11-海蜇皮

 何事もなかったかのように古代ギリシア様式の大邸宅へ帰還を果たしたチャンプをリビング・ルームで出迎えたのは、オリーブ色のバスローブに身を包んだジェリコだった。「おかえり。……パーティにでも行ってたの?」サイボーグの色男は、青年のいつになくフォーマルな装いに驚いて、笑いながら問いを投げる。「まあ、そんなところ……。似合ってないかな?」チャンプが少し恥ずかしそうに視線を逸らすと、彼を不機嫌にしてしまったと勘違いしたジェリコは慌てて表情を引き締める。「いや、そんなことない。素敵だよ」今度は笑わずに、まっすぐな目でそう言った。それはそれで気恥ずかしいのだが、チャンプは何も答えることもなく、適当なリビング・チェアに腰掛ける。ジャケットの内ポケットに忍ばせた立方体の存在に気づかれないよう、それとなく腕で隠しつつ、「今日はこっちに泊まるのか?」無難な話題を振ってみる。「うん、そのつもり。起きたらすぐに出て行くけどね」無数の侵襲性人工装具インプラントが埋め込まれた身体をカウチに横たえ、ジェリコは手に持っていたビア・グラスに口をつける。「ああ、君も飲むかい?」男はグラスを掲げて、チャンプへビールを勧めた。白く細かい泡が浮かべる黄金色の液体に、青年の喉が鳴る。ありがたく頂こうと立ち上がりかけたとき、部屋の隅に佇むハゲワシの女の姿がチャンプの視界に映った。「どうした? 君も飲むといい」女は薄く笑いながら言う。その姿も声も、ジェリコには知覚できていないようだった。「いや、今日はやめとく」ジェリコへともヴァルチャーへともとれない返事を残して、チャンプは自室(とは彼が勝手に気に入って使っている部屋である)へ向かった。ローファーだけを脱ぎ、堅苦しい装いを寛げることもなく、大きく柔らかなベッドの上に身体を投げ出す。"狼狩り"に関わり始めてから過ごした日々の中で、今日が一番疲れたかもしれないな、とチャンプは思った。ポケットから取り出した黒い立方体をしげしげと眺める。ハゲワシの女もチャンプに寄り添うように寝転がり、同じように彼が持つ立方体を見つめた。青年は少し女から離れて、「この中に"ムーングロウ"が入ってるのか?」「そうだ。開けてみろ」女の言葉に従い、黒い箱を開ける。指輪を入れるようなケースと同じように、立方体は上下に開いた。しかし中に入っているのは指輪などではなく、透明の袋に包まれた乳白色の塊であった。「これがムーングロウなのか?」チャンプは袋を摘まんで、中身を観察してみる。「ええ、それが最も純粋なムーングロウだよ。さっそく使ってみるか?」「どうやって使うんだ、これ」「市販の蒸気吸入器ヴェポライザーで摂取できる」「そんなのおれ、持ってないけど……」「それなら注射器でもいい」チャンプは押し黙った。エルシノアに長く暮らしながら、彼はこれまでにドラッグを摂取したことなど一度もない。蒸気吸入器ヴェポライザーや注射器など持っているはずがない。「今日はもう疲れたから、明日買いに行く。今はジェリコもいるしな」「そうだね。じゃあ、おやすみ。チャンプ」女が姿を消す。チャンプはジャケットを脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ捨て、スラックスを脱ぎ捨てた。全部ベッドの端に追いやって、そのまま眠りに就いた。

