クロヌコですが、何か?~とある黒猫の人間観察~【外伝】

クロニャンコスキー

第1話  健康診断ですが、何か?

 俺の名前はマサムネ。黒猫だ。

 元々俺は野良猫だった。

 子猫の頃に捨てられ野良になり、群れの仲間に見つけて貰い、そこで生活を始めた。

 先輩猫にサバイバルの『いろは』を教わり、それなりに楽しく気ままな猫生を送っていた。

 そんなある日、奴らがやって来た。

 そう。保健所の人間共だ。

 人間共は、俺たちの先輩や仲間を捕まえて行った。

 そして、俺は一人になった。

 仲間達はどうなったか分からない。

 どこかに引き取られたか、あるいは…。

 正直、一人になって途方にくれていた。もう、猫生を終わらせてもいいかな…。

 

 そんな事を考えながら、一人でとぼとぼ夜道を歩いていた時に、俺は車に撥ねられた。

 撥ねられた瞬間の事までは覚えている。

 とうとう俺も『虹の橋』を渡るのか…。

 まあ、それもいい。

 どうせ、保健所の人間に捕まった仲間も先に橋を渡ってるだろうし、ひょっとすると、仲間と再会できるかもしれない。


 それもいいじゃないか…?


 しかし気が付くと、俺は動物病院に居た。

 どうやら、俺はらしい。

 いや、助かったのだ。

 助かった経緯いきさつは、別件で入院していた仲間と病院で飼われている奴から聞いた。

 酔狂すいきょうな事に、車に撥ねられた俺を助けた人間がここに運んできたらしい。

 俺は、助かった代償として片目を失った。

 駄菓子菓子…。

 それ以上に大変な事が俺の身に起こった。

 

 『』のだ。


 人間同士の会話は勿論、どういう訳か文字も読める。

 残念ながら、俺が人間の言葉を話したり書いたりする事は出来ないが…。

 それでも、人間と意思疎通いしそつうが出来るようになった。


 人間の言葉を借りるなら、俺のような猫を『猫又ねこまた』というらしい。


 怪我が治った後、俺は飼い猫になった。

 俺を助けた人間、即ち今のご主人様に飼われる事になったのである。


 ご主人様は林美憂はやしみゆという若い女性である。


 ご主人様は、それはそれは優しい人だ。

 俺の為に自分の住むマンションの大家である伯父に、自宅で俺が生活できるよう説得したり、俺一匹じゃあ寂しいだろうと、休みの日には『保護猫カフェ』にも連れて行ってくれる。

 勿論、三食昼寝付きだ。

 野良の時に比べれば、天国のようである。


 そんな俺も、ここへ来て早二年が経とうとしていた。

 そんなある日…。


 「アニキ、アニキー!!」

 折角人が気持ちよく寝ているのを、邪魔する輩がいた。

 「起きてよアニキ。朝ごはんの時間だよ?」

 俺を『アニキ』と呼ぶ輩の正体は、後輩猫の『カゲツナ』である。

 白と黒のハチワレ模様の猫だ。

 「んだようるせえなぁー。人が折角気持ち良く寝てるのに…。」

 「じゃあ、おいらがアニキの分まで食っちまいますよ?」

 「ふざけんな!」

 俺は渋々カゲツナと一緒にへ移動した。

 そこには、俺とカゲツナの二人分の食事が用意されていた。

 俺の分とカゲツナ分は、若干量も味も違う。

 ご主人様が言っていたのだが、最近の俺たちの食事もかなり凝っていて、年齢に合わせた食事を用意してくれているのだとか…。

 俺がここに来た時は、毎日『カリカリ』なるものばかり食わされていたが、今はバリエーションも豊富だ。

 おやつには『ちゅーる』なる摩訶不思議な物までくれる。

 

