世界の秩序をかえるもの

春原 恵志

第1話 発生

 近年、都内の桜の満開は、3月の下旬が当たり前になっている。これはやはり温暖化の影響なのだろうか、先ほど新宿中央公園を歩いた時も、昼休みにそこで昼食を取ろうと、お弁当を抱えた女性たちを数多く見かけた。花見をしながらの昼食なのだろうか、みんな楽しそうに談笑していた。その桜の中をひとり憂鬱な面持ちでここまで来たのだ。

「如月さん、それではこちらにサインをお願いします」

 西新宿の高層ビル内の会議室。地上150mはあるだろうその部屋で、如月覚(きさらぎさとる)は今まさに契約書にサインをしているところだった。

 今年で40歳、身長178㎝のやせ形で、どちらかというと整った顔でもあり、イケメンのほうだと思うが、最近はまったく浮いた話がない。中年にもなり肌艶が無くなり、モテキは過ぎ、中年臭が増してきたというところだろうか。

 会議室の窓から都内の街並みが見えている。世間はいつもと変わらない日常を過ごしているのか・・・。

 俺はこれですべてを失ってしまった。

 M&A仲介会社の担当者が満面の笑みを見せ、契約書を確認している。

「それではこれを持ちまして、フリーダムステイ社様から合点トラベル様への譲渡契約が成立いたしましました。本日はお疲れさまでした」

 合点トラベル、合点グループの旅行部門である。

 今や、飛ぶ鳥を落とす勢いで次から次へと事業拡大をおこなっているグループ会社で、テレビやウェブ上での広告も頻繁に見かける。

 如月の前に座るトラベルの代表取締役渡部は、どうみても如月より若い。おそらく30歳前半ではないだろうか、契約を終え、その渡部と形ばかりの握手を交わす。

「渡部さん、それではよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ」ここで渡部は含みのある笑顔を見せ、「それで如月さんはこれからどうされるんですか?」と宣う。

 まったく今時の若い奴は、こちらの気持ちを押しはかるということができないのか、自分が聞きたいことだけを率直に聞いて、意識せずにこちらの心をえぐってくる。しかし、如月はそんな思いを露ほども出さず、大人の対応を取る。

「そうですね。しばらくは喪に服します」というつまらない冗談を返す。

「はは、そうですか、まあ、がんばってください」渡部が愛想笑いを残し、忙しそうに会議室を後にしていく。

 残った如月は仲介業者の担当と挨拶をする。

「これで後はそちらにお任せすればいいんですよね」

「ええ、大丈夫です。手続き関係はすべて弊社のほうで行います。お任せください」

 この仲介業者は俺と同年代だろう、この時期は新年度を迎えるタイミングで、M&Aも大忙しだそうだ。契約書類を素早く鞄に入れている。

「じゃあ、よろしくお願いします」如月は帰ろうとする。

「はい、ああ、それでさっきの話ではないですが、如月さんはこの後、どうされるんですか?」また、その質問か・・・。

「先ほどの話のままですよ。実際、考えてないんです。まあ少し休みますかね」

「そうですか、弊社のほうで人材斡旋もやっておりますので、何かありましたらお声がけください」

「ああ、わかりました」

 そう言ってその場を離れる。如月はそうは言ったものの、今後のことを考える余裕はなかった。


 これでこの十年、必死に起業、運営してきた会社はあっさりと無くなってしまった。

 ちょうど10年前である。フリーダムステイという民泊を扱う会社を起業した。

 当時は2020東京オリンピックの宿泊需要や、海外からの旅行需要の拡充を目的に、政府主導で民泊を推進する動きが出てきていた。国として規制緩和が行われ、民泊市場が活性化するのを見越しての起業だった。

 さらに如月はIT企業に所属しており、アプリ関連には強く、これからはスマホアプリの時代だということで、民泊運営をアプリで展開することを思いついた。

 当初はその目論見が見事に当たり、2019年までは順調に事業拡大していく。業績も伸ばすことができた。最初は仲間3人での起業だったが、2019年の段階では社員30名からなる会社にまで伸張できた。この後、どこまで伸びていくのかと思ったとたんに、2019年末の新型コロナ騒ぎである。

