第3話 淵

 淵が販売店で購入したのはシルバー色の大衆車、2003年製カローラである。

 2003年だと、2010年生まれの14歳みゆきよりも歳を取っていることになる。これを60歳を越える淵が運転している。助手席には如月が座り、後部座席にはみゆきがいる。

 車中で如月がこれまでの詳細を淵に話す。淵はしばらく黙って聞いていた。

「世界の秩序を変えるものか・・・なるほど、それを阻止したい人間がいるってことなのか。とにかく明日までに瓶を北大の円谷先生まで届けるんだな」

「そうです。なんとかなりますか?」

「やるしかないでしょう」

「ありがとうございます。あの、ところで、淵さんっていったい何者なんですか?」

「何者って普通の爺さんだけど」

 車は大栄ジャンクションを抜けて圏央道に入ったところだった。如月は淵の正体を知りたい一心で質問を試みる。後部座席のみゆきも、体を乗り出すようにして興味津々のようだ。

「普通、GPS装置なんて気が付かないですよ」

「そうかな。最近はそういった機械もネットで簡単に購入できるだろ。こっちも用心を兼ねてああいった機器を持ってるだけだよ。感知装置もネットで買えるし安いもんだよ」

「そうなんですか。でも車のスピンターンなんて普通は出来ませんよ」

「ああ、すまなかったね。実は学生の頃にラリーをやってたんだよ。昔取った杵柄だよ。俺も久々にやってうまくいって驚いたぐらいだよ」

 いやはや、一か八かでやったということか、今頃、冷や汗が出てくる。

「俺もその黒い瓶を届けることを最優先に考えるよ。ああ、そうだ。俺からも質問良いかな?」

「はい、どうぞ」

「奥さんの事件だけど、具体的にはどういったことなの?」

「私もニュースで聞いただけなんです。都内のホテルの転落事故で亡くなったということらしいです」

「ホテルの中でかい?」

「いや、外のようです」

「そうなのか、それで、どうして如月さんが疑われるんだ?」

「それがよくわからないんです」

「わからない?」

「ええ、実家に電話をしたら、警察が私を探しているって言われて」

「探してるのか、じゃあ、何か疑うようなことがあるんだろうな」

「身に覚えがないんですよ。妻とはずっと疎遠でしたし、今回、帰国することも知りませんでした」

「え、そうなのか、事前連絡は無かったのか?」

 後部座席のみゆきが非難する。「したんだけど、この人スマホを無くしたみたい」

「え、そうなんですか?」

「はあ、スマホが無くなってまして・・・」

「それは災難だったね。いつから無いの?」

「それも良くわからないんですが、昨日、どこかで落としたみたいです」

 淵が不審そうな顔をする。「それと奥さんは急遽、帰国になったのかな?」

 それにはみゆきが答える。「いつから決まってたのかはわからないけど、私が行くのは前日になって急に言い出した。行くなんて聞いてないから驚いた」

 如月も初めて聞く話に面食らう。「え、そうだったのか・・・なんで?」

「わからない」

「日本行をお嬢ちゃんにも言ってなかったんだね。それと同行する話は前日になって言い出したということかな」

「そう」

 淵が考えこむ。そして話し出す。「何かがあったということだな」

「何ですか?」

「いや、そこまではわからない・・・。それで、その瓶にはタイムリミットがある」

「そうなんです。警察に捕まるわけにはいかないんです」

「つまりは捕まると時間が取られるってことだね。72時間を越えての拘束が考えられる」

「そうです。状況説明してすぐにわかってもらえる自信がありません。本来ならば、警察にも協力して欲しいんですが、それがうまく出来るかどうか、期限が明日までですから誤解を解く時間がありません」

