第4話 青森

 みゆきよりも年寄りのカローラは快適に走り続ける。

 やはり国産車はいいと思う。今、乗ってる車はカイマンだけど、お金も無くなったので、次は国産中古車にしようと思う。例え8万キロを走った後でもこうして走り続けられるのだから、などと関係のないことを如月は考える。

 車窓は夕暮れだったのが徐々に漆黒に変わり、今や夜を迎えている。時刻はすでに午後8時近い。今は車の運転を淵がしている。

「如月さん、思ったより順調に来れたな。作戦変更でこのまま新幹線に乗ったほうがいい」

「ああ、そうですね。これだと十分間に合いますね」

「やつらがどこまで追いかけて来てるかはわからないが、青森の宿も感づかれているかもしれない。裏をかく意味でもいいと思う」

 淵が言うやつらとは、警察なのかそれとも別のものなのかはわからない。

「こちらの動きは読まれてますか?」

「どうかな。車で移動していることを気付いているかどうか。まあ、新幹線やフェリー乗り場では待ち伏せされているだろうな」

「警察ですか?」

「そうだな。それ以外も・・・」

「それ以外ですか?」

「その瓶が何かはわからないが、世界を変えるものなんだろ、であれば狙ってるやつらは海外の組織になる」

「そうですか・・・」

「成田で俺の顔も見られているからな」

 もし、先ほどから淵が言うような相手だとすれば、いったいどういう相手なのだろうか。そしてどこまでこちらの情報が把握されているのかが不明だ。ただ、この淵と言う男はそこまでのリスクがわかっているということだ。元自衛官としかわからないが、そこまでの人物だと言わざるを得ない。

 車は青森ジャンクションで高速を降り一般道に入る。淵は用心深く車を進めている。周囲に注意を払いながらの運転だ。みゆきは後部座席でさっきまで寝ていたようだが、新青森に着いたことでむっくりと起きだした。

「みゆき、これから新幹線に乗ることになった。今晩中に北海道に行く」

 みゆきが真剣な顔でうなずく。いよいよ目的地が迫ってきている。


 新青森駅は新幹線用に作られた駅である。よって駅舎自体は新しいが周辺はそれほど開けている訳ではない。田舎に真新しい駅だけが出来ているといった様相だ。周囲にはレンタカー屋やホテルがあるぐらいで、繁華街といったようなものはない。

 駅近くの駐車場に車を停める。

 まず、淵が降車して周辺を確認する。街灯も少なく薄暗い場所だ。

「如月さん大丈夫そうだが、俺が合図してから降りてくれ」

 淵はこちらが考えている以上に用心深く行動をしている。彼が恐れている相手と言うのはそれほどのものなのだろうか。

 淵が周囲の様子を確認している。何か映画で見たような動きをしている気がする。ああ、多分、戦争映画か何かだった。なるほど淵は元自衛官か。

 その淵が手を上げる。こっちも兵隊になった気分で降車する。

 如月は車から降り、何気なく振り返る。シルバーのカローラがちょこんと停車している。もう再びこの車に乗ることはないのかもしれない。

 そして淵についていく形で3人は駅に向かう。

 駅周辺にも人はいなかったが、構内も時間が遅いのかほとんど人がいない。みどりの窓口はすでに閉まっていた。ここには駅ビルもあるようだが、シャッターが下りており、ほとんどの店舗がすでに営業終了しているようだった。

「悪いが時間が惜しい。如月さんは次の新幹線3人分の切符を買ってくれ。席は離れて座ろう。それと売店があるだろうから、夕飯は弁当かなんか買ってくれ、車内で食べよう」

「わかりました」如月はみゆきにお金を渡す。

 如月は自動券売機で42分発のはやぶさの切符を現金で買う。今までと同様にカードでの購入履歴を残さないためだ。淵は相変わらず周辺を監視している。

「なんとかここまで来れましたね」

「ああ、まずは北海道まで行くことが重要だ。おそらくどこかで待ち伏せされているだろう」

「新幹線にいますか?」

「多分、マークされていると思う。待ち伏せされている場所がどこかってことだろうな。一番、あやしいのは函館北斗駅だと思う。終着駅はそこしかないからな。数名が張り付いているだろうよ。警察は間違いなくそこにいるだろうし、やつらもそこにいるよ」

 なるほど、これからが大変ということか、しかし、目標の明日より早く現地に着けるのは良かった。函館まで行ければ札幌に行く手段は多くなる。車ででもほかの交通機関を使ってでも行ける。

 如月は淵に言われたように売店で物色する。そしてふと考える。そういえばこれまでまともに食事をしてこなかった。朝はパンを食って、昼もサービスエリアで軽食だった。明日を終えれば北海道の海の幸でも食えるのだろうか、などとどうでもいいことを考える。

 売店にあった海鮮弁当を買った。もしかしてこれが最後の晩餐になったりしないだろうな。みゆきはまた総菜パンのようなものを買っていた。みゆきは今日一日そんなものばかり食べている。身体によくないと心配になるほどだ。今時の中学生はみんなそうなのだろうか。

 淵さんが近づいてきて、「さあ、行こうか」と言う。いよいよ最後?の試練が始まる。


 目黒署の捜査会議後、残った保科と清水係長、冷泉とで打ち合わせをしている。保科の出発前に清水がこれまで判明した情報を伝えている。

 一通り話し終えて、「じゃあ、ここで筋読みの保科の考えを聞こうか?」

 清水の筋読みと言う言葉を、冷泉が不思議そうにしている。それを見た清水が補足する。

「保科警部は事件の筋読みを得意にしててね。今までもそういったことで結果を出してきている。仲間内では筋読みの保科と呼ばれている。まあ、必ずしも彼の読み通りと言うわけでもないが、やみくもに捜査してもいいことはないから、方向性を探る意味でも参考にはなるんだよ」

 保科はあえてその説明はいらないというように話しだす。

「それなんですが、今回の事件は秘匿事項が多すぎますよ。何ですかさっきの捜査会議は、あれじゃあ何も見えてこない。実際、捜査する気があるのか疑いますよ」

 清水も痛いところを突かれたという顔をしながら、「確かにそうだ。言えないのか言わないのかも含め、こっちはさっぱりわからない。管理官もよくわかってないみたいだったな。いや、実際、警視総監と話をした時もそんな感じだったよ。何故か奥歯にものが挟まったような言い方だった。なぜ、そうなのかはわからんがね」

「つまりは警察自体が何もわかっていないということですよね。いったい、何事なんですか」

「うん、そうだな。で、筋読みだ。どう思う?」

 保科は自分の考えをまとめるように話し出す。「これは全く根拠のない話です。俺もそういったことがあるのか疑問はありますが・・・、例えば某国の組織、それは犯罪組織かもしれませんが、そういった組織が絡んでるとすると、話が見えてきませんか、そしてそれは国家を揺るがすような事件性を孕んでいる」

 冷泉が目を丸くする。元々目が大きいので余計に大きくなる。

 清水が興味深そうに聞く。「ほお、なるほど、それで?」

「そういった情報を日本国の代表が、どこからか入手した」

「随分、大きな話になったな。つまりは首相か?」

「まあ、そうしましょうよ。それで長官や警視総監に指示を出したんじゃないですかね」

「如月を確保しろってか?」

「そうです」

「なんでだ?」

「何でですかね・・・」

「何だ、そりゃ」

「いや、如月が警察から逃げてる理由がわからないんですよ。それがわかれば何か見えてくる気がするんですがね。とにかくその件を棚上げして、柴が組織に殺されたと考えると話は繋がります」

「つながるってどういう風にだ」

「その組織は柴が生きていると困るんですよ。何かを知っているのか、あるいは持っていたのか、その両方かもしれません」

「ふーん、じゃあ、それを今は如月が持っているっていうのか」

「そうです。これまでの色々な状況を整理すると、そう考えると辻褄が合う気がします。今回の事件の発端は、その組織は柴が持っている何かを探していた。そしてそれを知っている柴を抹殺することも使命だった」