 宿泊数が激減し一気に経営がおかしくなった。さらには景気が良かった時期に従業員を増やした反動が出る。人件費や維持費に金が消えていき、結果、赤字経営が続いていく。そしてついにここに来て蓄えも底をついてしまい、いよいよ経営が立ちいかなくなり今回の譲渡となった。

 持ち株を含めた経営権すべてを、合点トラベルに譲渡することで、赤字の相殺と従業員を含めた事業存続だけは出来ることとなった。もちろん如月には何も残らない。借金はないが貯金もなくなってしまった。あるのはローンの残った自宅マンションのみである。しかし、これもいずれは売却するしかないだろう。

 従業員への挨拶というか、感謝と経営失敗の謝罪は昨日のフリーダムステイ社、社長退任のあいさつで終わっており、今日からは社に行く必要もない。あとは後継の合点トラベルと仲介会社がうまくやることだろう。

 しかし、一体どこで間違えたのだろうか、コロナ禍のせいだけにはしたくないが、自分の運の悪さをつくづく痛感する。

 会社としての狙いはよかったはずである。来日客の増加によるインバウンド効果は間違いないはずだった。さらにアプリを使って、貸す側も借りる側も簡単な手続きで行える点も先見性が高かったと思う。事実、合点トラベルも譲渡契約で無理な注文も付けなかった。これは事業計画自体に問題がなかった証明ではないだろうか、それがなぜ、うまくいかなくなったのか、まあ、誰も面と向かって指摘はしないが、理由はあるのだろう。

 別れた妻なら一瞬で指摘するだろう。「あんたの人望のなさ」

 はいはい、わかってますよ。俺は人望がない。さらには人間的魅力もないし、経営手腕も頭もない。

 エレベータで地下の駐車場に行く。愛車のポルシェカイマンが待っている。

 昔から社長としてポルシェかベンツに乗るのが夢だった。結局、青年実業家としてはポルシェだよなと白のカイマンにした。ちなみにサブスクだけど・・・こいつも解約だな。

「あんたは見栄っ張りなのよ」また、別れた妻の小言が聞こえる。たしかにそうだな。お前の言う通りだよ。

 カイマンの気持ちのいいエンジン音がむなしく響く。やることもなく、とりあえず、自宅に戻ることにする。これからの人生設計はしばらく棚上げにして休養したい。とにかく疲れた・・・次に何かやるとすれば自宅の売却になる。


 如月の結婚は早かった。25歳で大学時代から付き合いのあった女性と出来ちゃった結婚である。その元妻とは大学のサークルで知り合った。如月は都内の2流私立大学で、彼女は一流国立大学だった。そんな不釣り合いの男女だったが、同じ弓道部だったため大会中に出会い、縁を深めることができた。

 知り合った時は如月が3年生で彼女は1年生だった。

 如月には無いものねだりというか、昔からインテリフェチで頭のよさそうな女性を好む傾向があり、彼女はそれにピッタリだった。弓道着で凛々しい女性はそれだけで絵になる。さらには黒縁眼鏡の才女なら猶更だったのだ。

 大会で何度か会うたびにきっかけを探しながら会話をし、徐々に距離を縮めていく。そしてなんとかデートにまでこぎつける。ちなみにこういったアプローチだけは得意なのである。あとは押しの一手でなんとか彼女にした。

 普通はこの後、大学卒業と同時にお別れとなるものだが、なんとなく関係は続いていく。

 彼女は一流国立大学に残り研究者の道を選ぶ。よって大学院からそのまま博士課程に進むことになった。如月は先見性だけはあったのか、伸び盛りのIT企業に就職し、持ち前の話術と軽快さで順調に出世していく。二人が会う機会もそれなりとなり、付き合ってるのかいないのかがよくわからないぐらいの関係となったところで、別れるつもりだった。ところが思いもよらず子供ができた。

 如月にしてみれば、避妊はしたので出来るはずもないと思っていたのだが、なぜか出来てしまった。

 さてどうしようかと考えているうちに優柔不断な性格が災いする。それと別れる理由もない訳で、なし崩し的に結婚となった。そして娘が誕生した。子供は可愛いし夫婦仲も悪くはなく、それなりに順調な夫婦生活を送ることになる。

