第2話 出発
1
翌朝、如月はソファで目覚める。
昨日の忙しさのためか、ソファで寝た割には熟睡できたようだった。
時間を確認とスマホを見ようとして、無くなったことを思い出す。部屋の時計を見るともう6時になっている。飛行機の時間を考えると7時にはここを出た方がいい。部屋を見回すとみゆきはまだ起きていないようだ。
みゆきが占領している寝室の扉を開けて声をかける。
「そろそろ起きろよ」
返事がない。部屋も暗いままだ。ベッドを見てみるがみゆきはびくともしない。こちらが心配になるほどだ。
ゆっくりとベッドの近くに寄ってみる。みゆきは無邪気に大口を開けて寝ている。うさぎのぬいぐるみを抱えて寝ている。こういう姿は無邪気な普通の女の子だ。
「みゆき、朝だぞ」
まどろみの中からみゆきが覚醒する。如月を見てはっとする。
「何してんの!今、起きる」
言うが早いか布団を頭からかぶってしまう。
見てはいけなかったのかと如月が退散する。どうも年頃の娘の扱いがよくわからない。
「7時にはでかけるぞ」そう言い残して、朝食の支度をする。と言っても食パンをオーブンで焼くぐらいしかできないが・・・。あとはコーヒーを入れる。
朝食の用意が出来て、如月が一人で食べていると、ようやく寝室からみゆきが出てくる。当然、昨日と同じ格好だ。そして実に眠そうだ。なるほど時差もあるから眠いのかもしれない。
「朝飯、といってもパンだけだけど、出来てるぞ」
みゆきはテーブルの朝食を見て、コーヒーだけに手を付ける。まったくこの娘は贅沢に出来てるな。親父の手作りなんだぞ。
「車で羽田まで行くから、荷物は全部持っていきなよ」
みゆきに反応はない。聞こえたはずなのであえて繰り返さない。
さて、世間の父親はみんなこんな感じで娘に手を焼いているのだろうか、うちだけなのか、久しぶりの親子の対面でもありよくわからない。とにかく誰かに相談したい気分だ。
「じゃあ、顔洗ってくるから」如月はそう言って洗面所に向かう。
洗面台で歯ブラシに歯磨き粉を付けながら、ふと考える。そういえば、札幌ではどうするんだ。北大に行ってなんとかいう教授に瓶を届けて、はいさよならって訳にはいかないだろう。美月が合流するはずだから、宿の手配はいいはずだよな、などと考える。いや、その辺、はっきりさせないとまずいなとも思う。
顔を洗い終えて食卓に戻る。一応みゆきはパンも食べたようだ。パンの皿には何にもなかった。なんだ、食べるのか、まあ、若いんだからお腹が減るよななどと考える。
「みゆき、お母さんとはどこで落ち合うことになってるんだ?」
「北大で会う」眠そうな顔で答える。
「じゃあ、宿の手配はいいんだな?」みゆきがうなずく。
なるほど、俺の役目はそこまでか、それを聞いて少し気が楽になる。みゆきも洗面所に行き、出かける準備をしている。
自分の宿は適当に札幌で見つければいいな。美月と話をする必要もあるから、そこは慎重に対応しないと。今回は少なくとも養育費の減額ぐらいは勝ちとらないとならない。
みゆきの準備ができたようだ。もそっと洗面所から出てきた。
ちょうど時間も7時近くなっている。
「じゃあ、でかけるか、地下の駐車場に車があるから、それでいく」
みゆきは相変わらず、わかっているのかいないのか反応が薄い。
地下駐車場に降りて、ポルシェカイマンを見ると、「ポルシェじゃん」みゆきが初めて感想を言う。この娘にもポルシェはわかるのか、如月もやっと自慢できる部分があって、なんだかうれしい。早速、車に乗り込んで出かける。
有明から羽田までは近い。湾岸線を使って概ね30分で着く計算だ。平日だしそれほど混んでもいないだろう。この道路は広々として気持ちがいい。今日は天気もいいし、本来ならばドライブにでも行きたい気分だななどと思うが、絶賛失業中だと現実に戻される。
如月はラジオを付ける。いつも車通勤で時事情報はラジオで取ることにしている。しばらくしてニュースになる。
そしてその最後の方で、
『昨夜、目黒区三田の道路沿いで女性の転落事故が起きました。亡くなったのは北海道大学の准教授柴美月さんで・・・』
一瞬、耳を疑った。柴美月だって、
「みゆき、今の聞いたか?」
みゆきは絶句している。如月はどうすべきかを考える。まずは事の真相を確かめないと、「高速を降りるぞ」いったん湾岸道路から降りることにする。大井ジャンクションから一般道に入り、すぐの路肩で車を止める。まずは電話だな。しかし如月は携帯を持っていない。
「みゆき、携帯持ってるよな」
みゆきは相変わらず顔面蒼白だ。呆然としながらもリュックからスマホを出す。
如月はどこに電話するかを考え、まず自分の実家に電話する。実際、それ以外の電話番号がよくわからないのだ。基本はスマホに登録してあるので、空で覚えているのは実家ぐらいだ。
「ああ、俺、覚だけど」
言うが早いかお袋がマシンガンのように話しだす。
『あんた、どこにいるの?ほんとに殺しちゃったの?』
何を言ってるのかがよくわからない。
「はあ、何言ってるんだ。いや、今、ニュースで美月が亡くなったって聞いてさ」
『だから、あんたが殺したの?』
「さっきから何言ってるんだ、そんなわけないだろ」
『だって、警察があんたを探してるよ。どこにいるかって言われた』
何か話がややこしい。
「ちょっと待って、警察は俺が犯人だって言ってるのか?」
『え、そこまでは言ってないけど、さっきから大騒ぎで警察から電話が来て、覚はどこにいるって』母親の興奮度合いは伝わるが一向に要領を得ない。
