貴族 猫 アジ

島尾

貴族 猫 アジ 森(六本木)

 私は低所得者である。それを嘆いてもいないし、誇りに思ってもいない。



 どうしても陶器の展示物が見たくて、私は東京にある三井記念美術館に赴いた。私が陶器に興味を持ち始めたのは小学生のころであり、一度も飽きたことがない。なかでも何も絵や文様の無い素朴な風合いの焼き物が好みである。私はそこに、宇宙を感じる。何もないようでありながら、気泡の出た痕跡、自然と出たヒビ、そして土の色などが存在する。とはいえ亀や鶴や兎などの絵が描かれているわけではない。確かに人が創ったものではあるが、展示されているそういった素朴な陶器はとうに作者の手を離れ、この世界に独立して存在していると思える。それが何を意味するかというと、鑑賞する者がおのおのに陶器に意味づけをできるということ、そしてそこには鑑賞者の想像を引き留めるような制限が何ら無いということである。もちろん審美眼の無い者がいたずらに陶器を目にしても、ただの器でしかなく宇宙など生まれない。また、宇宙が生まれないうちから先回りして「この作品は何何を表現している」と決めつけるのは良くないと個人的には思う。なぜならそれは制限をみずからかける行為であり、せっかく自由な意味づけをしようとしているのにそれがしにくくなると思うからである。


 ところが三井記念美術館に入ったら、陶器が全然無かった。


 おかしいと思って、職員に訊いたら、今は展示していないということだった。ひな人形だけが展示されていて、どう頑張っても自分には興味が出ない領域の創作物であった。


 それは残念なことだった。

 ただ、「今は展示していない」という事実は、残念な気持ちになってしまった理由の3割程度しか占めなかった。残りは、財閥のとんでもない金持ちだけがこういう高貴なものをいくつもいくつも所有できるんだ、という無意味な嫉妬だった。結局カネかよ、という、その最たる例を見たような気がした。

 そうして周りを見渡すと、ほとんどがおばさまであった。ファーを着たご婦人、煌めく時計を腕にはめた奥様、孫の話題で盛り上がるおば様お友達連盟。それらを見ていたら、だんだん、ここにいる自分以外の全員が大金持ちで、自分のような低所得者はこういう美的空間にいてはいけないかのような意識がしてしまった。冷静に考えればそんなわけがなく、どこの誰がここの美術品を鑑賞してもよい。入館料なんか低所得でも普通に払えるし、なんなら私は障害者手帳を持っているから無料で入らせてもらえた(私はこのありがたい仕組みに三井財閥の太っ腹を見出した。この歳になって自動販売機の下をのぞき込むようなことをし始めた低所得者にとっては、感涙しそうなほどである)。

 見たいものも見られず、貴族なおばさま達がきゃいきゃいお話をされる中で、私がイライラし始めたのを認めねばならない。それでそのイライラを引きずって、太っ腹の三井記念美術館を後にするのかと思い、どんどん残念な気持ちになっていた……

 ……

 ……とその時、エレベーターの扉が閉まりそうになっているのを発見した!

 私は走って乗り込んだ。それができたのは、すでに乗っていたおばさま友達4人組のうちの一人の人が「開く」のボタンを押してくださったからだった。まあ、そのときには何も感じなかった。

 その時だった! おばさまの一人が、


「あら、傘忘れてるじゃないの」


 と言った。そしたら別のおばさまが


「ああ私も忘れてる」


 と言った。そしてけらけら笑いながら、4人ともエレベーターを出てしまったのである。

 私は貴族なおばさまに勝利した優越感に浸る条件を満たしたと思った。しかし実際に私が感じたことは、「自分が走ってエレベーターに乗りに行ったおかげでおばさまたちは傘を忘れずに済んだ。感謝せい!」ではなく、「自分が走ってエレベーターに乗りに行ったおかげでおばさまたちが傘を忘れずに済んだ。役に立てて良かった」という清らかな気持ちだった。

 三井財閥の余裕ある心が、私に伝染したのかもしれない。

 陶器は見られなかったが、良かったと思った次第である。



 三井記念美術館のすぐ隣に、三越があったので、立ち寄ってみた。やはり貴族の皆様が楽しそうにお買い物なさっていて、先の一件があったために嫉妬や憎しみといった消極的な感情は湧かなかった。なぜ三越に寄ったかというと、鮮魚コーナーにアイナメが売ってないかどうか見てみたいと思ったからである。仙台の三越にはアイナメやソイ、そして生きたアイナメもいて、釣り好きとしてはじわじわ来るものがある。もし東京の三越にもアイナメがいてくれたらいいなあと思ったが、残念ながらいなかった。

 せっかく三越に来たのにこのまま帰るのももったいないと思い、低所得者として何か安い体験でもできないかと思い、店内2Fの喫茶店に赴くことにした。その喫茶店は仙台の三越にもあったから、おそらく全国の三越に存在しているだろう。

 喫茶店では770円のケーキを頼んだ。コンビニやスーパーに比較すれば高い。しかし、同じ商品なのに仙台のは800円くらいする。仙台のものは皿の上にチョコソースで丸い飾りを描いていたが東京のはそれがなかったから、やや高いのかもしれない。