 転機は夫婦お互いに訪れた。

 如月は東京都出身だが、妻は旧姓柴という福島出身の女性だった。名前を柴美月という。

 福島は南相馬市を故郷としていた。そして2011年の東日本大震災である。美月の両親が津波の被害で亡くなり、その後の原発事故により故郷そのものも失われてしまった。

 その反動なのか美月は前にもまして研究に没頭する。震災を忘れるためなのか、未来を目指したものなのかはわからないが、家庭を顧みることが無くなってきた。

 また、如月もちょうど起業を考えていた時期と重なり、同じように仕事にまい進する日々を過ごす。それでも二人の一粒種、みゆきの存在がかろうじて夫婦の関係を残すものとはなっていた。

 如月は震災の翌年に独立、民泊斡旋会社、フリーダムステイ社を起業する。仲間と一緒に起業したわけだが、代表取締役としては如月になった。これは単に資本金を如月が肩代わりしたに過ぎない。元来、人望のない人間である。社長が向いているわけではなかった。

 それでもフリーダムステイ社は順調に利益を上げることが出来、目論見通り2017年に民泊新法も施行される。そんな中、軽い性格の如月である。社長という肩書で女性受けが良くなり、モテキが来たと勘違いする。そして浮気である。関係先の女性に手を付け、関係を持ってしまった。そして案の定、感のするどい美月にそれがばれる。関係修復もままならず、2015年に和えなく離婚となる。娘のみゆきは6歳、かわいい盛りであるが、後悔は先に立たない。

 みゆきの親権は美月となり、如月には養育費とマンションのローンが残った。こういった離婚では、浮気した側が圧倒的に不利になるということだった。弁護士が心なしか笑顔でそう言った。

 さらに美月は都内の大学から北海道大学に転籍となり、娘とともに札幌に引っ越していく。元々北大からのお誘いがあったそうだ。ちなみに彼女の研究は微生物である。北大農学部はその研究では第一線にあるそうだ。それで増々疎遠となる。

 離婚についても如月は自分の意見をまったく言わなかった。浮気をしたのは自分であるし、申し開きもできなかったが、すべて美月の要望に従った。今考えるともう少し自己主張すべきだったのかもしれない。さらによくよく考えると、お互いに本当に離婚したかったのかも疑問だった。美月が離婚を言い出したのも、果たしてそれを切望したのかどうかがよくわからなかった。結婚もなんとなく、離婚も何となくだった気がする。そういったところが如月の情けないところだ。

 そして離婚を契機に如月の運が尽きてくる。

 一緒に起業した仲間が、相次いで優良企業の引き抜きにあい退社していく。当時はITの専門家は引く手あまただったこともあり、より収入が稼げる企業に転職していく。これは致したかないことかもしれないが、やはりここが経営センスや人望のない如月の真骨頂である。

 如月はそれなりには頑張るが、会社は徐々に以前の勢いに陰りが見え始める。そして2019年の新型コロナ騒動である。これでとどめを刺された。坂を転がるように経営がおかしくなる。一気に赤字幅が広がり、手の付けようがなかった。その結果が今回の経営権譲渡である。

 一方、元妻の美月は如月との縁が切れたことが幸いしたのか、以降は順風満帆であった。

 北大での実績が認められ、2018年には早くも准教授となる。異例のスピード出世である。さらには2018年には微生物の遺伝子研究のため、英国のフランシス・クリック研究所に出向する。クリック博士はDNAのらせん構造を発見し、ノーベル賞を受賞した権威で、研究所は英国政府の肝いりで設立された。まさに遺伝子研究のメッカである。そこで研究が出来るというのはまさにエリートの証でもある。娘のみゆきも共に渡英し、以降、如月は彼女たちとは帰国時の数回しか会っていない。ただ、高額の養育費のみ払い続けているのだ。

 養育費も勘弁してもらえないかな・・・。

 如月のカイマンが有明の自宅マンション地下駐車場に到着した。今は昼過ぎで先ほど軽食を取っただけだが、食欲もない。ほとんど這うように自室に戻る。

 如月は誰もいないマンションの寝室で着替えもせずに、ベッドに倒れこむ。


 駅前のスターバックスで一人カフェラテを飲みながら、人を待っている。季節は1月で東京では珍しい雪が降っている。昨晩から降り続いた雪はすでに10㎝は積もっていた。

 手元には袋に入ったプレゼントがある。すると店の入り口に美月が見えた。彼女に手を振る。白いコートの下に水色のワンピースを着た黒縁眼鏡の才女が、コートの雪をそれとなく払いながら俺のところに来る。

