科学史の事件簿~ワクチン猫・猫の手を借りた人間たち~

夕藤さわな

第1話

 レンタルキャット夏目。

 レンタルワクチン猫 あやつじ。

 ヘッセメディカルキャット。


 これらは国際NGO Nekonoteにじゅうたる日本国内の非営利団体事務所名である。ワクチン猫で使用される猫を病院などの医療現場に貸し出すレンタル事業を行う非営利団体の事務所の名前である。

 現代では一般的となったワクチン接種の手段の一つ、ワクチン猫。ワクチン猫の育成とレンタル事業に特化したこれらの団体、事務所の多くは開発とNGO設立に携わった医学研究者と臨床医の名を冠している。


 ワクチン猫はどのような経緯で開発され、これほどまでに普及したのか。

 あるいは普及してしまった・・・・のか。


 この物語は科学史に燦然と輝く研究開発・ワクチン猫の物語であり、猫の手を借りた人間たちの顛末てんまつの物語である。


 ***


 ワクチン猫開発者の一人である綾辻氏は当時、臨床医を目指す医学生であった。

 しかし、ある事情からその夢を諦めざる負えない状況に置かれていた。


 綾辻氏は注射が嫌いであった。

 中学生の頃に階段で足を滑らせ、持っていた傘の先が突き刺さった。運良く一命を取り留めたものの綾辻少年は脇腹と心に消えることのない傷を負った。極度の先端恐怖症から注射を打つことはおろか見ることもできなくなってしまったのである。


 当時、医大で教鞭をっていた夏目氏は自暴自棄になっている優秀な教え子の姿に心を痛めていた。


「どうだろう、綾辻君。極度の先端恐怖症の君でも打てる注射を研究してみないか」


 こうして恩師であり、のちに友人となる夏目氏に手を引かれて綾辻氏は研究者の道へと進むことになったのである。


 ***


「鋭く尖った注射針の対義語は何か。むにゅっと柔らかいお猫様の肉球だとは思わないか、綾辻君」


「同意です、夏目先生」


 夏目氏は猫が大好きであった。綾辻氏も猫が大好きであった。

 その場にいたのは猫が大好きな二人だけだったので研究の方針について疑問を呈する者はいなかった。

 点滴、採血、輸血……注射の用途はさまざまあるが、当時重要視されていた感染症のワクチン接種用注射から着手すると決め、二人はワクチン猫の研究に取り掛かった。


 ワクチン猫の研究と言っても遺伝子組み換え猫を生み出そうとしていたわけでも、猫型ロボットを開発しようとしていたわけでもない。

 猫の肉球に塗って押し付けるだけで効果を得られるワクチンの研究。猫がうっかりなめても顔を洗っても害にならないワクチンの研究である。


 ワクチン猫実現までの道のりは困難を極めた。綾辻氏の著書〝ワクチン猫 開発の軌跡〟にはこう書かれている。


『最大の問題はどこに、どのようにして猫の肉球を押し付けるのが最善か。この問題を解決するため、私は恩師であり友人である夏目氏と何度となく言葉と拳を交えることとなった。』


 問題の解決に多大な時間を要した最大の理由は二人の見解の違いにあった。


 お猫様の肉球をむにゅっとする・・ことこそ至高とする夏目氏。

 お猫様の肉球にむにゅっとされる・・・ことこそ至高とする綾辻氏。


 似て非なる見解である。神を信仰しているが、信仰している神が違うというくらい深い溝である。

 人類史上、いまだ越えることのできていない溝と同じかそれ以上に深い溝を前に一時はたもとを分かつかと思われた二人だったが、研究室に住まうチャトラ氏の猫パンチという叱咤激励によりどこに、どのようにして猫の肉球を押し付けたとしても効果のあるワクチン猫を開発するという方針で合意した。


 ***


 何度となく人体実験を繰り返し、二リットルを飲んでもげっぷが出る以外はなんの問題もないワクチンを開発した二人はついに猫の肉球にそのワクチンを塗ることを決意する。

 綾辻氏の著書〝ワクチン猫 開発の軌跡〟では、この運命的な日をこう書き記している。


『人類ごときが恐れ多くも、ついにお猫様の手を借りてしまったのである。』


 猫体びょうたい実験の被験者第一号となったのは研究室に住まう茶トラ猫のチャトラ氏であった。

 何度となく言葉と拳を交え、似て非なる見解の違いから一時は袂を分かつかというところまでいった夏目氏と綾辻氏を叱咤激励し、二人の関係を取り持つことに手を貸したワクチン猫開発のもう一人――いや、もう一匹の功労者だ。


