レイデオロ市場にて

フカ

五月の水曜日




店の営業が終わったあと、いつものようにマダラと一緒にまかないを食べていると、前掛けを右手に掴んでラガ店長が休憩所からやって来る。珍しいな、と思った。ラガ店長は掃除を終えると、休憩所にあるラタンの椅子でいくらかの時間を過ごすからだ。

口の中にフレンチトーストを詰めたまま、マダラがもにゃもにゃと喋る。マダラのかわりに俺が聞く。

「どうしたんですか」

「君ら明後日空いてるか」

「うぁいへます」「空いてます」「なら市場に行かないか」

マダラの口からフレンチトーストのかけらがこぼれ出る。またもにゃもにゃと返事をしながら、マダラは左手をあげてぶんぶんと振る。期待の瞳で俺を見る。

俺は行きます、と答える。



*

クルーザーのなかでゆらゆらと波に揺れながら、鞄に明後日の用意をしているマダラを眺める。茶色の革の、背負い紐つきの手さげ鞄に、飴とかガムとか諸々を詰め込んでいた。気が早いなと思いながら欠伸をする。調理場は立ち仕事で、段取りや順も考えるから店に出る日はいまだに帰ると眠い。時計を見るとまだ早いけど、低い波が余計に眠気を誘うから、シャワーを浴びて眠ることにした。

ぬるいシャワーを頭のてっぺんに浴びながら目をつむる。まぶたの向こうに浮かんできたのは働くマダラの後ろ姿だ。三枚の皿を手と腕に乗せて、テーブルを順に器用にまわる。

あんまり考えたくなかったけど、眠かったりくたびれていると余計なものが頭をめぐる。シャワーをとめて、髪や体を洗っても、またぬるま湯が肩を伝うとそいつが顔を出してくる。

俺はいつまでここにいられるんだろう。



*

翌日の仕事も無事に終わって、眠いからまたシャワーを浴びるとあっという間に明後日になった。俺が片目だけ開けて、アラームを止める時間にはマダラの準備は終わってた。眠い両目を水で冷やしてむりやり開ける。歯磨きをして、髪をまとめた。切りに行くのが億劫だから、縛れるぐらいに伸びていた。


「は!や!く!」

上着のポケットに財布とスマホだけ突っ込んで、クルーザーから出るとマダラがむくれていた。わかったよ、と返すとマダラは俺の後ろにわざわざまわって、くくった髪の尻尾を横に引っ張った。せっかく縛ったのに、と思ったけど、「曲がってたよ」と言われた。

「行きますよ〜」マダラが走るので追いかける。


いつもの道を店まで走ると、青い花柄のシャツを着たラガ店長が、車と一緒に店の前にいた。走ってきた俺らを見ると、ラガ店長はプラドのドアを開け、助手席から水のペットボトルを二本出してそれぞれくれた。俺が水を飲んでるあいだに、マダラはサイドシートを陣取る。横に並ぶのもあれだから、俺は店長に尋ねたあと助手席に乗り込んだ。バックミラーに羽や、ビーズや、三頭身の骸骨のおもちゃがじゃらじゃらしている。


ラガ店長がプラドのエンジンをかける。ずいぶんといかつい車だ。ピックアップトラックは悪路も走るし荷物もたくさん乗せられる。この辺で店をやっている人は、プラドやハイラックスを持っていることが多かった。

出発して、ラガ店長がラジオをかけると、ちょうど曲が流れていた。店長はボリュームを上げる。好きなんだ、と微笑む。マダラが返事をして、俺は頷いた。陽気な曲だ。

歌詞とメロディが一周すると、次の出だしからマダラが歌い始めた。マダラはだいたい、歌を聞くとすぐ覚える。店長が笑って一緒に歌う。マダラも店長も上手かった。三人分の歌声を、俺は窓から来る風を受けながら聞いた。


