おじさまとわたし ~子猫少女は花嫁修業中~
狼子 由
おじさまとわたし ~子猫少女は花嫁修業中~
わたしの朝は、丁寧な身支度から始まります。
てちてちとピンクの舌をブラシがわりに、体中を綺麗にとかします。
寝ぐせなんて、おじさまに見せられない。
素敵な毛並みを取り戻したら、お顔を洗って終了。
さあ、おじさまを起こさなきゃ。
半開きの扉をするりと抜け、カーテンの隙間から白い光の差し込むおじさまの部屋へ。
枕に抱き着いて小さないびきをかいているおじさまの横に音もなく降り立ちました。
冷え冷えの肉球で、つん、と肌もあらわな首筋をつつきます。
『おじさま、朝よ。起きて』
耳元で優しく囁いたけれど、おじさまはうめくばかりで目を開けません。
むっとしたわたしは、思わず「しゃー!」と声をあげました。
『ばかばか、おじさまのばか! 昨日の夜もぜんぜん相手してくれなかったくせに! 「朝になったらね♡」って言ったのは嘘だったの!?』
よれよれのTシャツの上から研ぎに研いだ爪と鋭い牙でかみかみぷすぷすしていると、「痛っ」と叫んだおじさまが大きな手を伸ばしてきました。
素早く避けようとしたけれど、そこはおじさまの方が一枚上手。わたしの身体は手のひら一つに軽々と押さえ込まれます。
身体をよじって、けりけりしてみても、おじさまの逞しい手はびくともしません。
わたしは白いふわふわのお腹をさらけ出し、身体の力を抜きました。
『おじさまったら、こんな時間から♡ でも、いいわ♡ わたし、おじさまになら……』
おじさまはこっちを見ないまま、いつもの調子で、わしゃわしゃとお腹をくすぐってきます。
わたしはうっとりと目を閉じておじさまの手を受け入れました。
ぽかぽかおひさま。
やわらかお布団。
そして、大好きなおじさまの匂い。
うとうとまぶたが下りてきそうになったところで、ふわ、と大きなあくびの声が間近で聞こえました。
びっくりして、しっぽをふわふわに逆立ててしまったわたしの身体が、ふわりと持ち上がります。
「……うぅ、おはよう、ムギ。朝から元気だね……」
ムギ。それがわたしの名前ってやつみたいです。
よく実ったムギバタケみたいな色なんですって。
わたしはムギバタケを知らないけれど、おじさまがうっとりした顔でそう言うから、きっとそれはすごく高貴で麗しくてこのうえなく素晴らしいものなんでしょう。
『もう、おじさまが朝に弱すぎるのよ! さあ、朝ごはんの準備をしてちょうだい。それから、遊んで、遊んで! 昨日はお休みだから一日一緒だよって言ってたのに、お外に行っちゃうなんてとってもずるいわ! ねぇ、わたし寂しかったのよ。遊んでちょうだい!』
「ほんとうに元気だなぁ……みぃみぃ鳴いてかわいいねぇ」
寝ぼけ眼でふにゃりと笑うおじさま。
寝ぐせだらけの髪はぼさぼさで、まばらなおひげは適当で、Tシャツの首は伸びてゆるゆる。
だけど――それが、わたしの大好きなおじさまなの。
目が合ったわたしは嬉しくて、「みゃあ」と笑ってしまうのでした。
■◇■◇■◇■
子猫とは言え、わたしだって淑女のはしくれ。
おじさまとこうして暮らすようになるまでには、覚悟も勇気も必要でした。
だって、ほら……わたし、まだ、おじさまからプロポーズだって受けていないの。
お互い、結婚にはぎりぎり適齢期。
そんな男女が一緒に暮らすなんて、婚前交渉も前提ってことで――あらやだ、わたしとしたことがはしたない!
