08-ハゲワシの女(Vulture)
――どれくらい眠っていたのか。すでに日は落ちていて、部屋は暗い。身体を起こしたチャンプは夜闇の中を彷徨って、電灯を点ける。ジェリコのお気に入り、エチオピア産の最高級コーヒーでも淹れようとキッチンへ向かう途中、チャンプは自身以外の人影を見た。その人物は窓際の壁にもたれ、表情のない顔を彼へ向けていた。知らない顔だ。チャンプは咄嗟に右腿のホルスターに収めた拳銃"モード"を抜こうとする――が、それは眠っている間にカウチの傍に落ちていたらしい。「誰だお前は! どこから入った!?」丸腰のチャンプは、いつの間にか自宅へ侵入していたその人物に、最大限の虚勢を張って叫ぶ。波打つ長い黒髪を両手で掻き分けて、女(その両腕には隙間なく何か鳥のようなタトゥーが刻まれている)が口を開く。「そんなに怒鳴らないで。わたしはヴァルチャー、アル製薬の研究員。そして"ムーングロウ"の開発者だよ」ヴァルチャー。知らない名前だった。そして、その名から、彼女の両腕を埋め尽くす文様がヴァルチャー、すなわち"ハゲワシ"だと分かった。いや、それよりも、もっと衝撃的な発言を彼女はしたはずだ。"ムーングロウ"の開発者とは――チャンプは驚愕と混乱に支配され、恐怖も怒りも忘れる。そんな彼をまっすぐに見据え、ハゲワシの女は続ける。「正確には、わたしはヴァルチャーのバックアップから構築された、ただの仮想人格だけどもね」言われて、チャンプは気付く――照明が彼女を照らす先へ、影が落ちていないことに。その姿はホログラムか幻覚か、とにかくそれらに類する実体を持たないものなのだろう。「君たちはムーングロウを消そうとしている。それに間違いはないね?」女が問う。「ああ、そうだ」努めて毅然と、チャンプが答える。"狼狩り"の仕事をしている以上、ムーングロウの開発者と名乗る彼女は自分たちの敵なのだろう。弱さを見せるわけにはいかない。「そう身構えなくてもいいよ。わたしの目的も、君たちと同じだ。
"ホテル・オフィーリア"57階のアジトへ、何者かから逃れるように駆け込んだチャンプをエイミーが出迎えた。「よう、小僧。休日出勤とは殊勝な心がけだな!」いつになく上機嫌な彼女が、チャンプの肩に腕を回してきた。酒臭い息が吹きかけられる。離れようとしても、エイミーは身体に絡みついてきた。仕方なくそのまま、部屋の奥にいるジェリコのもとへ歩く。「ジェリコ……、ごめんなさい!」べたべたと纏わりついてくるエイミーを振り払う勢いで、チャンプは床に膝を突く。「おれ、酔っ払って家で銃ぶっ放しちゃって……、壁にヒビ入っちゃった……。本当にごめん……」エイミーが素面ならすぐに見抜かれそうな嘘だが、借りている家を傷つけたことに罪悪感を覚えているのは事実だった。ジェリコは驚いて、大きな目をさらに見開き――そして、高々と哄笑した。「あはははは! なんだ、そんなことかあ! いいよ、気にしなくて。古い家だし、ぼくだって壁に穴を開けたことくらい何度もあるんだから」「でも……」「いいから。それより、君は怪我をしてないかい?」床にへたり込んだチャンプに立つよう促しながら、ジェリコはまた笑う。今度は、見る者を安堵させるような優しい笑みだった。チャンプは、あの忌々しい女から聞いたことを、すべてこのサイボーグの男に話してしまいたい気持ちになる。彼こそが、ハゲワシ女にかけられた悍ましい呪縛から、自身を解放してくれる魔法使いなのだと――。「おーい、なんだよ、一人で呑んでたのか? あたしらも呼べよ、水臭ェなあ」ビール瓶を抱えたエイミーが、チャンプの背を小突く。見れば、ジェリコもビアグラスを片手に持っていた。「よければ、一緒に飲み直さない? ビールしかないけど」ジェリコの言葉を受けたエイミーが、冷蔵庫から出したばかりのビール瓶を開栓してチャンプの眼前に突き出す。「ぜんぶジェリコの奢りだ。飲め!」チャンプは遠慮がちにそれを受け取ると、一気に瓶の半分ほどのビールを胃の中へ流し込んだ。すぐに酔いが回り、視界が歪み始める。彼は下戸だった。「あっはは! もう赤くなってるぞ、こいつ!」仲間との楽しい時間は、永遠のように長く、そして一瞬にして過ぎ去っていく。アルコールに濁った意識の中、チャンプは生まれて初めて心からの喜びを得たと感じていた。彼らとならば、明日も怖くない――こんな気持ちになったのも、チャンプにとって初めてのことだった。
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