仮説:宮下は悪い奴じゃない
俺の通う大学はド田舎にあるため、自転車がなければどこにも行けない。電車は一路線しかないし、バスも三十分に一本だ。そのため、ほぼ全ての学生は自転車を所有している。今日は二限からの授業があり、比較的ゆっくり登校できるのが嬉しい。出かける前に、いつものルーティンをこなす。リュックの中身を確認するために玄関に置いてある、火曜日用のチェックリストを開いた。ノート、各種テキスト、ラップトップに筆記用具。ハンカチ、スマホ。全て揃っていることをひとつひとつ確認してから、俺は家を出た。
アパートの駐輪場に置いてある自前の自転車の両側スタンドを蹴り上げ、サドルに座る。ゆっくり漕ぎ出して道へ出れば、今日は天気もいい五月晴れだ。春風は少し熱を帯び始め、夏が近づいていることを知らせている。大学へ到着して教室棟前へ留めようとすると、いつも通り、学生たちの自転車がひしめき合っていた。
俺は少し広めの隙間に無理矢理前輪を突っ込んで、スタンドを立てた。鍵をかけて、リュックを背負い直す。
授業開始時間には少し余裕がある。教室前の机とソファが置かれたスペースで自習でもしようか、と思って階段を上がると、先客がいた。大きな声で雑談をしている身体の大きな男たちのグループだ。服装も黒いシャツ一枚の俺と比べて幾分か派手で、なんとなく敬遠してしまって、そそくさと廊下の隅に退散する。
「充希くん!」
そのグループの中から、よく通る声で呼びかけられた。振り向けば、宮下が手を振っていた。そのキラキラした笑顔がまぶしい。どう応えるのが正解か分からず固まっていると、彼は周りに、じゃ、と軽く言って「充希くん、二限何の授業?」と荷物を持ってこちらへ歩み寄ってきた。
「り、倫理学講義」
まさか友人グループから抜けて俺に声をかけてくるとは思わず、少しどもってしまった。彼は人懐っこい笑みを浮かべ、さらりと前髪を揺らして首を傾げる。
「どんなことやるの?」
「古代ギリシャ思想を中心にした西洋思想の解説。今日はプラトンのイデア論の解説の続き」
急に饒舌になった俺に、彼は興味深そうにうんうんと頷く。「充希くん、哲学専攻だもんね」と俺の顔を覗き込んできた。距離が近いのでじっと瞳を見つめ返してやれば、彼は「イデア論ってなんだっけ」と率直に尋ねる。その瞳は、少しだけ明るい焦げ茶だった。
「善と知性、実相について。この世はイデアという実相の影にすぎない、っていう洞窟の比喩が有名」
へー、と彼は、目を輝かせて頷く。なんてコミュニケーション能力だ、と俺は慄いた。俺の下手な話をこんなに楽しそうに聞いてくれるなんて、恐ろしくいい人だ。気分がよくなって、もっと口が回る。
「太陽の比喩と線分の比喩、というものもある。善自体を人間が知ることはできないが、太陽がリンゴを照らせばその色形が分かるように、善が真理を照らし出すことで、その中に知性があることが明らかになる」
ヒートアップしてきた。手を頭の上から腰の下まで滑らせ、高低差を表現する。彼の視線が、俺の手を追って動いた。
「線分の比喩は、善そのものから人間が認知しているものへのグラデーションを示している。つまり善のイデアそのものを人間は認知することはかなわないが、人間が知性でもって世界を認識できるのは、イデアがあるから。イデアによって人間は世界の形を認識できるが、イデアそれ自体を認知することはできない。人間は光があることを認知できても、光のかたちを捉えられないように。と、俺は考えている」
ふむふむ、と彼は頷いている。それから少し唸って、苦笑しながら首を傾げた。
「ごめん。丁寧に説明してくれたけど、全然分からない」
「俺も。全然分かってない」
頷く。彼は拍子抜けした顔をしていた。だけど、と俺は口を開く。
「分からないことを分かろうとしているときが、一番楽しい。俺のさっき言ったことも先生からしたら全然違う、的外れなことかもしれない。けど、少なくとも、俺にとっては自分でたどり着いた答えだから。こう思うのは、たぶん大事なことだし、素敵なことだ」
彼は、饒舌に喋る俺をじっと見降ろしていた。その探るような目つきに一瞬、どきりとする。「宮下くんは」と、その視線を逸らしたくて、話題を変えた。
「次は何の授業なんだ?」
「俺? 応用言語学講座」
どんなことをするんだ? と尋ねようとした瞬間、チャイムが鳴った。驚いて周りを見れば、誰もいない。みんな教室に入ったようだった。
「ごめん宮下くん、喋りすぎた!」
慌てる俺に、宮下は「楽しかったよ」とさらりと言って、すぐ隣の教室のドアへと手をかけた。そしてひらりと手を振り、俺に微笑みかける。
「またね」
俺はなぜか彼を振り返られずに、一目散に目当ての教室へと入る。扉を開けて中に入れば、学生たちが小声で雑談するざわめきがあった。講師はまだ来ていないようで、少し気分がほっとした。机にテキストを出し、ラップトップの電源を入れて講義資料を開く。ノートを開いて、筆箱を机に置く。
俺は大学でつるむ友達がいない。欲しいと思ったこともない。だけど正直、宮下とああして話すのは、とても楽しかった。インターネットの知り合いであるゴムくんと話すのとは、また違った楽しさだった。
次に会ったときには、宮下の話を聞きたい。そう思ってスマホを開いて宮下とのチャット画面を開けば、会話は先日の潮干狩りの話で止まっていた。何か話しかけようとして、はっとする。俺が宮下に絆されかかっている、というレベルではない。十分絆されている。彼を友達、として認めようとしている。俺はまだ、彼が俺に近寄ってきた意図を知らないのに。
だけど、やっぱり彼には悪意を感じないのだ。俺を馬鹿にする素振りも見せないし、きっと悪い意図を持って近寄ってきたわけではないことくらい、いくらなんでも俺にだって分かる。そうしてウンウン唸っているうちに、講師が教室へと入ってきた。スマホの画面を閉じて、リュックにしまう。今は講義に集中すべきだ。
講義が終わったら、宮下に会えたらいいな、と思った。同時に脳内のゴムくんが、「ミケくんはチョロすぎるよ」と呆れていた。
大学でイケメン陽キャに迫られてるけど君は暗算できないしうるさいし好みじゃない 鳥羽ミワ @attackTOBA
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