「確かにな。ちょっと雲をつかむような話だからな。警察もそこまで融通が利くとは思えないか・・・まあ、俺は如月さんを信じるよ」

「ありがとうございます」

「それでこれからだけど、北海道へのルートは色々ある。どうやって海を渡るかだな」

「ルートですか?」

「早い方がいいだろうから、そう考えると青森から新幹線が一番だと思う。フェリーじゃ時間がかかるし、さらに船の中だと逃げ場がない」

「そこまで追ってきますか?」

「如月さんが相手にしているのは、警察とそれだけじゃなく、ひょっとするともっと面倒なやつらかもしれない」

「面倒なやつら?」

「俺の思い過ごしならいいんだが、その瓶の中身によると思う」

「そんなに大事なものなんですか?」

「大事に決まってる!」後ろの席でみゆきが叫ぶ。「お母さんが命を懸けて持ってきたんだから」

 如月はみゆきの必死な顔に驚く。

 淵が答える。「そうだな。俺もそう思うよ」

「淵さん、どうすればいいですか?」

「とにかく、最悪のケースを考えよう。それを狙ってる奴らがいるとして、それを阻止して、なんとしても北大まで届ける」

「よろしくお願いします」

「そうなると、間違いなく考えうるすべてのルートを、つぶしにかかってくると思ったほうがいいな」

「そこまでやりますか?」

「おそらくな」

「だとすれば新幹線も危険じゃないですか?」

「もちろんそうだ。でも危険性の高さということだと、新幹線が一番低いと思う。人目につくし、車内の警備や武器の持ち込みなんかにも制限がつくだろうからね。危険性は海よりは低い。それに移動時間が短くて済む。うまくいけば、そのまま札幌にも行きやすいからね」

「え、武器って何ですか?そんなものを持ち込むような連中なんですか?」

「いや、だから最悪のケースを想定してるだけだよ」淵は笑みを見せる。

「なるほど、わかりました。淵さんにお任せします」

「新幹線に乗るにしても新青森駅がいいだろう、乗車距離はなるべく短い方がいい。北海道まではすぐだ。最終には間に合いそうもないかな。まずは青森辺りで宿を取る方向で検討するか」


 車は仙台東部道路を走る。成田からはここを通るのが最短ルートのようだ。

 海岸沿いを走る2車線の道路を如月は感慨深げに見ている。別れた妻の美月の故郷は福島県の南相馬市だ。結婚したのは2009年でその翌年、みゆきが生まれた。そこまでは何の問題もなかった。

 そしてあの2011年3月11日が来た。

 東日本大震災である。当時、美月は子育ての真っ最中で、そろそろ職場復帰を考えていた頃だった。また、如月も民泊会社の起業に向けて動き出していた。

 美月にとってあの日は忘れられない日となった。テレビから流れる故郷の変わり果てた姿。まるでゲームか映画のような悲惨な光景が繰り返され、そこに生きていた人間たちや生活環境が無残に失われていくのを、信じられない思いで見ることになる。如月にとっても衝撃的な事件だったが、当事者の美月にとっては、それ以上のいたたまれない出来事だったはずだ。

 実際、美月の両親は津波の被害にあい、行方不明になってしまった。まさか自分たちにこんな不幸が降りかかるとは信じられない思いだった。

 さらにその不幸は原発事故という最悪の結果を生むことになる。

 南相馬市も立ち入り禁止区域となり、すぐには行方不明の両親を探すこともできなかった。美月の落ち込み様は傍から見ても尋常ではなく、如月も美月に寄り添う努力をしては見たが、所詮は他人事のように映ったようだ。今になってもそこには後悔が残る。けっしてそんなつもりはなかったのだが、起業のこともあったのか、二の次だった気もしないではない。ましてや美月はそれを敏感に感じていたようだった。結局、夫婦仲は震災を境に冷え込んでいった。

 似たもの夫婦といった点では、お互いに感情を押し込める性格だったのか、思いをぶつけ合うことができなかった。いや、しなかった。今から考えるとむしろ夫婦の中ではそういったことが必要だったのではないかと思う。感情のままお互いの意見をぶつけ合うこともある意味必要だった気がするのだ。言わないと胸に秘めた思いは伝わらない。お互いにずっと何も言わずにすれ違いだけが大きくなっていった。

