08-ハゲワシの女(Vulture)

 グルマン美食家の身柄を確保し、"狼狩り"はとりあえず欲しい情報を得ることができた。三人が隠れ家セーフ・ハウスを出るころには、すでに日が昇りつつあった。疲れた足どりで、各々は別の帰路につく。チャンプがギリシア人街グリーク・タウンの大邸宅、ジェリコから貸し出された自宅へ辿り着いた時にはさらに日は高くなっていた。長い廊下を歩いて寝室まで行くことすら厭わしく、チャンプはリビング・ルームのカウチに横になる。ベッドでなくても、これまで寝床にしていた倉庫などと比べれば天と地ほどの差がある寝心地に、チャンプはすぐに眠りについた。

 ――どれくらい眠っていたのか。すでに日は落ちていて、部屋は暗い。身体を起こしたチャンプは夜闇の中を彷徨って、電灯を点ける。ジェリコのお気に入り、エチオピア産の最高級コーヒーでも淹れようとキッチンへ向かう途中、チャンプは自身以外の人影を見た。その人物は窓際の壁にもたれ、表情のない顔を彼へ向けていた。知らない顔だ。チャンプは咄嗟に右腿のホルスターに収めた拳銃"モード"を抜こうとする――が、それは眠っている間にカウチの傍に落ちていたらしい。「誰だお前は! どこから入った!?」丸腰のチャンプは、いつの間にか自宅へ侵入していたその人物に、最大限の虚勢を張って叫ぶ。波打つ長い黒髪を両手で掻き分けて、女(その両腕には隙間なく何か鳥のようなタトゥーが刻まれている)が口を開く。「そんなに怒鳴らないで。わたしはヴァルチャー、アル製薬の研究員。そして"ムーングロウ"の開発者だよ」ヴァルチャー。知らない名前だった。そして、その名から、彼女の両腕を埋め尽くす文様がヴァルチャー、すなわち"ハゲワシ"だと分かった。いや、それよりも、もっと衝撃的な発言を彼女はしたはずだ。"ムーングロウ"の開発者とは――チャンプは驚愕と混乱に支配され、恐怖も怒りも忘れる。そんな彼をまっすぐに見据え、ハゲワシの女は続ける。「正確には、わたしはヴァルチャーのバックアップから構築された、ただの仮想人格だけどもね」言われて、チャンプは気付く――照明が彼女を照らす先へ、影が落ちていないことに。その姿はホログラムか幻覚か、とにかくそれらに類する実体を持たないものなのだろう。「君たちはムーングロウを消そうとしている。それに間違いはないね?」女が問う。「ああ、そうだ」努めて毅然と、チャンプが答える。"狼狩り"の仕事をしている以上、ムーングロウの開発者と名乗る彼女は自分たちの敵なのだろう。弱さを見せるわけにはいかない。「そう身構えなくてもいいよ。わたしの目的も、君たちと同じだ。あれムーングロウはこの世から廃絶せねばならない」その言葉は、チャンプに少しばかりの新しい驚きを与えた。――コカインの100倍とも言われる快楽を生み出す悪魔のドラッグ、その開発者は一体、何を考えているのか。「ここから話すのは完全に秘匿された情報だ。アル製薬にも知られてはいない。君にだけ伝える」女の姿が消えたかと思うと、チャンプのすぐ近くに再び現れる。「ムーングロウは元々、不死の薬として開発されたものだ。ただの娯楽用ドラッグではない」「不死の薬? アル製薬が、そんなものを実現しようとしたのか?」いかに科学や医療技術が発展し、機械化強化人間サイボーグが闊歩するこの時代においても、それはまるで夢のような話だった。「ええ、"わたし"はそれを現実のものにした。そして、そのことを後悔している」ハゲワシの女が初めて表情を変える。見ているチャンプのほうが気の毒になるような、沈痛な面持ちだった。「不死者がこの世に溢れたらどうなると思う?」「……いつかは、いっぱいになるだろうな」「その通り。だから"わたし"は、ムーングロウの使用者が共食いし合うように設計した」彼女は滔々と話す。