わたしは、おじさまがおいてくれた椅子の上で、礼儀正しくちぱちぱとお水をいただきます。
今朝はおじさまがずいぶん積極的だったから、少し頭の熱を冷やさなくちゃね。
もとはと言えば、お母さまの旦那様が、わたしや兄弟たちを貰ってくれる相手を探していたの。
毛並みの整え方、顔の洗い方、トカゲの掴まえ方まで、優雅で貴族的な作法を教えてくれたお母さま。
尊敬するお母さまと離れるのはそれは辛かったけれど、でも。
お母さまの旦那様に背中を押されるように入ってきた、おじさま。
そのお姿を見たときから、わたし、『この人なら、いいわ』と思ってしまったの。
「なあ、おい。俺には子猫なんて無理だって。俺は煙草も吸うし、酒も飲む。この年にもなって独り身で、カップ麺にレトルトで生きてるんだぞ。健康的な生活とは程遠い。いつ死んだっていいと思って生きてんだよ。それを、こんな……俺より長生きしたらどうすんだ」
「だから飼えって言ってんの。なにが「俺より長生きしたらどうする」だ。ちゃんと節制して健康的に生きろ。君が早死になんてしたら、君のおふくろさんにあわせる顔がないんだよ」
「死んだ母親のことまで気にしなくていいって」
「生きてる君のことを気にしてるんだ」
そのときわたしは、淡々と言い合う二人を眺めながら、お母さまの足にくっついていました。
視線に気づいたように、旦那様はわたしを優しく抱き上げます。
そうして、おじさまの方へ両手を差し出したの。
「ほら、とにかく抱いてみろって。多忙なSEだって、たまの休みに癒される時間は必要だろう」
「先に言えば、こんな煙草くさい服で来なかったってのに……」
まだ足元もおぼつかない頃だったわ。
旦那様の手のひらの上でぷるぷるしていると、落っこちるのを警戒してか、おじさまは慌ててわたしを受け取ったの。
「……ちっせぇ」
おじさまの手はその頃から大きくて、そして危険でスパイシーな知らない匂いがしたわ。
お母さまはおじさまの足元で『私の子を返しなさい!』と叫んでいたけれど、わたしったらもうそのときには、この人のところに行くと心に決めてしまっていたの。
仕方ないわ。だって、わたしたち、恋をしてしまったのだから。
わたしが恋をしたのと同じで、おじさまもわたしに恋をしていました。
目を合わせただけで、そのことを知ってしまったの。
「……なあ、俺、ほんとに、こいつを育てられるかな?」
「できるかできないかじゃない、やるんだよ。幸い僕は何度か子猫を育てたことがある。手伝ってやるから」
「つっても、俺は不在がちだし……」
それでも迷うおじさまに、旦那様は決定的な一言を言ったわ。
「どうしても君が飼わないと言うなら、他の誰かにお願いするけど」
「飼うよ!」
思わず『やめて!』と叫んだわたしの声に、おじさまの声が完全に重なりました。
運命的な相性の良さでした。
わたしたちの息があまりにぴったりだったから、お母さまさえついに根負けして『幸せになるのよ』と呟いたのだったわ。
ね、ほら。
わたしたちったら、惹かれ合って一緒にいるのよ。
だから――ねえ、いつになったらプロポーズしてくれるの!?
■◇■◇■◇■
「じゃあ、行ってくる。今日こそは、遅くはならんと思うが……」
『いつもそれだわ。寂しく留守を守るわたしの気持ちにもなってちょうだい。これじゃ、未婚なのにわたし未亡人みたいじゃない』
足の間をくぐって身体をすりつけながら、ぷんすか文句を言いました。
おじさまはたまらなく辛そうな顔で、もう一度わたしを抱き上げます。
「そんなに鳴くなよ。俺だって辛いんだ……すまん」
上に乗ると怒られる、いつも丁寧につるされたスーツの腕の中。
きれいにおひげを剃った頬ですりすり、ちゅっちゅされると、わたしの気持ちも徐々におさまってきました。
『そうね、お仕事だもの。仕方ないわね。おじさまのお仕事を待っているひとがいるんだものね……』
「そうなんだよ、俺も本当はお前とずっと遊んでいたいんだ」
『いいわ、気を付けていってきてね。わたし、ずっと待ってるから』
「ああ、いい子で待っててくれよ」
ちゅっと額にキスを落とされて、わたしときたらふわふわ幸せになってしまったの。
わたしがにこにこしている間に、おじさまは超特急で革靴を履くと、泣きそうな顔で手を振って玄関を出て行ってしまいました。
優しいキスの感触を思い出しながら、玄関先をうろうろしているうちに、わたしったら今日もまた大事なことを忘れていたことに気付いたの。
『――ちょっと、おじさま! プロポーズ、まだなんですけど!?』
■◇■◇■◇■
終わってしまったことは仕方がないわ。
おじさまがいない間に、色々とやらなければいけないことが、淑女にはあるの。
まずは、ベッドの枕元で、窓の外の見張り。
わたしの視界に入るスペースは、ぜんぶわたしのテリトリーだっていうのに、時々それを無視する無礼者がいるんだから。
もちろん、わたしは淑女だから、そんなときだって慌てて「しゃー!」なんて言ったりしないわ。
『そこのあなた、少しばかりおいたが過ぎるんじゃなくて』
そんな表情で軽く睨みつけてあげるの。
いつものスズメやセキレイなら、それでだいたい自分が禁足地を侵したことに気付いて、ぺこぺこ頭を下げながら離れていくってわけ。
面倒なのは、実は紳士を気取る男たちの方だったりするのです。
季節によっては、わたしの姿を見て、下卑た声をあげながら寄ってくるのだから本当に失礼なこと。
わたしの身体は耳のてっぺんから尻尾の先までぜーんぶおじさまのものなんだから!