砂煙に巻かれながら一時間轍を走ると、舗装された道路が見えた。また一時間、太陽光に炙られながら車を走らせると、ようやく市場の近くに着いた。

仕切りも区切りもなにもない、ただの平地みたいなところに車がわんさか停まっていた。みんなだいぶ適当らしい。斜めに車が停まっていたり、車幅が空きすぎたり狭すぎたりしていた。そんな雑然としたところに、ラガ店長は綺麗にプラドを停める。


車を降りて、店長のあとをついて行く。はしゃいだマダラが俺のシャツの裾を掴んで引っ張る。

市場に近づくと、いい匂いがした。香辛料で魚を焼いている。かと思えば花の青さや、柑橘類の香りもしてくる。アーチを繋ぐロープに国旗がはためいている。


市場の賑わいは凄まじかった。通りの左右にひたすらに続く屋台の道、その真ん中を埋める人々。肌の色も瞳の色も、着ているものも様々だった。喧騒のなかに何種類もの言語が飛び交う。快晴の空の青さと、それぞれに違う鮮やかな屋根の色。ずいぶんと眩しくて俺は目を細める。弾んだ声でマダラが、きれいだね、とおんなじように細い目で言う。


ラガ店長は、「とりあえずついておいで」と俺らに言うと器用に人混みを避けて進んだ。体格のいい店長の後ろに並ぶように、でも周りを見回しながら俺とマダラも市場を進む。

まだ何分も経ってないのに、マダラがあれ!と指を差して、ラガ店長の背中を叩いた。指の先には菓子屋の屋台がある。

人波を横にかき分けて、屋台の前に三人で並んだ。揚げた筒状のパイ生地のようなものが積まれている。油と生地のいい匂いがした。指を三本立てながら、ラガ店長が知らない言語で屋台の主に話す。茶色いひげを蓄えた男性が、またそれに応える。

屋台主は積まれた生地をひとつ手に取ると、わきにあった絞り袋の先を突っ込む。白いクリームが生地の空洞を目一杯埋めて、粉砂糖をまぶされたあと、紙に包まれて俺達に順に渡された。

端から齧ると、生地がさくさくしていて香ばしい。崩れた生地とクリームが混ざって、美味しい。

マダラがもにゃもにゃしている。たぶん、「めちゃめちゃおいしい」だと思う。俺もそうだな、って返した。


ラガ店長は酒屋に用事があるらしい。そこに着くまで、気になった店は見ていいと言われた。

進んでも進んでも、次つぎに屋台が現れて、一回見ただけじゃよくわからない。売り物が布や野菜など、すぐわかる店もあれば、見たこともないようなガラスの細工や、木の皮を売る店など、何屋かわからないのもよくある。


俺がぐずぐずしていると、マダラがまた立ち止まる。伸びた指先についていくと、檻がたくさん置かれた店がある。大小様々のケージの中には、これもまた色々な爬虫類が入っていた。

甲羅が分厚い亀やトカゲが檻のむこうからこっちを見てくる。うっすら、食用じゃないか、と思ったけど違うらしい。

マダラは店主へ断りを入れたあと、檻へと順に話しかけた。だいたいの爬虫類は黙ってじっとしていたけど、尻尾の形が独特な黒と黄色と白の斑のやつが、マダラの呼びかけに鳴いて反応してくる。

