07-魔法使いとハイエナの蜜月(?)
悪徳の蔓延る巨大電脳都市エルシノアの中でも、
"狼狩り"によるグルマンの拉致が決行される前日、チャンプはジェリコの家に招かれていた。それは住居は外観からも分かった通りの大邸宅で、その構造は古代ギリシアによくあったとされる屋敷を模倣したものだが、そんな知識のないチャンプにとっては豪奢だが不思議な造りの家だとしか思えなかった。よく手入れのされた広い中庭(種々の植栽はホログラムではなく、本物のように見える)が見える客間に通されたチャンプは、借りてきた猫のように身を縮こまらせ、価値ある芸術品のように繊細な意匠の一人掛けソファに収まっていた。「そんなに固くならないでよ。今日から君の家なんだから」マグカップを二つ持ったジェリコは笑いながら、部屋の奥からやって来る。そしてチャンプの向かいの、これもまた高級そうな長椅子の光沢ある布地で覆われた座面に腰を下ろすと、二人の間にあるおそらく黒檀製のローテーブルの上にマグカップを置いた。「それにしても……、すごい家に住んでるんだなと思って。映画でしか見たことないよ、こんな豪邸」淹れたての香り高いコーヒーを優雅に啜り、ジェリコがまた笑う。「家というより、今は別荘かな。最近はほとんど来ないよ。だから、ここは君の家」「ええ!? こんなところ、一生住んでも慣れないよ」家が見つかるまでは"狼狩り"のアジト――ホテル・オフィーリアの57階での寝泊まりを許されていたチャンプだが、給料が支払われていない状態では当然ながら借りられる部屋などない。見兼ねたジェリコが自身の住まいを提供すると言い出し、ありがたくその申し出を受けることにしたチャンプだったが、それがこれほどの大邸宅とは想像もしていなかった。仮に二人で住むことになったとしても持て余すだろう。「ぼくもこの家だけは手放せないから、住んでくれる人を探していたんだ。それで、君になら任せられると思ってね」ジェリコは懐かしむように、どこか遠い目をしながら言う。彼にとって、この家は思い出深い場所なのかもしれない、とチャンプは思った。「ここはぼくの実家なんだ。自慢じゃないけど、ぼくが生まれた一族はエルシノアでも有数の資産家一族でね」ジェリコは問わず語りを始める。「家族は、もうエルシノアにいないのか?」チャンプが何気なく尋ねる。「ああ、全員死んだよ」特に悲しみを見せるでもなく、普通のことのようにジェリコは答えた。「ぼくだけは昔から色んな才能があって――これも自慢じゃないけど。どうやら生かしておく価値があったらしい」思いもよらない凄惨な過去の話に、チャンプはマグカップに伸ばそうとした手を止めた。「そんな、誰がそんなことを? ギャングか何かの仕業か?」「そう、"ドレッド・オルガン"。一族の資産を掠めとる目的もあったようだけど、それよりもエルシノアで影響力を持っていたことが奴らのお気に召さなかったらしい」学のないチャンプでは掛ける言葉も見つからず、ただただ黙してジェリコの話を聞くことしかできなかった。「その後、しばらくはオルガンで働かされていたんだけど、ある日突然嫌になってね。奴らの情報をEPPOに流して、その混乱に乗じて逃げ出したんだ」ジェリコがどこか他人事のように語り終えると、二人の間を重い沈黙が支配する。気まずそうにチャンプはコーヒーを啜ると、その味に驚いた。深いコクの中に、果実のような華やかで上品な酸味がある。「これ、このコーヒー、すごく美味いな」浮浪者だったころからコーヒーを好んで飲んでいたチャンプだが、これまで飲んでいたものは今飲んでいるものに比べたら泥水に等しいと思った。「うん、ぼくもこれが大好きなんだ。故郷の味だよ」「故郷、か」「そう、ぼくのルーツは東アフリカ――エチオピアにある。まあ、ぼくは行ったことはないんだけどもね」懐かしそうにジェリコが言う。まだ見ぬ故郷に思いを馳せているのだろう。物心ついたころからエルシノアで生きてきたチャンプには理解ができない感情だが、それはきっと快いものなのだろうと思った。「ああ、そんなことより、この家を案内しなくちゃ。無駄に広いから迷わないようにね」