 そして4年後の2015年に美月から突然、離婚を切り出された。如月の浮気騒ぎもあったが、そこまで関係が冷え切っていたとは思えなかった。ただ、いつかはそうなるかもと言う予感があることはあった。美月は北海道大学への転籍をひとつの理由としていた。

 その頃、娘のみゆきは5歳で可愛い盛りだった。色々考えたが、結局、美月の思うようにさせてやろうと思った。離婚の条件も美月の希望通りとした。如月にとって不利な内容もあったが、これまで家庭を顧みなかった点よりも、美月に対し何の力にもなれなかった喪失感が如月には大きかった。頼りがいのない夫だったということだ。


 車は福島県に入ったようだった。車窓から海が見えてきた。海岸沿いを走っているのがわかる。淵が話をする。

「ここら辺は震災の被害も大きかったんだろうね」

 物思いに耽っていた如月は我に返って応対する。

「そうです。ただ、この道路は高台になっていて、そのせいか津波の被害防止や住民の避難に効果があったようです。当時は道路としての機能は喪失しましたけど」

「そうか、しかしよく復旧できたね」

「その後の復興目的もあってここは必要な道路でしたから、苦労したみたいですよ。ああ、実は奥さんは福島の相馬出身だったんですよ」

「え、そうなのか」淵は驚く。

「彼女の両親も津波の被害にあって、残念ながら亡くなられたんです。その後、私も一緒に何回か現地に行きました。まあ、原発事故もあって色々、制限された中だったんですが」

「そうか、色々大変だったね。津波の被害や原発事故の報道は連日やってたからね。あの事故は、一時は本当に日本全体がだめになるんじゃないかってところまで来たものね」

「はい、そうなんですよ。ただ、当時の国民からするとその危険度は見えていなかったです。福島だけの局地的な問題だと思っていたようでした。むしろ海外のほうが危機意識は高かったかもしれません。スリーマイルの事故もあったし原発事故の危険性が理解されていたように思います」

「うん、そうだね」

「それで被害状況がわかるにつれて、とんでもない事態だったとあとからわかりました。実際、日本と言う国の存続まで影響を及ぼしかねなかった事故でしたからね」

 淵はうなずく。

 福島の事故で国民は原発の危険性に気が付き、政治家も含め一斉に原発反対に舵を切った。以降は新規の原子力発電所はおろか、既存の発電所までもが休止に追い込まれている。

「実際、美月は両親と故郷を同時に無くしたんです」

 如月はバックミラー越しに後部座席のみゆきを見る。みゆきが食い入るように窓から外を見ていた。みゆきも美月から事の顛末は聞いているはずで、同じ思いを共有している。

 山間の隙間から時折、海に向けて土地が開けた箇所が見える。

 しかし、そこに町はない。更地に近い状態の地面が広がっているだけだ。津波の被害で町が消え、さらに放射能により復興もままならない土地が広がっている。

 みゆきの目から涙がこぼれていた。やはり美月の思いはみゆきにつながっている。美月が事あるごとに話していたのは『故郷を取り戻す』ことだった。復興への道のりは長い。原発の放射能が完全に無くなるまでには100年以上かかるとも聞いた。それでも元通りにはならない。みゆきは母親への思いと共に、彼女の故郷を見ているのかもしれない。

 如月はみゆきには美月と同じ思いをしてほしくなかったが、図らずも母親を亡くしてしまった。それ故になんとしてもみゆきの気持ちには答えようと思う。自分が美月に向き合えなかった同じ後悔を、みゆきにだけはしたくなかった。そして美月と言う人間を失ってしまった今、美月の思いを何としても叶えてやりたい、それがこれまで何もできなかったせめてもの罪滅ぼしのような気がしていた。