「待った?」

「いや、今来たとこ」本当は30分前には来ていた。

「この大雪で電車が遅れたのよ」

 いや、雪じゃなくてもいつも遅れるよなと思うが言わない。

 そして彼女も飲み物を買いに並ぶ。

 今日は美月の誕生日だ。

 美月がコーヒーを手に俺の前に座る。満面の笑みだ。

「私、雪って好きなんだ」

「そうなんだ。福島出身だから?」

「私の故郷は南相馬だからそんなには降らないよ」

「そう」

「福島は広いんだよ。北海道、岩手の次の広さ」

「へー、知らなかった」

「雪って汚いものを隠すよね。雪景色を見ると気持ちも落ち着くんだよね」

 なるほど、それはわかる気がする。すべてを白く塗りつぶしてくれる。気持ちもすっきりするかもしれない。

「美月、プレゼント」そういって袋を差し出す。

「え、何?開けていい?」俺はうなずく。

 美月が袋から箱を取り出し、それを開ける。箱からはネックレスが出てくる。ロケットペンダント付ネックレスだ。

「わあ、素敵」うれしそうに美月はそれを見る。ちょっとプレゼントとしては古典的かと思ったが、喜んでくれた。

「俺の写真でも入れて持っといて」

「じゃあ、二人の写真を入れようかな」

 美月が飛び切りの笑顔を俺に返す。なにか例えようのない幸福感が支配する。


 そして目覚める。ああ、夢か・・・あれはたしか付き合いだした頃か。美月への誕生日プレゼントだった。一番幸せだった記憶だな。

 はて、どのくらい寝込んだのだろうか、徐々に覚醒していくと、マンションの窓から見る周囲はすでに薄暗くなっている。やはりこのところの疲れが出たのだろう、けっこうな時間、寝入ってしまったようだ。それにしてもなぜ、目覚めたのだろうかと虚ろな状態でいると、ようやくそれに気が付いた。インターホンが鳴っているのだ。

 こんな時間になんだろう、宅急便ならマンション入口の受け取り場所に置くはずだが、何か書留の類だろうかと、鈍い頭でインターホンの画面を見る。インターホンの液晶画面にはなぜか若い女性がいる。誰だ、新手の風俗嬢か、いや呼んでないぞ、そう思いながらインターホンに話しかける。

「どちらさまですか?」

 液晶画面の女性がカメラの方向がわかるのか睨んで言う。

「わたし!」

 誰だ、私ってそんな奴知らんぞ。再び画面を凝視する。なぜかさっきの夢の別れた妻を思い出す。そういえば声も似ている。

「えーと、如月ですけど、そちらは?」

「馬鹿なの?みゆき」

 みゆきって、え、わが娘か、えーとそれがなぜ、こんなところに、何年ぶりかって、とにかく気が動転して頭が回らない。とりあえず、ロックを解除する。みゆきは画面から消えてこちらに向かってくるようだ。

 如月はどういうことかと考えを巡らすが、いっこうにまとまらない。

 みゆきとは美月が渡英してからは数回しか会っていない。最後に会ったのはたしか2年前か、その時、何を話したかもあんまり覚えていない。そうすると今はいくつになるのだろうか、ひょっとすると14歳になるのか、いやいやそんなことより、何しに来たのだろうか、そもそも今はイギリスにいるはずではないのか、それがなぜここ有明にいる。徐々に頭が働きだしていく。

 自室のインターホンが鳴り、急いで彼女を玄関まで迎えに行く。

 扉が開いて、そこにはやはりみゆきがいた。

 眼鏡は掛けていないが美月によく似ている。娘なので当然かもしれないが、理知的な顔と細面の印象がそっくりだ。グレーのパーカーにカーゴパンツをはいていて、今風ファッションだ。身長も160㎝は超えているかもしれない。背中にピンクのリュックサックを背負っていて、さらにキャリーバッグを引きづっている。