 そんなチャトラ氏の前足を夏目氏がうやうやしく手に取り、柔らかなピンク色の肉球に絵筆でもってワクチンを塗る。チャトラ氏は悠然とそのさまを見下ろしている。ワクチンを塗り終えると綾辻氏が袖をまくり上げた二の腕を差し出す。

 綾辻氏の二の腕にチャトラ氏が肉球を押し付ければワクチン猫の猫体実験は成功となるわけだが、そう簡単にはチャトラ氏も手を貸してくれない。

 猫に生まれた時点で選ばれし存在、エリートなのである。エリートであるからこそのプライドがある。人間ごときの都合に合わせて肉球を押し付けてやる義理などない。


 チャトラ氏はワクチンの塗られた手で顔を洗い、夏目氏が再び肉球にワクチンを塗り終えるのを見届けては肉球の毛づくろいし、再び肉球にワクチンを塗り終えるのを見届けては顔を洗った。


 猫体実験は長期戦の様相を呈した。


 それでも綾辻氏はチャトラ氏がワクチン接種してくださるのを根気強く待つつもりでいた。袖をまくり上げた二の腕を差し出し続ける覚悟でいた。

 お猫様の肉球にむにゅっとされる・・・ことこそ至高とする綾辻氏らしい思考である。


 しかし、夏目氏はお猫様の肉球をむにゅっとする・・ことこそ至高とする。お猫様が触ってくださるのを待つのではなく自ら触りに行くスタイルだ。

 自身の見解に従い夏目氏は恐れ多くもチャトラ氏の手を取り、綾辻氏の二の腕にむにゅっと押し付けたのである。


 一度は埋まったかに見えた溝。

 人類史上、いまだ越えることのできていない溝と同じかそれ以上に深い溝が再び夏目氏と綾辻氏のあいだに横たわったのである。


 ***


 だがしかし、この決定的な溝が表面化し、二人が袂を分かつのはこののち。科学雑誌ネイチャーに寄稿、掲載された論文で綾辻氏が夏目氏のこのときの行動を批難したのちのことである。


 お猫様の手を借りて行われた猫体実験の結末はこうである。


 恐れ多くも夏目氏はチャトラ氏の手を取り、綾辻氏の二の腕にむにゅっと押し付けた。プライドを傷つけられたチャトラ氏は激昂。綾辻氏の二の腕をその鋭い爪で引っ掻く。

 夏目氏も綾辻氏も柔らかな肉球にばかりに気を取られ、猫が狩猟者であり、肉食獣であり、鋭い爪を隠し持っていることをすっかり忘れていたのである。


 チャトラ氏に引っ掻かれて二の腕にケガを負った綾辻氏を見て夏目氏は青ざめた。

 極度の先端恐怖症である綾辻氏の心臓が恐怖のあまり止まってしまうのではないか。傘でケガをした中学時代のように今日のことがトラウマになってしまうのではないか。

 そう心配したのだ。


 しかし、夏目氏の心配をよそに綾辻氏はチャトラ氏を抱きかかえて言ったのである。


「チャトラにゃーん、チャトラにゃんの三日月みたいに綺麗なお爪は折れてないでちゅかぁ? 下僕ごときの二の腕にお爪カリカリ、肉球ポンポンしてくれるなんてチャトラにゃんは優しいですねぇ~」


「ゴロゴロニャーーーン」


 これによりワクチン猫には鋭い爪があり、引っ掻かれる危険性があること。しかし、極度の先端恐怖症であっても極度の猫好きにとっては何の障害にもならないことが証明された。


 猫体実験は大成功を収めたのである。


 このとき綾辻氏は猫を抱きかかえることで肉球が腕等の肌に触れる確率が高くなることを発見。ワクチン猫を抱きかかえ、自然に接種が完了するのを待つ方法を最善の接種方法と主張した。

 対して夏目氏は綾辻氏のやり方では長時間、ワクチン猫を抱きかかえ拘束することになり猫への負担が大きくなると反論。ワクチン猫の肉球を握手するかのように自ら握ることで迅速かつ確実に接種を完了する方法こそ最善と主張した。