 南相馬インターチェンジの看板が見えてきた。車はいよいよ美月の故郷に入ろうとしていた。

 淵もみゆきの涙には気が付いているだろうが、気にしないふりで如月に話をする。

「如月さん、俺のスマホを使って今晩の宿を予約してくれるかい。新青森駅周辺でいいと思う」

「フリーダムステイでいいですか?」

「もちろん、そのほうがいい。ホテルだとやつらに見つけられる可能性が高い。民泊のほうがわかりづらいでしょう」

「わかりました」

 元自社のアプリを使って宿を探す。やはりなかなか使い勝手はいい。ちょうど新青森駅まで車で10分ほどの民宿があったので、そこを予約する。

「予約できました。ホストもいる宿になります。素泊まりです」

 ホストとはその家の主で、そこに同居しているということになる。

「ありがとう」

 カローラは青森に向かって東上を続けていく。


 保科達は目黒署の刑事課に戻っていた。今は刑事課の会議室で島田係長と打ち合わせ中である。

「防犯カメラの画像から、如月は品川駅から横須賀線に乗り換えたところまではわかっています」

「横須賀線?じゃあ東京駅から新幹線に乗るのかな?」

「今、防犯カメラを確認中ですが、そこまではわかっていません。横須賀線も色々乗り換え候補が多くて解析するのも大変です。ただ、東京駅の新幹線改札は抑えてあります。今のところ発見の報告はありません」

「通行系カードの履歴は取れないのかな?」

「駄目ですね。一応、JRに問い合わせをしていますが、如月のカード使用の連絡はないので、どうもあえて使っていないのかもしれません」

 カードを使っていないということは、行動履歴を取られることを恐れていることになる。如月がそういった点に留意していることになり、疑惑は増々深まる一方だ。しかしながら、どこへ行ったのかがわからないとなると、捜査は後手後手に回り、八方ふさがりになる。

 保科が質問する。「その後、ホテル周辺の聞き込みはどうなりました?」

「有力情報はないですね。如月を見たと言った情報もないです。彼の車も当っていますが、現場付近を走った痕跡は見当たらないです」

 ホテル周辺で車の通行履歴があがっていないとなると、別の交通手段ということになる。しかし、現在までにそういった情報もないことから、如月は関与しておらず別の人間の仕業ということも考えられる。

 ただ、不思議なのは如月の仕業ではないとすれば、そのように名乗り出ればいいだけで、なぜ、それをしないのかがわからない。となると、どう考えても事件に関与していると考えるしかなくなる。

「あと、保科警部から言われていた有明の自宅の情報です。入口にある防犯カメラの画像から、娘さんが来たことが確認されました」

 その話に保科が気色ばむ。「いつですか?」

「夕方の6時です」

 つまり、娘は母親とは別行動で成田空港から直接、有明に来たことになる。これは計画性がある行動なのだろうか。

「娘さん一人でしたか?」

「そのようです。如月の姿はありません。入口からセキュリティを通過して入って来てますので、当時、如月が部屋にいた可能性が高いです」

 そして翌日、北海道に行こうとしていた。これをどう見ればいいのか、北海道は柴の在籍していた北大がある。そこへ行くつもりだったのかもしれない。柴の予定を確認してみた方がいいかもしれない。

「島田さん、柴美月は講演のあとに予定があったそうです。それも講演終了後すぐだそうです。それが北大だとすれば、如月の行先も北大ということになります」

「なるほど、そこで娘と一緒に落ち合う計画だったということですね。柴の予定を確認してみます。航空券を購入しているでしょうから、ああ、そうだとすると如月犯人説は成り立たなくなりませんか?」

「そうなります。ただ、そうだとすれば、なぜ我々から逃げているのかがわかりません」

「確かにそこが解せませんね」

「でも、やはり北海道に向かっている可能性が高いですね」

 保科が宮本に指示する。「北大の関係者に柴美月とのアポイントがなかったか確認してくれ」宮本が頷く。

 二人が出ていき、保科だけが会議室に残る。

 これまでの出来事を整理してみる。

 実際、よくわからない事件だ。柴美月は娘とロンドンから日本に来た。そして美月だけが学会に参加するためにホテルに泊まる。一方、娘は離婚した父親と会い、北海道に行こうとしていた。