「なんで俺が殺したことになってるんだ?」
『なんとなくだよ。警察の聞き方が容疑者を探してるって感じだったよ』
どうしてそうなるのかが、よくわからない。お袋がボケているのか、そうでなければ警察の方に誤解があるのか。別れた夫が会社を無くして自暴自棄になり、養育費をけちって元妻を殺害したとでも思っているのだろうか。
「わかった。じゃあ俺が警察に連絡するよ。いいかい安心して、俺がそんなことするわけがないだろ、あんたの息子なんだから。じゃあ、美月が亡くなったのは本当なんだね」
『え、ああ、それはそうみたい。じゃあ一体どうしたのかね』
「わかった。また、電話する」そういって電話を切る。
なんで俺が犯人扱いされないとならないんだ。とにかく警察へ行って誤解を解かないと。
「みゆき、なんか美月の事故で俺が疑われてるらしいんだ。警察に行って誤解を解くよ」
みゆきはここで我に返ったようになり叫ぶ。「だめ!早く北大に行かないと」
みゆきが如月に掴みかかる。如月は初めてみる娘の真剣な顔に驚く。
「いや、だけど、警察に誤解されているみたいだし、このままだと俺は捕まるぞ」
「だからだよ。警察に拘束されたら間に合わなくなるよ。期限は明日までだよ」
例の72時間という話か、それもよくわからない話だ。
「先方に連絡したらいいんじゃないか、北大の円谷さんだっけ?」
「だめ!とにかくあれを早く届けないと、ママの夢なんだよ」
何か、また違う話が出てきた。ママの夢だと・・・。
「お願いだから、早く届けるの!それだけを考えてよ!」
みゆきが如月を掴んで揺さぶる。まるで人の生き死にを左右するかのような態度だ。ここまでの切羽詰まった娘の表情で如月は覚悟を決める。
「うん、わかった。じゃあ、あの瓶を届けることを最優先にする」
「ありがと・・・」目に涙を浮かべて首を垂れる。
「でもお袋のあの様子だと、空港にも警察がいる可能性が高いぞ。俺が犯人の訳ないのに・・・さて、どうするかな、ああ、じゃあこの車も時間の問題で見つけられるはずだ。警察にはそういうシステムがあるって聞いたことがある」
みゆきが心配そうな顔をして、如月を見る。
「とりあえず、車を捨てて電車で行くか」
「何か,当てはあるの?」
「そうだな。無くはない」
如月はそうは言ったものの、こんな時に頼れる人間がいるわけではない。元々人望も人脈もない人間だ。ただ可能性として一人の人物を思い浮かべていた。これまでも運のなさでは定評のある如月だ。今回も無駄足になるだろうとは思いながら、それにすがることにする。
このまま子供と二人で北海道に行く手段は限られるし、如月ではとても警察の追跡から逃げ果せる自信はなかった。誰かに頼るしかないのだ。それとなんとなくあの人物ならやってくれるのではないかといった期待感があった。いや、実際、それしかなかったのだ。
2
目黒署刑事課では捜査本部こそ立っていないが、柴美月の転落事件についての捜査が続けられていた。事件性が高いと判断したことになる。
最後の通話履歴の人物は、美月の元夫の如月覚であることが、今朝になって判明し、その如月に接触を試みるも、彼の携帯は不通になっており、さらには自宅の電話にも出なかった。
その後、目黒署署員が自宅マンションに駆け付けたところ、すでにもぬけの殻状態だった。ここまでで、如月があきらかに何かを知っている可能性が高いと判断し、本人の捜索を最優先事項として動いていた。
部屋には本庁捜査一課の保科と宮本もいた。二人は結局、昨晩からほとんど寝ていない。刑事課の島田係長が保科達にコーヒーカップを差し出す。
「コーヒーどうぞ」保科達はありがたくいただく。
「如月の行方は分かりましたか?」
「ええ、どうやら航空券を購入していた模様です」
「航空券ですか?」保科は海外逃亡を危惧する。
「札幌行です」それを聞いて少しほっとする。
「羽田からですか?」
「そうです。今、羽田空港に連絡して空港に警官を待機させています。まもなく確保できると思いますよ」
「そうですか、事件性が無ければいいんですがね」
「そうですね。しかし、事故の後、いきなり札幌行というのが引っかかりますね」
「如月に何か懸念事項がありますか?」
「ええ、今までのところで得た情報ですと、昨日、自身の会社を譲渡したそうです」
「譲渡?」
「そうです。経営不振で大手に譲渡し、如月自身は現在無一文の状況らしいです」
保科が考えこむ。将来に希望がないということか。
「如月と柴の関係はどうなんですかね?」
「詳しいことはわかりませんが、柴はずっと英国生活をしていたそうです。娘さんがひとりおられたようですが、彼女の養育権は柴が持っていたようです」
「じゃあ、そういった部分で揉めていたんですかね?」
「どうですかね。もう少し情報を集めないとなんと言えませんが、まあ、羽田で確保できれば分かるでしょう」
「そうですか、何時の飛行機なんですか?」
「9時です。今、8時ですから、そろそろ確保できたはずですが」
そこへ昨日見かけた女性刑事の冷泉が駆け込んでくる。
「係長、如月は羽田に来ていません」
「え、飛行機に乗らなかったのか?」
「搭乗締め切り時刻になりましたが、来なかったようです」
「まさか、逃げてるのか・・・」保科がつぶやく。
島田が冷泉に指示する。
「如月は車で移動してるんだよな」
「そのようです。白のポルシェカイマンです。マンションの駐車場にはありませんでした」
「Nシステムを使わせてもらえ、行方を追うんだ」
「わかりました」冷泉がどこかに駆けていく。