 みゆきは何も言わずに如月を除けるようにして部屋に入ってくる。振り返って如月が聞く。

「みゆき、どうした?」

「ママがメールしたでしょ」みゆきは振り返らずに返事する。

 ママがメールした。何のことだ。如月はいそいでスマホを探す。背広のポケットだったか、急いで寝室に脱ぎ捨てた背広を確認するが見当たらない。あれ、スマホをどこにやったのか、考えをめぐらすが一向に思い出せない。

 みゆきはまるで自分の家のように、リビングのソファに腰を下ろし、荷物類を置きだした。しかし如月を見ようともしない。

 所在なく先程の打ち合わせ時の鞄も開けてみる。やはり、見当たらない。

「スマホがない」

 みゆきが美月そっくりの声で首を傾けながら言う。

「はあ?」うわ、言い方もそのままだ。

「いや、スマホが見つからないんだ」

 みゆきは呆れてものが言えないのか、首を振りながら、「じゃあ、伝言伝えるね」

 そう言うと自分のリュックから何かの容器を取り出す。小さい瓶状のものだ。

「これを北大の円谷先生に届けるの」

 如月は要領を得ない。みゆきが何を言ってるのかがよくわからない。その顔を見てさらにみゆきは言う。

「これを北海道大学農学部の円谷慎吾教授に届けるの、それも72時間以内に」

 如月は増々意味が分からない。

「ちょっと待ってくれ。なんで俺がそれを届けるんだ?」

「ママは明日、学会発表があるの、これだけは早く届けるようにって言われてる」

「ママはいつ来るんだ?」

「明後日になるのかな、だから後で行くから先に届けてくれってこと」

 如月はきょとんと立ち尽くしている。

「もう!いいこと、これは世界の秩序を変えるものなのよ」

 美月と同じように如月を指さしながら、同じ顔のみゆきが言う。

 如月はみゆきが持っている瓶を見る。小さいプラスチック製の小瓶で化粧品でも入っていそうな大きさだ。瓶には蓋が付いていて、ケース自体は黒っぽい色をしている。

「ちょっと見せてくれるか?」

 うんざりした顔でみゆきが如月に瓶を手渡す。

 やはり、小さなプラスチック製の小瓶だ。中には液体のようなものが入っているようだが、黒い容器のため、中身は見えない。20?ぐらいの容量だろうか。如月はみゆきにそれを返して、「スマホを探してくる」そう言うとスマホを見つけようと地下駐車場に戻ってみる。

 車内を隅々まで探すもやはりそこにもない。記憶をたどってみるが、たしか契約を交わす前には見た記憶はある。そして上着のポケットに入れたと思った。しかし、今はどこにも見当たらない。いったいどこに消えたのだろう、必死で記憶を辿るが思い浮かばない。となると落としたのだろうか、まずは携帯会社に連絡をしないと、などと考えながら、エレベータで自室に戻る。

 それにしても美月は俺に何をさせようとしているのか。あの瓶はなんなのか。詳細はみゆきに聞くしかないのか。急いで届けないといけないのはわかる。しかしそれならばなぜ、郵送しないのだろうか、とにかくわからないことだらけだ。さらにもっとも不思議なのは世界の秩序とはなんだ。72時間以内とは。よくよく考えると頭が痛くなる。

 扉を開け部屋に戻る。まずはみゆきに今回の詳細を確認しないとならない。みゆきはソファに座って我が物顔でテレビを見ている。

 自分の娘ながら恐る恐る聞く。

「みゆき、母さんはなんで来れないんだ?」

 こっちを見ないでみゆきが答える。

「学会の準備で忙しいんだって、こっちもいい迷惑だよ」

 親父に会うのに迷惑とは何だとは思うが、怒っても仕方がない。

「それと72時間って何のことだ。具体的にはいつまでなんだ?」

 その質問でようやくこっちに顔を向け話す。

「ああ、イギリスからで、えーともう一日は経ってるから、明後日までかな」

「そうなのか、じゃあ急がないとまずいな。わかった。とにかくまずは札幌行の飛行機を予約しないと、ああ、そうかスマホがない。じゃあパソコンか」

 如月はノートパソコンのある部屋に行き、取り急ぎ札幌行の航空券を予約しようとしてふと気づく。航空券はみゆきと俺の分だけでいいのか、リビングに戻り、みゆきに確認するとそうだという。とりあえず、朝一番の飛行機を2名分予約した。

