婚約者と猫と私

有沢真尋

第1話

「猫なの?」


 頭上から聞こえた少年の声。

 にゃあん、と寝台に座った白猫ダリアが愛想良く返事をしている。


(そんなわけないです)


 寝台の影で膝を抱えて座り込んでいたミリアは、心の中で返事をした。


 * * *


 その日、ミリアの部屋を訪れていたのは、サヴォイ侯爵家の令息レナート。子爵令嬢であるミリアとは、三年前、二人が十三歳のときに婚約が成立している。

 だが、顔を合わせたことはこれまでただの一度もなかった。

 原因は、ミリアの病気。

 婚約成立直後に高熱で倒れ、熱が下がってからも病がちで寝込むことが多かった。初めの頃は顔合わせの日程が何度となく話題に上り、「早く良くなるとよいですね」と周囲に言われ、ミリアもその気になっていた。

 しかし、回復が遅れて一年も経つ頃には、すっかり自分の婚約に関するすべてを厭うようになっていたのだった。


(こんなに体の弱い婚約者だなんて、いつ先方から婚約解消を申し入れられても不思議は無いわ。貴族の妻としての付き合いも出来そうに無いし、子どもを産めるかもわからないもの)


 レナートが、何かと優秀で社交界の話題をさらう好青年だと耳にするたびに、言いようがないほど気持ちが沈んでいった。


(きっと、舞踏会にも夜会にも婚約者が連れ立って現れないことを散々噂されているに違いないわ。いいえ、わたしの耳に入らないだけで、どこかの御令嬢をエスコートして、仲良くやっているのかもしれない。それならそれで良いわ。所詮この婚約は親同士が決めたもの。レナート様がわたしに義理だてする気になれなくても、責められることじゃない。後悔しないくらい若い日々を楽しんでくれていた方が、わたしも気が楽よ)


 誕生日をはじめとして、折に触れてレナートからは贈り物が届く。ミリアも形ばかりの礼状は出していたが、心の底では持て余していた。どうせいずれ婚約解消をするだろうに、下手に交流など持ちたく無い、という超絶後向きな理由で。


 三年は、瞬く間に過ぎた。

 そして、その朝。朝食の席で、父がミリアにろくな前置きもなく言ったのだ。


 ――今日、婚約者殿を我が家に招いている。部屋に引きこもっても無駄だから諦めるように。婚約者殿にはミリアの部屋に立ち入ることも許可している。逃げ場は無いと思え。


(とんでもない。たしかにここ一年くらいは体調もかなり良くなっていて、それでもどうしても会う気になれなくて回避し続けてきたけど! だからって力技過ぎる……!!)


 どうにか逃げ出せないか算段してみたものの、屋敷の使用人は揃って対応を言い含められていて、ネズミ一匹見逃さない完璧な体制。

 ならば部屋に立てこもってしまえと往生際悪く暴れていたら、なんと。本当に。

 レナートが、部屋まで案内されてきてしまったのだ。

 こうなっては仕方ない、とミリアは天蓋付き寝台そばの床に座り、身を隠した。

 そして、愛猫で大親友のダリアに、来客の対応をお願いしてしまったのだ。


 * * *


「はじめまして、ミリアさん。サヴォイ家のレナートです。今日はミリアさんのお見舞いに参りました。また日を改めてお伺いします。会ってくださってありがとうございます」


 さらさらと耳に心地よい低音で、レナートは白猫ダリアに話しかけている。ミリアさん、と。

 にゃあ、とダリアは律儀に返答をしていたが、ミリアとしては首を傾げざるを得ない。


(嫌味かしら?)


「三年前、あなたがご病気と聞いたときに、すぐに見舞いに来ようとしたものの、起き上がるのも難しい病状とのことで……。以来、ずっと人づてに話を聞くだけの日々でしたが、最近は以前よりずいぶん体調がよくなったと。私も嬉しいです。お会いできない間、手紙のやりとりだけでしたが、これからはこうしてなるべく一緒の時間を過ごせたらと思います」


 にゃあ。


「ふふっ。どんな方かと想像することはありましたが、まさか猫だなんて。嬉しい誤算だな」


 にゃあ~。


(誤算すぎるでしょう……っ!!)


 嫌味でなければまさかの本気? とミリアは不安になって、そーっと腰を上げて寝台の向こうをうかがう。

 目が。

 合った。

 確実に。

 寝台の反対側から、腰をかがめて猫に話しかけていたレナートと、ばっちりと視線がぶつかった。


 レナートは、噂に違わぬ好青年に見えた。黒髪に、きらきらとした黒瞳。通った鼻筋、微笑を浮かべた唇。派手さはないが整った容貌で、全体的に優しげで誠実そうな印象を受けた。

 その黒の瞳は明らかにミリアを視認していたが、すっとそらされた。そのまま、寝台にきちっと座っているダリアを見た。


「ミリア嬢はうつくしい方だとお聞きしていましたが、想像以上です。愛らしすぎて、胸がどきどきしていますよ。好きです、その白い毛並み。ぴんとしたお髭も素敵なアクセントですし、その目の輝きと言ったら」


 猫。

 完全に、猫の話をしている。


(もしかして、私のこと、見えてない……!?)


