第7話
大戸島の東側の海には、複数の大型船が来るようになった。それは、建設資材や重機を運んで来た船だった。ついに建設は始まったのだ。突貫工事だった。テレビクルーはその様子を地上と空から取材している。また、責任者の大河原は建設の指示とテレビの取材で忙しそうだった。その忙しい仕事の合間をぬって(それでも)彼は笑子に会いに来ていた。この日も、観光の為の意見を聞きたいと称して笑子を連れまわしていた。そして、必然的に修二は一人でいることが多くなっていた。
「弘さんて、最近忙しそうね。テレビにもちょくちょく出てるし。こんなことしてて大丈夫なの?」笑子が問いかける。笑子は既に大河原のことを弘さんと呼ぶようになっていた。
「もちろん大丈夫さ。笑子さんの笑顔に会えるのなら、どんなことをしても時間は作るさ」
「嬉しー! 弘さん、ところで、観光開発の方はどうなってるの?」
「あー……、それはまだこれからだよ。この施設が完成したら着手するつもりなのさ」のらりくらりとかわす大河原。
「楽しみだわー」それでも疑いを知らぬ笑子だ。
「こんなに朝から晩まで働いてて、浩さん、お昼ごはんとかどうしてるの?」
「船の朝食の残りとか、船の料理人に頼んで簡単なお弁当とかを作ってもらってるよ」
「そうなんだ……。そうだ! 弘さん。私、明日から毎日お弁当作ってあげる。毎日、観光課に顔出してよ。そのときにお弁当渡すから」
「そりゃ嬉しいなー」
翌日から、弘は毎朝観光課に顔を出すようになった。そして、笑子が作ってくれたお弁当を持って仕事場に向かった。その姿を見ていた職員は、憐れむように修二にこう言った。
「おい修二、いいのかよ。笑子、大河原さんに持ってかれちゃうぜ」
「だって、笑子が良いのなら、それで良いじゃん。俺は笑子が幸せでいることが一番大事だから」うっすらと作り笑顔で修二はそう言った。
しかし、実のところ、修二はそんな二人をかたわらでじっと見ていることしかできなかったのだ。
それから数日後、笑子は浩を連れて海岸沿いにある洞窟を案内していた。弘の手を握って暗い中を懐中電灯の灯りを頼りに案内する笑子。良い感じだ。洞窟の中ほどまで来たとき、ふいに弘は笑子の身体を引き寄せたかと思うと、その唇に自身の唇を重ねた。
「弘さん……」
「俺は、君と一緒に、この島の未来を背負っていくからね。だから、安心して僕について来て欲しい」
「嬉しい。弘さん」
未来を語る弘。そんな弘に対し、笑子は恋に落ちた。そうして、このときから二人は恋人どうしになった。これが、笑子にとっての最初の恋であり、弘と過ごす毎日が楽しくてしょうがなかったのだった。
家では、笑子はもはや弘のことを何一つ須磨子に言わないようにしていた。どうせネガティブな意見しか言われないことは分かっていたからだ。それでも、毎朝弘への弁当を作るようになると、その姿は必然的に須磨子の眼に入るようになる。
「結局、やはりあの母親の子。血は争えないのか。それとも、何かの因果なのかねー」キッチンで弁当を作る笑子の後姿を見ながら、須磨子は、溜息交じりにそうつぶやいた。「何か恐ろしいことにでもならなきゃ良いんだが」
海でクルージングする弘と笑子。笑子は宿泊船と島を結ぶクルーザー船に乗せてもらってるのだ。
「気持ちいー! ずっとこうしていたーい」海風を受けて喜んでいる笑子。
「このまま世界の果てまで連れてっちゃおうかな。そうだ、東京まで連れてっちゃおうかな」弘が言う。
「連れてって―!」
二人を乗せたクルーザーは、そのまま島の沖合に停泊している、そして弘たちが宿泊している船に向かって行き、二人は浩が宿泊している部屋に入って行った。
そしてその日、笑子は島に戻らなかった。夜、須磨子は一人で寂しい夕飯をとっていた。
朝。笑子にとって、それは生まれて初めての朝だった。身支度をして弘の部屋を出、船内の廊下を歩いているとき、ばったりと真太をすれ違った。そう、真太も政府が大戸島に派遣した職員。この船に寝泊まりしていたのだった。顔を隠すようにそそくさと速足で通り過ぎる笑子。
「あれ、笑子さん?」振り返る真太。
クルーザーに乗り込んで島に向かう笑子の姿をデッキで見る真太。
「笑子さん……」
真太が笑子をデッキで見ていた数分後、浩もデッキに出てきた。彼は誰かとしきりに電話をしていたが、その内容が断片的に真太の耳に届いてきた。
