09-Man eats Man

 チャンプがハゲワシの女との"契約"について決心できないまま、二週間ほどが経った。女が返事を催促しに現れるようなことは一度もなかった。この十数日間を、チャンプは人間としての生に悔いを残さないことばかりを考えて過ごしていた。"狼狩り"の司令塔であるオキナはグルマン美食家の膨大な量の顧客リストから"人狼"の疑惑がある人物を洗い出す作業に専心し、ジェリコはその補助をする合間、チャンプに戦闘訓練を施した。射撃、徒手格闘術、剣術など、"魔法使い"は自身の持つ知識を惜しまずにチャンプへ教えた。エイミーはと言うと、"オフィーリア"のアジトで大人しく待機していたかと思えば、痺れを切らしたかのようにふらふらとどこかへ出かけ、戻ってくる時には泥酔しているか、何かに激しく腹を立てているかのどちらかだった。チャンプが"狼狩り"に加わってから丁度一か月が経った日、彼は初めての給与、七十万デンマーク・クローネ(DKK)を得た。これはエルシノアの中産階級労働者の平均年収に等しいが、首都コペンハーゲンなどで暮らせば一週間でなくなるような金額である。どちらにせよ、チャンプにとっては初めて手にする大金だ。彼は金の使い方をろくに知らない。タクシーで放蕩胡同ファンタン・フートンに赴き、店に並んだ娼婦を品定めしてみたが、彼を楽しませてくれそうなものは何も見つからなかった。――せっかくだし、何か美味いものでも食べて帰ろう。そう思って、チャンプは入り組んだ小路を彷徨う。ピザが食べたいな、と考え始めた時、彼はテレパシーの要求リクエストを受け取った。エイミーからだった。要求を承認し、応答する。「腹減ってないか? ラーメンでも食いに行こうぜ」それは彼女から受けた初めての食事の誘いだった。「いいよ。どこの店?」ラーメンの気分ではないが、一人での食事よりは楽しかろうと、チャンプは二つ返事で了承する。「"オフィーリア"のすぐ近く。鳳昇軒って店だ」その店ならチャンプも知っている。行ったことはないが、50種類のラーメンがメニューにあると言う有名店だ。「わかった。すぐ行く」放蕩胡同から"オフィーリア"近くへ向かうなら、電車メトロが一番早い。