いくら、正式な結婚がまだだってもよ。
今日はどうやらそんな無作法者はいなかったみたいんで一安心。
ぽかぽかおひさまとおじさまの匂いに包まれて、お朝寝タイム。
■
しばらくしたら、タイマーを合わせたカリカリが落ちる音で、目が覚めます。
外の見張りの次は、中を整えなきゃ。
お部屋の隅のゴキ……失礼、淑女らしく、『黒くて素早いアイツ』と呼ばなくてはね。
おじさまったら、以前は時々ゴミ出しを忘れていたみたい。『黒くて素早いアイツ』はこの部屋を餌場として認識している節があったの。
でも、わたしが来たからにはそんな無法は許さないわ。
鋭い爪と牙は、お母さま譲り。
見つけるたびに『黒くて素早いアイツ』を切り刻み、嚙み殺して放っておいたら、『黒くて素早いアイツら』の方で、意識を変えたみたい。
最近ではさっぱりご無沙汰で……午後のひと運動に飢えているくらいです。
そう言えば、最初の頃は、死骸を見たおじさまがいちいち悲鳴をあげていたのも可愛らしくてよかったわね。
「踏んづけた」とか「なんで真ん中に置いとくんだ」とか「ホイホイ置くからやめてくれ」とか。
ホイホイってなにかしら。わたしには絶対入れないところに置くって言ってたけど……?
ちょうどその頃から、お部屋のゴミ出しもできるようになったみたいだし。
おじさまも、わたしの努力がわかったってことなのでしょうね。
納得したら、戸棚の上で午後のお昼寝タイム。
ここなら……ふわぁ……『黒くて素早いアイツ』を見つけたら、すぐに……とびかかれる、し……。
■
再び、カリカリの音。
室内はもう暗くなっていて、お部屋の静かさがしんと耳につく時間。
まったく、おじさまったらやっぱり今夜も遅くなるのね。
お母さま譲りの夜目に感謝しながら、わたしはカリカリを平らげて廊下に向かいました。
もとから、この家の中の扉は、ぜんぶわたしのために開け放ってあります。
一度、わたしを閉じ込めようとして一晩通して抗議したわたしが喉を枯らした時から、おじさまは一日も忘れずすべてのドアを開けて外へ出ていくようになったの。
おじさまを追っていけるドアまでは開けてはくれなかったけれど。
まあ、このスペースなら十分なお城と言えるし、一人でも色々遊べるしね。
今夜は、この前見つけた面白スペースを少しいじってみようと思っているの。
そこは、おじさまのベッドルームに比べれば、狭く区切られたお部屋なの。
時々おじさまは一人でそこにこもってしまう。
けど、わたしが扉の外で声を上げて叱りつけると、慌てて出てくるのが楽しくて。
ぱっと見ただけでは、変な形の椅子と水のたまる泉しかないから、おじさまったらなにをしているのか不思議に思っていたの。
最初の頃だけおじさまから香っていたあのスパイシーな匂いが、ここからだけするのも理由がわからないし。
だから、しっかり探検してみたら、面白いものがあったわ。
爪を立てて引っ張ると、からから鳴りながら回って白いふわふわを吐き出す変なロール。
一昨日、おじさまはなんて言ってたかしら。
絶望した声で、「トイレットペーパー……巻きなおしたら使えるか……?」なんて言ってたかも。
きっと、おじさまが遊びたかったのをわたしが取ってしまったのね。
少し申し訳なかったから、カリカリを少し残しておじさまに分けてあげようとしたのだけれど、おじさまったら受け取らなかった。
「いいから、お前が食べていいぞ」って、優しい微笑。
わたしったら、心を奪われちゃったの。
ああ、あのときの笑顔を思い出すだけで胸が高鳴って……からからを鳴らす爪も捗るってものよ!