「じゃあ、"人狼"は放っておいても、勝手に殺し合って消えるのか?」「何も起きなければ、何百年か後にはそうなるだろうね。わたしが危惧しているのは、いつかあれムーングロウの組成を解析して、都合のいいように作り替える者が現れることだ」チャンプは軽い頭痛を覚えた。難しい言葉を使っているわけでもないのに、彼女が言っていることの半分も理解ができない。「だから、そうなる前に"人狼"も、"ムーングロウ"も始末せねばならない。それはわかるね?」「あ、ああ……なんとなくは……」歯切れ悪くチャンプが答える。彼女が語ることが真実だとすれば、ムーングロウの使用者、すなわち"人狼"は、共食いをしない限りは不死ということになる。それを"始末する"ことなど、可能なのか――チャンプは浮かんだ疑問を吐き出さずに飲み込むが、女はそれを察したかのように、機先を制して話し出す。「つまり、わたしが言いたいのはだな、"人狼"を殺すには、君も"人狼"になればいいということだよ。これも、わかるね?」チャンプはようやく、彼女が自分の前に現れた理由が見えてきた。「おれに、ムーングロウを使えって言ってるのか?」初めて"狼狩り"のアジトに行った時、エイミーがムーングロウについて話していたことを、チャンプは思い出していた。「早い話、その通りだ。引き受けてくれるか?」「断るに決まってるだろ、そんな話!」激昂して、チャンプは声を張り上げる。カウチの下に落ちていた"モード"を拾いに走り、女へ銃口を向けて構える。それが何の意味もないことを知っていながら。「君が怒るのも理解できるよ、すべて"わたし"とわたしの勝手に過ぎないのだからね。しかし、このエルシノアで意味のあることを成せる人間がどれだけいると思う?」今やハゲワシの女の言葉はすべて、チャンプの神経を逆撫でする。「少なくともこの"仕事"は、人類、ひいては世界を救うことになるだろう。もちろん、報酬も君が望むだけ支払う。冷静に考えてほしい、それほど悪い話ではないはずだよ」忌々しいこの女が言いたいことが理解できる分、チャンプはさらに怒りを激しくした。価値のないものに価値を与えようとする傲慢さは、まったく人間からかけ離れた考えだ。「消えろ、クソ女」そう吐き捨てると、チャンプは"モード"の安全装置セーフティを解除し、引き金を絞る。銃弾は女の胸を貫通し、背後にある石造りの壁にヒビを入れた。幻影の女は、なおも話し続けるのをやめない。「君も知っているかもしれないが、ムーングロウには強い依存性がある。離脱症状もひどいものだ。しかし、開発者の"わたし"なら、それらを抑えるすべを教えられる。もちろん、わたしも協力を惜しまない。どうか、頼まれてくれないか」自分をまっすぐに見つめてくるその強い視線は、チャンプの知る誰かを思い起こさせた。頭痛が激しくなり、チャンプはその場に座り込む。女の話術は巧みだった。散々に人の怒りと恐怖を煽っておいて、最後にわずかな救いを与えようとする。「どうしておれなんだ」チャンプが力なく問いを投げた。「ジェリコでは頭が回りすぎるし、エイミーは勘が鋭い。"狼狩り"の中でなら、君が適任だと考えた。トリスタンでも構わなかった」それは、まだ隠していることがあるような口ぶりだった。しかしチャンプには、もはや追及する気も起きない。――物心ついたころからその日を生きるのに必死で、人類や世界の救世主になる選択が与えられるなんて想像したこともなかった。年頃になれば不良少年の集団に加わり、他人に迷惑をかけることもあった。長じてからも、ただ一日を生き延びることばかりを考えて、日常に楽しみなど見い出せずにいた。思い返せば、意味のない人生だったかもしれない。この都市エルシノアで生きるということは、大多数の人間にとってそういうものだ。それを他人から『無価値だ』と言われるのは、少しばかり気分が悪いけれど。