第2話 絶えて櫻のなかりせば

 たとえば自然が人間に意味を与えるというのは、どうだろう。或る人がまた別の或る人に何も尽くせなかったと悔やむことを辞めてみるというのは。尽くすという言葉だと語弊があるかもしれない。つまり、なにかしらの関わりを持つということだ。誰にも貢献していない、孤独な自分を責めるのはやめにしないか?自然と関わりを持つんだ。この世界のどこに協調性で悩む鯨がいる?自然に生き、自然に死ぬ。そうするだけで君は、壮大なる円環からこぼれ落ちることはないのだ。動物を下等に考える時代は終焉した。愚かな哲学者は君を豚と蔑まない。人間は自然に敗れるのだ、実に滑稽だね。だれが君を斃した?他ならぬこの世界の摂理。美しいと思わないか?可憐だと思わないか?人間である君の命を奪い去る、死神の姿を。




 新緑に大粒の滴が熟してない果実のようになり、軽い驟雨の絶え間ない連続のうちに、一瞬の爽やかさを感じさせる六月の初旬。エリカ達はある部活を創設することになった。文藝部。美しい装幀が施された勧誘ポスターがオンライン掲示板に堂々と掲げられ、美術部と兼部している文藝部部長キスカの腕がなるといったところだ。相変わらずエリカは人見知りであり(彼女は生来の気質だと反抗するだろうが)、なかなか改善の兆しは見えなかったものの、アネモネや発表班のメンバーとは緩やかに関係が築かれつつあった。少なくともそのように見えた。単なる部活動とはいえ、統廃合を生き残り都立高校としては(この国全体で見ても)最大級の高校の部活であるから、正式な認可は下りずらい。なぜそんな名門校に文藝部が無いのか、と創設のために開かれた会議でキスカは鼻息を荒くした。







 アネモネが初めて来た日以来、気候操作システムが誤作動を起こし、感染者数は次第に増え、「外」の世界は混乱を極めていた。大人たちにさえ「非常事態宣言」が発令され、外出は許可制になった。許可制といっても、各省庁のお偉方のみにしか許可が下りないから、実質は軟禁状態である。それを破って「外」の世界に出ようものなら、が行われる。政府によって感情をされるのだ。エリカは無機質なその刑罰の言葉の響きにうすら寒い気分になる。個人としての人間、その核となる感情を掻き回され、或いは透明な膜、永遠に解かれることのないヴェールで覆われて、もはや人間とは呼べない身体になるのだ。それは死刑にも等しいことではないか?政府が素行不良という理由だけで簡単に自由を剥奪して良しとされた背景には、が施行された当初は伝染病が猛威を振るっていたからというのが大きい。一糸乱れぬ統率が無ければ、全世界に人間という存在は消滅してしまう。イレギュラーは許されない。皆が政府の一元支配に収まり、頭脳の粋を結集させて全体=人類で立ち向かう。数多の人間が築き上げてきた歴史を自分たちの代で無くすわけにはいかない。そうした小賢しい偽善が妄想を津波のように呑み込んで肥大化し、とうとう自由までも奪ってしまったのだ。暗黒の時代である。けれど、その引き鉄を自ら引いた「地上の世代」を責めることが出来ようか?。近現代の歴史学者・政治学者は自己批判をこめてそう評価した。中央政府が施行に向けて動いたとき、それは既に偽善だった。けれど、それは歴史を全体=人類の視点で見た時の意見ではないのか?エリカは言語化できない不満を胸に温い粘液に包まれたその評価を習った。人間の視点で見れば――不幸に最も近しい地平から見れば、では無かったはずだ。それが、どうして?曖昧に端的な言葉で片づけることは、もう一つのだ。統制されるはずの政府批判に見えて、こうした倒錯はむしろ擁護へと働きかける。だから政治学者はの絞首台に身を晒さないで済んだのだ。意気地なし、、いや、仕方ないよ。エリカは電子書籍版『われらの時代への反省』を閉じた。死ぬのは怖い。平穏に生きることが出来るならそれで良い。繰り返しに飽き飽きして、自分から崖に飛び降りるのはみっともない。お父さんやお母さんの顔も浮かぶ。だれかと関わりを持って生きるということはつまり、そういうことなのだ。悲しませる誰かがいる。それだけで無闇に世界の秩序に刃向かうことに正当性なんかない。たとえその世界の秩序が偽りであったとしても。

 






「――エリカ、大丈夫?」

楽しげな雑音が一瞬波のように静まり、ユリが心配そうに尋ねる。ここ最近、エリカは疲れが溜まっているのか、急激に眠くなる時があった。意識を突然切断されたような嫌な感覚が起こって、気がつけば魔法のように時間だけが過ぎていく。天候システムも未だ不具合続きなのがいけないのかもしれない。けれど、おおかた、引っ越しした疲れが未だにとれないのが原因なんだろう。

