第52話 報告2
美波はお茶を飲みほす。空になったコップが机に当たって、部屋の中でよく響く。
鬱々となりそうだった気分を切り替えるように、美波はそうだと、手を叩いていた。
「凛さん、翼君のところへ毎日お見舞いに来てくれてるんですって。翼君、今は本当に傷ついて大変だと思う。けど、凛さんが支えとなって、きっと立ち直ってくれると、私は信じてる」
空になったコップをそっと、引き上げる。
私も、そうであってほしいと思う。
辛いこと、苦しいこと。たった数か月の間で、押しつぶされそうなほど沢山あったかもしれない。
でも、二人はこの先の人生の方が、断然長い。この先、手を取り合って、これまでのことを全部忘れてしまえるほど、楽しい時間を作っていってほしい。
生きてさえいれば、いくらでも叶えられるのだから。
流しにコップを置いて、きゅっと蛇口を捻る。シャーっと勢いよく水が出て、すぐにコップはいっぱいになった。
そう。生きてさえいれば。きっと、何だってできる。
スポンジに洗剤をつけて泡立たせる。
私だって、陽菜がいなくなってからというもの、親とは縁を切って、飛び出して、どん底だった。
スポンジでコップ擦る。コップの姿は泡の奥に消えていくけれど、手の感触はそこにある。
大学に通うようになれば新しい風にあたって、鬱々とした感情は、少しずつ和らいでいってくれた。新しい友達もできて、少しずつ前を向けるようになって。そして。
水でコップを流すと、泡は流れて、ピカピカのコップが顔を出した。それをじっと見つめると、自分の顔が細長くうつりこむ。その唇がおかしいくらい、上向いている。
私にとって、灰本さんに、出会えたことが一番の大きな出来事だったのかもしれないな、なんて思う。
昨日、泣いてばかりの私を抱きしめてくれた温もりが、今更頬を熱くさせる。大きく深呼吸して、少しだけ早くなった心拍数を元に戻して、ぶんぶんと首を横に振る。
勘違いしないようにしないと。あの行動は、ただ、私がわんわん泣いているからそうしてくれただけであって、特に意味もないんだから。
水を切って、コップを籠に伏せる。ゆっくりと水が落ちていく。なんだかよくわからないけれど、ため息が零れた。
私が二人のところへ戻ると、美波が灰本のデスクの前に立って、茶封筒を渡していたところだった。
「樹里さんのところ、マスコミが来てるから、なかなか外に出られないの。だから、報酬を代わりに預かってきたわ」
灰本は、それを受け取って、軽く中身を確認すると、眉をひそめていた。
「ずいぶん、大盤振る舞いだな」
お金を前にすると、端正な顔立ちが台無しになるほど、悪い笑みを浮かべる傾向が強いのに。今は、手放しに喜べないといわんばかりの警戒心が、見える。美波もその顔は、心外だと言わんばかりに、言い返していた。
「そんな警戒しなくたって、追加案件はないから大丈夫。今後だって、お世話になるだろうし、私からの感謝の気持ちも含めての報酬よ。特に柴田さんには、これからも仲良くしたいし、彼女へ還元してあげてよね」
ニコニコと、とても機嫌よさそうにいう美波。
「今日は、本当にいい日だわ。翼君のことも、解決方向へ向かっているし、私は私で人生最良の日だし。ね? 誠一さん!」
声を弾ませて、手を伸ばし、灰本の肩をペシペシと叩いている。その顔は、満面の笑みだ。
「美波さんにも、何か嬉しいことあったんですか?」
私が手をふきながらなんとなく尋ねると、美波は、長い睫毛を何度もぱちぱちと動かしていた。
「あれ? 誠一さん、柴田さんに言ってなかったの?」
美波がそういうと、灰本は「何で、俺からいわなきゃいけないんだ」というような顔をしていた。顎を私に向けて突き出し、美波へ「言え」と、指示を出している。
灰本の態度に対して不満そうな顔をしていた美波は、まぁいいかと、すぐに気を取り直していた。
そして、今日一番どころか、私が見た中で一番キラキラした笑顔を解き放っていた。直視できないほど、眩しい。目を細めながら、待っていると。