 保科の話を受けて、うなずいていた冷泉が手を上げる。清水が促す。

「私も同意します。保科警部の言うように、柴の荷物から無くなったと思われるものが不思議でした。そう考えるとノートパソコンと化粧品の液体だったような気がします」

 その言葉に保科がはっとする。「ホテルに化粧水の類が無かったってやつか?」

「はい、ホテルにあった柴先生の荷物から液体がなかったんです。液体が組織の目的だとすると納得できます。女性にしてはおかしいと思っていました」

 なるほど、ホテルで冷泉が言っていた化粧品関連で無かったものは液体か、犯人側はそれを探しているということか、保科はそれで見えてくる。

「だとすればそういうことになるな。液体か・・・清水さんホテルの防犯カメラは確認してるんですか?柴の部屋に出入りしたものが怪しいです」

「ああ、それについては確認済だと聞いている。怪しい人物は映っていなかったらしいが、わかった、再度詳細を確認してみる。それでこれからだが、保科達はどうする?」

「もう一つの鍵はやはり北海道だと思います。臭いのは北大なんですが、宮本が確認したところ、先方は知らなかったと言っています。これをどう判断するかなんですが、柴の方であらかじめ連絡することを避けていたと考えると、この辻褄も合います」

「避けていた?」

「ええ、北大に迷惑を掛けたくなかったということです。行く事が分かれば次に狙われるのは大学関係者になります」

「まさか、そんなことあるのか?」

「それを裏付けるのが、今日、発表するはずだった柴の講演内容です。これも主催者にはあらかじめ連絡していなかった。つまりはその内容が重大なものだということじゃないでしょうか、あらかじめ公開できないようなものということです」

「情報漏洩を嫌ったということか」

「そうです。さらにロンドンの柴の研究室で火事があったと聞きました。それも組織側が証拠隠滅を図ったとみることが出来ます。実は研究所でも彼女の研究内容の詳細は誰も知らなかったそうです」

「研究所なのにそういったことがあるのか?」

「機密情報が多い研究の場合は、そういった事例もあるそうです」

「いったいどんな研究内容なのかな」

「内容はともかく、そう考えると如月たちは北大に向かっていると考えるのが、適当だと思います」

 清水は考えこむ。ここでさらに保科が何かに気づく。

「ああ、今、ひらめきました。ここからはもっと推測です。まったくの勘と言ってもいい」

 清水と冷泉が保科の話を待つ。

「如月は急いでいるのではないでしょうか」

「急いでいる?」

「ええ、時間的な制限があるような気がします」

「タイムリミット、なんでそんなものがあるんだ?」

「一つは柴の行動です。彼女は講演の後、すぐに北海道に行こうとしてました。通常、講演の後にはシンポジウムなどの催しがあり、会談も行われるそうです。ましてや柴は世紀の大発見を発表するわけです。講演後には大騒ぎになったでしょう。当然、それについての質疑応答も多々あるはずです。それをやらずに北海道に行くということは、時間制限があったということじゃないでしょうか」

「なるほど。それだと辻褄は合うな」

「そう考えると、如月たちが警察に相談せずに行動している理由がわかります」

「警察に捕まって話をする余裕もないと言うわけか」

「少なくとも聞き取りで一日はかかるでしょうから」

「事情を説明すればわかるだろう?」

「全部が全部、清水さんみたいな警察関係者じゃありませんから、俺が言うのもおかしいですけど」

「じゃあ、警察も如月の意見を聞き入れて、協力するといった姿勢を見せればいい訳か」

「そうなります。警察がどこまで協力できるのかはわかりませんがね」

「そうだな。確かに保科の言う通り、警察組織の全員が物分かりがいいやつばかりじゃないからな」

 清水が城所管理官の方を見る。管理官は何人かの刑事から質問を受けているが、いつもの煮え切らない態度に終始しているようだ。

「それで、航空機を使う場合、空港は数か所ありますが、羽田で乗らなかったことを考えると他の空港を使うことはまずないだろうと思います。飛行機は動向が露呈しやすい。となると車を使っての移動の可能性が高いわけです」

「いや、だったらポルシェで移動しないか?」

 保科はにやりとする。「ポルシェは足がついてます。Nシステムを使えば一発です」

「なるほど、如月はそこまで考えているのか、それで車を放棄したということか、それならレンタカーか」

「そうです。レンタカー屋を洗うか、もしくはサブカーがあったのか」

「如月にそういった車はなかったよな」

「そうですか、じゃあレンタカーになりますかね」

「わかった。そこは別途当たってみる」

「車を使ってとなると、北海道にはフェリーで行くしかないです」

「そうだな」

「フェリーは青森と大間から函館行になります」

「じゃあ、フェリー乗り場で待ち伏せればいいのか?」

「そうですね。大間からだと便数は少ないですが、青森は定期的に出ています。ただ、4時間以上かかります。ですから両方の乗り場で確認するのを、青森県警にお願いすればいいと思います」

「わかった」

「管理官に伝えてもらえますか?」

「ああ、気が重いが伝えるよ。それで保科はどうする?」

「実は私はもう一つの可能性、途中の駅で新幹線を使うのではないかと思っています」

「それはどういう理由で?」

「ええ、まず、如月が急いでいるという点です。期限はわかりませんが、それこそ1分1秒も惜しむ勢いです。新幹線であれば1時間で北海道に渡れます。それと便数も多い」

「なるほど、それも一理あるな。じゃあ、駅の警備も含めて管理官経由で青森県警にお願いすることにするよ」

「はい、お願いします。私は冷泉巡査長と函館に行きます。もし、青森県警が見つけられなくても我々が函館にいれば、その後もなんとかなると思いますので、函館は北海道のキーステーションですから」

「わかった。そうしてくれ」

 見ると冷泉はスマホで航空機の時間を調べている。

「保科さん、羽田、函館行を取りました。14時発16時着です」

「ああ、ありがとう」さすが、この娘は宮本とは違う。うちに欲しいぐらいだ。

 保科と冷泉は清水と別れて、急いで駅に向かう。冷泉が保科に話しかける。

「生意気なことを言いますが、保科警部はすごいです。推測とおっしゃいましたが、すべてが理に関っています。素直に尊敬します」

「そうかな、外すことも多いんだよ。まあ、冷泉よりは経験があるからな」

「私もそうなりたいと思います」

 お世辞も多分にあるのだろうが、こういった態度も宮本とは違うと思った。あいつもこれぐらいお世辞が言えれば出世が見えるのにな、などと関係のないことを思う。


 如月たちはエスカレータで2階に上がり、新青森駅の新幹線改札近くに来る。すると先頭を歩いている淵が、如月達を手で制して止める。

「改札口付近に警察がいる」

 如月が改札を見ると、たしかに改札口付近に人がいる。改札口脇とその奥にもう一人背広を着た男がいる。あれが警察なのだろうか、普通のビジネスマンに見えなくもないが、淵にはそう見えるのだろうか。ただ、彼が言うのだから間違いはないのだろう。これまでもこの男の洞察力には一目を置いている。

「さて、どうするかな。ここで待っていてくれ、俺が騒ぎを起こしてみるよ。その隙に二人は離れて改札に入ってくれ。入場は普段通りで構わない。防犯カメラには映るだろうが、すぐに函館まで着くから、気にすることはない」

 如月とみゆきはうなずく。淵の言うことはこれまでも間違いがなかった。彼に従うのが賢明である。

 さて淵はどうするんだろうと見守る。すると一人でいきなり改札まで走っていくではないか。如月はぎょっとする。まさか襲撃でもするのか。淵が突然、叫び声をあげた。

「大変だ。警察を呼んでくれ!そこで人が倒れている」

 淵は我々がいる場所とは反対側の、在来線乗り場の通路を指さしている。

 改札脇にいた男がびっくりして淵に近寄る。さらに構内にいたもう一人も改札を越えてやって来る。淵が息を弾ませながら話す。

「その先の通路に男女二人が倒れているんだ。駅員か警察官を呼んでくれないか!」

 おお、実に真に迫った演技力だ。俳優の勉強でもしたことがあるのだろうか。

 すると手前の男が、「我々は警察だ」という。

「え、ああ、それはよかった。その先なんだ。急いで来てくれ」

「わかった」そういうと二人の私服警官は淵の後に続いていく。やはり警察官だった。

 なるほど、このタイミングかとみゆきを先に行かせ、遅れて如月も改札を通っていく。そこに駅員もいるが、先ほどの倒れたという人間の方に関心があるようで、如月達を見ることもなかった。