保科はその若さを少しうらやましく思う。彼女も寝ていないはずだがそんなそぶりも見せない。歳は取りたくないものだ。こっちは眠くて仕方がない。隣の宮本がつぶやく。
「若いなあ、あの勢いが欲しいな」
「はあ、宮本、お前いくつだっけ?」
「今年で30歳ですよ」保科が拳骨で宮本の頭を小突く。
「ああ、保科さんパワハラですよ」保科は無視して顔を洗いに行く。
3
如月はカイマンを大井ジャンクション近くの駐車場に乗り捨てる。
この車はいつまで駐車することになるのか、駐車料金が痛いななどと思いながら、最寄りの駅に急ぐ。とにかく時間が勝負なのだ。
京浜急行の立会川駅に到着し切符を買う。スイカなどを使うと履歴が残り、足取りを掴まれる可能性が高いので、現金で切符を買ったほうがいいはずだ。スイカの履歴検索は瞬時に判明するが、防犯カメラだと確認作業もあり、警察にこちらの動向がわかるまで数時間はかかるはずだ。
みゆきが心配そうに聞く。
「どこまで行くの?」
「うん、成田だ。千葉県の成田」
「成田?そこから飛行機に乗るの?」
「いや、そこに知り合いがいる」はずだ、を付けなかった。
みゆきに最低限の荷物をリュックに移させて、残りはキャリーバッグごと車に残す。
いまや時刻は8時過ぎで電車はラッシュとなっていた。まあ、混んでいた方が人目につきにくいだろう、そういった面でも電車で正解だろうと思う。みゆきは久々の東京の満員電車に面食らっているようだ。
「ロンドンにも電車はあるよな?」
「あるに決まってる」と言いながらもここまでのラッシュは初めてのようだ。確かにこの時間は一番、混みあってるかもしれない。特に都心に向かう方向だからなおさらだ。如月も普段は車通勤なので、身動きが取れないほどの混雑は久しぶりだ。
品川で乗り換え、JR横須賀線で千葉に向かう。ここまで来るとさすがに都心からは反対方向でもあり、車内はそれほど混まなくなった。
みゆきは先程から言葉もなく考え込んでいる。少し心配になる。
「母さんはどうしたんだろうね」
「ママがこっちに来る飛行機で突然、話し出した」
如月はみゆきが初めて長い言葉を話したことに少し驚く。
「ママは殺されるかもしれないって・・・」
いったい、どういうことなのか、如月は驚愕の事実に驚くも黙って聞いている。
「私にあの瓶を渡して、とにかくこれを何がなんでも届けるようにって言った。そして世界の秩序を変えなさいって」
「いや、それなんだが、その世界の秩序って何なのかな?その理由はわからないの?」
「教えてくれなかった。ただ、あの瓶にはママの夢が詰まってるんだって」
「ママの夢・・・」
美月はその夢を託したのか、別れた男に?あいつからあれほど貶されていたのにどういうことかとは思うが、もしかすると根っこの部分では信頼してくれていたのかもしれない。
それにしても細かい話をみゆきにもしていないようだ。なぜなのか、それがよくわからない。そうなると、ただ届け先と時間制限の話しかしていないことになる。
「あと、これもくれた」
みゆきがリュックから出したのは、大ぶりのロケットがついたネックレスだった。如月が青くなる。
「これ、ひょっとして俺があげたやつか?」
「え、まじ、キモイ」
父親のプレゼントをキモイとは何事だと思うがそんなことは言わない。
「でも大事にしろって言ってた」
昨日夢で見た、俺が美月に最初にあげたプレゼントだ。ロケットに写真を入れて渡したはずだ。それも自分の写真を入れたと思った。たしかにそれを娘が見るとキモイかもしれない。大事にしろとはそれなりに美月にとってもいい思い出だったことはわかるが、単なる嫌がらせじゃないかとも思う。それとも美月は形見のつもりで渡したのか、そうなるとやはり美月は死を意識していたのか・・・。
「そのロケットの中身を見たのか?」
「え、中身って?」そう言いながらロケットを開けようとする。
「ああ、いい、いい、開けないで」如月はみゆきを止めようとする。
「あれ、なんか、壊れてるみたい。開かない」
如月はほっとする。
「そういえば、ママの研究って何だったんだ?」
「私はよくわからないよ。遺伝子の研究だと思うよ。そういう研究所だったから」
美月は何を研究していたのだろう、仕事の話はお互い滅多にしてこなかったから、何もわからない。
今にして思えば東日本大震災が一つの転機だったように思う。美月の両親が津波の被害にあい、彼女の故郷が原発事故で無くなった頃だ。あれから、美月は研究に没頭し、俺も起業に掛かり切りになる。結果として夫婦の会話が減り、溝が深まっていった。震災は夫婦にも亀裂を残していった。
横須賀線の車窓から見える景色が徐々にのどかになってきた。人工建築物が畑に変わっていく。そして千葉駅で成田線に乗り換える。
そこで再びみゆきからスマホを借りる。ここで如月はふと気付く。これは海外製のスマホだ。どうやって日本で使えてるんだろ。
「このスマホ、イギリスで買ったやつだろ、日本で使えてるよな。どうしてだろう?」
「知らない。ママがなんかやったみたい」
なるほど、美月はどうやったんだろう、シムカードを交換したのだろうか、となると警察はこのスマホから位置情報がわかったりしないんだろうか、その辺は如月にはよくわからない。まあ、しかしスマホがないとこれから行くところもわからないから、限定的に使うのは仕方がないとあきらめる。警察もすぐには特定できないはずだ。しかし、これ以上使うのは止めたほうがいいだろうと思う。みゆきにも釘を刺しとかないと。