 そもそも美月が北海道に行くのであれば、娘と一緒に行けばいい話だ。何故、別れた夫にそれを託したのかが、よくわからない。そして来日した夜に何者かに殺害された。ひょっとすると美月は、自分が殺されるかもしれないとでも思っていたのかもしれない。それで娘に何かを託した。さらには元夫もそれを実行しようとしている。そう考えると辻褄は合う。ただ、それならば如月は警察にその話をすればいいだけだ。なぜ、それをしないで逃げなければならないのかがわからない。単に警察不信なのか、はたまた、他に何か理由があるのだろうか、そしてどのルートを使って北海道に行こうとしているのか。

 保科はすでに如月が北海道に行く可能性があり、そのルートでの確保をするようにと本庁に依頼していた。警視庁では東京以北の空港、新幹線、あとはフェリーか、それらを押さえているはずである。

 保科は確認のために、本庁に電話を掛ける。

「ああ、保科です。清水係長はいますか?」

『お疲れ様、長谷川です。清水さんは課長に呼ばれましたよ』長谷川は同じ係の同僚である。

「そうか、何だろうな」

『それがなんか変なんですよ。警視総監からの呼び出しだそうで、係長も泡食ってました』

「え、どういうことだ?」

『いや、緊急で呼び出されたみたいです。珍しいですよ、警視総監からの呼び出しなんて今まで無かったことです』

 確かにいまだかつて、清水係長が警視総監に呼び出されるなどといったことはなかった。課長ならまだわかるが係長も同席となると、何かが起こったのかもしれない。ひょっとするとやはりこの案件だろうか。

「長谷川、頼まれてくれるか?」

『何でしょう?』

 保科は長谷川に、北海道までの如月の交通ルートを抑える件がうまくいったのか確認するように指示する。

 そして電話を切って再び考える。増々、不思議な話になってきた。もし清水係長がこの件で呼ばれたとすると、警視総監が関心を持っている事件にまでなっている。いったい、どういった事態になっているんだろうか。

 そこに島田が戻って来た。冷泉も一緒だ。

「保科さん、柴は北海道に行くつもりでした。今日付けで新千歳までの航空券を予約していました」

 ビンゴだ。やはり北大に行くつもりだったのか。保科が言う。

「島田さん、今、宮本に北海道大学の関係者を当たるように言っています。やはり北大が関係していると思います」

 するとちょうどそこに宮本が戻ってくる。

「保科さん、北海道大学の柴が所属していた農学部を当たりましたが、誰ともアポイントは無いようです」

「え、そうなのか?」保科は拍子抜けする。

「研究室の教授を中心に何人かに確認を取ったんですが、北大に来る予定自体がなかったようです」

 保科は唖然とする。柴は北海道に行こうとしていたが、大学側にアポイントが無いとなると、それは北大ではないのか、じゃあどこに行くつもりだったのか、如月達もどこに向かっているのか、これでは不確定要素が多すぎて、まったく筋読みが出来ない。


 如月が乗るカローラは富谷ジャンクションから東北自動車道に入り、鶴巣パーキングエリアに入る。ここで休憩と軽食を兼ねての停車だった。

 トイレから出てきた如月に、缶コーヒーを持った淵が寄ってくる。

「如月さん、次からちょっと運転代わってもらっていいですか?」

「はい、大丈夫です。私もそのつもりでしたから」

 淵が車のキーを如月に渡す。淵は相変わらず周囲を注意深く見ている。そんなに危険なことがあるのだろうか、警察以外の追跡者とは誰なのだろうか、しかし、もしそういったことであるならば、淵の存在は大きなものになる。彼は如月とは違って頼りになる男だ。世の中にはこういった人物との出会いによる幸運があるのかもしれないと思う。