 そして如月達は何事もなくそのまま新幹線のホームに着く。

 みゆきは今の冒険で興奮したのか顔がほてっている。

 如月が言う。「淵さん大丈夫かな?」

「大丈夫だよ。淵さんだもん」みゆきが素直に答えた。

 如月はみゆきとスムーズに会話できたことにちょっとびっくりするが、何かほっともした。なるほど淵さんを介すと二人の会話が和む。彼はまさにヒーローになっているのかもしれない。

 如月が周囲を見渡すと新幹線のホームにはほとんど人がいない。この時間だと新青森から乗る人は少ないということか、さらにあやしげな人間も見当たらなかった。

 しばらく待つと淵が来た。やはり素早くホームの状況を確認している。

「大丈夫でしたか?」

「いやあ、ほんとに通路に人が倒れてたんだけどな。いなくなっちゃったよ」

 そう言って笑った。如月達も笑顔になる。この男はすごい人だ。警察も簡単に煙に巻いてしまう。

 淵はホームの安全を一通り確認したのか、話し出す。

「この調子だと函館にいる警察官はもっと多いな」

「どういうことですか?」

「警察の動きに変化が起きたことは間違いない。本腰を入れてきたということかな。この様子だとおそらく、捜査本部もできて広域捜査に移ったとみるべきだな」

 なるほど、そういうことなのか、いよいよ如月の殺害容疑が高まってきたということか、だとすれば何としても逃げきらないとならない。美月の願いを叶えるために。

 ホーム上に新幹線到着の案内が流れる。

 先頭の形状が豚の鼻のように、妙に愛嬌のあるはやぶさ39号新函館北斗行が、新青森駅に到着する。


 保科と冷泉は函館空港でレンタカーを借り、新函館北斗駅に着いた。ここで北海道警察の担当者と会うことになっている。現在時刻は18時だ。周辺は徐々に薄暗くなってきている。

 新函館北斗駅は新幹線用に在来線の駅を作り直した駅で、畑の中に忽然と真新しい駅が存在している。周辺にはそれなりにホテルなどもあるが、人通りは少ない。駅舎は全面ガラス張り黒色の建物で、それこそ近代的ではあるが、周囲ののどかな風景とマッチングしているとは言い難い。

 駅を前にして保科が話す。

「冷泉は函館は初めてか?」

「ええ、北海道は何度か来てます。ただ青函トンネル経由の新幹線には乗ったことがないです」

「まあ、そうだな。今は飛行機が一般的だからな。俺は学生の頃、夜行列車で来たことがある。まあ、通っただけだけどな。もちろん、新幹線なんて影も形もない時代だからこんな近代的な駅は無かったな」

「ここに新幹線が通ったのは平成28年ですよね」

「そうだったか、俺にはついこの前のような気がする」

 保科はスマホを出して電話をする。

「成田警部ですか、警視庁の保科と申します。今、駅に着きました」

 保科が道警の担当に電話をする。

 しばらく待つと駅の方から男が近づいてくる。歳は保科と同じぐらいか、ただ、赤ら顔でお腹周りがパンパンで中年太りがすごい。北海道はご飯がおいしいのだろうか。

「道警の成田です」

「保科です」「同じく冷泉と申します」

 成田は若い女性警官に少し驚く。

「捜査一課の女性刑事さんですか?」赤ら顔が遠慮なく聞く。

「いえ、私は目黒署刑事課に勤務しています」

「なるほど、捜査本部のある目黒署の刑事さんですね。ご苦労様です」

 成田は冷泉を遠慮なく見続けるが、保科が仕事の話に戻す。

「それで現在はどんな状況ですか?」

「ええ、昼頃から待機していますが、今のところ、それらしい人間は見当たらないです。一駅手前の木古内駅にも数名配備させていますが、同じです。まあ、あそこは駅が高架になってますから、逃げようがないと思っています。あそこで降りればまさにこちらの思うつぼ、一網打尽です」そう言ってにやりと笑う。

「そう思います。ですので、私もやはりここではないかと思っています」

「そうですね。それと乗ってるとすれば、時間的にこれから着く新幹線の可能性が高いと思いますよ。おそらくこの後の新幹線が臭い気がします」

「だとするとあと3本ですね。19時、21時、最終が23時です」冷泉が補足する。

「なるほど」保科も時間は抑えてあった。

「それにしても何事ですかね。これだけの人員を使って大捕り物をやるのは久々ですよ。在来線の改札だけではなく、駅周辺にも人を配置させています。新幹線経由の可能性が高いんですか?」

「そうですね。フェリーの可能性もありますが、私は新幹線だと踏んでいます」

「それと凶悪犯なんですか?写真で見た感じ普通の勤め人に見えますね」

 道警側がそう思うのも無理はないとは思う。

「実際、我々もここまで如月の確保に力を入れる理由がわかっていないんですよ。上の方針だそうで、ただ、如月は犯人ではないようで、保護対象という意味合いが強いようです」

「え、そうなんですか?じゃあ誰かに狙われてるんですか?」

「いえ、正式な話ではないです。単なる私の憶測ですから気にしないでください」

「そうですか」成田は腑に落ちないといった顔をする。保科もそうなのだから、道警のほうはさらに意味が分からないだろうと同情する。

「ああ、それで保科さん、どうされますか?そちらで待機場所に希望はありますか?」

「そうですね。我々は特定箇所ではなく、駅構内を数か所、移動しながら見回るという形でよろしいですか?」

「はい、けっこうです。警視庁の刑事さんが回るということを連絡しときます。ひとりは別嬪さんということで」

 冗談で言ったのだろうが、十分セクハラ発言だなと保科は腹の中で苦笑いする。道警だとあまりそういう意識はないのか、はたまた、この男が迂闊なのか。

「ありがとうございます」

 それから保科と冷泉で駅構内やその周辺を見回る。

 しかし、成田はなんといって連絡したのだろうか、道警の連中は興味深そうに冷泉を見る。確かに女性警官としてはイケてる感じではあるが、芸能人でも見る勢いだ。そんなことはどこ吹く風と冷泉は歩いているが。

「ここだと新幹線から先は、在来線改札を通るしかないですよね」

「後は強引にホームから逃げる方法もあるが、それは難しそうだな。これだけの警察官が待機している。間違いなく確保できるはずだ」

「はい、私もそう思います」

「ちょうど、41分着の新幹線が来る。ホームで待機するか?」

「わかりました」

 保科達は新幹線のホームに向かう。

 そして、はやぶさ31号が到着した。保科達が身構える。果たしてこの車両に如月は乗っているのか。

 新幹線の自動ドアが開き、乗客が次々と下車していく。

 3月のこの時期、北海道新幹線の乗車率は低いようだ。全部で10号車あるが乗客は多くない。トータル200名以下ではないだろうか。

 この人数だと簡単にわかるな。中学生の女の子と40歳ぐらいの男性ペアだ。離れて降りるのかもしれないが、顔写真も配布されている。まず間違いなく確保できるはずだ。実際、乗客にそういった女の子は極端に少ない。今回の乗客でも数人もいなかった。

 そしてその中に柴みゆきはいなかった。


 如月達が乗った新幹線の車内は空いていた。おそらく乗車率は20%を切っているのではないか。如月にしても北海道新幹線には初めて乗る。よってこれから通過する青函トンネルも初体験となる。