 如月はこれで差し当たりの作業は終わるが、そのあと、どうすればいいのかがわからない。ましてや2年ぶりの娘との再会だ。何を話せばいいのか。

 みゆきは相変わらずソファでテレビを見ている。どうも話したくないオーラが出ている気がする。まずは差しさわりのないところから話をする。

「明日の9時の飛行機だから、7時には家を出るぞ」

 みゆきがうなずく。相変わらずこっちを見ない。

「晩飯はどうする?食べに行くか?」

「いい」これは拒否された模様。「お腹すいただろ?」「空いてない」

 さてどうしたものだろう、食事と言っても作れるようなものもないし、カップラーメンぐらいしかない。それどころか料理もろくにできないのが実情だ。よって如月は基本、外食である。めったに自宅で食事をしない。今回はスマホもないので、いえ電で頼むしかないか、ピザの出前を頼むことにする。

「みゆき、ピザでいいか?」

 食べたくないって言ってたくせに頷いている。やっぱり腹は減ってるのか、本心は食べたくないじゃなくって俺と話したくないだろ、そう思いながら適当にピザを注文する。

 本来であればみゆきの話を聞きたい気もするが、先ほどから何を聞いても、はっきりと答えない。これも仕方がないのかもしれないとは思う。別れた親父だし、年頃の女の子だと父親を毛嫌いする時期なのかもしれない。そういった話を友人などからも聞いている。ましてやそういった娘に父親としてどう接するのがいいのかが、如月にはまったくわからない。

 深読みすると、これは美月が俺にくれたプレゼントなのかもしれないとも思う。娘と交流させてあげるといった催しなのか。いやいやそれは考えられない。あの美月がそんなことするとは思えない。あいつはデジタル人間でオンかオフしかない。気を回すといった行為は彼女に限ってはありえない。となるとやはり、あの瓶だ。あれを届けることを最優先に考えた結果だ。それを俺に託したということか、浮気男の元夫に?なんか胡散臭い話ではある。

 結局、話もせずにピザを食い、風呂に入るとみゆきは俺のベッドで寝てしまった。いやいや俺のベッドだぞ、寝ていいかぐらいは聞いてほしいものだが、こっちも眠くなりリビングのソファでふて寝する。

 美月にもそうだったが、如月はどうにも自己主張が出来ない性格である。本来であればもっと強く出て話を聞けばいいのだが、押し切られることが多い。これでよく社長業が務まるものだとも思うが、実際、うまくいかなかったからこそ譲渡になったのだ、などと居直る。

 美月に確認すればいいのだが、スマホもないし、どうも気が進まない。美月はみゆきの上を行きそうだ、などと脈略もなく考えていたら、そのまま寝てしまった。


 時刻は深夜零時過ぎ、東京目黒区にあるウエスタンホテル東京。

 恵比寿ガーデンプレイスが近くにあり周囲には公園が多く、ホテル周辺にも樹木がたくさん植えられている。地上23階建ての森の中にある都内有数の五つ星ホテルである。

 ここは恵比寿駅からも近いが周囲の環境のせいか、どこかの避暑地に迷い込んだような清々しい匂いがする。

 しかし今やこの周辺は物々しい状況になっている。若干高台にあるホテルから公園側に下る場所に煉瓦で出来た回廊階段がある。幅は8mはあるだろうか、高さは20mはあり、段数としても40段ぐらいはある。それが弧を描くように伸びている。

 今、その階段の下に白いテープがマーキングされている。警察が周囲をロープで囲っているため一般人は入れない。鑑識が数名、周辺を調べているところである。

 立ち入り禁止のロープを越えて2名の刑事が現場に入ってくる。そしてマーキングの近くにいる刑事らしき男性に話かける。

「本庁捜査一課の保科です」

 年配のほうの刑事が言う。40歳ぐらいだろうか、それなりに清潔感があり、やさぐれた雰囲気はない。どこか一般企業勤めのサラリーマン臭がする。そしてもう一人はもっと若い。おそらく30歳ぐらいかもしれない。こちらはまさに現代風の刑事ドラマにでも出てきそうな若者である。