 同じころ、エイミーはニュー・オスロのトルコ料理店で二人分のケバブサンドを注文し、商品が渡されるのを待っていた。厨房の奥から漂う肉が焼けるにおいに、彼女は思わず表情を緩める。しばらくして、「はい、お嬢ちゃん。お待たせ」人の好さそうな中東系の髭面の男が、エイミーへ二包みのケバブサンドを渡した。「ありがと、おっちゃん」彼女は代金を支払うと、店を出る。ここからオルセン・クリニックへは歩いてもそう遠くはない。親友であるリッシュへの差し入れを大事そうに抱えながら、エイミーはドクター・ベルテルの医院へ、弾むような足どりで向かう。この街の夜はこの都市エルシノアの中でもかなり静かだ。異国情緒あふれる飲食店や食料品店が並び、路上では多様な人種の人々が酒を酌み交わす。夜でも明るいことには変わらないが、中国人街チャイナ・タウンなどのようにぎらぎらと下品に光るネオンではなく、暖かみのある古き良き電灯が街を照らしていた。エイミーはエルシノアという都市まちを心から嫌っているが、このニュー・オスロだけは好きだった。オルセン・クリニックへ到着したエイミーは、ベルテルに軽く挨拶をする。「よう、ドクター。リッシュは起きてる?」「ああ、まだ電気が点いてるから起きてるんじゃないかな」それだけの会話を済ませ、リッシュのいる部屋へ入る。もう鍵はかけられていないようだ。「リッシュ、元気? 差し入れ持ってきたよ」能天気なエイミーの声に、ベッドの上で丸まって本を読んでいたリッシュが顔を上げる。「エイミー。来てくれたの」リッシュは親友が会いに来てくれた喜びに頬を緩め、エイミーが持っているケバブサンドの包みを見てさらに嬉しそうにした。ケバブサンドはリッシュの大好物である。「食べようぜ。まだあったかいから」一包みをリッシュに渡すと、エイミーは自分の分の包みを剥がしていく。がぶりとかじりついて、ピタパンと野菜と肉、そしてガーリックソースが織りなす調和を楽しむ。身体を起こして胡坐をかいたリッシュは、小さな口でお上品に食べていた。「怪我の調子はどう? 前に会ったときに比べたら、かなり顔色が良くなったね」「うん。ドクターのおかげよ……」リッシュは伏し目がちに笑って見せる。「そっか。今度、義腕でも買いに行く? 右手だけじゃ本も読みづらいだろ」「そうだね。わたしはまだしばらく、ここから出られないと思うけど」元気そうに見えるが、やはり彼女が心に負った傷は未だ癒えていないらしい。ギャングの端くれとは言え、彼女は普通の脆い人間なのだ。「そうか……。大変だな」エイミーはまたしても彼女へかける最良の言葉を見つけられなかった。リッシュはちびちびとケバブサンドをかじっている。「もしかして、食欲なかった? おいしくない?」「ん、いや、おいしいよ。お腹が空いてないだけ」リッシュは笑って見せるが、その笑顔にはどこか疲れたような色があった。そしてエイミーは、リッシュから悲しみのにおいを嗅ぎ取った。――もっと喜んでくれると思ったんだけどな。エイミーは少し気落ちした。結局、エイミーがケバブサンドを食べきった後になってもリッシュは半分も食べることなく、再度包みの中へ戻してテーブルの上へ置いてしまった。「ありがとうね、エイミー。残りはあとで食べるよ」無理に笑って見せるリッシュの姿が痛ましくて、エイミーは胸が締め付けられる思いだった。本当はもっと楽しい時間にするつもりだったのに。「ごめん、あたしもう行かなきゃ。……また来るね」エイミーはそれだけ告げると、振り向くこともなく退室した。親友を深く傷つけた"人狼"への憎しみがじわじわとエイミーの頭の中を支配し、彼女は血が出るまで唇を噛み締めた。

 豪奢な造りのベッドの上で、半裸のチャンプは目を覚ました。日はすでに高い。リビング・ルームへ向かうと、姿見の前に脱ぎ捨てたままだったはずの衣服が綺麗に畳まれ、拳銃が収まったホルスターとともに椅子の上に置いてあった。ジェリコには世話になりっぱなしだ。心の中で彼への感謝と謝罪を述べながら、チャンプはいつもの服を着て、右腿にホルスターを巻いた。着替える前にシャワーを浴びようと思っていたが、買い物に行くだけだから、まあ、いいだろう。チャンプは家を出ると、あらかじめ呼んでおいたタクシーに乗って中国人街チャイナ・タウンへ赴いた。車窓を流れていく景色をぼんやりと見つめていると、ヴァルチャーの気配を察知した。「何か用か」視線を車外へ漂わせたままチャンプが問う。タクシーに運転手はいない。青年の独り言を訝る者もまたいない。「いや、君も随分、素直になったものだなと思って」女がくすくすと笑った。「でも、本当に感謝しているんだよ。君が協力してくれなければ、近いうちにエルシノアどころかデンマーク中が"人狼"だらけになってしまうのだからね」チャンプは何も答えなかった。彼女の息子の話を聞いて絆されたとは知られたくなかった。その後、中国人街チャイナ・タウンの露店にて、チャンプは蒸気吸入器ヴェポライザーを購入した。ハゲワシの女曰く、800Wの出力があるものなら何でもいいらしい。普段食べるような店よりも少し高級な中華料理店で食事を済ませ、前菜として出されたクラゲの酢の物の味を思い出しながらチャンプは帰宅した。

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