 はやぶさ39号は、二人掛けと三人掛けの座席がある一般的な新幹線と同じ配列になっている。淵の提案で三人の座席は少し離れて一人ずつで座っている。

「車掌の検察はないはずだ。もしあった場合は俺が指示する。その時にはみゆきちゃんは目立つから隠れたほうがいいな」みゆきがうなずく。

「まあ、大丈夫だよ。心配しないでもまず来ない」

 みゆきはそれで笑顔になる。

 如月は座席に座ると、先ほど買った駅弁を食べ始める。

 このまま、北大まで何事もなく行ければいいが、何か得体のしれない不安を感じる。淵の言う相手とは誰なのだろう、そしてあの液体にはどんな秘密があるのだろうか。

 これまで美月からは何の連絡もなかった。いかに別れた夫でも、命を懸けて運んでもらいたいものがあるのならば、あらかじめ相談してほしかった。それともそんなに頼りがいのない男だと思われていたのだろうか。

 美月はロンドンに行ってからは、以前と比較してもさらに疎遠となったが、それでも普通の離婚夫婦よりもコミュニケーションはあった方だと思う。それこそ喧嘩別れと言うものでもないし、如月の浮気が引き金にはなったが、どうしようもないほどお互いに嫌いになったというものでもなかった。ただ、これまで美月の研究についての話は聞いたことがなかった。

 今にして思えば、このところの美月は以前よりも一層、切羽詰まった感があったように思う。連絡があっても事務的なものが多く、個人的な話は影を潜めていた。もっとも如月にしても、このところは会社の譲渡騒ぎがあり、それどころではなかったこともある。

 さらに如月はどこかでみゆきに、これからの話をするべきだと思っていた。淵に言われたこともあるが、みゆきとはしっかりとした関係性を作って行かないとならない。さらにこの先、自分がどうなるのかもわからない。美月のように殺されることだって十分考えられる。ましてやみゆきがそうならないとも言い切れない。

 ただ、みゆきにどうやって自分の気持ちを伝えればいいのかがわからない。うまく話が出来る気もしないし、聞いてくれない可能性も高い。これまでのみゆきの態度を見ればそうとしか思えなかった。

 如月は悩む、ここで話をしなくてもいいのか、あとにまわすか・・・なぜか美月の顔が浮かぶ、まったくあなたはいつもそう、問題を先送りして真摯に向き合おうとしない、だから駄目なのよ。

 如月は弁当を置き、今しかないと決断する。

 席から立ち上がって、前の席に座っているみゆきに声をかける。

「みゆき、ちょっといいか?」

 みゆきが眠そうな顔で如月を見る。そしてやはり急に険しい顔になる。みゆきの返事がないのでいいものと判断し、みゆきの隣に座る。みゆきが居住まいを正す。俺を警戒しているのがわかる。

「ちょっとだけ、俺の話を聞いてほしい」

 みゆきは俺の方を見ない。暗くて何も見えない車窓に目をやっている。

「これからどうなるかもわからない。先が見えない。だから今のうちにはっきりと言っておく」

 如月の真剣な声掛けにやっとみゆきもこちらを見る。

「父さんは今までみゆきに父親らしいことをしてこなかった。それについては謝る。離れていたから離婚したからなんて言う気はない。父親失格だと思う。ごめんな」素直に首を垂れる。

 みゆきは黙って聞いている。

「それで重要なのはこれからの話だ。今、父さんは会社も無くして貯金もそんなにあるわけじゃない。みゆきが満足するようなことが出来ないかもしれない。

 だけどな・・・みゆきを精一杯支えていく。みゆきがやりたいことが出来るようになんとしても頑張る。父親らしいことをしてこなかった分、なんとしてもやる決意だから安心してくれ、みゆきが不安に思うことは何もないんだ」

 如月は今の思いをそのまま伝える。

 みゆきは聞き終えると、如月から顔をそらして車窓を見る。新幹線はいよいよ青函トンネルに入って行く。

「私、東京に戻ることになるのかな」

「できればそうして欲しい。父さん英語が話せないからな」

 みゆきは如月を見て、笑顔ではないが少し柔和な顔をする。

「とにかく、これからはみゆきに向き合って話をするよ。ああ、今までの父さんの失敗は人としっかり向き合ってこなかったからだと思ってる」

「あんまり干渉されても困るんだけど・・・」

「干渉する気はないけど・・・話し合わないとほんとのところはわからないだろ、わかるまで話し合いたいんだ。それと、とにかくみゆきの人生はみゆきのものだから、それを支えていくから。そのために必要だったらいやでも話をさせてもらうよ。みゆきが嫌がってもね。父さんはもう後悔したくない」

 実際、如月の偽らざる気持ちだった。もう後悔だけはしたくはなかった。みゆきが軽くうなずいた。

「それと、もうひとつ大事なことを言うよ。当たり前のことだけどはっきり言わせてもらう。父さんはみゆきが大好きだ。みゆきには幸せになってもらいたい」

 みゆきは如月を見ることはなかったがうなずいた。

 新幹線は轟音とともに海の底を走り続ける。

「このトンネル長いね」

「海の底だからね。大体50㎞ぐらいあるみたいだ」

「そうか・・・」

 言いたいことを伝えられたのかはよくわからないが、話すべきことは終わったと思い、如月は自席に戻る。

 さあ、この旅が終わってからが大変だ。どうやって食っていくのかを考えないと、全くの無一文状態まで、いまや数カ月分の貯金しかない。今、みゆきに言った言葉はまさに自分を律する意味もあった。淵に言われたように自分を変えていかないと、そしてみゆきに言った言葉どおりに行動するしかないのだ。


 保科達は次の新幹線が到着するまでに時間があることから、夕食を取ることにした。ここで食事できる場所は限られているようで、駅にあるイートスペースで弁当を食べることにする。冷泉はサンドイッチ、保科は幕の内弁当を食べる。

 冷泉の申し訳程度のサンドイッチを見て、「冷泉はそんなもので足りるのか?」

「私、夕食はあんまり取らないんです。でも朝はしっかりとるようにしています。日中は食べられないことも多いので」

 なるほど、その点は所轄も本庁も似たようなものか、保科も昼は時間も無く、麺類をかきこむことが多い。

 冷泉がサンドイッチを上品に食べているのを見て、ふと考える。まるでどこかのコマーシャルにでも出ているような雰囲気である。それにしても冷泉ほどの美女がなんで刑事になったんだろう。

「プライベートな話だから、答えなくてもいい。冷泉はなんで刑事になったんだ?いや、こういってはなんだが、優秀だし、キャリアにでもなれそうな気がするんだが・・・」

 冷泉はサンドイッチを食べるのを止め、ウーロン茶を飲んでから話をする。

「元々、刑事希望だったんです」

「ああ、そうなのか」保科は不思議そうな顔をする。女性で刑事志望とは。

「最初は多摩地区の所轄に居たんですが、今年になって目黒署に異動になりました」

「ずっと刑事課だったのか?」

「最初は地域課でしたが、3年目からは刑事課になりました」

「そうか、いや、女性で刑事課希望というのも珍しい気がしたんでね。それになんだか、芸能人にでもなれそうな雰囲気だろ。ああ、これセクハラか」

 冷泉が笑顔を見せる。「保科さん内緒にしてもらえますか?」

「え、何だい?」

「私、大学生の頃にモデルやってたんです」

 その話で保科ははっとする。ああ、この女性を見たことがあった。

「もしかして茉莉華?」

 冷泉が舌を出す。「はい、そうです」

 茉莉華は10年近く前だが、一世を風靡したモデルだ。たしか女優業もやっていて相当な人気だったはずだ。そういった情報に疎い保科でも知っている。

「いや、それはびっくりだな」

「すいません。若気の至りです」

 保科は冷泉の過去にはあえて聞かないことにした。おそらくそういった華やかな世界から刑事になる理由はあるはずだ。それを聞くのは野暮だと思った。

「しかし、今回のような事件は初めてだろう?」

「もちろんそうです。殺人事件なんて所轄でも滅多に起きませんから、それも背景が見えない。不思議な事件です」

「確かにそうだな。俺にしてもここまで訳が分からない事件は初めてだ。怨恨でもない、金銭目当てでもない。犯人の目的が分からない」

「ああ、それなんですが、保科さんのいうように犯人は国家的な組織じゃないでしょうか」

「そう思うか」

「ええ、柴先生の研究成果が世の中に出ては困るのかもしれません」

「製薬会社が絡んだなにかの陰謀かな?」

「そうですね。製薬の世界はそれこそ新薬なんかでは莫大な利益が上がります。犯罪まではどうかと思いますが、産業スパイなどは日本でも頻繁に聞く話ですよね」

「柴先生は微生物の研究らしい」

「微生物ですか、どういった内容かわかれば保科さんも筋読みできるのではないですか?」

「いや、それはどうかな。理系はまったくわからないな。いや、文系でも同じか」

 保科は照れ笑いをする。

「殺人まで犯してますから、それも事故に見せかける手口から言うと、相当な組織犯罪だと思います」

「ひょっとすると007みたいなやつかい?」

 保科が笑いながら言う。しかし、冷泉は笑顔を見せずに答える。

「ええ、あながちない話ではないかと・・・」

 保科の笑顔が凍り付く。

 実際、保科もそういった考えがない訳でもなかった。しかしそれだと警察機構の範疇を越えていることになる。日本でそういった犯罪を専門に扱う部署はまだない。海外の組織犯罪は公安が担当するが、それはスパイ活動の防止程度の仕事が主流だ。あっても麻薬の密売や犯罪組織絡みのものだ。国家的な組織犯罪の経験はこの国にはほぼないだろう。