「……ああ。……うんうん。式の日取りはそれで良いよ。君の方で段取りよろしくやっていいから。引き出物? それも君に任せるよ。来賓だけど、俺としては、あまり大々的にやりたくはないんだ。大っぴらにやるとメディアとかうるさいだろ。……うん、そうそう。そりゃ君は総理の娘なんだから、立場が分からないでもないけどさー。……うん、じゃ、そこんとこよろしく頼むよ。もちろん、愛してるさー」
誰かの結婚式の打ち合わせのようだった。
船から観光課に出社した笑子。昨日と同じ服装であった笑子の姿に気付いた職員も少なくはなかった。彼女は上気した顔で事務所に入って来た。
「あはようございまーす」
「あれー! 笑子さーん」観光課の女性職員の一人がそう笑子に言った。
そして、修二もまた彼女の変化に気付いた一人だった。修二は笑子の姿を一瞥すると、黙ったまま静かに荷物をまとめ、それから事務所を出て行った。その日、修二が事務所に戻ってくることはなかった。
「ただいま」
しかしその日、笑子が帰宅しても須磨子との会話は全くなかった。いつものように笑子が夕飯を作り、沈黙の中で二人は夕食を食べ、お風呂を沸かして交互に入り、そして就寝した。
「こんばんはー。真理亜いるかー?」その日の夜、真太が真理亜の宿泊している民宿を訪れた。
「どうしたのよ! ……もしかして、夜這いにでも来てくれたの?」真理亜が半ばふざけて言った。
「馬鹿言ってじゃないよ」
真剣な面持ちで真太がそう言うと、ちょっとつまらなさそうな顔になる真理亜だった。
「ちょっといいか?」部屋にずかずかと上がりこむ真太。
「ちょっと、ちょっとー!」戸惑う真理亜。
「実はさあ、今朝、船のデッキで笑子さんを見たんだ。大河原さんの部屋から出て来たみたいだった」
「ええ!」
「それと……、俺、聞いちゃったんだ」
「えっ、何を?」
真太は、その日の聞いた弘の電話の内容を伝えた。
「俺、何かいたたまれなくなっちゃってさー。笑子さんや修二君がかわいそうでさー」真太が言う。
「それで?」
「それでって?」
「大河原弘の正体がやっと分かってきたってことでしょ。あんたもようやく分かってきたってことよね」
「ああ……、まあな」
週末になると、笑子と真理亜たちはよく喫茶モモコで会っていた。ただし、修二の姿は、そこからは消えていた。
「ねえ、東京ってどんなところ?」笑子が尋ねる。
「どうしたの? 大河原さんの影響?」真理亜が言う。
「東京は、こことは全く違うところだよ。ごみごみしてるし、のんびりできないよ。星だって見えやしないよ。俺なんか、久しぶりに東京に帰ったら、目が回っちゃうかもな」真太が答える。
「そうね。真太は東京の中心地で働いているから、特にそうかもね。私たちは会社が神保町だし、私の住んでる場所も山の手の方だから、そこまではないけどね」
「飯島さんの働いてる場所は、大河原さんの働いている場所と同じなの?」笑子が質問する。
「いや、俺が働いているのは内閣府。千代田区永田町の国会議事堂の前だよ。大河原さんは、もともとは首相の秘書だから総理官邸とかにいることが多かったはずだから、やっぱり永田町だね。国会議事堂のそばだよ」真太が答える。
「そうなんだ。一度行ってみたいわー」夢見るような面持ちで笑子は言った。
「この島が大好きだった笑子がそんなことを言うようになるなんてね。恋の力よねー」
真理亜は、この言葉を笑わずに言ったのだが、笑子はえへっとはにかんだ。真太も笑わずに、神妙な顔でこのやりとりを聞いていた。真理亜も真太も、そんな真っ直ぐな心の笑子の姿を前にすると、何も言えなかった。
次の日の月曜日、笑子は仕事場に置いてある東京の地図をコピーして持ち帰った。そしてその夜、自分の部屋で、楽しげに何時間もそれを見つめる笑子の姿があった。
それからの何度か笑子と弘は逢瀬を楽しんだ。笑子が船に泊まりに行くときは、須磨子には何も告げずにいたが、夕飯の準備だけはして行った。
その日も、二人は浩の船室で逢瀬中だった。そのとき、浩のスマホに着信が鳴った。表示された発信者の名前に驚いてすぐに出る弘。
「……ああ。……ああ。……分かったよ。その話はまた明日こちらからするから。……うん、すぐするよ。……今、ちょっと仕事で忙しいから。じゃな」そんな弘の話し方は、今まで笑子が聞いたことの無いようなものだった。弘の別の面を垣間見たような気がした。
「誰なの?」笑子は不審そうに聞いた。
「仕事関係の人さ。もうすぐ施設が完成するだろ。……その関係の」
「そうなの?」
しかし、このとき笑子は、理由は分からないが、何かいわれもないような不安感にかられた。
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