 そんなわけないのに、そう思ってしまうほど。

 レナートは、完璧にミリアを黙殺してダリアだけを見つめていた。

 それは去り際まで徹底されており、優雅に一礼をして「近いうちにまたお目にかかれますように」と爽やかに告げて退室していった。


 ぱたん、とドアが閉まる音がしてから、ミリアはがばっと立ち上がる。


「え、どういうこと……!? レナート様って、一体何ものなの……!?」


 * * *


「ミリア嬢。今日も一段とお美しくていらっしゃる。あなたの美しさは、もちろん私の手柄ではありませんが、鼻が高いと言うかなんというか。本当に会うたびに嬉しいですし、俗っぽくて申し訳ないんですけど、はやく知り合いにも見せびらかしたいくらいなんです。あ、こんなこと言ったら嫌われてしまいそうですね」


 初顔合わせより数えて、三度目の面会。

 その日は子爵邸の庭の四阿で、デート。気を遣って屋敷の者も近づかない中、レナートはベンチにちょこんと座った白猫のダリアに饒舌に話しかけていた。


 にゃあ。


 ミリアと物心ついた頃から共に過ごしてきたダリアは、十歳を超えて落ち着きのある猫。機嫌良さそうに饒舌に話し続けるレナートに、きちんと返事をしている。

 なお、ミリアも四阿のベンチにダリアを挟んで座っていた。よって、もしこの場を目撃した者がいたなら、それは若い婚約者同士の初々しいデートに見えたことは間違いない。

 実際には、レナートはダリアだけを見つめていたし、ミリアはミリアで決してレナートを視界に入れないようにしていたのだが。


 二回目の顔合わせも、ミリアの部屋だった。その日はダリアがソファに座ってレナートを出迎え、ミリアは寝台の見える位置に腰掛けて婚約者と猫を見ていた。レナートはそのミリアをまったく気にすることもなく、ダリアに感じよく話しかけ、「お疲れになるといけませんので」ときりのよいところで引き上げていった。


(よもやよもやですけど……、本当に私が見えていない?)


 ならばと三回目は四阿にて待ち構えてみたのだが、結果はこの通り。

 レナートはダリアの白い毛並みを褒め称え、体調を気遣い、ついで最近読んだ本や街で耳にした話題を楽しげに話し始めた。

 それは引きこもりがちなミリアにとっては、興味深い内容ばかり。

 ダリアの相槌は気まぐれな「にゃあ」だけで、会話というよりは実質レナートが一人で話しているだけなのだが、「自分の話」をしている押し付けがましさがない。

 いつの間にか話に引き込まれて、ミリアは真剣に耳を傾けていた。


「そうだ、いま評判のパティスリーがあるんです。林檎のパイが甘酸っぱくてすばらしく美味しいんですよ。もしミリア嬢がお好きなら今度お持ちします。ぜひ一緒に食べましょう。いかがです?」


(林檎のパイ……。ダリアは食べないけれど。食べてみたい……)


 ミリアは、ダリアが「にゃあ」と返事をするのを待った。しかしこのときは、一向にその気配がない。

 風が吹いてあたりの草木がさやめき、光がきらめいて花が香った。

 麗しい午後のひととき。

 ダリアはやはり「にゃあ」と言わない。

 ちらりとうかがうと、レナートは気持ちよさそうに風に目を細めて、気長に待っている。


(ダリア、ダリア。林檎のパイ、食べたいです。にゃあと言ってください)


 念じた。残念ながら通じず、白猫ダリアは手をなめて顔を洗い始めた。

 これはもう林檎のパイは無理かな……とミリアが諦めそうになったとき、時間が巻き戻ったかのようにレナートが再び言った。


「私の好きなパティスリーがあるんですけど、林檎のパイが甘酸っぱくてすばらしく美味しいんですよ。もしミリア嬢がお好きなら今度お持ちします。ぜひ一緒に食べましょう。いかがです? ミリアさん?」 


 ミリアはレナートと反対側に顔をそむけて、一声鳴いた。猫の真似をして、にゃあ、と。


 * * *


 季節が巡って、秋になった。

 レナートと会うのはいつも四阿であったが、このところ風が少々冷たい。着込むことのできるミリアはともかく、ダリアは猫用コートなど決して身に着けない。そのため、最近はミリアがダリアを膝に抱きかかえて風から守っている。温かい季節は二人の人間の間にダリアが鎮座していたのだが、今は猫一匹分、距離が縮まった。


「冬になる前に、領地へ行きます。少し長めの滞在になりますので、ここに来るのも間が空いてしまいますが……。寒いですからね。体の弱いあなたを外へ引っ張り出すのも今日までかな。ちょうど良い機会かもしれません。最初のようにぶしつけにお部屋までうかがうことはありませんが、冬の間は屋敷の中でお会いしましょう」


