06-とっておきの魔法(Magia secreta)

 走行中のライトバンの荷室にて、ジェリコはグルマン美食家の記憶領域への潜行ダイヴを試みていた。電子化された人間の意識には厳重なセキュリティが施されているが、それを解除アンロックできるのがジェリコが裏社会において魔法使いメイガスと称される理由の一つであった。しかし、その行為は彼にとっても決して容易な仕事ではない。自らの意識と対象の意識を同期することで記憶領域に侵入する仕組みだが、それゆえに長居すれば彼自身にも対象の影響を及ぼす可能性がある。そのため、作業は迅速に行われなければならないし、ジェリコはこの行為をできる限りしたくはないのであった。この時、この"潜行"を自ら買って出たのは、自身が犯したかもしれない失敗を悔いる気持ちと、グルマンに対するわずかな好奇心からである。魔法使いはピル・ケースから薄水色のカプセル剤を取り出すと、それを口に含んで奥歯で噛み砕く。薬効はすぐに表れ、彼は自身の意識とグルマンのそれとの境界を失い、眠りよりも深く死に近いところへ落ちていく。握っていたチャンプの手の感触が薄らぐ。グルマンとの同期シンクはものの十数秒で完了し、ジェリコはゆっくりとグルマンの海馬に降りていくと、記憶領域の強力な保護プロテクトを易々と無効化した。あとは知りたい情報を"思い出す"だけだ。そして、先ほどまで魔法使いがうっすらと覚えていた不安は的中した。グルマンは違法改造されたマイクロチップを装着していたのだ。そのため、簡易的な通信妨害ジャマーでは効果がない。彼は己の手落ちを痛感した。それと現在、自分たちを追跡している、おそらくグルマンの護衛である者の正体に――魔法使いは怖気を覚えた。その他、さまざまな情報を抜かりなく手に入れたジェリコは、すぐにこの悍ましき殺人鬼の頭の中から抜け出すことを試みる。ちょうど薬効が切れる頃合いだ。肉体が徐々に感覚を取り戻し、汗ばんだチャンプの手を頼りに物質世界への帰還する。目を開けると、チャンプが心配そうに顔を覗き込んでいるのがぼんやりと見えた。「ど、どうだった? 何かわかったのか?」「ああ、成功したよ。とりあえず今欲しい情報は手に入った」そう言うとジェリコはグルマンの後頚部から、自分の脳と接続するケーブルを乱暴に引き抜く。「まじかよ、すげえな……」"潜行"を傍で見ていただけのチャンプが呆けた顔で呟くと、魔法使いは実に慣れた風なウインクで応えた。「でも、この状況がまずいこともわかったよ。絶対にこの追跡は振り切らないといけない」言いながら、ジェリコは荷室の片隅にあるツールボックスから取り出した透明のマスクのようなものでグルマンの鼻と口を覆った。彼が吸わされているのはセボフルラン――いわゆる古典的な麻酔ガスだ。結局のところ、マイクロチップの通信を完全に止めさせるにはこれが手っ取り早い。「あの追手が誰かもわかったのか?」運転席のエイミーが問いかける。「ああ、なんとびっくり、あの"スタティック"だよ」スタティック、それはエルシノア最強の傭兵マーセナリとも謳われる生ける伝説だった。「はあ!? なんで、こんなただの殺人鬼がスタティックなんて雇えるんだよ!?」エイミーが語気を荒げ、不意に車窓を開ける。異常な量のアドレナリンのにおいが再び"狼狩り"たちに接近を始めているのが分かった。「ヤバいって! まだ追いかけてきてる!」エイミーの叫びを聞いて、チャンプも車窓から身を乗り出して後方を確認する。大渋滞に陥り、車での追跡を諦めたスタティックが、高速道路の壁をとてつもないスピードで駈けてきているのが見えた。強化義足の鈍い光で闇夜を切り裂きながら。「とりあえず、グルマンの通信は切っておいた。さっさと彼女を撒こう」しかし、スタティックは重力や風の抵抗など存在しないかのように人間を超えた速さで接近してきて、ついに"狼狩り"のライトバンに追いつきそうになる。「チャンプ! 一発かましてやれ、多少の時間稼ぎにはなる」苛立ちを抑えきれないように、エイミーが操舵輪ステアリング・ホイールを殴って叫んだ。「あ、ああ、やってみる」チャンプは手に持っていた拳銃"モード"を構え、なおも接近してくる追跡者へ狙いを定める。「大丈夫、ゆっくり狙って。足を撃つんだよ」ジェリコは努めて冷静に助言をする。言われるがまま、チャンプはスタティックの足元を狙う。深呼吸すると、神経が研ぎ澄まされて対象の動きは止まって見えた。二度、引き金を引く。二発の銃弾はスタティックの脛に命中した。大したダメージは与えられていないようだが、それでも一瞬、バランスを崩したスタティックはよろけて失速する。「よし! 当たった!」「やるじゃねえか、チャンプ!」エイミーはアクセルを思いきり踏み込み、追跡者を引き離す。「エイミー、このまま高速を降りて、中国人街チャイナ・タウン隠れ家セーフ・ハウスに向おう」