店主がトカゲの種類を言う。たぶん英語だ。聞いたことがない名前だった。

「あの〜」マダラが俺を見てくる。

「だめ」俺はばっさり言う。

「なんでー!」「だめ」「かわいーじゃん」「だめ。まず水槽もないだろ」「水槽だったらうちにあるぞ」俺は勢いよく振り向く。ラガ店長がにやりと笑う。

「水槽どころか、ライトもヒーターもシェルターもある」「なぜ」「昔うちの店にもいたんだよ。そいつの名残りだ」

そうなのか、と思ったけど、惑わされるわけにはいかない。こんな見たこともないトカゲの、飼育方法はわからないだろう。

「飼い方わかんないだろ」俺が言うと、マダラはまた店主に話しかける。すると店主は背後にあった木の引き出しからなにかを取り出す。

マダラが受け取って俺に見せる。小冊子だ。

『レオパードゲッコーの飼い方』。

ラガ店長とおんなじように、店主がにやりとした。



*

酒屋の用事がまだだから、とりあえず代金を払い、トカゲではなくヤモリの仲間のレオパードゲッコーは取り置きになった。やり手の店長はヤモリの檻に売約済みの札を貼り、笑顔で俺らに親指を立てる。


爬虫類屋を後にして、十分ぐらい市場を進む。すると次第に屋台ではなくて、建物が並ぶようになる。

酒屋は連なる建物のいちばん角にあった。クリーム色の壁をした立派な建物だ。ポロシャツを着た恰幅のいい男性が店長を見ると手を振った。

まず店長が彼と握手をし、次に俺達を紹介した。ひげを蓄えた酒屋の主人はマイロと名乗る。俺とマダラも自己紹介をして、握手をする。

入口のすぐ脇に、店長の荷物があった。店主が店の奥に引っ込む。台車を貸してくれるらしい。

朱色のスタンプを押された木箱は、全部で十二箱あった。これは人手が欲しくなるな、と思う。


両手に台車を一つずつ引いて、マイロさんはすぐ戻ってきた。三人がかりで重い木箱を台車に積み込む。仕切りがついた木箱の中には、色とりどりの酒瓶がきれいにそこに収まっていた。緑の瓶のビールにウイスキー、わりに上等なラム酒など、店の木棚に並べてある馴染みのあるものばかりだ。

ラガ店長の店は酒も出す。この国の人たちは、昼からよく酒を飲む。休日や国の祝日には、結構な量がはけていく。


台車に木箱を積み終えたあとふと、また来た道を戻るのかと不安になったけど、ラガ店長は代金を払うと酒屋の脇の路地に進んだ。マイロさんに挨拶をしてラガ店長についていく。マダラと交代で路地をごろごろしばらく進むと、道が拓けてあの雑多な駐車場が見えた。



*

トラックの荷台に乗り込んで、奥から木箱を積んでいった。ラガ店長が台車から荷台へ木箱を持ち上げて、マダラが受け取り俺が並べた。十二箱ぜんぶをリレーのようにして積み、日避けを荷台へ張り終えるともう汗だくだった。

「いる?」

マダラが革の鞄からハンドタオルを出してくれる。借りて首筋の汗を拭って、ハーフパンツのポケットに入れた。店長を見ると涼しい顔をして、手のひらを組んで腕を伸ばしている。

「さて。遅い昼飯にしよう」店長はまた市場の喧騒に向かう。


市場の西の一角に、パラソルのついたテーブルがいくつも並ぶ場所があった。緑と白、黄と赤、青と白など、カラフルなテラステーブルの周囲をぐるりと囲むように、食べ物の屋台がずらりと並んでいる。