「同じく捜査一課宮本です」

 それに応対するのは保科とは同年代の刑事である。

「目黒署刑事課の島田です。夜分遅くお疲れ様です」

 通常、所轄で処理する事件の場合、本庁から刑事が派遣されることはないが、殺人などの事件性がある場合は、確認の意味もあり、こうして本庁から刑事がやってくる。

 保科がマーキングを見ながら言う。そこにはすでに遺体は無い。

「ここで亡くなっていたんですね」

「そうです。この階段から転落したようです」

 保科が下から階段を見上げる。確かに長い階段で上から落ちた場合、打ち所が悪ければ、死ぬこともありうる高さだ。

「死因は何ですか?」

「司法解剖はこれからですが、首の骨が折れていたようです」

 保科達がうなずく。「目撃者はいましたか?」

「いえ、それはいなかったようです。通報があったのは落ちた後で、すでに息はなかったようです。一応、救急車で運ばれましたが、やはり亡くなっていました」

「落ちたときに叫び声なんかも出さなかったんですかね」

「どうですかね。この辺、夜は割と静かなんですよ。周囲に店もないですから、物音がすればわかると思うんですが、目撃者もいなかったですが、大きな声はあげなかったんでしょうね。声を聴いた人間はいなかったです。もちろん争ったような形跡もないです」

 そこで島田が現場の写真らしきものを見せる。保科はそれを受け取る。階段の下にあった遺体の写真だ。長い髪を後ろで束ねている女性が、うつ伏せになった状態で倒れている。眼鏡をしていたようだが、転落したために離れた場所にそれは落ちていた。

 別アングルで顔の写真もある。年齢は中年に差し掛かったぐらいだろうか、それにしては凛々しい印象が残る。

「どの辺から落ちたんですかね」

「はっきりとはわかりませんが、上の方から、恐らくですが、後ろ向きに落ちたと思われます」

「後ろ向きか、下まで転がりながら落ちたのかな」

「そうですね。鑑識によると最初の衝撃で首の骨が折れたようです」

 保科がその階段を上り、上まで行ってから下を見る。なるほど、この高さで後ろ向きだと防ぎようがない。

「この周辺に防犯カメラはありますか?」

「直近にはないんですが、周囲には数台ありますので、今、解析中です」

 若い方の刑事、宮本が階段を上って保科に近づく。

「保科さん、事故ですかね」

 保科はしばらく考えながら、「宮本、殺人を犯す場合、犯人にとって最も有利なものがわかるか?」

「はあ・・・」

 宮本が考える。しばらく待って答えがないので保科が言う。

「事故に見せかけることだよ。実際、転落事故はけっこう多いんだ。都内でも年間500件ぐらい発生している。ほとんどが事故死で処理されているが、その中の何件かは殺人なのかもしれない。こっちもすべてを捜査するわけにはいかないからな」