 この接種方法は綾辻式、夏目式と呼ばれ、現在でもどちらの接種方法が最善であるか議論が続けられている。


 ***


 その後、何度かの猫体実験を重ねたのち、綾辻氏が中心となって論文を執筆。科学雑誌ネイチャーに寄稿、三回に分けて全文が掲載された。

 猫体実験第一回の夏目氏の行動を批難したのは三回目に掲載された論文中でのことである。


 この画期的かつ悪魔的な発表は科学界を二分にぶん三分さんぶんすることとなる。

 大きく分けると綾辻派、夏目派、そもそもワクチン猫に反対するヘッセ派である。


 この物語の三人目の主人公とも言えるヘッセ氏はワクチン猫に関する国際的法整備を進めるよう早い段階から訴え続けた人物だ。

 当時のヘッセ氏はドイツのいち臨床医でしかなかったが、綾辻氏の論文がネイチャーに掲載されるなり反論を執筆、ネイチャーに寄稿する。

 ヘッセ氏の主張は下記の通りである。


『夏目氏、綾辻氏が発表したワクチン猫は極限までお猫様の安全性を追求した結果、ただの水と変わらない代物になっているが重要なのはそこではない。ワクチン猫の最大にして唯一の問題は人類ごときがお猫様の手を借りようという倫理観に著しく反した発想と行動である。』


 ヘッセ氏の反論を皮切りに夏目氏、綾辻氏、ヘッセ氏の論戦はネイチャー誌上を舞台に十年近くに渡って繰り広げられることになる。


 この間、夏目氏と綾辻氏が顔を会わせたのはたったの一度。研究室に住まい、ワクチン猫の猫体実験被験者第一号となったチャトラ氏が老衰で亡くなったときだけである。

 ワクチン猫の開発時、夏目氏と綾辻氏を叱咤激励し、二人の関係を取り持つことに手を貸したチャトラ氏が亡くなったことで関係修復する機会は永遠に失われた。恩師であり愛弟子であり友人であった二人は似て非なる見解と越えることのできない深い溝を前に完全に袂を分かつこととなったのである。


 ***


 ワクチン猫に使用される猫たちのレンタル事業は国際NGO Nekonoteと従たる各国の非営利団体が一手に担っている。

 国際NGO Nekonoteがワクチン猫以外の医薬品や医療機器、商品を取り扱うことはなく。また国際NGO Nekonote以外の会社、団体がレンタル事業はもちろんのこと、ワクチン猫に関する一切の事業を行うことは国際法で禁じている。

 国際NGO Nekonoteがワクチン猫のレンタル事業で得た収益は従たる各国の非営利動物愛護団体の資金として使用されることもまた国際法で定められている。

 これらは国連にて採択された『ワクチン猫に関する条約』によるものであり、各国・各界の猫好きたちに働きかけて影ながら法整備を推し進めた人物こそがヘッセ氏であった。


 ワクチン猫に反対し続けたヘッセ氏ではあったが同時にワクチン猫の普及を止めることはできないだろうとも考えていた。敬虔けいけんなる信徒でありしもべであるかはともかく、多くの人間がお猫様とむにゅっと柔らかい肉球の誘惑に勝てないだろうことを彼はよくわかっていたのだ。

 ヘッセ氏自身は最期までワクチン猫反対の立場を取り続けていたが、生前、ヘッセ派の後身たちに法整備の重要性を訴え、こう指示していた。


『自由気ままに日向を求めてあちらこちらに行き、姿を現わしては消し、人間の都合になど振り回されることなく生きることこそがお猫様たちのあるべき姿だと私は考える。

 だがしかし、そのようなお猫様の暮らしは世界の実情を見ても理想でしかなく、日向でお昼寝するというささやかにして当然の権利どころか命すらも奪おうとする国や人間がこの世界には存在することもまた私は理解している。

 であるのなら、お猫様の手を借りるなどというワクチン猫の傲慢を飲み込み、お猫様の命を奪おうなどという極悪非道を止める手立てとして利用することもまた必要なのではないかと私は訴える。』


