12-午前四時のコーヒー・ブレイク

 手のひらの中に収まった真鍮製の蒸気吸入器ヴェポライザー、そのガラス管の冷たさを指先で確かめつつ、チャンプは何を考えるわけでもなくぼんやりとしていた。ジェリコの所有する大邸宅の一室。柔らかなベッドに臀部を沈ませながら、ふと窓の外に視線を投げると、紺青に塗り潰されたギリシア風の住宅街が押し黙っているのが見えた。月は分厚い雲に隠されていて、その光は地上には届かない。エルシノアで最も静かな夜は、この日も何事もなく更けていくことだろう。チャンプは窓ガラスに映った自分の姿に、ハゲワシの女が重なるのに気付いた。女は無表情で、しかし呆れたように青年を見つめていたが、やがて痺れを切らして口を開いた。「いつまでそうしている気なのかな。さっさと"それ"を使ってくれないと話が進まないのだが」チャンプは何も答えない。彼にとっては人間でいられる最後の瞬間なのである、惜しむ時間はいくらあっても足りない。今からでもハゲワシの女からの頼みを断ろうと、何度も考えた。近い未来、"人狼"がこの世に溢れたとして自分に何の関係があるのか。本当に自分がどうにかしなければいけない問題なのか。女の言葉を容れたのは、決してヒロイックな感情からではなかった。意味もなく地虫のように這って生きる現状に、確かに倦み疲れていたからというだけに違いない。女は言っていた――誰でもよかった、と。自分がこの話をなかったことにしたとしても、女は別の人間に同じことを頼むだけだろう。後ろ向きに走り出した思考は止まらなくなった。――その時、ヴァルチャーはチャンプの考えを読み取ったがごとく、彼の意志を再び傾けるべく口を開いた。しかし、先に動いたのはチャンプだった。エンド・テーブルの上に無造作に置かれた黒い立方体を手に取るとわずかな間隙に爪を入れて上下に割り、その中に入っていた袋を指で摘まんだ。"ムーングロウ"――乳白色の塊が、いかにも無害そうな顔をして袋の中で転がる。「それで、どれくらい使えばいいんだ?」チャンプは女の顔を見上げて言う。女は意表を突かれたように目を見開いて、すぐにそれを打ち消し、「君の体重なら0.25gもあれば充分だろう。小指の先に一粒、だ」言われた通りに、チャンプは袋から取り出した塊を手のひらへ乗せ、指先で軽く押した。塊は簡単に砕け、いくつかの粒になった。そのうちの小さな粒を選んで、蒸気吸入器ヴェポライザーのガラス管に放り込む。「待って。君の様子を観察したい。鏡の前に座ってくれないか」チャンプの決意に水を差すがごとく女が口を挟み、彼は無駄に豪奢な意匠が拵えられた鏡台の前の、似たような造りの椅子に腰を下ろす。鏡面に映った自分の顔は、窓ガラスに映ったそれよりもずっと顔色が悪く、疲弊しているように見えた。チャンプは意を決して、しかしそれをさとられないように、蒸気吸入器ヴェポライザーの吸い口を咥えた。かたかたと細かく震える手で、引き金トリガーを握り込む。800Wの電熱によって一瞬にして昇華した"ムーングロウ"が、チャンプの口腔へ流入していった。空気よりもいくらか重い気体に噎せそうになるのを堪えて、肺を膨らませる。気管から滑り込んだ"ムーングロウ"の蒸気は、肺胞に張り巡らされた毛細血管を伝って急速に脳細胞へ運ばれ、受容体と結合した。何事もない、と思いながら、チャンプはおそるおそる吸い口から唇を離す。それと同時に、彼の頭の中では異変が起こった。種々の神経伝達物質が盛んに放出され、喜び、悲しみ、怒り、恐怖、不安、後悔、絶望、諦念、あらゆる感情を内包した嚢が、彼の中で爆ぜた。存在する、しないに関わらず、すべての記憶が一息に想起される。そして、全身を猛烈な勢いで駆け抜けていく怒濤のような快楽――今までに楽しんだどんな食事、セックス、酒、遊戯を一切忘却させるほどの強大なそれが、あまねく感情と思考を強引に押し流していく。皮張りの座面の上で、甲板に打ち上げられた魚のように――いつか漁船の上で自分がとどめを刺した巨大な魚のようにチャンプの身体が何度も跳ねた。彼の動きに合わせて、左上腕に刻まれた蛍光色のハイエナがけたけたと嗤う。呻き声が遠くから聴こえる。