バスルーム、キッチン、食堂、寝室からサンルームまで案内された。この大邸宅を自由に使っていいと言われても、しばらくは慣れないだろう。最後に連れて来られたのは、広い部屋に何らかの機材が所狭しと詰め込まれた部屋だった。壁には様々な強化人工装具が並べられている。「ここは、ぼくの仕事場。たまにしか使わないけどね」言いながらジェリコは、チャンプに素っ気ない安楽椅子に座るよう促す。そして、巨大な機械から伸びるケーブルをチャンプに渡した。受け取ったケーブルを、チャンプは自らの後頚部ポートに差す。ジェリコがキーボードを叩くと、これもまた巨大なモニターに様々な情報が浮かび上がるが、チャンプにはそれらが何を意味するのか分からない。「君が戦闘に慣れていないのは仕方がない。でも仕事は仕事だから、ちょっと神経系をいじらせてもらうよ」言いながら、ジェリコはモニターに向かう。「視聴覚の強化と、遠心性神経のクロックアップ。ついでに痛覚リミッターも入れておこう」独り言のように呟きながら、ジェリコがキーボードやそのほかの機材を操作していく。チャンプは全身に形容しがたい不快感を覚えたが、ジェリコならきっと悪いことはしないだろうと大人しくしておくことにした。しばらく後、作業を終えたらしいジェリコがチャンプの顔を覗き込む。「少しの間は気分が悪いと思うけど、すぐ慣れるよ」「ああ……、ありがとう……?」チャンプは首だけを動かして周囲を見渡す。なんだか今までよりも視界が鮮明に映るが、脳がまだ慣れていないのか頭が重い。「強化義肢の換装もしてあげられるけど、とりあえずは生身でも大丈夫かな。気が向いたら言ってね」ジェリコの言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。いきなり襲って来た睡魔に意識を連れ去られ、安楽椅子の上でチャンプは眠りへ落ちていった。
エルシノア最高の生体エンジニアの仕事は、やはり一流だった。中庭に降りたチャンプは、これまで以上に自分の身体が思い通りに動くのを実感していた。「おお、すごいな。なんか、これならおれでも闘えそうだ」映画で見たことのある空手の動きを真似してみる。ジェリコはそんなチャンプの様子を笑いながら眺めている。「カラテもいいけど、君にはこっちを使ってもらいたいな」そう言ってジェリコがどこからか取り出したのは、赤い鞘に収められた反りのある長剣――即ち、"カタナ"と呼ばれるものだった。映画でしか見たことがないそれを受け取ると、その意外な重さにチャンプは驚く。「おお、これが本物の"カタナ"か。かっこいいけど、おれに扱えるかな」「それは慣れだよ。ぼくも訓練の相手はするよ」チャンプは新しい玩具を買ってもらった子どものように目を輝かせて、納刀のままのカタナを振り回してみる。ジェリコによる神経系の調整で筋肉を上手く使えるようになったためか、思ったよりも扱えそうに感じた。鞘から刃を少しだけ抜いてみると、合金製の鈍い光を放っていた。
再び客間に戻り、二人とも先ほどまで座っていたソファに戻る。チャンプはほんの少し気になっていることがあった。「なあ、視覚と聴覚をいじれるなら、嗅覚もいじれたりしないのか? エイミーみたいにさ」「うーん。できなくもないけど、彼女の嗅覚は偶然の産物だからね」ジェリコは少し困った顔をして言う。「好奇心で彼女の脳を一度、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます