん」
「万が一もあります! ちなみにサメの歯は交換式で、抜けてもすぐ下に新しい歯が何本もあるんです。アリスさん、倒せますか?」
「やば、逃げよう!」
二人で手を繋いだまま、誰もいない冬の海岸を走り抜けた。キャーキャー叫びながら、笑いながら、息を切らしながら、まるでサメ映画の冒頭のように。
あの日、わたしたちが見たのは本当にサメだったのだろうか。ただの見間違いだったのかもしれない。真実はわからないけど、わたしたちは最高のクソ映画を共に堪能したのだ。約束を果たしても、まだその先がずっと続いていく。
――何度だって、君と一緒に映画が見たい。
帰りに寿司を食べたいと言ったら、やんわりと断られた。
キャビアを産むチョウザメが実はサメではないことも教えられた。
くだらない会話を重ねていく。
時間が積もっていく。
明日も生きていく。
【某国の潜水艦からの定期連絡が途絶え、誰も帰還することはなかった。後に発見された残骸は、これまで起こっていた何かによる破壊状況と酷似していた。また、この事件をきっかけに某国の軍事政権はクーデターによって打倒され、国連のバックアップによる民主議会政治を立ち上げた。一連の動向についての情報集約は外務省国際情報局特選諜報部隊の白雪調査官の迅速な行動によって達成されたものである。以後も何かについては関係省庁や各機関と協同で目下調査中である】
「――っていう感じで、最後に曲とエンドロールでどうでしょうか?」
「うーん、クソ映画の予感しかしない」
サメの出現から約三か月、また春が来た。
先生に怒られたり旧校舎は取り壊され始めたけど、わたしたちは相変わらずサメ映画同好会として活動していた。
新しい部室はどこなのか、それは秘密である。
彼女の柔らかいくせ毛が、わたしの鼻先をくすぐる。
【完結済】百合の間に挟まるサメ 深夜太陽男【シンヤラーメン】 @anroku
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