「食べられないものはあるか?」店長が俺達に尋ねる。

「ないです!」「たぶん、無いです」

「ならおすすめがある。とりあえず今日はそれを買ってくるよ」

ラガ店長が買い物へ行き、俺達はテーブルをとる。

「おなかすいた~」マダラが白い丸テーブルに突っ伏した。するとそのまま顔だけ上げて話しかけてくる。

「ゲッコーかわいかったね」「そうか?」「なんか顔がさあ、口がかな?にっこりしててかわいいよ」「ちゃんと世話しろよ」「するって!」

わあわあとしばらく話していると、ラガ店長が戻ってきた。両手いっぱいに料理を抱えている。

「お待たせ。さあ食べるか」

テーブルの上に料理とグラスが並ぶ。丸いパンのサンドイッチと、魚介のサラダ、輪切りの腸詰めの乗ったオムレツ。どれも美味しそうだ。

マダラがさっそくサンドイッチに手を伸ばすので、俺もそうした。挟んであるものは全部違ったけど、よくわからないから端のを手に取る。

ひと口齧るとオリーブオイルの香りがした。具材は、牛肉と野菜を炒めたものだ。辛くはなくて、玉ねぎやパプリカのような野菜がしゃきしゃきしていて美味しい。

「あ、とうもろこしのパンだ」「そうだ。具材とよく合う」ラガ店長はサンドイッチを片手に、魚介のサラダに手を伸ばす。小さい皿に取り分けてくれた。

渡された皿の中には知らない魚介が乗っていた。白と、赤紫のような色をしたぶつ切りの、魚のようで魚じゃないもの。よくよく見ると、まぶされた赤い香辛料に隠れて、吸盤のようなものが付いている。

少しだけ眉をひそめたけど、口にしてみる。歯ごたえが凄かった。吸盤ごと思いきって噛み締めると、旨味のある身と香辛料と合わさって、絶妙だ。

「んわ〜、おもしろーい」「ぎょっとしたけど、うまいな」聞いて、ラガ店長が満足そうに頷いた。

グラスを手に取り傾けると、気泡が上がって音を立てた。炭酸水だ。キンと冷えている。ひと口飲むと、ずいぶんと美味しい。

驚いている俺を見て、店長が「天然水を使ってるんだ」と教えてくれる。

「オムレツもどうぞ」ラガ店長がホールのオムレツを切り分ける。中にはじゃがいもや玉ねぎがぎっしり入っている。分厚いオムレツは食べごたえがありそうだ。

二種類の腸詰めが、輪切りにされてオムレツの上に乗っていた。輪が大きいのはサラミに近くて、塩気が効いている。小さい方はチリだった。ほくほくのじゃがいもとよく合う。

「おれこれ好きだな~」マダラがオムレツを大きく切り分けて、口にめいっぱい運んだ。



*

大いに昼飯を楽しんだあと、三人でひと息ついた。

店によく来るお客の話なんかをして、ふと店長が腕時計を見た。爬虫類屋は営業時間が短いらしい。

「じゃあー、ちょっと行ってくるね」

テーブルを立つとマダラはすぐに手を振って、ラガ店長と人波に飲まれる。ふたりの背中を見送ると、俺は通りをぼんやり眺める。満腹だったし、少し疲れていたから、昼飯をとったテーブルで休憩することにした。手持ち無沙汰にしていると、正面の屋台から女性が出てきてこちらに来る。暇を持て余している客に営業しているんだろう。女性は英語を話したから、俺はアイスティーを注文して、愛想のいい黒髪の女性にチップと代金を渡した。そしてまた通りを眺めた。

観光客だろう、黄色の大きなバックパックを背負う男性が、華やかな刺繍の織物の前で写真を撮っていた。

自分の国を思い出す。みんな黒っぽい服を着て、不安定な空の真下を早足で歩いていく。

いつの間にかテーブルの上にアイスティーが置かれていた。汗をかいたグラスを手に持ち、ストローでひと口飲むと、痺れるぐらいに甘くて苦笑いをした。


アイスティーが半分になると、マダラと店長が戻ってきた。遠目からでもマダラの腕に、袋がわさわさしてるのが見えた。鈴なりになった紙袋やビニール袋を下げた腕の先、両手にもなにか持っている。

「きょうから仲間になります!」

マダラの手には厚紙でできた箱がある。さっきのなつこいヤモリがここに入っているんだろう。爬虫類は苦手じゃないから、どうも、と箱に返した。



*

来た道をおんなじように二時間走る。マダラは市場で買ってきた、カラースプレーにまみれた焼き菓子を食べながら、またラジオに合わせて歌って、ヤモリの箱を覗いたりした。俺は逆戻りする景色を眺める。今日は運転手じゃなかったから、空も建物もよく見えた。