「実はね、結婚することになったの!」
幸せを抑えきれないとばかりに、美波はぴょんっと飛び跳ねている。一方で、私の思考は、完全にストップしてフリーズしていた。
美波は、本当に魅力的な女性だ。時には美しい大人の女性にもみえるし、時には、とても可愛らしい美少女のようにもみえる。コロコロと顔を変える美波にいつも圧倒されているのは、間違いない。でも、今この状態になってしまっているのは、その理由じゃない。
結婚という漢字二文字の衝撃の方だ。
頭が真っ白になる。飛び跳ねている美波を優しく見守る灰本の瞳と唇も、心なしか弧を描いている。当然だろう。結婚相手が、これほど喜びを爆発させているのだから。夫としては、これほど微笑ましい光景はないはずだ。
ドキドキ、心臓がうるさい。いつもなら、比例して体温も上がっていくのだが、今は急速に体温が下がっているように感じる。どうして、体がそんな反応をしているだろう。自分でもよくわかならないけれど、ともかく何か言わなきゃ。口だけ無理やり動かす。
「お、おめでとうございます! いつ、プロポーズされたんですか?」
顔が引きつらないつらないように、声が上ずらないように気を付ける。
ちゃんと言えてるか心配になるが、幸せ絶頂の美波にはそんなこと、気にならないようだ。頬を染めて恥じらう乙女のような笑みを浮かべている。
「……実は、ついさっきなの。仕事の休憩中に、ちょっと出てきてくれって呼び出されてね。それで、行ってみたらいきなりプロポーズ」
ついさっきという文言で、思い出す。
いつも、ほとんど外出しない灰本が今日は朝から、どこかへ出かけていて、戸締りは私に任されていた。この事務所にさっき来るまで、灰本とはずっと別行動だったというわけだが、そういうことか。
「ロマンチックに夜景を見ながらとか、そういう感じじゃなかったけど、それはそれで、誠意があってキュンとしちゃった」
美波は、頬を赤くしていう。
確かに、いつも冷静で現実主義者である灰本さんには、ロマンチックとかそういうのからは、縁がなさそうだ。何気ない日常で、突然のプロポーズをしそうだ。すべてが納得。
何度も頷いていると、その度に胃がどんどん重くなっていく気がする。なんでだろう?
そんな疑問と一緒に、私は大人、大人。そんなことを無意識に自分へ言い聞かせている自分がいた。
どうして、そんなことしているのか、さっぱりわからない自分自身にいささか疑問を抱きながらも、満面の笑みを作る。心なしか表情筋が痙攣している気がするのも、きっと気のせいだ。
「もう、灰本さん。そういうことなら、早く報告してくださいよ。ちゃんと知ってたら、灰本さんのとこになんか、転がりこんでなかったのに」
私がへらへら笑うと、今度は美波の顔が強張る番だった。
「え……柴田さん、今、誠一さんところにいるの?」
美波の幸せの笑顔は消えて、口に両手をやって衝撃的な顔をしている。
その瞬間、しまったと、思った。私としたことが、何たる失言。
そんなこと言うべきじゃなかった。
結婚相手の家に、いくら同僚とはいえ女の私が転がり込んでいれば、いくら美波でも心穏やかなはずない。自分の大失態を取り消したくて、慌てて首と手を横に激しく振る。
「今回の依頼で、問題が起きて、自分のアパートに戻れなくなったので、緊急事態で仕方なくです! やましいことなんて、当然一切ございませんので、心置きなくお二人幸せになってください!」
早口にまくし立てて、美波の前にまで急いで行って、両手をぎゅうっと握る。
しかし、美波の顔から衝撃は消えることなく、目が落っこちそうなほど丸々とさせるばかり。
ずっと通常運転だった灰本の顔の中心にも、大きな皺が寄っていた。
よくも美波へ誤解を与えてくれたなと、圧を感じるのは、気のせいじゃない。
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