 保科が時間を確認する。そろそろ次の新幹線の到着時間が近づいてきている。

「そろそろ行くか」

「はい」

 立ち上がりながら、保科が話す。

「それとこれは俺の勘だが、逃げているのが如月と娘だけではない気がする」

「どういうことですか?」

「いや、単なる親子がここまで周到に動けるだろうか、手助けしている人間がいるんじゃないかと思うんだ。とても一介の経営者の動きじゃない」

「ああ、確かにそうですね。同意します」

「だとすると、ここに着いたとしても何か策を持ってる気がするよ」

「なるほど、普通に下車するとそれこそ一網打尽ですよね。変装するとか、何か方法を考えますかね」

「だろうな。さてそうなるとどうするんだろう。それと冷泉の言う相手方の組織はそれに対してどう動くんだろうな」

「そうですね。ここまで警察が動き回っていたのでは、何もできないはずです。それこそ007のようにドンパチやりますかね」

 すると保科が真顔で冷泉に確認を取る。「冷泉は拳銃を携帯してるよな」

「はい、今回は所持許可をもらっています」

「まあ、そうならないことを祈るよ」

 保科も長い刑事生活で拳銃を持ったことはあるが使ったことはない。もちろん射撃訓練は定期的に行っているが、実際に実務で撃ったことはない。ほとんどの刑事がそうだ。今回もそう言った事態にならないことを祈るしかない。


 新幹線は暗い穴の中を走り続けている。ここが海だと思うと少し不気味な気がする。津軽海峡の底だ。

 前のほうの席に座っていた淵が如月の近くに来る。

「如月さん、もう少しで函館に着く。さっき両隣の車両までは確認したが、怪しい連中は乗ってないみたいだ。おそらくだが、やつらは俺の携帯もすでに傍受していたのかもしれないな。当初、青森に泊まる予定だっただろ、民泊のほうで待機していたのかもしれない。それが急遽予定変更になった。つまりやつらを出し抜けたのかもしれない」

 なるほど、そういうことかもしれない。如月は少しほっとする。

「ただ、函館北斗駅は警官がうじゃうじゃいるはずだ。さっきの比じゃないだろう。それをどうすり抜けるかだな」

「何か策はありますか?」

「俺がまた騒ぎを起こすしかないと思ってる。その隙に如月さん達は線路から逃げてもらうよ。函館北斗駅は畑の中にあるような駅なんだよ。青森方向のホームから逃げてもらえば畑に逃げ込める。そこは如月さんたちに頑張ってもらうしかない。駅に着いたらすぐに俺が行動を起こす。如月さんも一気に逃げてくれ」

 とんでもない話になってきたぞ。果たしてそんなことがうまくいくのだろうか。すると淵が続けて言う。

「それで、さらに青森方面に逃げると、線路に対しては垂直方向に道路が走ってる。そこに黒のSUVが待ってる。スバルのフォレスターだ。それに田口という大男が乗っている」

「え、そこまで用意してくれてたんですか?」

「大丈夫だ。俺の昔の部下で信頼のおけるやつだから。図体が大きくてプロレスラーみたいだけど根は優しいやつだ」

 淵がいつもの笑顔を見せる。それだけで如月は安心できる。

「ありがとうございます。助かります。・・・それで淵さんはその後どうするんですか?」

「どうだろうね。まあ、俺の役目はここまでだよ」

 淵の話だとここでお別れのようだ。如月は胸に熱いものがこみ上げる。

「淵さん・・・ほんとにありがとうございました」

「後で清算するからね」そう言って笑う。

「もちろんです」如月はもう半泣きだ。

「さあ、そろそろ青函トンネルもおしまいだぞ」

 新幹線はトンネルを抜けようとしていた。これでうまくいくかもしれない。如月はほっとする。さらに淵とは最後になると聞いて話をする。「淵さんは自衛官だったんですよね」

 淵はその話に少し躊躇したようだ。「ああ、若い頃に少しだけだがね」

「どんな仕事をしていたんですか?」

「陸上自衛隊だから、訓練と主に災害救助だよ」

「そうなんですか、何かあまりにスマートに色んなことをされるので、もっとすごい活動をなさっていたのかと思いましたよ」

 淵が苦笑いのような顔をする。あれ、何か言い当てたのかもしれない。

 そう思った次の瞬間、新幹線がすさまじい音を出しながら減速を始める。緊急停止のようだ。車体が大きく揺れるのがわかった。

 淵の顔が曇る。

「何か起こりましたか?」如月が淵に言うも彼は考え込んでいる。

 通常の減速ではない。いったい何が起きたのか。

 車内放送が入る。

『お急ぎのところ誠に恐れ入ります。ただいま、緊急停止信号が発令されました。当車両は臨時停車いたします。状況が確認され次第、ご案内いたします。今しばらくの間お待ちください』

 そしてついに新幹線は完全に停止してしまった。

「やられたな。このままだと身動きが取れなくなるぞ」淵は少し考えた後、「行くしかないな」厳しい顔をする。

「行くって、どこへ?」

「逃げるんだよ。荷物を持ってついてきて。みゆきちゃん行くよ」

 如月はここまで切羽詰まった淵を見るのは初めてだった。おそらく彼にしても想定を超える事件が起きたのだ。心配そうな顔でみゆきが自分の荷物を棚から降ろしている。しかし逃げるってどこへ行くのだろうか。淵はそのまま車両を進んでいくではないか。如月達は仕方なく荷物を持って淵に付いていく。いったい、どこに行くつもりなのか、先頭車両にでも行くのだろうか。

 淵は車両間の通路まで来ると乗降口の方へ向かう。え、なぜ乗車口に行くのか。そして扉上側の非常コックを躊躇なく開けて、それを作動させてしまった。空気が抜ける音とともに扉が開く。扉は開くのか・・・。

「え、出るんですか?」淵がうなずく。「でも、ここから出られるんですか?」

 淵は如月の質問に答えず、車両から降りていく。まさか青函トンネルの中を歩くのだろうか、仕方なく二人は恐る恐る付いていく。

 青函トンネル内の壁沿いには、幅1mぐらいの通行可能な突起が出ている。淵はそこを歩いて行く。どんどん進みながら、振り返ることなく淵が言う。

「避難誘導路があるんだ。そこから北海道側に抜けられる」

「そうなんですか、でも、いったい何が起こったんでしょうか?」

「詳しくはわからないが、新幹線を止めるような事件が起きたということだな。あのまま車輛にいたら捕まるか、時間切れになるかしかない」

 新幹線を止めるような事件とはなんだろうか、如月には全く想像もつかない。

 ここを歩くと当然車両内からも見られるのかもしれないが、淵はそんなことを気にせず、どんどん進んでいく。トンネルは薄暗いが灯りはあるので、歩く分には不自由はしないが、ここが海の底だと思うと良い気持ちはしない。