 国際NGO Nekonoteが設立されたのはヘッセ氏が亡くなった翌年のことである。ヘッセ氏は資金提供を論敵である夏目氏、綾辻氏に遺言という形で求めた。


『ワクチン猫の世界的な普及により手にした財産を手を貸してくださった、そしてこれから手を貸してくださるお猫様のために使ってはもらえないか。』


 それが最初にして唯一、ネイチャー誌上以外でヘッセ氏が夏目氏、綾辻氏に送った言葉であった。


 ***


 夏目氏、綾辻氏、ヘッセ氏の論戦はネイチャー誌上を舞台に十年近くに渡って繰り広げられたが、しかし唐突に終わりを迎えた。

 ヘッセ氏が八十三歳で、翌年には夏目氏が七十九歳でこの世を去ったのである。


 ドイツで亡くなったヘッセ氏の遺言が日本に届いたときには夏目氏の死期も迫っており、これまた猫好きの妹氏にヘッセ氏の遺言に従う旨を言い残して夏目氏はじきに亡くなった。猫好きではあるが兄の研究やそれに関するお金の流れについては詳しくない妹氏は綾辻氏に後を委ねた。

 夏目氏同様、ヘッセ氏の遺言に従うことを決めていた綾辻氏はワクチン猫の世界的な普及により手にした財産を手を貸してくださった、そしてこれから手を貸してくださるお猫様のために提供することを承諾。

 こうして国際NGO Nekonoteは設立、国連にて『ワクチン猫に関する条約』が採択された。

 生前のヘッセ氏の根回しと夏目氏、綾辻氏が提供した資金、各国・各界にいるお猫様の敬虔なる信徒であり僕たちによって『ワクチン猫に関する条約』は異例の速さで国際法入りを果たしたのである。


 ***


 科学界を二分にぶん三分さんぶんした論戦は夏目氏、ヘッセ氏の死後も各派閥の後進が引き継ぎ、科学雑誌ネイチャーに論文を寄稿するという形で続けられた。しかし綾辻氏が応えることはなく、著書〝ワクチン猫 開発の軌跡〟の発表を最後に表舞台に出て来ることはなくなった。


 〝ワクチン猫 開発の軌跡〟の最後はこう締めくくられている。


『私が執筆し、ネイチャーに掲載された論文がきっかけで親子ほども年の離れた友人・夏目氏と袂を分かつことになり、ヘッセ氏とは十年近くに渡って論戦することとなった。

 しかし、ヘッセ氏が亡くなり、夏目氏が亡くなり、私は初めて思い当たったのである。彼らも私も同じ。お猫様の僕であり、ただのお猫様好きでしかなかったのだと。

 だから、もし……実に非科学的な話ではあるが死後の世界というものがあるのであれば。そこで彼らと対話する機会を得られるのであれば。改めて彼らと親交を深めたいと思っているのである。

 恐れ多くもお猫様の手を借りてしまった私ではあるが、叶うならもう一度、お猫様の手を借りてただのお猫様好きである彼らと親交を深めたいと思っているのである。』


 夏目氏が亡くなってわずか五年で綾辻氏もまたこの世を去った。享年五十四歳。

 綾辻氏の墓はワクチン猫の研究が行われた医大の研究棟跡地に、夏目氏とヘッセ氏の記念碑とともに建てられている。日当たりの良いその広場には今日も近所の猫たちが毛づくろいや昼寝をするために集まってきている。

 ドイツにあるヘッセ氏の生前の自宅兼、国際NGO Nekonote旧事務所にもまたヘッセ氏の墓と夏目氏、綾辻氏の記念碑が建てられ、近所の猫たちがいこう広場となっている。


 広場の名は――レンタル猫の手・チャトラ。


 名前に日本語、ドイツ語の違いこそあるがいずれも国際NGO Nekonoteに従たる非営利団体の事務所の一つという形で登記されている。

 綾辻氏が著書〝ワクチン猫 開発の軌跡〟の最後で語った思いを汲み、ワクチン猫開発時に袂を分かつかと思われた夏目氏と綾辻氏の関係を幾度となく猫パンチで取り持ってきたチャトラ氏にあやかった名だ。


 レンタル猫の手・チャトラという名のこの広場で、あるいは綾辻氏の望み通り、そしてこの広場を訪れるお猫様たちの敬虔なる信徒であり僕である人々の願う通り、極度の猫好きである三人は改めて親交を深めているやもしれない。


 彼ら三人が眠る地面の上で気持ちよさそうに昼寝する猫たちと、ワクチン猫開発のもう一匹の功労者であるチャトラ氏の手を借りて――。

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科学史の事件簿~ワクチン猫・猫の手を借りた人間たち~ 夕藤さわな @sawana

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