境目のない夜
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境目のない夜
「電車遅れまして、誠に申し訳ありません」
駅員の事務的な謝罪に背中を押されながら、ホームに降りて改札へ向かう。
べつに腹を立てたりはしない。
まぁ、しょうがないよね、みたいな。
私が今日電車を使う羽目になったのも、踏切で車が立ち往生したのも、それで電車が十分くらい遅延したのもぜんぶ、傍迷惑な雪のせいだから。
二二時半でも改札を出る人の数は意外に多くて、私はおとなしくその流れに従う。
なんとなく、皆さんお疲れさまです、と念じておく。
念じるだけだからなんの意味もないけど、私の気分は少し良くなる。
駅のロータリーは一面真っ白で、知らない場所に来たみたいだった。
少し進んだところにあるスーパーはいつも通り『深夜二時まで営業中』の垂れ幕を掲げている。
ありがたいな、と思いつつ、本当にお疲れ様です……、と呟かざるを得ない。
自動ドアをくぐると人工的な暖かさが私を迎えてくれる。
賞味期限間近の菓子パンコーナーをのぞいてみるけど、食パンひとつすらなかった。
この時間にはもう廃棄してしまうのか、と私はがっかりした。
食品ロスを減らせなかったことにではなくて、おいしいパンを安く買えなかったことに。
仕方がないから品も人もがらがらのお惣菜コーナーを見てまわる。
日の出ている時間より、照明が弱いような気がする。
きっと私の気のせいだけど、その暗さが心地よかった。
ふと、値引きシールが何枚も重ね貼られた五目春巻きに目が留まる。
二四〇円が一一〇円に化けているらしい。
採算とれるのかな、と不要な心配をしつつ手に取ってみる。
そのままセルフレジで百円硬貨と十円硬貨を一枚ずつ流して会計を済ませる。
リュックサックに直接しまうのは抵抗があって、ロールのポリ袋に入れて手で持った。
スーパーを出ると、左手に傘、右手に五目春巻き、正面は吹雪で、背後からは蛍光灯の明りという、ウェス・アンダーソンでも作らない滑稽な画面が出来上がった。
このなかを歩いて帰らなくてはいけないなんて、もはや呆れてため息が出る。
私は五目春巻きを上着のポケットに入れて、傘を広げて、積もった雪の上を歩き始めた。
境目がないな、とふと思った。
歩道と車道、点字ブロック、マンホール、側溝、他人の家の敷地、ぜんぶ白に埋まっている。
ついでに空も、夜なのに薄い灰色だった。
だから、空と地面の境界線も混ざり合う──、ことはないけど、曖昧なのはたしかだ。
一歩、一歩、柔らかい雪を踏みしめて歩く。
踏みつけられた雪がギュッ、ギュッと悲鳴を上げているのが可笑しかった。
自転車に乗った人が優雅に私を追い抜いていく。
と思ったら滑って転びかけていた。
降りたらいいのに、と他人事ながら嘆息する。
まぁたぶん、私も自転車があったら乗っているんだろうな。
そうして転んで、押して帰ればよかった、と雪まみれになりながら後悔するに違いない。
少し進むと、雪原と化した小学校のグラウンドが広がっている。
無邪気に落ちる雪は、私の母校も例外なく境目をなくしてしまう。
それなのに境界を主張するように高くそびえる防球ネットが、とてつもなく無粋だと感じる。
なかに入って、一切瑕疵のない白を荒らしまわってやりたい。
そうやって蹴散らした後、グラウンドの真ん中で大口を開けて笑ってやるのだ。
わっはっはっは。
そんな妄想を抱きながら、私は粛々と歩を進めて、やがて母校は私の視界から完全に消える。
歩道橋のある交差点までたどり着くと、目の前を車が一台、また一台と通り過ぎていく。
ブウゥーン。シャーァ。ジャラジャラ。デロデロデロ。
タイヤにチェーンをつけた彼らは、普段より多くの音を残して走り去る。
見慣れない雪を目いっぱい楽しんでいるのかもしれなかった。
境目のなくなった階段を上って、歩道橋を渡る勇気がない私は、ひどく怯えているんだろう。
私は立ち尽くして、赤信号が青に変わって、横断を許可してくれるのを待つしかない。
車の通行はぱったりとなくなって、十分安全に渡れるし、信号無視を誰かに咎められるわけでもない。
それでも私は待っていた。
素晴らしい遵法精神からでも、凝り固まった正義感からでもなく、ただなんとなく。
ふと、いつか父に言われた言葉が赤信号の光と重なったように感じた。
『ちゃんとしなさい』
ちゃんと。
ちゃんと?