 私は一人でケーキを食べた。

 ここで断っておかねばならない。仙台のほうはこぢんまりとして客が少ないから本当に一人になるため、店内の雰囲気と高いケーキへの畏怖の念を感じつつフォークを刺すことができる。しかし東京のほうは仙台より3倍ほど広い面積にやかましい貴族が20人も30人もいて、ケーキや店内の雰囲気に集中することが叶わなかった。


 そこで猫だ。


 今日2月22日は猫の日と定められており、カクヨムでも猫に関する自主企画が開催され、私も猫に関するエッセイをいくつか書いている一人の猫好きである。各地の猫がどのような性格なのか見てみることは、多くの猫好きにとって楽しいことであると信じている。貴族の余裕っぷりにまたしても嫉妬めいたものを感じ始めていた私は、保護猫カフェに行ってみたのである。


 *


 私は猫にも身分が存在すると思っている。それを猫が認識できるとは到底思えないが、私は猫に以下のように身分制を敷いている。

1 飼い猫、または純粋な猫カフェの猫

2 保護猫カフェの猫

3 地域猫

4 港で釣り人の釣った魚を狙っている、地域猫ではない泥棒猫

5 本土で人目を避けるように生きる地域猫ではない野良猫

6 離島で高密度な環境を強いられている地域猫ではない野良猫

 過剰な多頭飼育で飼育環境が劣悪な中で生きる猫は、一応飼い猫だが、1位に入れることはできないだろう。過剰な多頭飼育とは、家で何十匹もの猫を無計画に生きさせることだから、おそらく6位だろうと思う。また、離島でも地域猫になっている場合もある。そうでないにしても、(これは私の経験だが)とある離島の野良猫はすごく人懐っこく、放し飼いにされているのかもしれないと思ったのだが、離島で暮らす猫はもはや人との距離が近すぎて「野良猫」と定めるには不適当な部分もあるかもしれないと思う。にゃごにゃご言いながら人に近寄ってきてすりすりすることができるのなら、その猫どもは幸福なのではないか(少なくとも不幸ではない)と勝手に思っている。人を見てびくついて逃げ去る猫よりも。身分が高いからといって必ずしも幸福の度合いも大きいとは限らないだろう。家から出してもらえない、窓の外をじっと見ている飼い猫もいる。それらは本能上、外に出てはしゃぎたいと思われる。そういう猫の中でも、特に大都会で、高所得者が住むタワマンにて飼われている血統書付きの貴族猫は、外に出ることを許されないことが多いのではないかと推測する。彼らは急峻な坂しか存在しないような離島のその坂を上ったり下りたりできないが、私の経験では、離島に住む人懐っこい猫と一緒に坂を上ったり下ったりした(勝手についてきた。ある一匹の猫が糞尿をしているときは、私ともう一匹の猫と一緒にそれを待ったりした)。1匹でしか飼われていない外出禁止の飼い猫は、ほかの猫とのふれあいがないだろう。離島の猫の場合、私との小探検を終えて無事元の場所に帰ってきた猫どもが、探検を好まないがために小汚い毛布の上で留守番をしていた猫の元に近寄って頭を執拗に舐め回し、留守番猫の顔が明らかに嫌そうなものになっていた。人間が猫の頭を不適切に撫でるのは悪いことだが、猫が別の猫をぞりぞりした舌で不適切な撫で方をするのは悪とも善とも言い難い、人間には立ち入れない領域である。私はそれを観察し、猫の新たな世界を見ることに成功したことに喜びを感じていた。そして好奇心旺盛な探検好きの猫は留守番の猫の頭舐めを終了するやいなや、すぐに私のほうに来た。エサがもらえる、そういう期待をしていたに違いない。私は事前に持ってきていた1700円のキャットフードを与えようとして手提げかばんの中に手を入れた。しかし、無かった。いつの間にか盗まれていたのだ。結構あったのにも関わらず、どこぞから湧いてきた狡猾な泥棒猫が隙を見計らって窃盗したに違いない。猫のこういう盗み癖は、本当に最悪だと思う。感覚が鈍った慈悲深いサルの目を盗んで食料を食らうのは、常識外れで劣等生の愚行である。


 三井記念美術館で陶器を見ることができなかった私は、明日、別の東京都内の美術館に赴こうと考えた。低所得ゆえにネカフェ(「か」から始まるとあるネカフェ)で泊まりたいと思ったゆえに店舗の場所を調べたら、秋葉原や神田、赤坂に存在した。秋葉原や神田は何となく嫌だなと思い、消去法で赤坂かなと思い、東京メトロの赤坂見附駅で降りた。