それが自分の喉から発せられているものだと気付いたころに、絶え間なく連続する緊張と弛緩の波に、ようやくチャンプの身体が順応した。ぐりんと剥いた目の両端から流れ出る涙の冷たさを手の甲で拭う。女はわずかに口の端を吊り上げ、彼の顔を覗き込んだ。「どう。純正品はでしょう?」女と視線がぶつかる。チャンプは座面からずり落ちつつある身体を引き上げ、座り直した。乱れた呼吸をなんとか整えるが、言うべき言葉が出てこない。自分の中の一切合切が奪い去られたという気持ちだけが、彼の頭の中を占める。「正直かなり危なかったけど、無事……、まあ、なんとかなったようだ。心拍も脈拍も、この調子ならすぐに落ち着くでしょう」ヴァルチャーが表情を引き締め、科学者の顔でそう言った。なんとかなったらしい。疲れ切った頭で、チャンプは安堵を覚える。「お……」声帯を絞る力の加減を忘れた喉から、震えた声が出る。「おれは、"人狼"になったのか?」「そのはず。ギルガメシュを超越した気分はいかがかな」そう言われても実感など湧くはずもなかったが、不死――神話の時代から数多の人類が焦がれてきたそれを想うと、改めてハゲワシの女の言葉がチャンプの心にずっしりと圧し掛かった。しかし不思議と、後悔の念が沸き立つこともなかった。そのような"人間"らしい感情は、先ほど叩きつけられた暴力的な快楽の濁流によってすべて浚われてしまったのかも知れない。しばらく目の前の鏡を見つめているうちに疲労が回復してきたのか、思考が鮮明さを取り戻し始める。チャンプの脳内は不気味なほどの爽快感と、これまでに覚えたことのない全能感に満たされていた。それを確かめるとともに、未知の"飢え"にも気づく。食欲とは異なる飢餓感。それを癒す方法を、チャンプは"人狼"の本能で察した。無意識のうちに椅子から立ち上がり、部屋を出た。地下へ続く階段を下りると、ジェリコの"仕事場"へ足を運ぶ。様々な機材の間に並ぶ、一見すると横に倒した冷蔵庫のような冷凍睡眠装置コールド・スリープ・マシンのうちの一つを開いた。冷気が流れ出てくるとともに、数日前にチャンプがパチンコ店で捕らえた"人狼"の男が姿を現す。新鮮な肉を前にしたチャンプは、喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。まだ生きている。冷凍によって活性が落ちているとはいえ"人狼"の治癒力はすさまじく、銃痕はすでに塞がっていた。冷凍仮死状態の"獲物"が目を覚ます前に、チャンプはそれを担いでバスルームへ向かった。途中、キッチンから大ぶりの中華包丁も持ってきている。広いバスルームの床に、獲物を下ろす。ハゲワシの女はいつの間にか姿を消していた。とは言えチャンプの行動は余さず監視しているはずだ。女が視界にいないことは、彼としてもこれから行う作業に集中するためにはありがたかった。中華包丁を振り上げる。幸い、人体を解体するのは二度目なので手際は案外悪くなかった。

 ――窓の外はすっかり明るくなり始めている。チャンプは最高級エチオピア産のコーヒーを啜りながら、フライパンの上の肉に火が通るのを待っていた。脂が焦げる官能的なにおいがキッチンに充満している。充分に火が通ったであろうころ、最後に強火で表面に色をつけ、皿に移す。あらかじめ煮詰めておいた香味野菜を使ったステーキソース――レシピはネットで調べた――を上から垂らしかけて、ステーキが出来上がった。テーブルマナーなど知るはずもないチャンプはフォークをそれに突き刺し、端から齧り付く。焼く前の下ごしらえとしてしっかりと包丁の背で叩いておいたからか、歯ごたえは残っているものの咀嚼するたびに柔らかく繊維がほどけていく。香り高いソースも肉の味を消すことなく、むしろ存分に引き立てており、チャンプは自然と頬が緩む。弾力のある肉を噛み締めながら、自らの口内で一つの生命が終わっていくことを、チャンプは知覚していた。

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不夜城に獣 崩山 @sodom120

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