ここでみゆきがあらためて如月に聞く。
「で、どこ行くの?」
「ああ、お父さんの会社って民泊を扱ってたんだ。民泊っていうのは、わかるかな。ああ英語だとヴァケーションレンタルだな。わかるか?」
みゆきは英語を聞いてうなずく。
「成田にもその拠点があってね。そこを任せた人のところに行くんだよ」
「その人が北海道まで連れて行ってくれるの?」
「そうだな。手助けはしてくれる」はずだ・・・を付けなかった。
その後、成田のフリーダムステイ事務所に電話をするが、その人物、淵は不在のようで出なかった。成田に着いて再度、電話をするしかないかとスマホをみゆきに返した。
4
捜査一課保科と宮本は、柴美月が講演を予定していた北山大学の大森記念ホールに来ていた。
ここは事件のあったホテルからも近く、講演などで使うことが出来る多目的ホールで、相当に大きな建物だ。実際、今回講演を予定しているセミナー会場などは、コンサートでもできそうなぐらい広々としていた。学会の規模が大きいということだろう。
保科達は少しの仮眠は取ったがほとんど寝ていないため、二人とも先ほどから欠伸が止まらない。ここに来たのは柴がどういった要件で来日、講演を予定していたのかを確認するためである。また、昨日接触していた人物の確認を行う意味もある。
「えーと、誰に会えばいいんだっけ?」保科が宮本に聞く。
「えー、保科さんが知ってるとばっかり思ってましたよ。ちょっと待ってください」
宮本が講演パンフレットを出してくる。
「今回の学会の責任者は北山大学医学部の主任教授・・・」
「どうした?」「これなんて読むんですか?」
宮本がパンフレットを差し出す。小鳥遊とある。
「お前、これも読めないのか?」
「ことりあそびですか?」宮本がそのまま言う。
「馬鹿、そんな名前あるか、たかなしだ。鷹がいなくて小鳥も遊べるということだな」
「へー難しい名前を付けますね」
寝不足で保科は突っ込む気も起きない。
二人でホールに入る。会場の入口付近に受付窓口があった。保科はそこへ行き、座っている女性に話しかける。
「すみません、警視庁の保科と申します。小鳥遊教授と面会したいのですが」
「たかなし先生ですか、アポイントはお取りですか?」
これはすでに警視庁から連絡済だ。「はい、警視庁から連絡しています」
「わかりました。少々お待ちください」そう言うとどこかに行く。
宮本は再び大あくびをしている。寝不足なのは仕方ないがこいつの緊張感の無さには閉口するな。
しばらく待つと先ほどの女性が戻ってきて話す。
「小鳥遊先生が控室に来てくれとのことです。そちらを出て頂いてまっすぐ進んで右側にある部屋です。小鳥遊という名札が出ていると思います」
彼女が指さす方向に進む。確かに控室があり名札が入口に表示されていた。保科が扉をノックする。
「失礼します」
中からどうぞという言葉が返る。保科が部屋に入ると、白髪で度の強いべっ甲ぶち眼鏡をかけた男性がいた。70歳近いのだろうが貫禄がある。
「小鳥遊です。すみません、今、学会中でバタバタしています。また、すぐ午後の部が始まりますので、すみませんが、それほど時間は取れません」
なるほど、確かにテーブルに書類が散らばっており、小鳥遊はそういった書類を見直している。相当に忙しそうだ。
「警視庁の保科です。こちらは同じく宮本です」宮本が挨拶する。
「お時間も無いようですので、単刀直入に話をさせてもらいます」
「はい、どうぞ、柴先生の件ですよね」
「ええ、そうです。今は事件と事故の両面で捜査しています」
小鳥遊が怪訝そうな顔になる。「事件ですか?」
「ええ、確認の意味もあります」その言葉に小鳥遊はうなずく。「柴先生は今日、講演される予定だったんですよね」
「そうです。今日の朝一番の予定でした。そのあとすぐに出かけなければならないという話でした。いや、実はその最初の講演が無くなったもので、その調整もあって今は天手古舞でしてね」
「なるほど、それは大変でしたね。それで、柴先生はそのあと出かける予定だったんですね」
「はい、そうです。終わったらすぐに次の予定があると言っておられました」
「どちらに行くつもりだったんでしょうか?」
「いや、それについては聞いていません」
「そうですか、あのそういったことはよくあるんですか?」
「次の予定を入れるという話ですか?」保科が頷く。
「一般的にはあまりないです。今回の学会は三日間の開催で、最終講演後にシンポジウムもありますから、また、講演内容について質疑応答がでますからね」
「なるほど」
柴のこの対応はイレギュラーだったということか、保科はメモする。
「柴先生とは会われたんですよね」
「はい、昨日の夕方です。ホテルのロビーで打ち合わせしました」
「会われた方はどなたになりますか?」
「私と今日の議事進行をおこなう北山大学の新庄教授です」
保科はメモする。
「それ以外の方はどうですか?」
「私が知る限りはそれだけかと、柴先生もお疲れのようで部屋で休息を取るというお話でしたよ」
「そうですか」
ホテルでの聞き込みと同じだった。柴の面会は大学関係者だけだったようだ。ホテルからも外出した記録は事故の時間以外にはなかった。
「それで、柴先生の講演内容はどういったものだったんですか?」
小鳥遊はその質問に考え込むように、「それがね。詳細は講演の中でと言う話だったんですよ。まあ、今回は遺伝子研究の学会ですから、それに準拠した内容だとは思います」