店の前につく頃には太陽が西に傾いていた。買った酒類を店の裏へ運んで、ラガ店長から水槽、その他飼育セットの一式を受け取って、ふたりで今日のお礼を言った。とんでもない、と店長は言い、「最近は腰が痛くてね」と冗談のように笑う。


クルーザーへ帰ると、マダラはヤモリの住処を作った。水槽に砂を敷いて、ライトとヒーターを設置して、水飲み場を満たす。最後に岩場を模したようなシェルターを砂の上に置くと、ヤモリを水槽に入れる。

斑のヤモリは水槽を見渡して、水をふたなめするとまばたきをした。レオパードゲッコーが目を閉じる。まぶたがあるのか、と思った。

その後ヤモリはシェルターへもぐり込み、頭を少しだけ出して、そこへ落ち着いた。

マダラが先に歯を磨くから、おれはシャワー室に向かう。疲れていたから、お湯だけ流して髪と体をすすいだ。

着替えて洗面所に出ると、もうマダラはいなかったからそのまま俺も歯磨きをした。部屋に戻るとマダラがそのまま、ベッドに入って寝息を立てていた。歯磨きはたぶん、終わってるんだろうけど、服ぐらいは着替えろよ、とちょっと思った。でも、俺も面倒になっていたから、マダラに習って乾ききらない髪のままブランケットを肩まで掛ける。

眠ろうと思った。重たい眠気は体を包んで沈ませる。でもなにか、頭の中がうるさかった。市場の音や色のなかに、楽しかったな、という気分と、薄暗いものが混ざってまわる。

俺は親父と、親父の仕事を、当たり前だと思っていた。まわりはみんな似たようなことで明日の飯を食べていて、死ぬやつはそれが決まっていて、殺されたのは「死」の種類がただそれだっただけなんだと、そういうものだと信じていた。

市場で綺麗な刺繍を売って、皮の張りつめる果物を売って、それで明日の糧を得る人をたくさん見たから、頭の芯が痺れている。そんな世界が普通にあって、俺が子どもをバラしている日も市場は活気で賑わっていて、菓子屋は生地にクリームを詰めていたと思う。

俺もそれが良かった。

なんて傲慢なんだろう。それに気づいた瞬間に思う。俺の親父が前掛けをして、捌いた魚を焼き上げるのを考えて笑う。そうだったら良かった、良かった? でもそれだったらマダラに会えない。

サイドボードに作った水槽の住処ののなかで、マダラの買ったヤモリが鳴いた。まだ起きてるのか、と思う。夜行性なのかもしれない。

そうするとなにか、安心した。ずいぶん簡単になった気がする俺の頭の中に面食らった。面食らったし、そんなんでいいのかよ、でも、とか思ったけど、もうなにか、なんというか、面倒になった。寝返りを打つ。となりで寝てるマダラを見ると、ぷすす、と音がした。

クルーザーについた丸い窓から、陽の光がうすく差し込む頃に俺は眠りに落ちた。



*

目が覚めると顔がびしょ濡れだった。びちゃびちゃに濡らされたタオルが顔に張り付いていた。タオルが鼻の穴を塞いで死ぬかと思った。起き上がった俺からタオルをむしり取り、マダラが時計を目の前に突き出す。完璧に寝坊していた。


全速力で走ってようやく店に着くと、扉を開けた瞬間にラガ店長が飛んできた。マダラと俺の頭をそれぞれぺんぺんと叩くと、またそれぞれエプロンを俺らに投げてくる。


エプロンの紐をくくりながら厨房へ入った。グリドルの前にいるラナさん、店長の奥さんが俺を見つけた瞬間に口を突き出す。おどけた顔が笑顔になるとまた頭をぺんとはたかれ、ラナさんが使っていたグリドルターナーを渡された。