 アレはヤバい。本当にヤバい。

 本当に病みつきになる美味しさだ。


 と、その時である。

 「マサムネー。カゲツナー。ちゃんと食べてる?」

 俺たちの背中越しに、女性の人間の声がする。

 ご主人様だ。

 ご主人様は俺達の前にやって来ると、しゃがみ込んで俺たちの食事の様子を覗き込み、時折笑みを浮かべている。


 いつもの光景だ。


 ここに来た当初は、相当俺の事が気に入ってたのか、俺が食事中だろうが何だろうがお構いなしに、頭や背中をものだ。

 だが、俺が『食事中だけは勘弁してくれ』とばかりに再三嫌がるアピールをしたので、やっと食事中に体を触る事は止めてくれた。

 俺は人間の言葉を理解できるし、ご主人様の意思も分かる。

 が、俺が幾ら『イヤだ!』と叫んだところで、ご主人様には『にゃー』としか聞こえないのである。

 

 そんないつもの光景であるが、今日に限っては少し違っていた。

 そう。

 俺の食事がいつもと違うのだ。

 カゲツナの分はなのに、俺の食事はなのである。

 最初は何故か分からなかった。

 が、次のご主人様の言葉で、その理由が分かった。

 「マサムネー。それ食べたら、今日は病院に行こうねー。」

 

 そう、である。


 もうそんな時期か…。

 あの忌々しい健康診断…。

 人間の時間で言う所の『一年』に一回は、あの忌々しい体験をしなければならないのだ。

 ちょうど半年前には、カゲツナの健康診断があった。

 俺は留守番をしていたが、カゲツナは帰って来た早々に俺に泣きつき、愚痴を聞かされた。

 そりゃそうだろう。

 一年に一回とはいえ、あの健康診断というのは何度受けても良い気持ちはしない。

 寧ろ、御免被りたい!出来る事なら今日も行きたくは無い!

 駄菓子菓子…。

 これもご主人様の優しさなのだ。

 俺たちを思っての行動なのだ。

 それが理解してしまえるからこそ、無下に出来ないところもある。

 それでも嫌なものは嫌という気持ちもある。

 とはいえ病院に行くのを嫌がって、ご主人様の困った顔を見るのも忍びない…。

 また、カゲツナの手前、醜態しゅうたいを晒すのも癪だ。先輩猫としてのに関わる。


 ということで、食事を済ませた俺は腹を括って、大人しく動物病院に行くことにした。


 ご主人様の自宅から動物病院までは、自転車で5分足らずの近い場所だ。

 俺は犬猫を運搬する為の檻の中から外を眺めていた。

 保護猫カフェに連れて行って貰う時となんら変わらないので、別段特に変わった事ではない。

 ご主人様が自転車を走らせているおかげで、檻には程よく春を感じる風が入ってきて、心地良さすら感じる。

 俺は何気にこの時間が気に入っている。

 野良時代の名残もあるのだろうが、外の空気は好きだ。

 しかも今は飼い猫なので、ご主人様が一緒で守ってくれる。あの忌々しいカラス共に怯えずに済む。

 なにより、人間の言葉が分かる為、外に出ても不自由はしない。

 時々一人で外に出たい衝動に駆られるが、ご主人様が心配するのが目に見えているので、他の猫のように軽々しい行動はしない。

 それに、ご主人様は俺の事をよく解っているのか、時々こうやって外に連れ出してくれる。

 それで今は十分満足だ。


 が、俺には少し気になっている事があった。

 

 最近ご主人様の様子が少し曇る時があるのだ。

 俺やカゲツナと遊んでいる時や一緒にくつろいでいる時に、ふと俺たちを見る目が寂しそうというか、不安そうというか、そういう表情を浮かべる時があるのだ。

 何か悩みでも抱えているようにも思える。

 仕事の愚痴や人間関係の愚痴は散々聞いてきたから分かる。

 そういう時とは明らかに表情が違うし、言葉に出さない。

 俺の体調が心配なのだろうか…?