「なるほど、我々には遺伝子などはよくわからない分野なんですが、柴先生はイギリスの方で研究されていたと聞いています。具体的にはどういった内容なんでしょうか?」
「柴先生の研究内容ですよね。元々、彼女は北大時代には微生物を扱っておられたんですよ」
「微生物ですか。プランクトンとかそういったものですか?」
「どうかな、私も専門じゃないんでよくわからないんですが、もっと小さいものだったと思いますよ。単細胞生物とかの」
「なるほど」保科はそういっては見たものの、何の話か全く分からない。これも一応メモする。
「それで遺伝子ですか?」単細胞と遺伝子が上手く結びつかない気がする。
「そうです。英国では単細胞の遺伝子研究をやっていたそうですよ。組み換えとかの研究だそうです」
保科は増々わからなくなる。隣の宮本の様子を見ると、さらにわからないようでほとんど目が開いていない。寝ているようにみえる。これなら目黒署の冷泉を連れてきた方がよかったかもしれない。
保科が本題に入る。
「それで、ぶしつけな質問ですが、柴先生にどなたかが危害を加えるようなことは考えられますか?」
小鳥遊はいよいよ困った顔になる。
「それはわかりません。無いとは思いますが、今回も特別講演の位置づけだったんですよ。柴先生には私も数回しかお会いしていないんです。フランシス・クリック研究所に案内を出したところ、柴先生から発表したい案件があるということで、急遽、今回の運びになりました。英国でももっとも遺伝子研究には権威のある研究所ですからね」
「なるほど、そういう経緯ですか、わかりました。それではこちらからイギリスの研究所に確認を取ってみます」
「ええ、そうですね。そのほうがいいでしょう。柴先生は確かもう5年も向こうで研究されていたようですから」
保科達は聞き取りを終了する。車に戻りながら宮本が話す。
「どうですか、筋読みの保科さんなら何か見えて来てませんか?」
保科の通称であるが、彼の特技でもある。捜査一課に配属される前の所轄の刑事課にいた頃から、色々な情報を元に独特な考えで真相に迫ることが出来ていた。保科にはそういった勘のようなものがあり、それもあって、所轄から捜査一課への転属を認められたのだ。
「どうかな。まだ情報が少ない。それと遺伝子なんていうのは俺のテリトリー外だ」
「まあ、そうですね。でも事件だとしても研究関連じゃなさそうですね。恨みを持つような人物もいなさそうじゃないですか、やはり元旦那の如月が怪しいというところですかね」
「どうかな。まあ、その可能性はあるとは思うが・・・。それで如月の行方は分かったのか?」
「確認してみます」宮本が目黒署に電話をする。
「宮本です。冷泉さん、どうなった?」
おいおい宮本、いつの間に冷泉の電話番号を聞いたんだ、と違う意味で保科が驚く。ちなみに宮本はこういった行動の早さには定評がある。要らない特技かもしれないが・・・。
「え、乗り捨ててあった。そうか、じゃあ電車に乗ったのか?はい、なるほど。わかりました」通話を終了する。
「大井ジャンクション付近の駐車場に如月の車があったそうです」
「乗り捨てたんだな」
「そのようです」
「だとすれば、逃げてるってことになるのか」
「そうですよ。間違いないです」宮本の鼻息が荒くなる。
「その後の足取りはわかってるのか?」
「今、鉄道関係者への聞き込みと、防犯カメラの解析で追っかけてるそうです。京浜急行の駅が近くにありますので、そこからどこかに移動しているはずです」
「じゃあ、やっぱり北海道なのか?」
「どうですかね」
「新幹線か、もしくは羽田以外の空港から行くのか」
こうなると、考えうるすべての交通経路をつぶすしかなかった。
そのあと、保科は本庁に電話を入れて、柴美月が研究していたフランシス・クリック研究所への問い合わせを依頼する。
5
如月とみゆきは成田駅に到着する。乗ったのは成田行きの電車だったのでここが終点となる。電車の乗降口が開き、如月は用心深く下車する。ひょっとすると警察がいるかもしれないし、駅員にも情報が回っているのかもしれない。そう思って左右をそれとなく確認し、さらにはホーム上に怪しい人物がいないのかも確認する。如月が見る限りそういった人物はいないようだった。実際はそういった行動を取ってる如月のほうが、十分怪しくみえるのだが、結局、怪しい人物はおらず、如月はほっとする。
そして駅のホームでみゆきの携帯を使って再び電話をかける。
「もしもし、フリーダムステイの如月です」
電話から聞こえる声はお目当ての人物だった。
『如月さんか、久しぶり、ああ、聞きましたよ、この度は大変でしたね。なんか会社を譲渡されたとか』
「はい、ご迷惑をおかけします」
『いえいえ、こっちは大丈夫です。別会社になっても、今のところやることは変わらないように聞いています。それより如月さんはどうされるんですか?本来だったらこちらから挨拶に行くべきだと思ってたんですよ』
「ありがとうございます。それには及びません。あの、それで実は淵さんに折り入ってお願いしたいことがあるんですが・・・」
『私にですか?何ですか?』
「電話じゃあれなんで、会って話をしたいんですが」
『はい、いいですよ。どちらに行きましょうか?』
「ああ、それはありがたい。実は今、成田に来ているんです」
『え、ああ、そうですか、じゃあ迎えに行きます。成田駅ですか』
「そうです」
『わかりました。東口のロータリーで待っていてください。すぐ行きます』
すみませんと言って電話を切る。みゆきが心配そうに見ている。