 少し歩くと、トンネルの壁側に一段奥まった部分があった。そしてそこに非常口がある。

「ここから行く」

 淵がその扉を開けると、その中には遊歩道があった。

 遊歩道はまさに小さなトンネルといった雰囲気で、直径5mぐらいのかまぼこ状になっており、人が歩けるような通路が確保されていた。実際、車が走れそうなぐらいの広さだ。さらに灯も点いていて明るさも十分だった。

「避難誘導路だよ。この先の北海道側に吉岡海底駅って言うのがあるんだ。昔は一般に公開されてたんだが、今は廃止されている。そこまで行くと地上に出られる斜坑がある」

「斜坑ですか」

「ああ、公開はしていないが、そこも問題なく通行できる。青函トンネルで何か起きたときに、乗客が避難できるように設置されているんだ。ここからだとそれほど距離もない。1㎞はないはずだ」

 如月は暗い中を歩くので何か生きた心地がしない。ここは当然、海底なのだろう、後ろを見ると不安げにみゆきが付いてきている。如月以上にみゆきはもっと不安になっているだろう、ここまでの経験は彼女にとって初めてなのは間違いない。

 しかしこの淵と言う男はどこまで物知りなのだろうか、なんでも知っている。まさに頼れる男である。


 保科は冷泉と函館北斗駅のホームで待機していた。

 時計を確認する。次の新幹線の到着は44分、あと15分ぐらいだ。

 ここが終点となるので、ホーム上に乗客はいない。いまやここには警察官しかいない状態だ。保科と冷泉を加えて5,6名がそこに待機している。保科は青森側最後尾に待機していた。

 如月が逃げるとすれば、ここからホームの外に行くだろうという読みである。これだけの警察官である。改札側に行って逃げられるはずはない。それにしてもその後どうするのか、何か策があるのだろうか、気にはなる。

 ホームの中ほどにいた冷泉が保科の近くに来る。

「保科さん、ここから逃げるとして、やはり保科さんのいる最後尾側が最も逃亡しやすいと思います」

「ああ、俺もそう思ってる。その先は畑があるだけだ」

 ホームから外を見ると線路が続いていて、その周辺には大きな建物などは無く、畑が広がっている。

「だとすると、それ以降も考えがあるのではないですか?」

「そう思うが、どういうことかな?」

「その先に一般道がありますよね。ひょっとして仲間がいるようなことはないですか」

 確かにホームから見ると畑の先には南北に走る一般道がある。ここから逃走するとしてそこに仲間が待機しているようなことがあれば、逃げのびることは可能になる。

「そこの道路か・・・」保科ははっとする。

「ええ、私がそこに行ってみていいでしょうか?」

「ああ、そうだな。やってくれ」

「わかりました」そう言うと冷泉は走っていく。

 やはりこの娘は鋭いところがある。保科が考えていることの上を行くではないか。確かに可能性は低いだろうが、仲間がいればそう言った行動もとれるだろう。

 すると突然、ホームに館内放送が流れる。

『ただいま、緊急停止信号が発令されました。はやぶさ39号の到着時間が遅れる見込みです』

 走り出した冷泉が保科のほうを振り返る。いったい何が起きたのだろうか。

「冷泉、まずは指令室に行こう。状況確認だ」

 冷泉がうなずく。

 保科達は駅構内の指令室に走っていく。そこは駅員と警察官たちで騒然としていた。

 道警の成田がいたので確認する。

「成田さん、一体、何事ですか?」

「今、トンネル出口が爆破されました。そこのモニターを見てください」

 指令室内にはモニターが数台、壁面に掛かっており、色々な箇所を観察できるようになっている。その中の一つに青函トンネル出口を映したものがあり、確かに白煙が上がっているのがわかる。

「爆破なんですか?」

「多分、間違いないでしょう、駅員の話によると突然、爆発音とともに白煙があがったようです」

 画面を見るとトンネル自体が大きく壊れているようなものではないようだが、煙が確認できる。ただ、画面も暗く線路の状況まではよくわからない。

「今、JRの職員が現場に確認に行っています。ただ、この状況ですと、しばらくは運行できないでしょうね」

 いったい、どういうことなのか、誰が何の目的でこんなことをしたのだろうか。

「爆発のシーンを巻き戻して見ることはできますか?」

 成田はうなずくと駅員に話をする。北斗駅の責任者らしき人物が、モニター前の機器を操作している。成田が保科に言う。

「今から見せるそうです」

 モニターに動画が映し出される。右上に秒数カウンターらしきものが走り出すのがわかる。トンネル出口の映像だ。山間に出口がある。照明数も多い訳ではないので周囲は薄暗い。すると突然、その下側で爆発が起きるのがわかる。戦争などで見る爆破のように見える。これだとトンネルへの攻撃と言うよりも、線路にダメージを与えるもののようだ。

「爆発物ですね」保科が言う。

「その類ではないかと思います。今、道警も確認に向かわせています」

「わかりました」

 これだと安全確認もあり、新幹線は当分動かないな。保科はふと考える。だとすればこの目的はなんだ。如月達は一秒でも早く北大に行きたいはずだ。つまり、これは足止めを狙うことを目的としている犯人側の目論見だ。次の行動は何になる。保科が気付いたと同時に冷泉も反応し、顔を見合わせる。

「保科さん、如月達が危ないです」

「止まっている新幹線を襲うつもりなのか、あるいは・・・」

 保科が気付く。

「そうだ。青函トンネルには避難誘導路があったはずだ。そこから外に出られる」

「そうです。函館側にそういった施設があったと思います」

「これまでも如月の動きは素早かった。そのまま新幹線で待機とは考えられない。間違いなく外に出ようとするはずだ」

 二人の話を聞いていたJRの駅員が話をする。

「それだったら吉岡定点ですね。昔は駅もありました。今は吉岡管理室になっていて一般公開はしていません」

「でもトンネルからそこには出られるんですよね」

 冷泉の勢いにびっくりしながら駅員が答える。

「ええ、斜坑がありますから、出ることは可能です」

「保科さんそこです」

「わかった。急ごう!」

 保科達は成田に断り車に急ぐ。


 如月達は避難路を急ぐ。コンクリートの壁面には少しづつ水が流れ出している。湿気のせいなのだろうが、あたかも海水が漏れだしているように見えて少し気持ちが悪い。

 如月は後ろからついてくるみゆきを気にかけながら歩く。言っても中学生だ。ここまでの経験は彼女の人生においてこれまでなかったはずだ。母親の死から始まった今回の逃亡劇である。いかに美月の意思を叶えたい一心からとは言え、子供にとっての精神的な心労は計り知れない。

 如月が振り返って言う。「みゆき、大丈夫か?」

 みゆきは青い顔をしてうなずく。ただ息遣いは荒い。

 先頭を歩く淵が振り返って言う。

「吉岡海底駅に着いたぞ」

 確かにトンネルが少し広くなった。そこはここまでのトンネルとは違って、何かの広場のようにホール状になっている。こんな避難路のようなトンネルに広場があるのが不思議な気がする。

 壁を見ると竜宮水族館と書かれた石の看板があった。何か夢の世界にでも紛れ込んだ気がする。

「ここには水族館もあったのか・・・」

 さらにそこには小さいながらもステージがあった。昔はここで色々なイベントも催されていたのだろうか。

 淵が立ち止まる。いつになく真剣な顔だ。

「如月さん、ここからは重要な話だ」

 如月達もじっと淵の話を待つ。

「あのまま待機するわけにはいかなかったから、ここまで来た。間違いなく、この先には奴らがいる。奥さんを殺した人間だ。俺が思うに可能性が高いのは斜坑出口だと思う」

 如月は返事が出来ない。本当なのだろうか、信じられない気もしている。

「人数も読めないが、恐らくは2名から3名程度だと思う。それ以上の人間がここにいるとは思えない。俺たちの動きを完全に掴んでいたわけではないと思うから、奴らもそれなりに分散して行動しているはずだからね。ただ、この新幹線に乗っていることには気づかれたようだ。そしてそいつらがみゆきちゃんの瓶を奪いに来る」