伝票が溜まっている。俺はちょうど焼き上がった腸詰めを、大急ぎで皿に移した。


そのままずっと注文をさばき続けて、ラストオーダーも過ぎた。グリドルの火を落としてスクレーパーで焦げをこそげる。床をブラシで擦る頃にはずいぶん空腹で、厨房に残る料理の匂いに反応して音が鳴った。遅刻をするとまかないはもらえない。聞こえないように息を吐いた。端から端まで床をブラシで擦り終わって額を拭うと、ホールを片したマダラが顔を出してくる。お手洗い!と言っていなくなる。


俺は椅子をひいてきて、作業台の端に座った。つい頬杖をつく。また息を吐く。面倒になったはずなのに、なにをやってるんだろうか。

そうしてぼんやりしていると、ふといい香りがしてくる。振り返るとラガ店長が二枚、皿を持ったままそこにいた。

「あの」湯気を上げている皿を見て俺は言いかける。

「遅刻はだめだが、腹減りに飯を食わすのが俺の仕事だよ」

ラガ店長はそう言って、俺の目の前に皿を置くと作業台の向かいに座る。

店長が食べ始めたから、俺もナイフを手に取る。

皿の中にはソースのかかった鶏肉が入っていた。茶色いソースはもったりしていて、香辛料と甘い匂いがする。ナイフを入れて、フォークでソースを絡めて口にいれると、チョコレートの味がする。

柔らかい鶏肉と、スパイスの効いたチョコレート・ソースが抜群だった。店のメニューにこの料理はない。顔を上げて店長を見た。

「俺が生まれたとこの料理だよ」

ラガ店長はそう言った。俺はずっと、店長はここの生まれなんだと思っていた。誰も何も言わなかったから、知らなかった。

俺はそんなに顔やしぐさによくないものが出ているのかと、情けなさがわいてくる。申し訳無さをごまかすみたいにまた一切れ口に運んだ。美味しいです。言うと、店長はそれは良かった、と返して頷く。

この料理は店長の気遣いだろう。戒めと労りの、どっちも入っている。

ラガ店長は料理の名前は言わなかった。家庭料理のようなものなのかもしれない。家庭ごとに、少しずつ味が変わっていくような。もう一度口に運んで、なんとなく思った。

「ただいま〜、あ、なに? 新メニュー?」

たぶん手洗いから帰ってきたマダラが、皿を覗いて言う。

「シェフの気まぐれだよ」ラガ店長がそう返した。



*

タオルで髪を拭いていると、マダラが水槽の前に行き、指をちょろちょろ動かした。斑のヤモリがそれに合わせて首を上下に振る。

「ねー」

「なに?」

「なんか等々力に似てない?」

何を言うんだと思ったけど、俺も水槽を覗いてみるとたしかにちょっとだけ似ていた。目が黒くてでかいとこ。そういえば、目をつむったときもなんだか雰囲気がある。

「名前等々力にしよ」

「ウソだろ」デカい声が出る。

「え〜だめ?」

「人の名前だろ」

「うーん、えー、あ!じゃあトドロキ」

「なんでカタカナにしたよ」

「えっへっへ」いつもみたいに、マダラがピースして笑う。

なにを言ってもだめだな、と思って、俺はトドロキに良かったな、と話しかける。トドロキはまばたきをして、口をあけた。髪を乾かそうと腰を浮かすとトドロキの背中が見えた。黄色い模様の部分が、稲妻のように直線になっているところがある。

「いいんじゃない、トドロキで」

「イカルガよりいいでしょ?」

「当たり前だろ」

俺は立ち上がり、レオパードゲッコーへ手を振る。

するとトドロキがウインクをした。マダラと顔を見合わせる。

「まじ?」マダラが口をぽかんと開けた。

やっぱりイカルガにしようか、とか言われたから、俺は力いっぱい止めた。




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レイデオロ市場にて フカ @ivyivory

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