 寒いせいか、ダリアは口を開こうとしない。手袋をはめた手でダリアの背を撫でながら、ミリアは「にゃあ」と答えた。

 普段、レナートはこうして「にゃあ」で事足りるように会話を組み立ててくる。ダリアが鳴かないときはミリアが代わりに返事をする。 

 しかしこの日は珍しく、続きのセリフがあった。


「もしミリアさんさえ良ければ、私の邸宅にも招きたいのですが」


(こちらの屋敷で会う分には良いけど、サヴォイ邸までは、ダリアを連れていけないわ……。だけど、いつも来て頂いているわけだし、私が顔を出さねばならないのもたしかで。体が弱いと言っても、まったく出歩けないほどではないのだし)


「……にゃあ」


 迷いが声に滲んだ。

 ミリアの方を見ず、前を向いたままレナートは「すぐにでなくて構いませんよ。それこそ春になってからでも」と付け足した。


「にゃあ」


(問題の先送り。今はその気遣いが、とてもありがたいです)


 何しろ、ミリアとレナートはたびたびこうして逢瀬を重ねてはいるものの、「実際に面と向かって会話をしたことはない」のである。レナートはあくまで白猫ダリアを愛しの婚約者として扱っており、ミリアもまた白猫ダリアとして返事をしているのだから。

 この奇妙な状態を、他のひとの目にさらすのはなかなか覚悟がいるのであった。


「それでは、寒いですから行きましょう。名残惜しいですけど、あなたの体調が心配です」


 レナートは言うなり立ち上がった。ミリアも、うとうとと寝ているダリアを抱えて慎重に腰を上げる。

 先に歩き出すレナート。その背を追いかけて歩き出したところで、四阿床のわずかな段差につま先を引っ掛けて「あっ」と短い悲鳴を上げた。


(転んだらダリアを下敷きにしてしまう……っ)


 ぞっとしたその瞬間は訪れなかった。

 振り返ったレナートの胸にダリアごと抱きとめられていた。

 寒さ故にふたりとも着込んでいるため、決して肌が触れたわけではない。仕立ての良いコートの布地が鼻先にふれ、腕が背に回されただけ。 


 見上げると、目が合った。黒い瞳が見ていた。言葉もなく、ミリアも見つめ返した。


 レナートはミリアの腕に優しく手を置いて、二人の間に空間を作る。ダリアを潰さないように気を遣った動き。

 微笑を浮かべて言った。


「大丈夫?」

「ありが……にゃあ!!」


 危なく人間の言葉でお礼を言いかけて、ミリアは辛くもごまかした。

 瞳に優しげな光を浮かべ、もとから微笑んでいたレナートであったが、そこで耐えきれなかったように噴き出した。


 笑いの発作は長く続き、ミリアはダリアを抱きかかえたまま、レナートの笑いがおさまるのを待った。


 * * *


 春になる頃、「あのパティスリー、店の中で食べることもできるんです。バニラアイスを添えた林檎のパイは格別に美味しいですよ」とレナートが言い出した。

 大好物なのである。そこまで言われたら、ミリアも断ることができなかった。


 屋敷からの外出ということで、ダリアは留守番。

 はじめて、ふたりで会った。

 レナートの話しぶりは、外で会っても四阿で話していたときと何程も変わらず。もう慣れ親しんだ彼との会話に、ミリアは「にゃあ」と相槌を打った。


 外に出る機会は、徐々に増えた。

 ミリアの代役を免れたダリアは、これ幸いとばかりにミリアの寝台でいつも気持ちよさそうに寝ていた。寝ている時間が長くなってきたように感じたが、「年をとった猫はそういうものですよ」と年重の侍女はミリアに優しく言った。


 観劇。夜会。レナートの邸宅での食事会。

 「にゃあ」で切り抜けられぬ場面が増えて、ミリアは「レナートの婚約者」として人間の言葉で話すことも増えた。

 それでも、帰りの馬車で二人きりになったりすると、返事のいくつかは「にゃあ」となる。

 レナートも慣れたもので、気にした素振りもなく穏やかに会話を楽しんでいるようだった。


 季節は巡り、月日が流れた。


 二十歳を迎える頃、二人の結婚式が執り行われることになった。

 結婚後はレナートの邸宅で暮らすことに決まっていたが、ぎりぎりまでミリアは自宅で過ごす。

 その頃、ダリアはほとんど目を覚ますことがなくなっていた。

 もしかしていよいよかもしれない、とミリアがレナートに伝えると、結婚式前夜に屋敷に駆けつけたレナートは思いつめた顔で「結婚式は延期しても構わない。ダリアのそばに」と言ってミリアとともに部屋へと向かった。


 白猫ダリアは、寝台の横に深刻な表情で並んで立つ二人をじっと見て「にゃあ」と鳴いて目を閉ざした。

 そしてそれきり起きることはなかった。


 翌日、二人は予定通りに結婚式をあげた。


 * * *


 サヴォイ侯爵夫妻は長く、円満な夫婦生活を送った。

 猫好きで有名で、屋敷にはたくさんの猫が家族のように仲良く暮らしていたという。





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