「淵さん本当にありがとうございます。ここまで色々やってもらって、感謝しても仕切れないです」

「如月さん、気にしないでいいよ。管理人って言ったってそこまで大変な仕事も無かったしね。今は旅行気分で楽しんでるよ」

「でも淵さんにここまでやってもらえるとは思ってなかったです」

 淵はコーヒーを啜りながら話す。

「いや、俺は如月さんに感謝してるんだ。こんな使い道のない男に仕事をくれてさ、希望通りに農業だってさせてもらってる。これぐらいお安い御用だよ。まあ、こういった事件なんて滅多に味わえないからね。失礼な言い方だけど、個人的にはワクワクさせてもらってるよ」

 淵が不敵に笑う。あながち嘘でもないようだ。こういう危険な事案に燃える性格なのだろうか。すると淵がぽつりと言う。

「娘さんとはうまくいってないのかい?」

 いきなりの直球の質問に如月はたじろぐ。どうしてわかったのだろうか、いや、普通気が付くものかもしれないとも思う。

「何せ、こうしてしっかり会うのは2年ぶりですから・・・」

「それまで会ってなかったのか?」淵が驚く。

「美月が帰国するタイミングでしか会ってなかったです。ほとんど会話もなかったかな」

「そうなんだ」

「ええ、難しくなる年頃ですし・・・」

「そんなものかな。なんとなく久しぶりだともっと話を聞きたいものじゃないのかな?如月さんから話しかけてもいないね」

 やはりわかるか、確かにこれまで話しかけてこなかった。話しかけて拒否される姿を淵に見せないようにしていた。

「俺も子供がいたわけじゃないし、ましてや結婚もしていない身分で偉そうなことは言えないが、これまで仲間としては若い奴と接してきた。そりゃジェネレーションギャップもあるし、分かり合えない部分は多い。それは仕方がないことだ。でもね、話をしないといつまでたっても距離は縮まらないよ。当たり前のことだ。とにかくわかりたいと思うのなら話をしないとね」

 淵は遠くを見るような眼をする。

 まさに淵の言う通りだ。自分の悪い部分だ。相手のことをわかりたいと思ってもどこか最初からあきらめている。所詮分かり合えないものだと決めつけているところがある。美月に対してもそうだったし、会社の連中についても同じだった。距離を縮める努力を否定してきた自分がいた。淵が続ける。

「如月さん、人間は変われるんだよ。俺も60歳になっても変われたし、ましてや如月さんはまだまだ若いだろ、変われるはずさ」

「変われますかね・・・」

「うん、そう言った努力をすることだよ。少しでも変わるためのね」

 この男はこの短い時間でここまで如月の本質に気付くとは、裏事情だけではない。人間の機微まで理解していると思った。

 みゆきがトイレから出てきて、如月の近くに来る。すっと手を出す。ああ、お金か、そう思って財布から千円を出す。

 みゆきはそれを受け取って売店の方に行く。

「お父さんが付いていったほうがいいよ」淵が言う。

 確かにまだ、どんな危険があるのかもわからない。みゆきの後についていく。

 売店で色々物色しているみゆきを少し離れて見る。

 こうして娘の全身をはっきり見るのは初めてだった。ずいぶん、大きくなったと思った。14歳なので子供の部分も残しながら、大人になろうとしている。

 そして美月がいなくなったこれからは、自分が彼女の保護者として生きていくことになる。淵の言う通りだ。距離を縮めないと、これからの生活はままならない。そしてこの娘を幸せにしてやらなければ、自分の生きる価値はない。これからはみゆきの幸せを目標として生きていく。

 みゆきは菓子パンとジュースを買っていた。お金を払って戻ってくる。俺の近くを通るときに無言でつり銭を渡した。何か言おうと思ったのだが、やっぱり言葉が出てこない。みゆきは車に戻っていく。如月は再び、みゆきのあとを歩いて車に戻る。如月の視線の外れに淵の姿が見えた。こっちを見るとは無しに見ていたような気がする。


 カローラは如月の運転で走りだす。青森まではこのまま一直線となる。幸い天気もいいし、車の数もそれほど多くない。順調に走れば残り300㎞の道のりなので4時間ぐらいで着くだろう。