 みゆきは背中のリュックを見る。如月が話す。

「ちょっと待ってください。新幹線を止めるようなことをする奴らがいるんですか?」

「ああ、今まではどこか半信半疑だったが間違いないだろう」

「どういう連中なんですか?」

「うん、多分、訓練された連中だろうな。軍隊に近いのかもしれない」

 如月は訳が分からない。どういうことなのだろうか。

「瓶を狙ってるのは国家的組織だよ。おそらく東西で言うと東側だ。ここまで荒っぽいことをするとなるとね」

「何をしたんですか?」

「新幹線を止めるんだから、爆破予告電話か、もしくは本当に爆破したのかもな」

「まさかそんな・・・」如月は呆気に取られている。

「今や見境が無くなってる。これまでも事故に見せかけたりする犯罪はあっただろうが、実力行使するようになったのは初めてだ。つまりはそこまでしても、その瓶を欲しがってるということだ」

 この瓶には何が入っているのか、何か恐ろしいものを運んでいる気がしてくる。そしてそれをみゆきが持っている。

「じゃあ私が持っていた方がいいですか?」

「いや、みゆきちゃんでいい。あいつらも如月さんか俺が持っていると思うだろうからね。それでここからが重要になる。うまくやらないとすべてが台無しになる」

 淵の珍しく慎重な顔つきに、如月はこれが命を懸けるようなことなのだと理解する。

「やつらはいきなり銃で撃つようなことはしない。これまでも、いや情報機関の連中は証拠を残したがらない。銃弾はそれだけで証拠にもなるし、殺人として立証もされる。場合によっては国家的な犯罪となり、賠償問題にも発展することになる。だから、武器は極力使わない。つまりは素手での格闘になるだろう。その上で事故に見せかける。海に沈めるとかね」

 如月は自分が海に沈んでいく姿を想像してしまう。

「まあ、俺も格闘技はそれなりに出来る方だ。だから相手にも油断があるだろう、そこが付け目だ。こんな爺さんに格闘技が出来るとは思ってもいないだろうからね。実際、二人までならなんとかなるはずだ。相手にもよるけどね。ただ、どうなるかはわからない。

 それで如月さん達は隙を見て逃げてほしい。俺が倒すことができればいいが、もし無理だった場合は隙をみて逃げるんだ」

「逃げるって・・・」

「うん、実は吉岡定点はJRの管轄で、出口近くに送電所がある。そこには職員がいるはずだ。だからそこまで逃げきることができれば、奴らも追っては来れないはずだ」

「送電所ですか、わかるかな」

「大丈夫だ。他にそういった大きな建物はない。50m以内にあるはずだよ」

「わかりました」

 如月はみゆきを見る、彼女も力強くうなずいている。

「それでその後は俺の部下だった田口を呼ぶんだ。俺のスマホを渡しとく、番号は登録済だからそのまま電話してくれ」

 そう言って、淵が如月に自分のスマホを渡す。

「いいか、とにかく俺のことは気にするな。タイミングを見て逃げることだけに集中しろ」

 みゆきは半泣きだ。如月も同じ気持ちだ。淵さんは死を覚悟している。

 淵は本当に心から嬉しそうな笑顔を見せる。

「世界の秩序を変えようじゃないか、奥さんの夢をつなごう」

 一体、美月の夢とはなんなのだろうか、本当にそこまでする価値のあるものなのだろうか。ただ、それを信じていくしかない。彼女の最後の望みなのだから。

「じゃあ、行くぞ」

 淵が再び歩き出す。

 海底駅からさらに避難路が続いており、その先に金網状のフェンスがあった。

 ここが斜坑の始まりのようだ。避難用のトンネルのため、斜坑も緊急時には通れるようにはなっている。そのフェンスは簡単に開けることが出来た。

 斜坑は先程の避難誘導路ほどの広さは無く、直径3mぐらいだろうか、いかにも試験用に作られたトンネルのようである。それが地上に向かって傾斜を持って伸びている。角度はそれほどでもない。スキーでいうと初心者コースぐらいの斜度だ。

 その斜坑にも非常灯があり、先ほどの避難路の蛍光灯ほど明るくはないが、足元も見える。階段とその隣には軌道もある。昔はトロッコでも通行していたのだろうか。階段と軌道の間には柵もあり、問題なく登って行けそうだ。トンネルは地上に向かって真っすぐ伸びており、その先が出口となる。

「淵さんこれはどのくらいの長さなんですか?」

「100mぐらいだと思う」

「どうしてそんなに詳しいんですか?」

 淵は振り返って笑う。「俺は正義の味方なんだよ」

 如月は何故か涙があふれる。こんな状況だけど、確かにこの人は俺たち親子にとっての正義の味方だ。そうとしか思えなかった。

 如月は後ろを歩くみゆきを気遣いながら、上っていく。淵はここでも常に警戒を怠らない。

 もうすぐ敵との遭遇があるという。淵は気にせず逃げろというが、果たしてみゆきを連れて逃げることができるのだろうか、中年真っ盛りの如月は自分の体力に自信がない。この斜坑を登っていくだけでも息が切れてくるのだ。最悪、自分の身を挺しても、みゆきだけは逃がさないとならない。

 さらに歩いて行くと、いよいよ出口らしき扉が見えてきた。ここまで来ると心なしか地上の香りもする。ここまでの運動によるものだけではない、如月の手に汗がにじむ。

 そして出口に着く。そこにも金網状のフェンスがあった。

 その手前まで数メートルの位置で、淵が如月達を手で制する。その場で待てということだ。

 淵だけが一人でゆっくりと静かに歩いて行く。さらにフェンスの前でまず周囲を警戒している。斜坑内から見ると、外は明かりが少ないようで辺りは暗く見える。月明りなのかおぼろげな光を感じる。

 淵が扉をゆっくりと開ける。そして慎重に外に出ていく。

 次の瞬間、何か黒い影のようなものが淵を襲う。如月とみゆきは硬直する。

 淵の姿が見えなくなって打撃音だけがする。淵はその影と格闘をしているようだ。声などは無く、何かを殴打するような音だけが続いていく。音は出口から別の方向に移っていく。

 如月は後ろのみゆきにこわばった笑顔を見せ、「みゆき付いてきて」声が少し震える。

 みゆきがうなずく、そして二人一緒に注意深くゆっくりと外に出る。

 出口から外に出て、周囲を見るとその付近に人はいなかった。確かにそこは広場のようになっていて、それこそ学校のグラウンドぐらいの広さだった。灯りも少なく、全体的に薄暗い。

 広場の中心付近に淵がおり、その先に熊のようなものが二匹いた。相当に大きい。

「うそ、何なの?」みゆきがうめく。確かに人間とすると大きい。

 一人は淵と間合いを詰めているが、もう一人は地面で倒れていた。先ほどの格闘で淵が倒したのだろうか。気絶したのか、見たところ動いていない。淵は本当に格闘技も出来るようだ。

 淵からは逃げろと言われていたが、どうにも身動きが出来ない。徐々に目が慣れてきてはいるが、周囲を見ても、どこへ行けばいいのかがよくわからない。恐怖もあるのか、方向感覚が麻痺している。果たして送電所はどこにあるのだろうか。みゆきは如月の陰に隠れて腕をつかんでいる。その手から彼女の震えが伝わる。

 淵は移動しながらもう一人の男と間合いを詰めていく。すると淵の後ろで倒されたはずの男がゆっくりと起き上がった。男は淵からは死角になっているのか、気づかれないように如月の方に向かって来るではないか。まずい、どうすればいいのか、ただ、誰も助けてはくれない。自分が何とかしないとみゆきは守れない。仕方なく如月は身構える。

 男が徐々に近づいてくる。月明りで見るその男はまさに熊のような外国人だった。身長は2m近いのだろうか、なんとなくモンゴル系の顔をしているのがわかった。それがまっすぐに如月に向かってくる。殺される、と思った瞬間、淵が気付いて飛んできた。

 淵は男の左足のひざ関節に蹴りを入れた。予期していない後ろからの攻撃に男の足は大きく曲がり、そのまま前のめりに倒れこむ。淵はすぐに男の延髄に向かって全体重をかけた飛び蹴りを加える。これが致命傷になったようで、男はそのまま悶絶する。ピクリとも動かなくなった。