 店の前では、すでにエイミーが待っていた。「よう、チャンプ」少女は右手をひらりと上げて、自分の存在を示す。「あー、腹減ったー。はやく入ろうぜ」エイミーに続き、チャンプも店に入った。二人はカウンター席に並んで座る。「お前、何にすんの? あたしは味噌バター」「うーん……。おれはマルゲリータにする」トマトベースのスープにバジルとモッツァレラチーズがトッピングされたマルゲリータ・ラーメンは、この店では隠れた人気メニューだ。そんなことをチャンプは知らないが、ピザへの欲求を少しでも満たしたい気持ちがあった。「味噌バターとマルゲリータ!」エイミーが店員に向かって注文を告げる。「ここの店主って、日本人らしいぜ。本場のラーメンが食えるのって、エルシノアでもここくらいだよな」「そうなの? ラーメンって中華料理だと思ってた」他愛ない話をしている間に、二人の前に注文通りのラーメンが置かれる。エルシノアの住人で、箸を扱える者はごく少数だ。カウンターに置かれたフォークを取り、二人はラーメンを食べ始める。「そういえばさー、二人で飯食いにくるの初めてだよな。せっかくだしお前の話、聞かせてくれよ」フォークに絡め取った麺を冷ましながら、エイミーが言う。「ああ……、別にいいけど。そんなに面白い話じゃないよ」食事を進めながら、チャンプは自身の生い立ちについて語り始める。「まあ、特別なイベントとかはなかったな。生きるのに精一杯って感じ」チャンプの話に耳を傾けていたエイミーは、ほどよく冷めた麺を豪快に頬張ると、「なんだよ、つまらねー人生だな」エイミーが言う。「でも、今の仕事は刺激的だろ? ちょっとは面白くなるんじゃねーの」少女はにっと笑って、チャンプの背中を叩く。思ったよりも強い力で。「まあ……、そうかもな。屋根と壁のあるところに住むのも初めてだし」チャンプが自嘲気味に呟く。マルゲリータ・ラーメンは美味いが、スープはもう少し濃いほうが好みだと思った。「ていうか! 今ってジェリコと住んでんだろ?」エイミーがぽん、と膝を叩いて満面の笑みを浮かべて言う。「いや、ジェリコは別のところに住んでるみたいだ。たまに帰ってくるらしいけど」「はああー、もったいねえ」片手で顔を覆い、エイミーが嘆く。チャンプには彼女が何を言っているのか分からない。分からないままで黙っていると、「いや、あいつ絶対お前のこと狙ってるだろ? 若い男が好きだからなー」エイミーは痛ましげな顔をしてずるずると麺を啜る。チャンプとしても、ジェリコから向けられる好意にまったく鈍感なわけではなかった。チャンプに同性愛的指向はない。しかし、いろいろと世話になっているうちに絆されそうな自分が嫌だった。もちろん、彼には感謝しているし、尊敬すら覚えている。「まー、お前の気持ちも大事だけどさ。あいつもいいやつだから、幸せになってほしいんだよな」食事を終えたらしいエイミーは口元を紙ナプキンで拭いながら独り言のように呟く。ほぼ同時に、チャンプもマルゲリータ・ラーメンを完食した。やや薄味なこと以外には、概ね満足だった。二人は代金を支払い、店を出た。軽く別れの挨拶を交わし、それぞれの帰途に就く。ネオンの光で彩られた街の中を、チャンプは進む。呼べばすぐにタクシーはやって来るだろうが、今夜は歩いて帰りたい気分だった。この都市エルシノアの夜は、昼間以上に騒々しい。しかし今は、どんな喧騒もチャンプの耳を通り過ぎていく。彼は彼の足りない頭を以って、懸命に思考を巡らせていた。最も彼を悩ませるのは、ハゲワシの女が話した内容である。ムーングロウの使用者である"人狼"は不死の肉体を持ち、それを殺すには己が"人狼"へと変ずる以外に方法はない。なぜ女はそれを自分にだけ打ち明け、他言を禁じたのだろうか? もしも自分が"狼狩り"に参加していなければ、トリスタンにその役目を負わせていたとも語っていた。ジェリコやエイミーの能力には価値があるから、何も持たない自分が選ばれたということなのだろうか。つまりは、女にとって自分は捨て石だ。しかし同時に、エルシノアから"人狼"を駆逐するための重要な駒でもある。多くの人間が目的を持たずに生きるこの都市で、自分は人類ひいては世界を救う存在として選ばれた。嬉しくはない。代わりになってくれる人物がいるなら、押し付けたいくらいだ。初めて"オフィーリア"を訪れた時、エイミーが語っていた内容を思い出す。数多のドラッグを知り尽くしているであろう彼女をして、"最悪のドラッグ"と言わしめるムーングロウ。ハゲワシの女はそれを自分に使えと言う。開発者である彼女なら、その離脱症状や依存性を抑えるすべを与えてくれるとも。慣れない長考に、チャンプは頭が痛くなってきた。立ち止まった場所は、パチンコ店の前だった。彼はギャンブルなど手を出したこともないが、エイミーがよく話しているのを聞いていた。恐る恐る、店に入ってみる。ずらりと並んだ筐体の前には、ちらほらと人が座っている。チャンプは適当な台の前に座り、百DKKを支払って玉を購入する。それと同時に、ただでさえ騒々しい店内に、男の悲鳴が上がった。大当たりでもしたのだろうか。チャンプは呑気に筐体へ向かうが、ほかの客が店外へ逃げ出すのを見て、ただごとではないことが分かった。せっかく購入したパチンコ玉を台に残して、外から出る。そして、店内の様子を窺ってみた。客らしき男が暴れている。店員と思しき男の腹を、異様に伸びた強靭な爪で切り裂きながら、臓物を啜るようにして食らっている。これがチャンプの、初めての"人狼"との遭遇だった。店外へ逃げ出した客たちは恐慌状態に陥り、その場にへたり込む者すらいた。チャンプもそうしたかったが、"狼狩り"としての使命感から、再び店内へ戻る。右腿のホルスターに収められた拳銃"モード"を抜いてセーフティを解除し、"人狼"と化した男へ狙いを定める。襲われたほうの男は血の気を失い、肌は灰色になっていた。依然、肉を食らい続ける男の頚部に照準を合わせ、引き金を引き絞る。一発の銃弾が、男の頸椎に穴を開けた。エルシノアの住人はほとんどといってもいいほど、大気汚染の影響を受けないため多目的マイクロチップを第一頸椎に埋め込んでいる。そのため並みの人間にとっては頚部は急所になるが、"人狼"に効果があるかは分からない。チャンプはもう一発を、男の頭部に撃ち込む。ジェリコによる神経の高速化と射撃訓練により、チャンプの銃撃の腕前はそこいらの傭兵マーセナリと比べて遜色のないものになっていた。"人狼"は床に倒れ、もがき苦しむ。チャンプは三発目を、男の第一頸椎アトラスに撃ち込む。男は動かなくなった。それは死んでいるように、誰の目にも見えた。しかし、チャンプはハゲワシの女の言葉を思い出していた。まだ生きている。彼は咄嗟にジェリコへテレパシーを要求リクエストする。それはすぐに受け入れられ、ジェリコの声が頭の中に響く。「どうしたの? 何かあった?」「ああ、今、パチンコ屋で"人狼"らしき男を殺した。どうすればいい?」「本当? じゃあ、EPPOが来る前にうちへ連れてきて。ぼくもすぐに帰る」「分かった!」チャンプはタクシーを呼ぶ。