 でもあの表情は、以前に見せた表情と同じなのだ。

 うーん。

 思い出せない…。


 と、そうこうしているうちに目的地の病院に着いた。


 建物の外観は明らかに古い。

 瓦吹の屋根の木造の平屋。壁には至る所につたが鶴を伸ばし、葉がお生い茂っている。

 玄関の横には木製の看板で『大槻動物病院』と書かれていて、年季の入った文字は所々文字が薄くなっている。


 つまり、のだ。なのだ。


 この看板があっても、殆どの人間は空き家か廃墟かと勘違いしてしまうだろう。

 しかし、中に入ってみると、外観からはおおよそ想像もつかないくらい清潔なのだ。

 待合室の家具や備品などは、年代ものなのでアンティークさを感じるが、手入れが行き届いているせいか、ボロさを感じない。

 また、ここの獣医が為、利用者や連れて来られる動物達も限られていて、いつ来ても比較的空いている。

 ご主人は俺を檻ごと一旦待合室の床に置き、受付を始める。

「こんにちわー!予約していた林です。」

 ご主人様がそう言うと、奥から初老の女性が『はいはい』と言いながら、ニコニコしながらやって来た。

 ここの獣医の伯母で、看護師である。

「あら美憂ちゃん、いらっしゃい。待ってたわよ。」

「今年もマサムネの健康診断、よろしくお願いします。」

 すると看護師の女性はしゃがみ込んで、ニコニコしながら檻越しに俺を覗き込む。

「ふーん。外見は異常なさそうね。じゃあ美憂ちゃん、マサムネ君を檻から出して、中に入って頂戴。先生がお待ちかねよ。」

「はい。」

 ご主人様は檻の扉を開ける。

 俺が檻から出ると、ご主人様は俺を抱きかかえるように拾い上げた。

「失礼しまーす。」

「はーい。どうぞ。」

 部屋の中から女性の声の返事がすると、ご主人様は俺を抱きかかえられながら、診察室に入った。すると…。


 診察室の中にが居た。

 そう、俺の健康診断をする獣医だ。

 俺はこの女が苦手だ。天敵と言ってもいい。

 ウルフカット気味の髪型。

 無造作に羽織った白衣。

 耳には何か所ものピアス。

 本革の黒いパンツを履き、白衣のインナーには白地で黒く大きな文字で『喧嘩上等』と殴り書かれたTシャツ。

 足元は素足でスリッパ。

 高身長から見下ろすように俺を見る鋭い眼光…。

 どこからどう見ても獣医ではない。

 しかも女性なのだ。

 こんな風貌では、初見の人には獣医である事はおろか、女性という事も分からないだろう。

 

 ところが、だ。


 この獣医は俺を見るなり、たちまち形相を崩して破顔の笑みを浮かべ、ご主人から俺を奪い取るように抱きかかえた。

 「マサムネー!!会いたかったよー!!げんきにしてたー???メグミ先生でちゅよー!!!!」

 そう、ここの獣医である大槻恵おおつきめぐみは、『』なのである。

 「はあー!私の天使!私の癒し!世界一尊いクロヌコ様ぁーーーー!!」

 そう言ってこの獣医は、俺の体を撫でくり回して顔面をこすりつけ、俺の匂いを嗅ぎ始めた。

 「これよこれ!黒猫こそ至高!黒猫は正義!!!」


 煙草臭い、よだれもダダ洩れ、正直ど直球に言えばウザい…。


 だが、一つ確実に言える事は、この獣医は心底俺たち猫の事が大好きなのだ。

 それは彼女のから分かる。

 ご主人様と同じ、猫をいとおしいと思う人間のがするのだ。

 だからウザいと思いつつも、無下にはできない。

 

 なにより、この獣医は俺の命を救った恩人なのだ。


 「あのー、先生?」

 俺の気持ちを察したのかどうかは分からないが、ご主人様が絶妙なタイミングで獣医に声を掛けた。

 「ああ、美憂ちゃん。ごめんねー。久しぶりのマサムネ君を堪能しちゃった。」

 この外見から想像もつかないような可愛らしい声だ。

 「さてと。今日は健康診断だったわね。」

 「はい。よろしくお願いします。」

 この獣医、普段は落ち着きがあって、声のトーンもやや低めで少し威圧感もあるのだが、俺の前ではそれこそ可愛らしい女性になるのである。

 いったいこの獣医の思考回路はどうなってるのだろうか? 