 如月は助かったと安堵するとともに唖然とした。今の淵の動きは何だ。およそ、60歳の老人の動きではない。まるで黒豹のような素早い動きだ。熊のような男を一瞬で叩きのめすとは信じられない。

 しかし隙を見せたせいで、もう一人の男が淵に襲い掛かる。後ろからスイーパーホールドの要領で淵の首に大きな腕が巻き付く。

 やはりこちらの男もとんでもない大男で、2mはありそうだ。男の顔は西洋人のそれだった。淵が危ないとは思うが、とても如月が手を出せるものでもない。なにせ如月は弓道部だ。和弓があれば何か出来るかもしれないが、どう考えても無理だ。

 淵を窒息させようとしているのか、首が締まり顔は真っ赤になる。相当に苦しそうだ。

「淵さん・・・」みゆきがうめく。ただ、二人ともどうしようもない。

 淵は自分の右手を使って男が締め上げるのを防ごうとはするが、相手の腕力は相当なもののようで淵の顔が増々苦痛にゆがむ。さらによく見ると淵は顔から流血していた。これまでの格闘で負傷したのかもしれない。

 次の瞬間、淵は懐からサバイバルナイフを出すが早いか、男の腕に突き刺した。これには面食らったのか、男は不意を突かれて締め上げていた腕を緩める。すばやく淵は足を使って男の股間を蹴り上げる。強烈な急所蹴りだ。男はもんどりうって手前に倒れこむ。

 淵が追加の攻撃をしようとするが、この男も只者ではない。痛みに耐えるようにしながらも、瞬時に起き上がって身構える。そして淵との間合いを再び詰める。右腕は先程のナイフで流血している。

 大男はボクシングの構えをして淵に近寄る。そして左手でジャブを打つ。淵が右手でそのジャブをはじく。相手は負傷した右手でフックを打ってくる。ボクシングで言うワンツーだ。この男はボクシングが出来るようだ。淵はガードするが、男のパワーに押されて身体ごと持っていかれ、そのまま後ろに飛ばされる。ただ、倒れない。これだと階級差があるだろうと文句を言いたくなるほどだ。ヘビー級とフライ級ぐらいの差がある。

 それでも淵は再び向かっていく。半身の形で構え、それはボクシングとは違う、何かの格闘技の構えのようだ。空手なのだろうか、今まで見たことの無い構えだ。

 男は再びジャブを出してくる。淵はそれを右手で払う、先ほどと同じだ。次に相手は右から今度はアッパーを打とうとする。この攻撃を読んでいたかのように、淵はスウェイバックでかわしながら、左足を相手の右足の脛目がけて蹴りこむ。脛に強烈な蹴りが入り、男の顔は苦痛にゆがむ。そして淵はあろうことか、男の目に向かって指を突き立てた。男から初めて嗚咽がもれる。これは強烈な目つぶしだ。続いて右足で回し蹴りを繰り出し、前かがみになった男の腹部に強烈な蹴りが入った。男は前に倒れこむ。淵はその男の後頭部、先ほどと同じく延髄に上から全体重を使って蹴りを入れた。これで勝負あった。

 男は悶絶しピクリとも動かなくなる。

 ついに二人とも倒したのだ。

「淵さん!」如月が近寄ろうとするが、「来るな!」淵が叫ぶ。

 そして次の瞬間、海沿いの街に乾いた銃声が響く。いったい何事かと淵を見て気付いた。被弾したのだ。腹部が見る間に真っ赤に染まっていく。激しい流血だ。

「ああ、なんてこと・・・」

 銃声がした方向を見ると、もう一人、男がいた。淵は前のめりに倒れこむ。

「逃げろ・・・」淵が息を吐くように言う。

「淵さん」如月達はもう動けない。

 銃を持った男が今度は如月達を狙っているのがわかる。

 これまでは素手を使った格闘で倒すつもりだったが、作戦変更で銃による抹殺になったようだ。敵も万策尽きたというところだろうか、如月はみゆきをかばう様に前に出る。後ろにいるみゆきに言う。

「みゆき、逃げるんだ。俺が盾になる。なんとしても逃げろ」

「出来ないよ、そんなこと、無理だよ・・・」みゆきは涙声だ。

「いいから、逃げるんだ。ママの夢だろ、お前が叶えるんだ」

 みゆきは嗚咽を堪えながら、そこからダッシュしようと走り出す。男はみゆきに向かって銃を構える。如月がみゆきをかばう様に銃の方向に身を挺する。

 再び、乾いた銃声が響く。如月は撃たれたと思った。ところがどこを撃たれたのかがよくわからない。銃で撃たれた経験がないのもあるが、痛みはない。もしかするとみゆきが撃たれたのか。みゆきを見ると彼女は棒立ちしていた。まさか、みゆきが。

「みゆき!」

 するとみゆきは反対側を指さす。如月が振り返って見ると、銃を撃ったはずの男が倒れている。どういうことだ。

 すると倒れた男の脇から、やはり熊のような大男がこっちに走ってくる。どういうことだ。今度こそ間違いなく殺される。

「淵さん!」男が唸る。日本語だし、どうしてこの男は淵のことを知っている。

 そして近寄ってきた男は髭面の日本人だった。如月達を通り越して淵のそばによると、

「淵さん、大丈夫か?」

 淵からは返事がない。男は淵の患部を確認している。

「くそ、腹を撃たれたか・・・」

 男は自分のジャケットとその下のトレーナーを脱いで、アンダーシャツも脱ぐ。

 夜でも彼の筋肉質な体形がよくわかる。そしてそのシャツを切り裂くと包帯状にし、淵の服を脱がせて腹部を露にする。流血がひどいようだ。あふれるように出ている。男は患部を強く圧迫すると、裂いたシャツを患部に押し当て、さらに包帯状にしたシャツを器用に結んで強く止血をする。昔、救急の講習で見たことがある理想的な止血方法に見える。

 男は淵を抱きかかえて如月に言う。

「如月さん、付いてきてくれ」

 そういうとどんどん歩き始める。如月は呆気に取られている。

 いったい、この男は誰なんだ。ただ、如月を知っているし、敵ではない。味方のようである。状況はわからないがその男についていく。

 みゆきが如月に話す。「誰?」

「わからない。でも味方みたいだ」

 そこで如月は気づいた。ああ、そうか、さっきの銃声はこの男が撃ったのか。じゃあ、警察官か、いや、そうには見えないし、如月達を捕まえるわけでもない。誰なのだろう、さっぱりわからない。


10

 保科達はレンタカーで吉岡定点まで急ぐ。パトカーではないので制限速度は守る必要があるのだが、そこは無視している。ただ信号だけは守るしかない。保科は運転しながらイライラしている。

「くそー、時間がかかるな」

「道警に緊急車両を借りた方がよかったのではないですか?」

 冷泉が言うのが正論だ。

「そうなんだが、警察も縦割りだからな、借用書だとか色々手続きもある。道警と警視庁は組織が違う」

「じゃあ、道警の方に協力をもらえばよかったですね」

 冷泉の言うことは至極もっともだ。そうすればよかった。

 先ほどナビで確認したところ、吉岡定点までは1時間30分はかかる。なんとか1時間では着きたいところだ。

「もし、如月達が新幹線からすぐに出発したとして、そろそろ地上に出る頃かもしれない。冷泉、道警に状況確認してみてくれるか?」

「わかりました」冷泉が携帯で成田に確認を取る。

「成田さん、冷泉です。今、吉岡定点に向かっています。何か情報はありませんか?はい、そうですか…はい、はい…」

 何か確認をしているようだ。しばらく話をして電話を切る。

「保科さん、ビンゴです。如月達は新幹線から抜け出しています。乗務員によると7号車にいた3名が非常コックを使って車外に出たそうです。成田さんが所轄の警察官を吉岡定点に向かわせてくれました」

 なるほど、その手があった。近隣の所轄のほうが断然早い。

「松前警察署に駐在所があるそうです。何かあれば連絡をもらえるようにしました」

「そうか、何事もなければいいな」

 何度目かの信号待ちを終え、再びレンタカーは走り出す。

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