 チャンプが動かないグルマンを引きずりながら訪れた"隠れ家"は、中国人街チャイナ・タウンの片隅に建つ古いアパートの一室だった。照明のスイッチを探していたら、エイミーに脇腹を肘で突かれた。点けるなということらしい。意識を失っている食人鬼の身体を適当なところへ置くと、埃っぽいカーテンを少し開けて、窓から外の様子を窺う。雑多な街の極彩色のネオンの中に、追跡者の姿は見えなかった。エイミーは医院でのリッシュの言葉を思い出して言う。「それにしても、なんでスタティックがこんなクズ野郎の護衛なんかやってんだ?」淹れたばかりの安物のコーヒーを啜り、ジェリコは粗悪な革張りのソファに腰を下ろすと、ごく小さな声で切り出した。「これも恐ろしい話だけどもね、どうやらグルマンは"オルガン"との繋がりも持っているようなんだ」オルガン、正式名称は"ドレッド・オルガン"――エルシノア最大のギャング組織だ。裏社会のみならず表の世界をも牛耳り、犯罪企業クライム・インクとも呼ばれる。その名を聞いたエイミーは身震いをして、自らの肩を抱く。「な……、そんなヤバい奴に手を出したってことか? あたしたち……」チャンプにはギャングのことなど何も分からない。しかし、普段は強気なエイミーすら怯えさせる存在に自分たちが喧嘩を売ってしまったという事実に、恐れを覚えた。夜闇の中、魔法使いすらも暗い顔をしているのが分かる。「でもさ、それだけヤバい仕事なら報酬は弾んでもらえるんだろうな」エイミーはこつこつとリズミカルにブーツの爪先で床を叩きながら呟く。恐怖を押し殺し、自らを鼓舞するように。「あたしは、相手がオルガンでも退く気はないぜ。がっぽり稼いで、今度こそこんな都市まちとおさらばしてやる」「うん、ぼくも同意だよ。エイミー」ジェリコが珍しく力強い語気で応える。チャンプだけが、まだ迷っていた。もともと"狼狩り"に参加したのだって成り行きに任せてのことだった。ギャングから逃れるために選んだ道が、もっと危険な仕事になるだなんて思ってもみなかった。しかし、エイミーから相棒を奪い、本当のメンバーになるはずだった男を殺したという罪悪感だけが、チャンプに決断を迫ってくる。暗闇に慣れた目で見やった二人の顔は、決意に満ちていた。「おれも……、おれも同じだ」重い口を開いて出た言葉は、滑稽なほど震えていた。エイミーとジェリコが同時にチャンプの顔を見る。恐怖に強張った表情の中、瞳だけは強い意志を湛えていた。「信じるよ、チャンプ」魔法使いの言葉は、不思議とチャンプの心に安らぎを与える。少女もまた、チャンプの大きな決断を称えるように、その肩を叩いた。「とりあえず、グルマンにはここで隠れていてもらおう。まだ必要な情報がありそうだしね」そう言うとジェリコは、狭いこの部屋には不釣り合いなほど巨大な冷蔵庫に近づくと、扉を開ける。「チャンプ、そいつをこの中に入れてくれるかい」言われた通りに適当に置かれていたグルマンの身体を引きずって冷蔵庫の中に無理やり詰め込む。庫内の空気は普通の冷蔵庫よりも冷たいように感じた。「ここに入れておけば死ぬことも目を覚ますこともない。クリプトビオシス無代謝状態を保ってくれるんだ。だからテレパシー通信もできない」言いながら、ジェリコが扉を閉める。それがただの冷蔵庫ではないことに、チャンプはようやく気付いた。

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