第53話 そして、二人

 灰本を怒らせてしまった。焦りで大渋滞を起こす思考を何とか整える。そして、謝罪の意味も込めて、より一層力を加えて口を開いた。

「信じてください! 私は二人の仲を引き裂くようなこと、まったく考えておりません!」

 叫ぶようにして言うと、眉間の皺を更に深く、数を増やして灰本が、とうとう口を挟んできた。

「……お前、何言ってるんだ?」

 灰本の声は冷ややかで、顔は『不愉快』と口で言わなくてもわかりやすく書いてある。しかし、私からしてみれば、灰本さんの反応の方が意味不明だ。

 今美波は、大いに誤解しているのだ。だったら、妻を安心させてあげるというのが夫としての役目だろうに。思い返してみれば、依頼を受けた当日も、似たような誤解があった。その時も、やはり灰本は他人事のような態度だった。ちょっと男として、どうかと思う。恋人いや、結婚するのだから、夫としての自覚がなさすぎるのではないか。

「美波さん、今とても不安に思っているんですよ? だったら、夫として、少しは妻の不安を解消させるべく、努力をするべきなんじゃないんですか?」

 灰本は、より一層冷えた視線をよこしてくる。いちいち指摘するのも嫌だがこのまま放置したら、更に面倒くさいなと、その目は言っている。

「……さっきから、誰と誰が結婚すると思ってる?」

 灰本が右手を額にやって肘をつき、ガックリ項垂れて、ぼそっと呟いた。私は即答する。

「美波さんと、灰本さん」

 当然でしょうと大真面目にいうと、しばらく事務所の時間が停止していた。

 何とも言えない沈黙。なんで、こんな変な空気が流れるのだろう。

 そんな疑問を破ったのは、美波だった。ぷぷっと勢いよく、口から空気を吐き出すと、もう耐えきれない。どにかしてと言いながら、抱腹絶倒していた。そんな美波を横目に、灰本はさらにガックリと肩を落として、寝言は寝てから言えと、いっている。もう、話す気力もないとばかりだ。

 私は眉を顰めるしかない。

 これは一体、どういう状況。

 私一人、蚊帳の外に追いやられてしまったような気分だ。ぱちぱち目を瞬かせて、灰本へ説明を求めるが、石のように口を閉ざしてしまっていて、開く気はないようだった。美波が笑いながら、その役目を引き取ってくれていた。目じりにたまった涙を拭う。

 

「ねぇ、私いつ誠一さんと結婚するなんて、言った?」

「え……違うんですか?」

「当然でしょ? 私の結婚相手は、同じ職場の同僚。誠一さんと私は、ただのお友達」

 その真実に、驚きと恥ずかしさが空から落ちてきて、大打撃を受けるようだった。何ならその衝撃でできた穴に、すっぽり全身入って埋まってしまいたい。

「すみません……私、てっきり……」

「いいのよ。そう見えたのならそれは、それで嬉しいかも」

「嬉しい?」

「そう。だって、私はずーっと誠一さんのこと好きだったんですもの。告白したら、あっさりふられましたけどね」

 美波は、顎に人差し指を当てて、灰本を睨む。灰本は、素知らぬ顔だ。

 美波はちっと、小さく舌打ちして、私へ向き直る。という訳で、今まで誠一さんとは、付き合ったことはないから、安心して。私の耳元で、灰本に聞こえないように囁かれた。ぎょっとして、私は美波を見返す。美波は、いたずらっぽい笑み浮かべ、口の端を悔いっと上げていた。


「もう話したいことは、全部話したな? なら、さっさと帰れ。この後、旦那と会うんだろ?」

「旦那だなんて、気が早いわよ。プロポーズされたばっかりで、結婚式の日取りもまだ決まっていないのに」

 灰本の思惑に乗せられた美波は、頬を赤らめて、顔が溶けだしていく。しかし、途中で乗せられたことに気づいた美波は、咳払いして緩んだ口元を引き締めていた。そして、カツカツとヒールを鳴らして、灰本の横へ回り込む。私にしたようにコソコソと灰本の耳元で囁いていた。話し終える美波は、満面の笑み。一方の、灰本はしかめっ面。一体、何を言ったのか。首をかしげる私に美波は、いたずらっぽい笑顔を向けて、すっと背筋を伸ばしていた。

「これで、報告は全部終わったことだし、退散するわね。柴田さん。今度一緒に飲みましょう」

 ウインクすると颯爽とドアの奥へ消えていった。


 嵐が去った後とは、きっとこういう感じなんだろう。散々かき乱されて、体力を奪われ、呆然としてしてしまう。ちょっと気まずくて、どうにか口を開く。

「……無駄に責めて、すみませんでした。つい、勘違いを」

 苦笑いを浮かべると、灰本は軽く息を吐いた。

「あいつは、妹みたいなもんだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 灰本が、珍しく言い訳がましい言い方をしていて、驚く。それを灰本自身も自覚しているのだろう。頭をガシガシと掻いていて、まぁ、ともかくと、続けていた。

「こっちは、いつも美波に振り回されっぱなしだ」

 恨めしくそういう灰本は、いつもの冷静沈着なものとは程遠いすぎて、思わず笑ってしまう。美波が出ていったドアをみやる。

「でも、いい方ですよね。天真爛漫で、明るくて」

 私が灰本の本心を代弁すると、本人は肯定も否定もせずに、ぱたりとデスクのノートパソコンを閉じていた。きっと正解だったのだろう。

 

「今日の仕事は終わりだ」

「受けた報告、まとめなくていいんですか?」

 いつもだと依頼人が帰ったあと、結果を文書にまとめる。それが習慣化しているのに、珍しいことだ。

「美波のせいで、やる気が失せた」

 建前を述べて、ごそごそと鞄にノートパソコンをしまい込んでいく。

「今日は、飲みに行くぞ」

 突然、そんなこと言いだすのは、珍しいことじゃない。時折ふらりと一人でのみに行ったり、警察時代の仲間と飲みに行くこともあるから、私は頷く。

「じゃあ、私先帰ってますね」

 そろそろ、アパートにも戻らなきゃいけない。灰本の家の荷物をまとめようと考えていたら

「お前も付き合えよ」

 珍しいことを言ってきていた。机の上を片付けている灰本をまじまじと、見つめる。しかし、目を合わせてこない。理由を言う気もないようだ。

 顎に手をやって、ぐるりと考えてみる。

 あぁ、なるほど。すぐ答えは出た。

 妹みたいな存在だった美波が嫁に行くんだから、それなりに感慨深いものがあるのかもしれない。それなら、そうといえばいいのに。灰本の本心は、いつもわかりにくい。

「美波さんが、お嫁にいって寂しいんでしょ? そういうことなら、とことん付き合います。何なら今日は、私の胸をかしますよ」

 ふふんと胸を張る私に、灰本から、これまでに一番長く深い溜め息が漏れていた。

「ごちゃごちゃ言ってないで、行くぞ」

 灰本は、立ち上がって早々にドアの方へ歩いていく。私も急いで鞄を手にして、灰本の横に立っつ。頭一つ分高いところにある横顔を見上げる。

 思いがけず、目がピタリと合って、同時に目を見開き、笑っていた。

 

  


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サラシ屋 雨宮 瑞樹 @nomoto99

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