「今、来てくれるそうだ」
如月はみゆきにスマホを返し、これからはスマホの使用を控えるように言った。いつ警察がスマホから追跡を開始するかわからないからだ。
電話した人物は淵 敦彦(ふち あつひこ)という。彼は如月がフリーダムステイを起業した頃からの付き合いである。会社で成田方面の管理人候補を探していたところ、淵が応募してきた。その際に面接したのは如月だった。
当時、淵は50代半ばで身長は165㎝ぐらいだが、角刈りで体格がよく、見た目もそうだが物腰に凄みがあり、早い話がやくざではないかと思わせる人物だった。あまり過去のことを聞くのも憚られたが、経歴書には自衛官とあった。
田舎の方で農業でもしながら、副業でそういった管理人業務をしたいということで、実際会ってみると、人当たりも良く、英語も話せるとのことで、採用に至った。ちょうど、成田に一軒家の空き家があり、そこを管理人の家として、付近一帯の宿泊施設や民泊を契約した家庭との補助的管理業務をやってもらっていた。
宿泊客と民泊先の方でトラブルもあり、フリーダムステイ社として処理を行う必要性もある。それで各地にそういった管理業務をやる人間を置いている。成田周辺の管理地域に関しては、淵が顔を出すと大抵のクレーマーも意見を取り下げるようなことも多かった。また、調整作業もそつなくこなすし、英語が堪能で外国人との交渉もスムーズに出来ていた。
淵にしてみれば歳をいってからの定職で、さらには本人の希望通りの農業兼管理人という仕事だったため、それを斡旋した如月に恩義を感じていた。
淵は契約のあとに如月に言った。
「如月さんにはほんとにお世話になりました。色々職探しをしたんだけどね。歳も歳だから見つからなかったんですよ。助かりました。なんか困ったことがあったらなんでも言ってください」
まあ、普通に聞くとよくある愛想話ではある。如月はそれを真に受けてここまで来たわけだ。しかし、実際、頼れるのは淵ぐらいしかいなかった。人望がないやつはどうしようもないということだ。
それと淵と言う人物が醸し出すある種の雰囲気というものがあった。容姿はやくざのようだと言ったが、他の管理エリアと比較しても成田ではトラブルが極端に少なく、淵の人柄のせいなのか、旨く行くことが多かった。また、それだけではない何かがあったのだろうが、如月にはそれが何かはわからなかった。
淵に言われた駅前の東口ロータリーで待つ。平日ではあるが人通りもあり、それなりに華やいでいる。成田は単なる田舎町といった風情ではないようだ。近くに成田山新勝寺もあるので観光地として活気があるのかもしれない。
10分ほど待つとシルバーの軽トラックがやってきた。
「え、あれなの?」みゆきが言う。そうだな、多分あれだ。
軽トラが如月の前で停車し、ドアを開けて淵が出てきた。しばらくぶりだが、農業に明け暮れているのか、以前よりももっと浅黒くなっていて、まさに農業ヤクザだ。
「如月さん、お久しぶりです」淵がにこやかに挨拶する。
「こちらこそ、お久しぶりです。ああ、こっちは娘のみゆきです」
みゆきが不審そうな顔でお辞儀だけする。
「ああ、娘さんですか。じゃあこの車じゃ狭かったかな。申し訳ない」
淵はそう言ってから、少し不思議そうな顔をする。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。ずいぶん大きなお嬢さんがおられるんですね。とにかく乗ってください」
そう言われ、如月とみゆきが狭い軽トラの助手席に座る。みゆきが真ん中に座るがけっこうきつい、如月との間隔が取れないのでみゆきが嫌がっているのがわかる。おいおい、娘じゃないか、と言いたいのをぐっと堪える。
「じゃあ、行きますよ」淵はそう言うと車を発進させた。
そして県道のような割と広い道を走っていく。
「如月さん、それでお願いとは何でしょう?」
「はい、実はちょっと困ったことになりました」
如月が何も言わないのに、軽トラが県道から脇に逸れて、農道のようなところを走っていく。なぜ、わき道に入るのだろうと思ったところ、淵が周囲を気にかけながら話す。
「如月さん、何かやりましたか?」
「え、何のことです?」
「尾けられてますよ。ああ、後ろは向かないで」
そう言って如月が振り返るのを制止する。
「どういうことですか?」
「うん、どうなんだろうね。多分、ここまでずっと尾行されていたかもしれない。さっきの駅前のロータリーにも隠れていたし、今は車に乗ってついてきてます」
淵がさっき不思議そうな顔をしたのは、そういうことだったのか。
「いったい、どういうことですか、私にはまったく身に覚えがないです。警察ですか?」
「え、如月さん、警察に追われているんですか?」
「いや、多分、それは誤解なんです」
「誤解?」
「私が妻を殺したのではと思っているんです」
「奥さんを?」
如月がこれまでのいきさつを簡単に話す。
「なるほど、それで瓶を北大に届けるということですね」
「そうです。それさえ終われば、警察には誤解を解くつもりです」
「わかりました」
軽トラは再び県道に戻る。そして少し走ったところで、
「ちょっと、撒いてみるか。シートベルトしてるよね。ああ、お嬢ちゃんは如月さんが抑えといて」
え、どういうことと思った瞬間、淵は急に速度を上げてハンドブレーキを引き倒しながら急ハンドルを切る。タイヤが凄まじい煙と音を立てて、車が反転する。そうして一気に反対車線に移る。いわゆるスピンターンである。みゆきが悲鳴を上げる。軽トラでスピンターンって出来るのか。