 みゆきは後部座席でパンを食べている。助手席の淵がみゆきに話をする。

「みゆきちゃん、少し話を聞かせてもらっていいかな?」

「いいよ」みゆきは少し驚いた顔をする。

 淵はみゆきを見ながらゆっくりと話す。

「お母さんの話になるけど、いいかい?」

 みゆきが無言でうなずく。淵もうなずきながら話をする。

「みゆきちゃんが東京に来るという話は急だったんだよね」

「そう、東京に行くのは急だったよ。後から聞いたけどママが東京に行くっていうのも、ちょっと前に決まったみたい。私が行くことになったのは前日だった」

 如月が驚く。「え、そうなのか?」みゆきがうなずく。

「ちょっと前に何かあったのかな?」淵が優しく聞く。

「わからないけど、なんとなく最近のママは切羽詰まった感じがした」

「それで美月さんから瓶を受け取ったのはいつだった?」

「それが急だった。飛行機の中だよ。もうすぐ成田に着く直前だったと思う」

 如月はびっくりする。そんな急な話だったのか。

「なんて言われたの?」

「これをもってパパのところに行ってって言われた。そして72時間以内に北大の円谷先生に渡すようにって。それとこれは世界の秩序を変えるものだから、なんとしても持って行ってって言われた」

「なるほど、で、その話をした時に例のウサギのぬいぐるみは持ってた?」

 なるほど盗聴器の仕掛けられていたぬいぐるみのことか。

「ああ、どうだったかな。確かリュックに入ってたから、飛行機のトランクにあったと思う。手には持ってなかったはず」

「淵さん、盗聴器はイギリスから仕込まれてたということですか?」

「ああ、その可能性はあるだろうね」

 もしそうだとすれば、トランクにあれば聞くのは無理かな。今の話は聞かれていないのかもしれない。そしてふと思い出す。そういえばマンションではどうだっただろうか、ぬいぐるみはベッドにはあったが、みゆきから最初に話を聞いた時には、確か近くにリュックがあった。

「淵さん、今、思い出すとマンションでの会話は盗聴されていたと思います。みゆきはリュックを持って私と話をしました」

「そうですか、でもよかったかもしれないよ。今の飛行機での話を聞かれていたら、みゆきちゃんはもっと危なかったかもしれない」

「どういうことですか?」

「うん、これも可能性の話だから、あまり気にすることは無いのかもしれないが、みゆきちゃんが瓶を持っていることを知られていたら、それを奪いに来たかもしれないってことだよ」