 彼女を見ていると、俺は時々『人間という生き物の思考』が理解に苦しむ時がある。

 なぜなら…。

 俺を診察台に座らせ、健康診断の準備に入った瞬間、何かスイッチが入ったように雰囲気がガラッと変わったからである。

 さっきまでの雰囲気とは打って変わって、眼光鋭く威厳のある腕の立つ獣医にへ変貌したのだ。

 頭には診察用の帽子。

 顔には小さな明かりが灯せる拡大鏡タイプのメガネを装着し、手には触診をするための密着したゴム手袋。

「さあ、マサムネ君。健康診断を始めるよ?」

 既に獣医の隣には、さっき受付にいた看護師の女性もスタンバイしている。

「じゃあ、先に血液検査から行きましょう。麻酔シールを。」

 獣医に促され、看護師は俺の腰あたりに何やらシールのようなものを張った。

 腰に何か張られた感触はあったが、不思議と何も感じない。

 とやらは、あのチクっとする感覚のという器具が使われる。

 俺はあの感覚が嫌いだ。

 しかし、ここでまたゴネると、なによりご主人様が困った顔をする。

 俺は身構えて、注射とやらの痛みに耐える準備をした。

 が…。

 「はい、終わり。じゃあ、次、触診しましょう。その間にエコーの準備を。」

 え?もう終わったのか?

 いつものが無い?

 どういう事だ?

 困惑している俺をよそに、獣医は俺の体を調べ始める。

 あちこち体中を丁寧に、しっかりと押さえるような感覚で触れていく。

 さっきの撫でまわされる感覚とはまた違う。

 次に、俺の口を開け、歯のチェックとそれが終われば、目のチェックをする。

 「はい。触診問題なし。エコーしてみましょうか。美憂ちゃん、ちょっとおばさんといっしょに、マサムネ君を仰向けにして抑えてくれる?」

 「わかりました。」

 俺は仰向けにされ、前足をご主人様に、後ろ足を看護師に抑えられ、お腹の丸見えにされる状態にされた。

 この格好は少々恥ずかしい。

 すると、獣医はなにやら粘度のある液体を俺の腹に塗り、片手に持っている先の丸い道具で、液体の上をなぞっていく。

 液体のひんやりした感覚と、道具が腹の上を行き来する感覚で変な気分になる。

 「はーい。エコー終了。」

 獣医はそう言うと、さっき腹に塗った液体を綺麗に拭き取ってくれた。

 「さあ、最後にレントゲンを撮って終わりにするねー。マサムネ君?ちょっと抱っこするからねー。」

 俺は獣医に抱えられ、今度は別の部屋に連れていかれた。

 そこにはガラスで出来た透明の台がある。

 あれは、滑りやすいので苦手だ。

 「はい、じゃあじっとしててねー。」

 そういって、俺は獣医にそのガラスの台の上に乗せられた。

 獣医は俺をそのままにして、別の部屋に行った。

 辺りをよく見ると、なにやら大きな窓の部屋があり、そこに入った獣医が、なにやら機械を操作しているようだ。

 すると、ウィーンという機械音と共に、なにやら俺の頭上から、体が覆いかぶさる位の機材が降りてきた。

 機材が一定の場所で止まる。

 すると、またゴーという音を立てたかと思うと、なにやら『カシャッ』っという音が何回か続いた。

 その後、機材は俺の乗っている台の周りを前後左右動くと一定の場所で止まり、止まる度にカシャッという音がする。

 どうやら、とやらを撮っているようだ。

 そうこうしているうちに機械が止まると、機械を操作していた部屋から獣医がやってきて、俺を抱きかかえてこの部屋を後にし、ご主人様の待つ診察室に戻った。

 「はい、終了。よく頑張ったわねー。」

 獣医はそう言いながら、俺の頭を優しく撫でてきた。

 さっきの撫で方とは明らかに違う。

 何か、俺の労をねぎらうかのような、慈しみのある撫で方だ。

 「恵先生、ありがとうございました。」

 ご主人が獣医に頭を下げる。

 「はあー。この子、ホントにイケ猫だわ。手は掛からないし、ハンサムだし。」

 そう言いながら、俺の体は獣医からご主人様へと渡った。

 

 ああ。ご主人様の匂い。

 やっぱりこの匂いが一番好きだ。


 「よかったねー、マサムネ。先生が褒めてくれたよー?」

 ご主人様も俺の抱き抱えながら、頭を撫でてくれた。

 「美憂ちゃん。レントゲン写真が出来上がるまで時間があるから、ちょっと付き

  合って?」

 「あ、はい。」

 俺を抱きかかえたまま、ご主人様と獣医は病院の玄関の外へ出た。

 