半ば捨て鉢な気持ちに傾いた彼の思考は、あっという間に先程までの意思を打ち砕いた。「少し考えさせてくれ」チャンプはそれだけ言って、やけに重く感じる身体を引きずるようにしてカウチに座った。「いい返事を期待しているよ。腹が決まったら、わたしを呼んでくれ。――君のような人間を、わたしは十三年間、待っていたのかもしれないな」ハゲワシの女はすでに彼からの答えを知っているかのように、どこか嬉しそうな声で捲し立てる。喜びに満ちた目でしばしチャンプを見つめるうちに、彼の疎ましげな視線を受け、女は音もなく消えた。悪い夢が去ったあとのように小一時間ほど茫然と過ごしてから、チャンプは気付けのコーヒーを淹れながら、ジェリコへテレパシー通信を要求リクエストした。それはすぐに受け入れられ、懐かしさすら覚える低く優しい声が、チャンプの頭へ響き渡る。それだけで彼は少し泣きそうだった。「どうしたの? 今日は休みだったでしょ」ジェリコの声色は訝しげながら、どこか弾んでいた。「そうだけど……、今って"オフィーリア"にいるのか?」「うん。エイミーもいるよ」「わかった。すぐそっちに行く」それだけ伝えると、まだ熱い最高級品のコーヒーを味わうでもなく一息に腹へ流し込み、チャンプは家を出た。

 "ホテル・オフィーリア"57階のアジトへ、何者かから逃れるように駆け込んだチャンプをエイミーが出迎えた。「よう、小僧。休日出勤とは殊勝な心がけだな!」いつになく上機嫌な彼女が、チャンプの肩に腕を回してきた。酒臭い息が吹きかけられる。離れようとしても、エイミーは身体に絡みついてきた。仕方なくそのまま、部屋の奥にいるジェリコのもとへ歩く。「ジェリコ……、ごめんなさい!」べたべたと纏わりついてくるエイミーを振り払う勢いで、チャンプは床に膝を突く。「おれ、酔っ払って家で銃ぶっ放しちゃって……、壁にヒビ入っちゃった……。本当にごめん……」エイミーが素面ならすぐに見抜かれそうな嘘だが、借りている家を傷つけたことに罪悪感を覚えているのは事実だった。ジェリコは驚いて、大きな目をさらに見開き――そして、高々と哄笑した。「あはははは! なんだ、そんなことかあ! いいよ、気にしなくて。古い家だし、ぼくだって壁に穴を開けたことくらい何度もあるんだから」「でも……」「いいから。それより、君は怪我をしてないかい?」床にへたり込んだチャンプに立つよう促しながら、ジェリコはまた笑う。今度は、見る者を安堵させるような優しい笑みだった。チャンプは、あの忌々しい女から聞いたことを、すべてこのサイボーグの男に話してしまいたい気持ちになる。彼こそが、ハゲワシ女にかけられた悍ましい呪縛から、自身を解放してくれる魔法使いなのだと――。「おーい、なんだよ、一人で呑んでたのか? あたしらも呼べよ、水臭ェなあ」ビール瓶を抱えたエイミーが、チャンプの背を小突く。見れば、ジェリコもビアグラスを片手に持っていた。「よければ、一緒に飲み直さない? ビールしかないけど」ジェリコの言葉を受けたエイミーが、冷蔵庫から出したばかりのビール瓶を開栓してチャンプの眼前に突き出す。「ぜんぶジェリコの奢りだ。飲め!」チャンプは遠慮がちにそれを受け取ると、一気に瓶の半分ほどのビールを胃の中へ流し込んだ。すぐに酔いが回り、視界が歪み始める。彼は下戸だった。「あっはは! もう赤くなってるぞ、こいつ!」仲間との楽しい時間は、永遠のように長く、そして一瞬にして過ぎ去っていく。アルコールに濁った意識の中、チャンプは生まれて初めて心からの喜びを得たと感じていた。彼らとならば、明日も怖くない――こんな気持ちになったのも、チャンプにとって初めてのことだった。

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