対向車は自分の目の前に急に出てきた車に驚くが、ぶつかる寸前に軽トラは速度をあげ、ことなきを得る。さらに淵はそのまま反対車線を走る。すれ違ってすぐに後続の尾行車が見えた、黒のカムリだった。窓にはスモークがかかっている。乗っている人物は見えなかった。対向車が多く、尾行車は同じようにスピンターンは出来ない。どうやら淵はそういったタイミングを計っていたようだった。
軽トラは勝手知ったる地元の道なのか、すぐにわき道に入ると複雑なルートを走り抜ける。あまりのことに如月とみゆきは息ができないぐらいの状態だ。
しばらく走って農道を抜け、田舎道で止まる。周囲には山と畑しかない。淵が降りるように言うので全員が車から降りる。
「お嬢ちゃん、ちょっと荷物を見せてくれる?」
「え、どういうこと?」
「荷物に何か紛れているかもしれないから」
みゆきは恐怖で顔がこわばっている。震える手でリュックを差し出す。
淵は軽トラの荷台に青いビニールシートを敷いて、リュックの中身をざっと開ける。さらに工具箱の中からトランシーバのような小型の機材を取り出してきて、リュックとその中身を探りだす。どうしてそんなものを持ってるのか不思議だ。そして、化粧ポーチや小物類、雑誌などを順番に当たっていくと、なんと機器に反応があるではないか。それはみゆきが持っていたウサギのぬいぐるみだ。
淵はしばらくそのぬいぐるみを触って、何かに気付いたようだ。
「ちょっと切るよ」そう言うと工具箱からサバイバルナイフを出して、ぬいぐるみに切れ目を入れた。ナイフを持ってることにも驚いたが、彼が中に手を入れると、本当に黒い小さい物体が出て来るではないか。
口に指をあてて話さないように指示すると、その物体を如月達に見せる。小さな黒い四角い物体だった。そしてその小さな物体を農道のわきに捨てると、荷物類をリュックに戻してみゆきに渡す。みゆきは呆気に取られている。
「GPS発信機だな。ご丁寧に盗聴器もついている。悪いな。ぬいぐるみは後で直してくれ。よし、出発するよ。車に乗って」
呆然としながらみゆきと如月が車に乗り、すばやく軽トラは発進する。
「淵さん、どういうことですか?」
「警察が発信機を仕掛けたのかな、いや、やつらはそこまでしないはずだな」
警察ではないものが、そういったものを仕掛けるとはどういうことなのだろう。
「どういうことですか?」如月は訳が分からない。
「まだ、はっきりとは言えないが、誰かがお嬢ちゃんの行く先を気にしているということだね」
この人は何を言っているのかが、よくわからない。いったい、みゆきに誰がどう絡むのかが見えてこない。ロンドンのストーカーなのか。
「瓶を探しているのかな」
「いや、だから誰なんですか?」如月が質問する。
「それはわからない。お嬢ちゃんはどこから来たの?」
「ロンドン・・・」みゆきが恐る恐る言う。
「え、海外か、じゃあお母さんもイギリスから来たのか・・・」
みゆきがうなずくと、さらに淵が深く考え込むようになった。
しかし、この淵と言う男は何者なのだろう、どうして尾行に気が付いたのか、そしてGPSを見つける機器を持っていることも不思議だ。如月は聞いてみる。
「淵さんはいつもああいった機器を持ち歩いてるんですか?」
「え、ああ、さっきの発見器か、あんなの安いもんだ。だって民泊施設だってそういったものをいつ仕込まれるかわからないだろ、用心のためだよ。俺は部屋を点検する際にはいつも使ってるよ」
民泊でそこまでするのか、会社のマニュアルにはないぞ。
「じゃあ、今まで発見したこともあるんですか?」
「いや、それはない」やっぱり、じゃあ要らない気がする。
「それと成田の駅で尾行があったなんてよく気が付きましたね」
「ああ、民泊の管理人をずっとやってるからね。周囲の状況を観察する癖みたいなものがついたんだよ。職業病だな」
どう考えてもそんなことはありえないと思うのだが、これ以上聞いても答えは出そうもないので如月は諦める。あらためて淵と言う人間には何かあるとは思う。
彼がどうするのかと思っていたら、再び県道に戻ってしばらく走ると、今度は道路沿いの中古車販売店に入る。100台以上の車が置いてあり、この付近でも大きい販売店のようにみえる。県道沿いにその店ののぼりがたくさん棚引いている。
「この軽トラはもうばれてるから、車を変えるよ。ちょっと待ってて」
そう言うと淵は走って店内に入る。如月達が軽トラから見ていると店の中で店員となにやら相談しているようだ。その様子からここの店員と淵は顔なじみのようだ。
「誰なの?あのおやじ・・・」みゆきが話す。如月が聞きたいぐらいだ。一体全体何者なんだ。
「淵さんはね。おとうさんの会社で成田周辺の管理人をやってる人なんだけど、元自衛官と言うことぐらいしか知らないんだ」
「管理人ってみんなあんななの?」
「いや、そんなことはない。でもなんか不思議な人だな」
淵が店から出て手を振っている。こっちに来いということらしい。如月たちは淵のところに行く。
「何とか話をまとめたよ。ああ、如月さん後でいいから車の代金出してくれるかな?」
「はい、もちろんです」あんまり高いのは厳しいけど。
販売店の男性が出てきて、案内してくれる。販売店の奥の方に置いてあるシルバーのカローラだ。販売店の男がキーを使って扉を開けて、値札などを外していく。ちなみに値札は28万円だった。
男が淵にキーを渡す。