 目の前には、「すしざんまい」が。

 吸い寄せられるようにすしざんまいの中に入った私。豪族めいた社長の像が立っていたことは関係ないと思いたいところである。


 私はカウンター席で何を頼むか迷っていた。「決まったら声かけてくださいね」というような職人の声掛けに一応の返事しつつ、長いこと迷っていた。

 ふと、前方を見た。理由はない。

 そこには水槽があり、鯛1、シマアジ1、そして普通のアジ数匹が遊泳していたのである。

 私はまたも迷い始めた。

 あのアジを刺身で食べたいという強欲。

 ひれを動かして泳いでいる生けるものを殺戮するという犯罪。

 

 自分が釣ってゲットした魚を食べるのと、水槽で泳がされている魚を食べるのはわけが違うと思った。私は、前者のほうは自分が魚を殺すために、命の大切さをモロに感じながら食す。よって、誰か知らない人が捕って水槽に入れられている生き物を殺して刺身にしてもらって食べるというのは、果たして命の大切さを感じることができるのかと心配になった。いやそれよりもっと深刻なのは、私があの魚の命を殺すということである。釣りにおいては私の技量や周辺環境の影響などがあるため、魚と真剣勝負をする。その意味で釣った魚を殺すのは、殺戮の側面も確かにあるけれど、武士が刀を交えて戦って最後にどちらか一方が首を取られるような「決着」の側面もある。

 しかし水槽に入った魚はどうだろう。真剣勝負なんてできるわけもない。ただただ殺される様子を傍観するだけである。私が殺せと命じて、しかも命と金銭を交換して、あまつさえ胃袋に入れる行為。職人が網ですくって包丁で捌くとはいえ、それは私に命令されたからである。私が殺すのだ。

 そして私は注文していた。いつの間にか、欲に流されるままに。


 初めて、自分が獲ったもの以外の食べ物に、「いただきます」と言って合掌した。そこには「安らかにお眠りください」や、「あなたの命は私が忘れない」、「私が殺したんだ、簡単に許されることではない」、「あなたの分まで私が生きる」といった、ある種「弔い」の感があった。単なる挨拶としての「いただきます」なんて、ファッションであると思った。それを言っている自分は行儀が良い、それを言えば良い人、それさえ言えば許される。「いただきます」、その言葉にはそういった自己中心的にして己の印象を高めるだけの効果しかないと思えた。真の意味におけるそれは、葬式の言葉だったのである。

 それを見ていたのか知らないが、店員が「骨せんべいにしますか?」と訊いてきた。私は「お願いします」と言った。命をいただくということは、体を構成する全部を胃袋に入れるということだ。しかし実際には内臓などがあるため無理。せめて骨と頭は唐揚げにして食べるのが、弔いとして人間ができる一番の方法だろう。現に私は、釣った魚をあえてわざわざ唐揚げにすることが多い。無理に骨をグジャグジャ嚙み砕くこともある。

 最終的に私は提供されたアジの全部を食べた。罪悪感と、最低限のやるべきことはやったという感。そんな中、一つの逃げ道が見えた。

 誰にも食べられずに水槽で死ぬ、という未来は回避できたのでは。

 これは人間から見た勝手な悲愴感に基づいている。結局死ぬなら何でもいいし、そもそもアジが「自分はいつか死ぬ」という認識、またはそもそも「自分」という認識を持っているのか甚だ疑わしい。よって、水槽内で死ぬのがかわいそうと考えるのは、魚の無残な最期という悲劇を見る、というエンターテイメントを楽しむことを含んでいると思われる。そこに何かためになる感覚は存在しない。しかし人間はアジの視点に立つことなど不可能であるから、私が上のフードロスの危機を回避する役目をしたことについて、いたずらに深く考えすぎることは好ましくない。


 すしざんまいを出て、赤坂に並ぶ飲み屋のそれぞれの中をちらちらとひそやかに見てまわった。バカ騒ぎする大集団しかいなかった。そこに命を想う姿勢など微塵もなかった。それが悪いということはもちろんない。しかし、思う存分飲んだくれて騒ぐ彼ら彼女らが親類や親しい人の葬式に出る際に、いったいどのような頭の中の状態をして涙を流すのかと思った次第である。また、日本に身分差別はなくなったとしても身分制はひそかに確実に存在しているだろう。カネがあればあるほどいい、という考えのもと、自由競争によってその世界で勝ち上がった者たちは、自動的に貴族や大商人の地位に成り上がり、低所得の人の内情に微塵の関心も持たず、恐ろしく浅はかなマネー競争を死ぬまで続けるものと思わなくもない。

 

 やかましい飲み屋街を出て、開けた公園で休むことにした私。そこには、なんと、若い男女が合体して苦悶しているという、初めて見た光景があった。私は彼と彼女に対し、なぜか一抹の安堵を覚えたのである(おそらく女が酔いつぶれて男が頭を撫でて世話をしていたため、公然わいせつ罪には該当していないものと思われる)。



 東京でもろもろの経験をして結論づけられることは、「私は東京に住むべき人間ではまったくない」である。私にとって東京とは、心の平穏が保たれることのない生きにくい空間であった。仙台のほうがずっと良い。※数年前に八王子や府中あたりでアニメの聖地巡礼をした経験から、東京でも西のほうはもう少し私に向いているかなと思っている

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貴族 猫 アジ 島尾 @shimaoshimao

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