車はすぐにやってきた。チャンプは今殺したはずの男を引きずってタクシーに積み、自身も乗り込む。「ギリシア人街グリーク・タウンまで! 急いでくれ」人工知能の運転手は死体に驚くこともなく、チャンプの言う通りに車を発進させた。

 ジェリコの邸宅前に到着した。代金を支払い、男を引きずりながら玄関まで歩くチャンプを、ジェリコが出迎えた。「チャンプ! よくやったね」「ああ……。とりあえず連れてきたけど、どうするんだ?」「いろいろと調べてみる。体内にムーングロウが残留していれば、手掛かりにもなるしね」ジェリコは男の身体を軽々と担ぎ上げると、彼が"仕事場"と呼ぶ部屋へと向かう。チャンプも後をついていく。安楽椅子に男を寝かせると、ジェリコはその頚部ポートにケーブルを接続する。「驚いた。チップが完全に損傷しているのに、まだ生きてる」サイボーグの男はモニターを見つめながら呟く。それから、男の身体をまじまじと観察する。「爪もかなり伸びている。ムーングロウの使用者は、代謝が異常に活発になることが知られているんだ。この男は、間違いなく"人狼"だね。お手柄だよ」「でも、殺しきれてないならどうするんだ? いつか復活してまた暴れられるんじゃ……」言ったあと、チャンプは抜かったと思った。ハゲワシの女は、ムーングロウが不死の薬であることを口止めしていたはずだ。そんな心配をよそに、ジェリコは思案に耽り続ける。二人の間にしばし沈黙が流れた後、ジェリコが口を開いた。「とりあえず、グルマン美食家の時と同じように冷凍睡眠コールド・スリープしてもらうしか、今はないかな」言いながら、再びジェリコは男を肩に担ぐ。地下へ続く階段を降り、そこに並んだ冷蔵庫のようなもののうちの一つに男を押し込んだ。傍で見ていたチャンプは恐ろしくなった。自分はもしムーングロウを使用したら、この男のような変容を遂げることになるのか。やはりハゲワシの女との話はなかったことにしようと、チャンプは心に決めた。

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