 玄関の外で、獣医は蔦まみれの壁にもたれ掛かると、ズボンのポケットから何かを取り出した。


 タバコとライターだ。

 あー、そういえばこの獣医、タバコを吸うんだった。

 俺はあのタバコの匂いが嫌いだ。

 だが、獣医はタバコを口に咥えると、金属製のライターの蓋を開け、タバコに火をつけた。

 「はあー。仕事の後の一服、サイコー!!」

 何がサイコー!なのか俺にはさっぱり分からん。

 あんなきつい匂いを放つものを吸って、人間は何が楽しいんだろうか?

 やっぱり人間の考える事は分からん。

 ましてや、このとち狂った女獣医は、俺が見てきた人間の中でも、もっとも意味不明な思考の持ち主の部類に入るだろう。


 「ねえ美憂ちゃん?」

 「はい。」

 「二年前の事、覚えてる?」

 二年前…。

 俺が車に撥ねられた時の事だろう…。

 「はい。勿論。今でもあの時の事を思い出すと、恵先生には頭が上がりません。」

 「そんな事は良いのよ…。」

 獣医は苦笑いしながら、またタバコを吹かす。

 「あの時、私が言った『この子を一生面倒を見る覚悟』っての、まだ変わってないわよね?」

 「勿論です。ただ…。」

 「ただ、何?」

 ご主人様の表情が少し曇る。

 「この子はどうなんだろうなーって。私に飼われて幸せなのかなーって。」

 「どうして?」

 「去年、去勢手術をするとき珍しく抵抗したし、それ以来この子元気がなくなっちゃったみたいだし…。」

 

 そう。

 俺は去年、去勢したのだ。

 股間にぶら下がっていたモノを取ったのだ。

 確かに、あの時はゾッとした。

 人間は俺をなんだと思っているのだ?と。

 

 だが、今は良かったと思っている。

 去勢する前は、変にがついたり病気にかかったりもしたが、今は毎日健康に、そして穏やかに暮らしている。

 「確かに今は、この子健康だし手も掛からないですけど、私たち人間が、この子たちの姿を自分たちの都合で変えちゃったりして良かったのかなーって。そんな飼い主に飼われているマサムネは、どう思ってるのかなー?って」


 そうか!

 思い出した!

 最近ご主人様が時々浮かべるあの表情、俺に去勢手術をする2、3日前に見せた時と同じだ!

 なんだ、まだ自分を責めていたのか…。

  

 「動物達の姿ねえ…。」

 獣医はまたタバコを吸うと、ため息交じりに息を吐いた。

 「まあ、一言で言うなら、全部人間のよね。」

 「ですか…?」

 「そう。だって考えてみてよ。お肉を食べる為に牛を育てて殺す。資材に使うと言っては木を伐採する。全部人間のご都合じゃん?牛だって木だってたまったもんじゃないわ。」

 「…。」

 「それを言い出したら、キリが無い。だから、食事をするときは命を頂く事に感謝して『頂きます』という。伐採した土地には新しい木の苗を植える。そうやって、自分のと向き合わないといけないのよ。」

 「業…ですか?」

 「まあ、今風に言えば『リスペクト』って奴?自然に対するリスペクトを失なわないようにするって感じかな?」

 ご主人様はちょっと難しい顔をしている。

 俺には獣医の言いたい事がなんとなく分かる。

 この獣医は、人間の傲慢さが嫌いなんだろう。人間様の都合で多種の生命を勝手に操っている感じがして嫌なのだ。

 「ちょっと話、それちゃったよね。じゃあ、例えばマサムネ君を去勢しないまま飼ってて、マサムネ君がよそ様の猫にお手付きをしたとしようよ。生まれてきた子猫ちゃん達はどうなると思う?」

