10-潜熱

 ジェリコが邸宅を去った後、一人になったチャンプはヴァルチャーとの決着をつけるため、彼女を呼び出した。声を発するまでもない。頭の中で彼女の名を思い起こせば、女はすぐにチャンプの前へ現れる。「どうやら、わたしにとってはあまり嬉しくない話のようだね。どんな用事かな」「この間の話はなかったことにしてくれ」それだけ言うと、チャンプは俯いて黙り込む。「うーん。それはわたしの予想になかった返答だね。どうしたものか」ハゲワシの女は無表情ながら困った様子で室内をうろうろと歩き回る。「君はさっき、"人狼"を殺しただろう? だけど、実際には男は死んでいなかった。わたしの話が真実だと理解できたはずだ」青年は依然、沈黙を貫く。女は歩き回るのをやめ、チャンプを見つめると、悲痛に顔を歪めた。「少し、昔の話をしよう。"わたし"には一人息子がいたんだ」ハゲワシの女は時々、言葉を詰まらせながら語り始める。「大人しくて争いを好まない、我が子ながらいい子だったよ。でも、若くして死んだんだ。"人狼"に襲われた人間を助けようとして、自分も犠牲になった。わたしがそれを知ったのはかなり後になってからだが、息子が"人狼"による被害者の第一号だった。皮肉な話だろう、ムーングロウの開発者である"わたし"の息子が、そんなことで亡くなるなんて」女は拳を固く握り締める。その表情は、怒りと後悔と悲しみが綯交ぜになっていた。彼女の話を聞くまいとしていたチャンプも、少しばかりの同情を覚えた。「わたしはもう二度と、そのような無辜の犠牲者を生みたくない。わかるだろう?」チャンプは小さく頷く。彼もまた、暴力を避けて生きていたが、老人を助けるために初めての殺人を行った。女の一人息子は、心優しく正義感に溢れた青年だったのだろう。そして、母に愛されていた。誰かから愛されると言う、その気持ちは理解できないが、チャンプは知らず知らずのうちに、亡くなったその青年と自身を重ね合わせていた。「しかし、それも"わたし"の勝手な願いだ。チャンプ、君を巻き込むのは非常に心苦しく思う。断ってくれても構わないが、以前言ったように、ムーングロウについて他言はしないでほしい」それだけ言うと、女は姿を消そうとする。「待ってくれ!」チャンプが声を張り上げると、女の影は再び実体に近いほどはっきりと輪郭を取り戻す。「まだ、何かあるのかい」女は悲壮な面持ちでチャンプを見た。彼女の目は、かすかに潤んでいる。「あんたが"人狼"を消したい本当の理由が分かった。もし、おれに手伝えることがあるなら……、協力する」言ってしまった。取り返しのつかないことを言ってしまった。しかし、チャンプにもう迷いはない。彼は決心した。"人狼"を滅するため、自らも"人狼"になることを。ハゲワシの女は、目に涙を滲ませながらも笑みを浮かべて見せる。「……ありがとう。やはり、君に頼んでよかった」チャンプはその言葉を、強い決意に満ちた目で受けた。「じゃあ……、さっそくだが、計画を立てようか。まずはムーングロウを入手しなければいけないからね」女はその必要もないのにカウチに腰を掛ける。チャンプも傍にあったダイニングチェアに座る。「その辺で手に入れられるようなものは危険だ。何が混ぜられているか分からない」ドラッグの事情には詳しくないが、そういうものなのだろうとチャンプは思った。「だから、"わたし"が保管していた試薬を使ってもらう。動物実験でも問題はなかったし、あれがこの世で最も安全なムーングロウだろう」「分かった。それはどこにあるんだ?」「アル製薬の研究棟だ。もちろん、君だけではアル製薬の敷地内にすら入れないだろう。しかし、わたしは社のネットワークセキュリティを掌握している」「それで、おれでも中に入れるようになるってことか?」「ええ、わたしが君に偽造IDを付与する。保管室の守護神デーモンもわたしが無効化する。それなら何も問題ないだろう」チャンプは力強く頷く。かくして彼は数時間前までの決意を忘れ、ハゲワシの女にいとも簡単に丸め込まれた。そして、アル製薬からの窃盗という大それた作戦は、ものの数分で組み上げられた。

 翌日、巨大な猫たちが我が物顔で闊歩する街、ニュー・オスロにある衣料品店にて、チャンプは普段着よりも多少フォーマルな衣服を購入した。糊のきいた薄灰色のスタンドカラーシャツに、鮮やかな水色のスーツ。そして、合成皮革の白いローファー。エルシノアでよく見かけるサラリーマンのスタイルに近いものを選んだつもりだ。きっとアル製薬の社内にも、同じような格好の人間は数多といることだろう。ギリシア人街グリーク・タウンの家に戻ると、チャンプは瀟洒な意匠の装飾が施された、彼からすれば無駄に贅沢な造りの姿見の前に立った。左上腕に刻まれたハイエナが薄気味悪く笑っている。いつも着ているぼろきれのようによれたタンクトップをその場に脱ぎ捨て、真新しいシャツの袖に腕を通す。さらにジャケットを羽織り、右腿のホルスターをその中に収められた拳銃"モード"ごと剥ぎ取り、パンツも着替える。試着もせずに買ったもののサイズは丁度よく、彼は自分の新たな姿に心が躍った。ふと鏡越しに背後へ目をやると、ヴァルチャーの姿が視界に入る。「よく似合っているじゃないか」女は薄く笑みを浮かべた。「偽造IDはすでに君へ付与インストールしておいた。これで、研究棟にも入れる。ああ、社内への武器の持ち込みは厳禁だ。銃以外にも何か持っているなら全て置いていきなさい」「ああ、分かった」チャンプは答えながら、自らの髪を手櫛で整える。ろくに手入れもされていない肩ほどまで伸びた髪は、このままでは少しラフすぎるように思えた。洗面台へ向かい、鏡の前に置いてあるワックスを適量、指にすくって髪を撫でつける。このワックスはジェリコが使用しているのと同じものだろう。彼が常に漂わせている、甘く柔らかな花の香りがした。これで少しは身綺麗に見えるだろうか。チャンプは鏡を見つめる。アル製薬研究棟への潜入は今日の夕方を予定している。ヴァルチャーの計画オペレーションに従いさえすれば、何も不安はない。それなのに、チャンプの肩は小さく震えていた。