延々と引き出されてくる白いふわふわに夢中になって、わたしは爪をふるい続けます。
だって、せっかく取っておいてあげたのに、おじさまったらぜんぜん帰ってこないんだもの!
爪が引っかかったところから、ふわふわの破片が舞い上がり、床に積もっていきます。
まるで花びらみたいで、とっても綺麗。
あーあ、おじさまと一緒に見たかったな。
だってほら、わたしの身体の周りで揺れる白いふわふわったらドレスみたいでしょう?
ね、おじさま。わたし、ずっと待ってるのよ……。
■
帰ってこない。
まだ帰ってこない。
夜が更けて朝になっても、おじさまは帰ってきませんでした。
扉が開いて、慌てて駆け付けたら、入ってきたのはおじさまじゃなかったの。
お母さまの旦那さまが申し訳なさそうな顔でわたしを抱き上げました。
おもちゃを使って遊んでくれたけど、わたしの興味はぜんぜんそんなところにはないの。
『おじさまは――あんっ、ちょっと、ずるいわよその動き! おとなしくなさい! ちょっと、おじさまはいつ帰って――あっ、ま、待ちなさい!』
ぴょんぴょん跳ねながら尋ねたけれど、旦那さまはなんにも言いませんでした。
わたしが疲れて寝付いていた間に、
わたしは、ずっと待ってるの。
白いふわふわのところに戻って、わたし、くるりと丸くなっておじさまを待ちました。
……待てなくて、先に遊んでしまってごめんね、おじさま。
最後の一巻き、おじさまの分も、ちょっとだけふわふわを残してあるから。
■◇■◇■◇■
それから一晩、いいえ、二晩?
何度か旦那さまが来て、「お母さんとこに一度帰るか?」なんて聞いてきました。
そう言われるたびに、わたしは慌てて逃げ出したわ。
だって、おじさまのいないこの家を守れるのは、今やわたしだけなんですもの。
正式な結婚をした相手かどうかなんて、最初から関係ないの。
早く帰ってきて、おじさま。
わたし、おじさまと一緒にいられれば、なんでもいいの。
■◇■◇■◇■
「……た、だいま……」
ぎい、と扉の開く音ともに、足音が入ってきました。
疲れ果て、声も掠れていたけれど、わたしにはわかります。
ふわふわから飛び起きて、玄関へと向かいました。
『――おじさま!』
「うわあぁぁ……ムギ、待たせた、ごめん! なんだお前、この白いふわふわ……またトイレットペーパーか!?」
言いながら、だけどおじさまも待ちきれなかったみたいに、ふわふわまみれのわたしを抱き上げてくれました。
懐かしいおじさまの匂いに頭を擦り付けていると、おじさまはポケットから赤い紐を取り出してきました。
「長く一人にして本当に悪かったよ。餌はあいつが補充してくれただろうが、寂しい思いをさせたな。これは……詫び、でもないが」
きゅっ、と頭の後ろで音がして、瞬く間に、私のしなやかな首には綺麗な赤い紐が結ばれていたの。
「配置替えの引継ぎに長くかかったが、これでもう今までみたいな無茶な徹夜はなくなるぞ……! これからは、お前とずっと一緒だ、ムギ」
『わっかのプレゼントと、その言葉……それって……』
じわじわと、胸の奥から喜びがあふれてきます。
興奮のあまり、尻尾の毛がぜんぶ逆立ってしまいそう。
『おじさま、わたし――おじさまとずっと一緒にいるわ!』
勢いよく飛びついた拍子に、身体についていた白いふわふわが一斉に舞い上がりました。
ほら、ね。結婚には白い花びら。
だから、きっとわたしたち、これからはずっと一緒なのです。
おじさまとわたし ~子猫少女は花嫁修業中~ 狼子 由 @wolf_in_the_bookshelves
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