「じゃあ、手続き諸々はこっちでやっとくから、淵さんの軽トラは隠しとくんだよね」
「そうなんだ。悪いね。それと俺たちのことは内緒にしといてくれ。ひょっとすると聞きに来るやつがいるかもしれない」
「大丈夫ですよ。個人情報ですから」そう言って男はにやりと笑う。
「うん、よろしく頼むよ」
男は淵に親指を立てる。なるほど、それなりの信頼関係がある人のようだ。
「それと着替える場所を貸してくれるかな?」
「え、ここで着替えますか?」
「出来ればそうしたい」
店員ではなく、多分、この人は店主だ。従業員用なのか奥の更衣室らしき場所を提供してくれた。
淵に言われて如月とみゆきは着替える。如月は背広を脱いで、トレーナーとジーパンになった。みゆきもオーバーサイズのシャツとハイウエストのパンツに着替える。今時の中学生はませてる。これはロンドンの流行なのか。
淵が言うには、いままでの服装は露呈しているので、少しでもわかりづらくしたいそうだ。まあ、警察からも追われているので好都合だとも思った。さらに如月は背広からラフな格好になったのでその分ずいぶん、楽になった。
「如月さん、じゃあ出かけよう。細かい話は車で」
「はい、わかりました。色々ありがとうございます」
車に乗り込んで販売店の店主がお辞儀をする中、カローラは発進していく。
運転しながら淵が言う。
「まあ、大丈夫だと思うよ。それなりに信用できる男だから」
何が大丈夫なのだろうか、如月は何かとんでもないことに巻き込まれている事実に、今更ながら気が付いた。
6
保科達は通称桜田門、本庁の捜査一課強行犯捜査第三係に戻る。
これまでの経過報告を係長におこなうためである。係長は清水と言う男で保科と同じ歳である。保科に出世の目はないが、清水にはまだその道筋がある。清水はあこがれの捜査一課課長を目指している。
「事故か事件かはまだ判明しませんが、目黒署鑑識の報告から見ると事件性が高いように思います」
すると清水が資料を見ながら話す。「司法解剖はこれからやるんだな」
「ええ、そうです。ただ、鑑識の報告だと致命傷は首の骨折および後頭部の脳挫傷です。階段を後ろ向きに倒れたようです。足を踏み外したにしては不自然です」
「酒でも飲んでたんじゃないのか?」
「それも詳細はこれからですが、ホテルの話ですとそういった形跡はないようですし、遺体からアルコール臭もしなかったそうです」
「なるほどね。それで容疑者は?」
「現在、別れた夫の行方が分かっていません。容疑者というほど絞り込めていませんが、警察から逃げている節があります。北海道行の航空券を購入していましたが、乗らずに電車で移動した模様です」
「つまりこっちの動きを読んでるのか?」
「そこまではわかりませんが、確保されたくはないような動きをしています」
「なるほどな。十分怪しい訳だ。それで今、どこにいるのかはわかっているのか?」
「まだです。今、防犯カメラを解析中です」
「それだと時間がかかるな。他にわかっていることは?」
「亡くなった柴美月の入国記録を確認したところ、娘が同行していたようです。空港税関の確認も取れました」
「娘?」
「ええ、それでその娘も行方不明です」
「どういうことなんだ?」
「それもよくわかりません。それと柴が在籍していた英国のフランシス・クリック研究所に問い合わせをしたところ、彼女の研究室で火災が起きたそうです」
「はあ?どういうわけだ」
保科も答えようがない。実際、何がどうなっているのか調べれば調べるほど、訳が分からない事件になる。そこに宮本がやってきた。
「係長、今、立会川駅の防犯カメラ画像を解析していましたが、如月と同行している女性はどうやら娘のようです」
「はあ?行方不明の娘が如月と一緒にいるのか?どういうことだ」
保科も宮本も返答できないで黙っている。清水は諦めた。
「まあいい。とにかく、如月の確保が最優先だ。まずはそこからだ」
保科達が了解して、捜査に戻る。しかし、足取りを追うにしても、どこから手を付ければいいのかが見えてこない。
保科は自席に戻り、宮本と確認をする。
「娘だというのは確かな情報なのか?」
「ええ、駅の防犯カメラ画像がこれです」
そう言いながらパソコンで画像を見せる。確かに如月と若い女性が一緒に歩いているのがわかる。
「それでこれが娘の写真になります。ロンドンの日本人学校から送ってもらいました」そう言いながら見せた写真と防犯カメラ画像の女性は同じ人物に見える。
「娘がどうして別れた父親と一緒にいるんだ」
「どうしてなのかな、可能性としては親権で揉めた挙句、奪取したのかもしれませんね」
「いや、それはおかしいだろ、如月の親から聞いた話だと、離婚に関しては円満だったと聞いてるぞ。親権についても揉めてるような話は無いそうだ」
「そうですが、気が変わったとか、色々あるんじゃないですか?」
「いや、ちょっと待てよ。じゃあ娘が日本に帰ってきた理由はなんだ。母親の学会はわかる。でも娘が一緒に来る理由はなんだったんだ。それとどこに泊まったんだ。母親の泊ったホテルでもないし、おかしいだろ。いや、もしかすると如月のマンションに泊まったのか?」
「確認しますか?」
「そうだな。マンションの防犯カメラを見てみるか。それで、もしそうだとすると、どういうことになるんだ?」
「増々訳が分かりませんね」
筋読みの保科にしても、まったく状況把握が出来ていなかった。
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