「じゃあ、これもそうなんですかね」

 保科は少し考えてから話す。

「実際、不自然だよな。この時間にこんな場所を歩いているのは、ああ、島田さん女性が亡くなった時間はわかりますか?」

 保科が聞くと島田はメモを確認しながら話す。

「はい、22時30分ごろだということです。人通りが少ないとはいえ、10分間隔ぐらいで人の行き来はありますので」

 保科は周囲を見回す。「この先は公園ですか?」

「そうです。ホテルの敷地になります。その先は一般道です」

 確かに女性がこの時間に一人で出歩くのは不自然だ。何かの動機付けがないと、ここまで出てこないだろう。

 保科は階段を降りて再びゆっくりと登る。そして考え込む。

「何か、ありますか?」下から島田が聞く。

「アルコールはどうですか?飲んでましたかね」

「いえ、ホテルで夕食を取られてようですが、飲酒はされていなかったようです。それと遺体からもアルコール臭はなかったです」

「靴もハイヒールじゃないみたいですね」先ほどの写真でみたことを確認してみる。

「そうです。ローファータイプです」

「仏さんはどこかに行くつもりだったんですかね」

「どうですかね。そこまではわかりません」

「でも、行くつもりだったら、階段を下るはずですよね。登っているのが不思議ですね」

「ええ、そういえばそうですね」

「登ったのか、あるいは呼び止められて振り返ったのかな・・・仏さんの素性はわかってるんですか?」

「はい、こちらのホテルに宿泊されていました。柴美月と言う名前で大学の先生のようです」

「大学の先生ですか、一人で宿泊ですか?」

「そのようです」

「盗難の事実は無いんですか?」

「はい、無いようです。カード類や金銭も含め、概ね残っています。細かい部分はまだ捜査中ですが」

「荷物はホテルに置いてあったんですか?」

「そうです。現場にはスマホと財布を持ってきたようです。それも残っていました」

「スマホか、通話履歴は?」

「それについては現在、確認中です」

 スマホで呼び出されたということかもしれない。

「ホテルの部屋も捜査していますか?」

「今、うちの担当が確認中です」

「じゃあ、われわれもそっちに行きますか」

 保科と宮本は島田を連れてホテルの中に入って行く。

 ホテルのロビーに入って驚く。さすがは五つ星の高級ホテルだ。ロビーも広々としており、まるで西洋の宮廷のような趣で、深い絨毯とともに周囲は黒い大理石がふんだんに使われている。

「映画にでも出てきそうですね」宮本が周囲を見ながら茫然という。

 確かに映画のロケにでも使われそうな豪華さだ。

 三人でエレベータに乗る。7階のボタンを押した島田に保科が話す。

「大学の先生の宿泊目的はわかってますか?」

「はい、ホテルに聞いたところ何かの学会のようです。この近くの大学で明日からあるようで、同じ目的で何名かが泊っているそうです。柴先生は実際に講演されるようでした」

「出席される方からも聴取は行っているのですか?」

「ええ、関係者については当たっています。後程、報告しますよ」

「そうですか。よろしくお願いします。となるとホテル代は大学持ちなのかな?」

「そうですね。多分、そうだと思います」

 ここだと一泊5万円はするのだろうか、保科には縁遠い話だ。家族旅行でも5万円は厳しい。

 7階に到着し、部屋に向かう。やはり廊下にも毛の深い、歩き心地のいい絨毯が敷き詰めてある。

 彼女の宿泊先の部屋の扉が開いており、こちらでも鑑識が作業している。

 島田が中に声をかける。

「お疲れさん、一課の方が見えられたぞ」

 部屋の中から若い女性が出てきた。すらっとしたモデル体型でスーツを着ており、思わず宮本が目を丸くする。長身でスタイルも良く、実際、どこかの女優のような美形である。

「お疲れ様です。目黒署刑事課冷泉です」

 島田が聞く。「何か見つかったか?」

「いえ、特に気になるようなものはありません。荷物も見た限りはすべてあるようです」

「誰かが入った形跡もないということですか?」保科が聞く。

「どうですかね・・・ただ、部屋はロックされていました」

「なるほど」

 ここで冷泉が少し思案顔で話す。「ただ少し気になることがあります」

「何かな?」島田が聞く。

「大学の先生ということですから、ノートパソコンなどがあったかもしれないのですが、それが見当たりません」

「パソコンか・・・」

 確かに講演するならあるのが当然かもしれない。

「それと、これは気のせいかもしれませんが、化粧品の類が少ない気がします」

「どういうことかな?」島田が質問する。

「女性であれば、化粧水や化粧落としなんかを小さなボトルにいれるものなのですが、それらがありません。ポーチはあって口紅やファンデーションはあるんですけど」

「それは変なことなのか?」男性にはピンとこない話なので島田が聞く。

「ええ、普通は持っていきます。まあ、コンビニなどでも買えますからあえて持ってなかったのかもしれません」

 保科はなるほどと思った。こういった視点は女性警官ならではといったところだろうか。そこに目黒署の刑事がやってきた。

「島田係長」

「おお、どうした?」刑事がメモを見ながら話す。

「スマホの通信履歴が判明しました。通信アプリを使ったようです。会話の中身については情報公開を依頼中ですが、相手についてはわかりました。如月覚という人物です。時間は22時20分になっています」

「まさに死亡推定時刻そのものだな。そいつの素性を当たってくれ」

「わかりました」

 如月覚、保科もその名前をメモした。

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