「ごめん、なんでもないよ。確か、、申請書を送らなきゃいけんのよね」

「そ。そもそも、この学校には文藝部があったらしい。でも、十年前に廃部になってるんだそうだ。当時を知る先生は少なくて、校長先生、教頭先生、それから国語科の御門先生の三人。御門先生とオンライン面談はしたんだけど、廃部になった理由は、部員の問題行動が頻発したからとしか言ってくれなかった」

「問題行動?学校の備品を壊したとか?先生に反抗したとか?」

「それが、わからんのだ。御門先生は隠してるって感じじゃなかった。なんだろう、忘れてる?に近いのかな。兎に角再興は難しいみたい」

舶来品のロリポップを口にくわえたまま、難しい表情をしてキスカは言った。彼女は端麗な顔からは想像も出来ないような頑固者で、一度決めたことをやり遂げる意志は鋼よりも強かった。たとえ再興が不可能と言われようが彼女は諦めないだろう。それほどの彼女が非公認で無理にでも文藝部を結成することを考えないのは吃驚だった。エリカは前にその疑問をキスカに投げかけてみた。すると彼女は、やはりロリポップを咥えながら、占領下の敵国空港に悠々と降り立った陸軍総司令官のように空を仰ぎ、「それじゃあ意味がないんだよ」と誰に言うのでもなく言った。そういうものか、とエリカは思ったがやはり真意は測りかねた。

 会議は遅々として進まなかった。エリカは不愉快な記憶の切断の、硝子で刺してくるような頭痛に耐えきれなくなっていた。

「もうさ、名前だけ変えればいいじゃん。園芸部みたいな、無難なやつにさ。何なら、活動報告とかも偽造すればいいじゃん」

外の世界は忌々しいほどに、うざったいほどに快晴だった。雨に洗われた第Ⅱ校舎や、瑞々しい新緑たちが目障りだった。曇天が一掃されているのがどうしてか気に食わなかった。エリカはゆるやかな吐き気がするのを我慢しながら、キスカを睥睨した。静寂があたりを支配した。彼女は一瞬驚いたように目を丸くして、

「それじゃあ意味がないじゃないか。さっき言っただろう?君は最近、なにごとも投げやりな気がするよ」

「そうだよ、エリカ。の言う通りだよ。エリカだってあの時。私たちは決して諦めない、妥協しないって」

いつもは優しいユリが語気を強めて反論する。エリカは吐き気が蛇のように身体を生々しく絞めつけてくる感覚に襲われて、移り気な親友を見ることさえ出来ずにいた。もう、今日の私を遺棄するしかない。

「それが出来ないって、無理だってわかってんのに固執して理想から離れないのは、鹿のすることだよ。いつの時代もね」

エリカはそう吐き捨てるように言い残すと、荒々しく退を押して会議を抜けた。真っ黒な画面には卑屈に歪んだ自分の顔がいつまでも映っていた。吐瀉物の臭いがする酸っぱい涎が蒼ざめた唇から流れた。





 昔、野良犬にあったことがあるの、わたし。公園から家までの道すがら、幼いわたしの横を痩せた身体でついてきた。焦げ茶色と黒の毛が抜け落ちてところどころ赤い肌がみえていた。不思議と醜いとは思わなかった。むしろ、泥だらけで一人帰るわたしのことを護衛してくれているような頼もしさだった。でもやっぱり相当弱っていたのか、土手にきたところで、その犬は斃れた。蒲公英が咲く、美しい臨終の地だと思うようにした、そう思いたかった。わたしはその犬を撫でなかった。衛生観念からではなくて、わたしがわたしの意思で。だって、それはわたしだったから。





 薄暗い部屋の中でエリカは背中を丸めて布団の中で縮こまっていた。身体の震えが止まらなかった。彼女は急激な睡魔の波が何度も襲ってくるのをひたすら我慢していた。再び意識が断絶するあの嫌な感覚を味わいたくなかったからだ。

「大丈夫ですか?、、、中に入ってもいいですか?エリカさん」

「、、、大丈夫だから。だから中に入ってこないで」

エリカは無性に腹が立ってしまって、つい語気が強くなってしまう。

「可哀想に、、。とっても寒そうです。身体の調子が悪いように見えます。病院に行ったほうがいいのではないでしょうか。風邪程度の病気なら治すこともできそうですが。頭だけでもいいから布団から出てきてください。サーモグラフィで熱を、、」