ちゃんと…………。
音もなく、信号機の光人間はパッと切り替わって歩み始めた。
現実の私も、つられるように足を動かす。
そしてまた、踏みつけられた雪がギュッ、ギュッと悲鳴を上げる。
気づけば家まで半分ほどのところまで来ている。
亀みたいな速度でも、案外あっという間だな、という呆気なさと、まだ半分も歩かなければいけないのか、という無力感は両立する。
相変わらず世界に境目はないし、一一〇円の五目春巻きは上着のポケットのなかで徐々に熱を失っていく。
吐く息は白いが、すぐに雪と混じって見えなくなる。
後ろからザッ、ザッ、ザッとやけに急いだような靴音が近づいて来る。
しばらく後、コンビニ袋を提げて傘を差した人が、私をすたすたと追い抜いた。
私が亀で、あの人は兎。
そして物語はどんでん返しなどなく、すんなり兎が先にゴールして終わるんだろう。
それでいいじゃないか。
亀の私はゆったりとした歩みで、思う存分この境目のない夜を楽しんでやるのだ。
きっと、それは亀の私にしかできないことのはずだから。
私はそうして、少し得意な気分になる。
ふいに前を行く兎の人が足を止めて、雪が降りかかった街路樹の小枝を写真に収める。
出来栄えを軽く確認して、またザッ、ザッ、ザッと早歩きする。
彼我の距離はみるみる広がっていく。
私は無性に悔しくなって、立ち止まって、街路樹と同じか、それ以上に雪化粧を施された道路標識を何枚も写真に収める。
まるで、夢中であるかのように。
まるで、この非日常を誰よりも、満喫しているかのように。
そうでもしないと、私はただの歩みの遅い人になってしまうから。
認めることに、なってしまうから。
いつの間にか、家のすぐ近くまで来ている。
大通りからは外れた、車一台分の幅しかない狭い道に入る。
そこから少し歩けば、私は
家族は私に、おかえり、と言ってくれる。
私の夕食だってすでにテーブルに並べられて、ラップもかけられているだろう。
だのに、私はスーパーで格安のおかずを買っている。
ただいま、だってろくに言えない。
どうしようもなく、後ろめたさを感じてしまうから。
『あんたはいつになったら次の仕事を見つけるの?』
『アルバイトなんて、いつまでも続けられないでしょう』
『ちゃんとした大人にならなきゃな』
私の被害妄想かもしれない。
そうだったらよかった。
家族は向こう側、私はこちら側で、その間には深い深い谷のような境目があるらしい。
思わず苦笑が漏れて、五目春巻きのプラスチック容器がクシャッと音を立てた。
ふと後ろを振り返ると、道路一面の白いキャンパスの上には、私の残した足跡しか刻まれていなかった。
人通りが少ない道だからか。
私だけの足跡。
私だけが通った道。
なんとなく、携帯のカメラを向けて、シャッターを切った。
撮った写真を見て、我に返って呆れる。
なにをやっているんだろう。
こんなものは雪が見せる幻で、そもそも普段は縁のない雪に、私のテンションもおかしくなっているんだ。
けど、けれど、この写真は悪くない。
私は回れ右をして、また亀の速度で歩き出す。
現実はもう、すぐそこだ。
雪が積もった四、五段の階段を躊躇なく踏みしめ、玄関扉の鍵を開けて、取っ手に手をかける。
ほんの小さな声でもいいから、言おうと思った。
「ただいま」
境目のない夜 rei @sentatyo-
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