 「…。」

 「引き取ってくれる人が見つかったとしても、家族はバラバラになるのよ?それとも、美憂ちゃんがその子猫を全部飼える?」

 「無理です…。」

 「でしょ?これ、美憂ちゃんが子猫の立場だったら、どんな気持ちになる?」

 「辛いです。寂しいです…。」

 「そう言う事。でも、マサムネ君がちょっと辛い思いをしてくれたお陰で、そういう子猫ちゃん達が減るのよ。マサムネ君が、先に見えている不幸を救ってくれたって事なの。」

 獣医は白衣のポケットから取り出した携帯用の灰皿で、タバコの火を消した。

 「去勢をした事に後ろめたさを感じてるなら、マサムネ君の猫生の最後の一瞬まで、美憂ちゃんが傍にいてあげて。そしたら、マサムネ君の去勢も無駄にならないし、彼の猫生も幸せなものになると思うわ。」

 「でもマサムネはどう思ってるか…。」


 そんな事は決まっている。

 ご主人様に会えて、ご主人様に飼われて不幸な訳が無い。

 むー。

 こういう時、という奴は無駄に不便だ。

 俺が人間の言葉を操る事が出来れば、一言『幸せだ!』と言ってしまえば終わりなのだが…。

 人間の言葉を理解できるだけに、どうやったらこの気持ちが伝わるのか…。

 

 「じゃあ、マサムネ君に今聞いてみたら?『私に飼われて幸せか?』って。」

 「ええ???」

 「案外答えてくれるかもよ?」

 少し邪悪な笑みを浮かべる獣医に困惑するご主人様…。

 

 駄菓子菓子…。

 ナイスアシストだ獣医!

 このタイミングで、ご主人様が俺に尋ねてくれれば、俺はリアクションで伝える事が出来る。

 さあ、ご主人様!勇気を出して!

 

 すると、俺の気持ちが伝わったのか、ご主人様は抱いている俺の顔をじっと見て、恐る恐る呟いた。 

 「マサムネ?今幸せ…?」

 俺はご主人様にぎゅっとしがみつき、ご主人様の顔をここぞとばかり舐め回してやった。

 どうだ、これでも俺が不幸そうに見えるか?

 俺は十分幸せだ。

 「ちょっとマサムネ、くすぐったいって。」

 ご主人様の表情がみるみる晴れていく。

 「ほらー。やっぱりマサムネ君はお利口りこうさんじゃない。」

 獣医の一言に、俺は一声鳴いて答えた。

 すると、ご主人様と獣医は顔を見合わせて笑ったのだった。

 

 これで俺の気持ちは伝わったに違いない。

 俺もこれで一安心だ。

 と、思ったその時…。


 「ところで…。」

 今度は獣医がで俺を見る。

 「美憂ちゃーん…。マサムネ君、もう一回だっこさせてくれない?」

 ゲッ!

 またか!

 俺は一瞬勘弁してくれと思った。

 が、この獣医、俺が思っている以上に色々と考えている事も分かった。

 仕方がない…。

 今日ぐらいは、あのとやらの匂いは我慢してやるか…。

 俺はご主人さまが返事をする前に、ご主人様の懐から飛び出し、獣医に抱き着いてやった。

 「なに??マサムネ君いいの??」



 だが、俺はこの後やっっっぱり後悔した。

 予想通り、もみくちゃにされ、腹の匂いを嗅がれ、体中この女のよだれまみれになったからだ。

 

 

 さて、健康診断も無事終わり、俺はご主人さまと一緒に家路についた。

 檻越しに自転車を漕ぐご主人様の表情は、どことなく晴れやかだ。

 今の俺にとっての幸せは、ご主人様がいつもにこやかにしている事だ。

 そりゃ、ご主人様だって辛い時もあるだろう。

 悲しい時もあるだろう。

 でも、そういう時は、俺も力になりたい。

 俺がご主人様のそばにいる事で、辛い事や悲しい事、怒りや憎しみで傷ついた心を癒すことが出来れば、いつもの優しいご主人様に戻ってくれれば、俺にとってはそれが一番だ。

 



 俺にとってのご主人様は、世界一のご主人様なのだから。




 因みに、後日健康診断の結果が出た。

 勿論、『異常なし』だった。

 その時のご主人様の満面の笑みは、俺にとって最高の笑みだった事は、言うまでもない。


【完】

 

 

 

 

 

 

  

 


 

 


  

  

 



 

 

  

   

 


 

  

 

 

  


 

  

 

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