「え、奪いに・・・」

 如月は青くなる。つまりは殺されたのはみゆきかもしれなかったってことになる。いや、マンションまで来られたら如月も命がない。それをあえて言葉にはしなかった。

「あと、他には何か言ってなかった?」

 みゆきはじっと思い出そうとしている。今となっては彼女にはつらい思い出なのかもしれない。

「なんとなく、ママはわざといつもの感じに振舞っていたかもしれない。別れる時にハグされた。なんか、それが普通じゃなかったかもしれない」

 バックミラー越しのみゆきの顔がゆがむ。

「そうか、そうなるとお母さんはわかっていたのかもしれない。自分が狙われているということをね。その時に美月さんは自分に危険が迫っているって言ったのかな?」

「最後にママと離れる瞬間に、もしかすると殺されるのかな、みたいなことをぽつって言ったの。あんなママを見たのは初めてだった・・・」みゆきは泣き出しそうだ。

「淵さん、どういうことですか」

「これは推測だけど、美月さんは誰かから話を聞いたのかもしれない。狙われてることをね。それと美月さんもその瓶の力を知っていたからなおさらだ」

「あれは何なんでしょうか?」

「いや、そこまではわからないよ。俺の専門外だ。みゆきちゃんも思いつくことはないだろう?」

 みゆきは泣きながらうなずく。

「でも、ママは最近ずっと考え事をしていた。私が話しかけてもぼーとしてることが多かった。あ、それと日本に戻るかもしれないって言ってた」

「そうなの?いつごろなのかな?」

「どうかな。それも最近だった」

 美月が帰国を考えていたとは知らなかった。つまりはロンドンでの研究は一段落したということか、その結果があの瓶になるのか。

「瓶の取り扱いについて何か言われた?」淵が聞く。

「ううん、何にも言われてない」

「何か気を付けるようなことないのかな」

「ないよ。あるのは時間だけだった。それと蓋は開かないから大丈夫だって」

「そうなんだ」

 それほどの瓶なのに保管方法などには注文が付かない。あるのは時間指定だけなのか、少し不思議な気がする。それで世界の秩序が変わるのか。如月にはまったく意味が分からない。瓶の秘密もそうだし、美月が何を恐れていたのか、そして殺されたとなるとその相手とは誰なのだろう。


 目黒署に殺人事件として帳場(捜査本部)がたった。

 まったく唐突な出来事だった。午後になって急遽、本庁から城所管理官と清水係長が到着する。城所はキャリアで警視、宮本と同じ30歳だが当然保科の上司になる。国立大学卒で中肉中背、顔も特に特徴もなく、すれ違っても気が付かないような男である。ドラマのキャリア役で出てくるようないけ好かない男ではないが、とにかく妙に細かい、神経質といったほうがいい。さらに指示も思慮深いのか、ゆっくり行うので保科達は閉口することが多い。

 その城所管理官が帳場の中心となって事件解決に当たることとなった。


 目黒署の大会議室に署員が集められている。新たに本庁からも40名程度警察官が補充された。総勢100名以上は集まったようだ。

 上座には城所管理官と目黒署署長、さらには目黒署の刑事課課長も座っている。

 保科の隣に清水係長がやってきて座る。その清水が小声で話す。

「急転直下だ。警視総監から帳場を立てるように指示があった」

「警視総監って、どういうことなんですか?」

「俺もよくわからないが、事件について詳細を報告させられたよ。報告書にはない部分も事細かくだ。そうやら大元は警察庁長官、いやもっと上からの指示らしい」

 保科は全く意味が分からない。いまだかつてなかった動きだ。

「上って誰なんですか?」

「さあ、よくわからないが、言われたのはこれは殺人事件だと特定されたようだ」

 保科はまだまだ聞きたいことが山積みだったが、上座に座る目黒署署長が音頭を取って会議が始まる。

「えーそれではウエスタンホテル東京殺人事件の捜査会議を始めます。まずは指揮を取られる城所管理官からお話をお願いします」

 上座の真ん中に座っているのがまったく絵にならない城所が話す。

「本庁捜査一課の城所です。このたびこの事件の指揮を取らせていただきます。まずは犯人確保に全力を尽くしてください」

 一同がうなずく。

「それでは、まず優先事項を申し上げます。如月覚とその娘のみゆきの身柄を確保することを最優先とすること」

 会場がざわめく。目黒署の署長がそれを制する。

「静かに、如月が犯人であるということではない。むしろその逆だ。如月たちに危険が及んでいる可能性が高いということだ」

 増々意味が分からない。署長が騒ぐなと言うが土台無理な話だ。参加者の頭にはハテナマークがどんどん浮かんでいる。

 城所管理官が続ける。

「詳細は我々も聞かされていませんが、犯人はグループの可能性が高いそうです。そしてそれらが如月達に危害を加えるということのようです」

 管理官の説明だとさらに混乱を来しそうなので、署長が一喝する。

「悪いが今のところはそこまでしか言えない。我々は如月の行方を追う。それで彼らは北海道に向かっているらしいとのことだ」

 それから会議は様々な質疑応答となり、内容が一向に見えないまま紛糾するも、最終的には再び署長が一喝し、刑事課課長から各署員へ指示が下る。

 どうやら管理官以下、幹部連中も詳細を掴んでいないようだった。保科が思うにそれは公開できない案件であるということだ。

 保科は所轄の冷泉とペアを組んで、北海道に行くことになった。後から宮本にねちねちと嫌味を言われたが、上の指示なので仕方がない。しかし、宮本は何を考えているのか呆れる。その宮本は所轄のベテラン刑事と都内で捜査を続行することとなった。

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