「覗いたのね、、アネモネ。変態!これ以上話しかけてくるなら、中央当局にするから。二度と話しかけてこないで。この世界は人間の場所さえ忘れてしまったの?」

アネモネはそれきり何も言ってこなかった。エリカはどうしてかこの病気に耐えきることが喧嘩別れした彼女たちへの贖罪になるような気がして、それでも痛みには我慢しきれなくて頬に熱い涙を伝わせながら、嬰児のように泣きたいと思った。昔どこかの小説家が血潮の熱さに飛びのく人間を描写していたけれど、血潮の虚誕たるこの涙に身体じゅうの熱を奪われ、冷え切ってしまうのをひしひしと感じた。拭うことも能わずただ流れるのに任せて、彼女は瞳を閉じた。




 自分の為してきたことが、まったく無意味であったことに気づきたくなくて、いつまでも暗闇に向かって抗弁する哀れな歴史家。肥えた歴史家が叫ぶ、「歴史を学べば未来は変えうるのだ!」私たち人間は常に反復する。しかし決して未来を良い方向に改変することは出来ない。それが愚かしい行為であると気づいていながら、私たちは反復する、、それが人間という存在であるから。私たちに理性は早すぎる。私たちに歴史は早すぎる。――私はまた独りぼっちになってしまった。私は彼女がどれほど文藝部を愛しているか知っていた。言葉には魂が宿ることも知っていた。それなのに、どうして。どうしてあんなこと、言っちゃったんだろう。自分自身によって穿たれた杭で身動きが取れずに、去っていく友達を私は眺めるしかできない。私は私が嫌いだ。嫌いで嫌いでしかたない。もうこのまま、永遠に目覚めなければいい。もし私がこの世界にいなかったとすれば、どんなにみんなの心は晴れやかだっただろう。







 外ははもう夕闇が迫って紫に輝いていた。目が覚めると、アネモネが横に座って静かに本を読んでいた。『海と毒薬』遠藤周作。悪くない趣味だけど、体調が悪い今にはあまりお目にかかりはない作品だった。腕には点滴が打ってあった。エリカは起き上がろうとしたが、身体が鉛のように重くて、言うことを聞いてくれなかった。それに、天井の景色も茫洋としている。

「お目覚めになりましたね。大丈夫、動かなくてもいいですよ。どうやら軽い風邪みたいですね。引っ越しした疲れが溜まっていたんでしょう」

彼女はにっこりと微笑むと本を閉じてエリカの額に手をあてた。

「まだ少し熱がありますね、、今日の晩御飯はお粥がいいでしょうか」

「アネモネ、、ごめんなさい。さっき、ひどいこと言っちゃった。私どうかしてたよ。それにキスカとかユリにもすげない態度、とっちゃった。せっかく出来た友達なのに、私嫌われちゃった。独りぼっちになっちゃったよ。どうしてあんな酷いこと言っちゃうんだろう。私、だから会話するのが嫌いなんだ」

エリカはまた涙が頬を伝うのを感じた。久しぶりに人前で泣いてしまった。慌てるあまり拭えずにいるエリカに代わって、アネモネはポッケからハンカチを取り出して彼女の頬を拭ってやった。アネモネの掌のお母さんのような穏やかな温もりに、エリカは思わず紅潮した。

「反省して、きちんと謝ることができるのが貴方の良いところです。けれど、そんなに自分を責めないで。誰も貴方を嫌ったりしませんよ。人間は必ず過ちをおかします。けれど、、だからこそ、人は過ちを赦すことができます。誠意をもって謝れば、きっと赦してくれます。だから元気をだして」

エリカはようやくアネモネを見たような気がした。心なしか設定年齢よりも幼く見える彼女の、ぱっちりとした碧い瞳は不器用だけど慈愛に満ちて包み込んでくれる。エリカはそれに援けられながら、それでも幾分か弱々しく尋ねた。

「どうして、そう言いきれるの?」

「私のお母さん、、、私をつくってくださった方が、貴方にそっくりだからです。彼女はとっても優しくて、とっても人見知りで、それでいてどうしても不器用な人だから、すぐ喧嘩して落ち込んで、反省して、謝って、そして立ち直る人でした。お母さんはずっと自分が独りぼっちだって、嫌われ者だって言っていましたが、私は彼女のまわりには沢山の友人が居たように思います。その生涯の最期まで」

「、、良い人だったんだね。お名前は何て言うの?」

アネモネは、懐かしい過去を回顧するときの、少し悲しげな笑顔で言った。

「住良木櫻。世界を愛し、世界中の人々に愛されて、ついには神様をも魅了した夭折の天才科学者です」

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形成不全の慈愛 梓稔人 @Kogito

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