 シェラン島の西岸へ日が落ち始めるころ、慣れないスーツに身を包んだチャンプは、タクシーに乗ってアル製薬エルシノア支社へ赴いた。諸悪渦巻く魔都エルシノアの異貌は暗雲の隙間から差し込む強烈な赤光に焼かれ、企業ビルが偏在するシティ・センターは深い影に沈んでいる。多くの商業施設が所狭しと立ち並ぶ猥雑な都市中心部とはまた違った圧迫感が、ここシティ・センターにはあった。かつてのチャンプのような人間にはまったく用のない地区だ。タクシーはアル製薬の西通用門の前で停車した。料金を支払い、チャンプは降車する。「この門から入ってしばらくまっすぐ歩けば、そのうち研究棟に繋がる自動歩道オート・スロープがある。こそこそしないで、堂々と歩くんだ」ハゲワシの女が、姿を現すことなく告げる。青年は言われた通りに通用門を潜る。女が用意した偽造IDは正常に機能しているらしく、走査スキャンに引っ掛かることもなくアル製薬の敷地内に入ることができた。まっすぐ進んでいると、女の言ったように自動歩道オート・スロープの乗り口があった。チャンプは緩やかに流れるベルトコンベアに両足を乗せる。研究棟へゆっくりと近づくにつれ、自身の鼓動が速くなっていくのを感じる。まだ遥か先にある巨大な建物を見上げ、彼はなぜだか恐ろしい気持ちになった。しばらくするとスロープの終点に辿り着き、通用口が現れる。チャンプは意を決して、研究棟へ足を踏み入れた。「"わたし"の研究室ラボは13階にある。138研究室だ」青年は可能な限り平常心を装い、正面のエレベーターに乗り込む。震える指先で13階のボタンを押すと、エレベーターは上昇し始める。途中で研究員らしき男が乗り込んできたとき、チャンプは焦るあまり、慌てて鉄匣の隅で身を縮めた。ヴァルチャーの言葉なき叱責が彼の頭の中に響き渡るが、男はそれを訝しむ様子もなく、8階で降りていった。そうして、ようやく13階に着いた。あとはヴァルチャーの研究室ラボから"お宝"を盗み出すだけだ。ハゲワシの女が姿を現す。「わたしが先導する。ついて来なさい」そう言うと、女は迷いのない足どりで歩き始め、チャンプもそれを追う。彼の数歩先を進んでいた女が、不意にぴたりと足を止めた。「ここだ。偽造IDで入れるよ」チャンプが女の隣に立つと、138研究室の扉は自動的に開いた。足を踏み入れた研究室の中はチャンプの想像より整然としていた――というより、何もなかった。「保管室はこちらだ」研究室の隅に立ったヴァルチャーが手招きして言う。保管室の扉は壁と一体化しており、チャンプはしばらく気付かなかった。「さあ、守護神デーモンを無効化するよ。中に入ったらすぐに目的のものを取って出てきなさい」女がそう告げるのと同時に、壁の一部が前方にせり出してそのまま横にスライドした。入口は1.5mほどの高さしかなく、チャンプは身を屈めて保管室へ侵入する。内部に灯りはなく、チャンプは研究室ラボから差し込むわずかな光を頼りに、薄暗の中で"ムーングロウ"を探さなければならなかった。奥の壁面に隙間なく並んだ引き出しは、中に入っているものが分かるように箱の一つ一つが透明になっている。その中に、手のひらに載るくらいの大きさの黒い立方体があるのをチャンプは見つけた。引き出しを開け、それを手に取る。黒い立方体以外にムーングロウと思しきものはなかった。保管室から出ると、扉はすぐに元通り壁と一体化した。ハゲワシの女は、チャンプが手に持った立方体を見ると安堵して表情の緊張を解いた。「見つけられたようだね。それが"わたし"が残した最後の"ムーングロウ"だ」「よかった。次はどうすればいい?」立方体をジャケットの内ポケットに無理やり詰め込み、チャンプが女へ問う。「来た時と同じ道で敷地外へ出ればいい。タクシーも呼んでおいたほうがいいだろう。努めて平静に、だ」青年は力強く頷く。彼はもう恐れることもなく平常心で、通用門に辿り着いた。そして、すでに到着していたタクシーに乗り込み、ギリシア人街グリーク・タウンへ戻った。

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