妖怪の攪乱

久佐馬野景

妖怪の攪乱

 実験室の檻の中には河童がいる。

 これは怪談の語り出しではない。十姉妹じゅうしまつ未市みちが勤める研究開発機構は、国家によって妖怪の捕獲が認可されている。国際日本文化研究センター。「日文研」の呼び名で知られた国際日本文化研究センターとは名前こそ似通っているものの、まったく異なる理念と予算規模で運営されている。

 実験用のノートパソコンの機能を使い、十年前に閲覧した状態を再現した、ウィキペディア日本語版の「河童」の項目を開く。

 なぜ十年前なのかといえば、現代ではこうして河童が存在しているからである。そのため現行のウィキペディアは常時河童を目撃、観察した者が編集を行い続け、まるで役に立たない。まあ――未市はノートパソコンに表示されているかつてインターネット上で最も権威のあった情報源を見て、溜め息のなりそこないを漏らす。当時の記事も、決して褒められた出来ではないのはたしかだが。

 檻の中の河童に、十年前のウィキペディア記事をドラッグアンドドロップする。檻の内部はこのノートパソコンと接続されており、仮想サブディスプレイと化している。河童の体表にオーバーレイされたブラウザが溶けていき、河童は少し身じろぎをする。

 続いて実験室に備え付けられたデスクトップパソコンのディスプレイに向き合う。先ほど表示していたウィキペディア記事内の河童に関連するキーワードが総覧してある。「鬼」「天狗」「セコ」「芥川龍之介」「安倍晴明」「役小角」「飛騨の匠」「鳥山石燕」「折口信夫」「尻子玉」「相撲」「皿」「キュウリ」「九千坊」……事細かに抜き出したキーワードにはそれぞれ、アナライザからサンプリングされた一本の波形が表示されており、そのすべてをディスプレイに表示して、わずかな動きも見逃さないように目を凝らす。

 動いた――コンピューター上でも波形の動きはあとから感知できるが、未市は自分の目で確認することを好んだ。反応があったキーワードは「九千坊」。

 だ。

 九千坊は九州で知られる河童の親分である。元は中国の黄河に棲んでいたが、大昔に黄河を下り、海を泳いで渡り、途中で海若(黄海若・梅若・黄梅若とも)という巨大な怪物の襲撃に遭いながらもこれを逃れて九州にたどり着いた。

 九千坊が率いる河童の数は九千匹であるとされ、九州一の大河である球磨川に棲み着き、大層な悪さをしたとされる。

 ある河童が悪さをして村人に捕らえられ、「この大石が水の流れですり減りなくなるまで悪さをしない」と誓った。その代わりに、河童は年に一度祭りを行ってほしいと願った。その日、五月十八日を祭りの日と定め、「オレオレデーライタ川祭」として毎年開催されることになった。「オレオレデーライタ」の意味は「句呉人、句呉人、多数来た」「永らく、永らく、成就せよ」と、中国と朝鮮半島の言葉でそれぞれの意味になるという。

 親分の九千坊は乱暴者で知られ、田畑を荒らす、女子供をかどわかすなどの悪さを重ね、肥後の領主加藤清正の児小姓を水に引きずり込んで殺した。

 これに怒った加藤清正は、河童の天敵である猿を九州中から集めて河童を攻めた。逃げられないように高僧を集めて河童の動きを封じ、川上から毒を流し、大量の焼き石を淵に投げ入れさせた。たまらず降参した九千坊は再三の謝罪を行い、久留米の有馬公の許しを得て肥後を立ち去り、久留米の筑後川に移り住むことになったという。

 そして筑後川に移った九千坊たち河童は、そこで水天宮のお使いとなった。

 九千坊にはほかにも無数の逸話が残っている。

 九千坊は東に向かったが、反対側の西に向かった河童の親分もいた。獏斎坊というその河童はハンガリーのブダペストにたどり着いたという――などといったものすらある。

 未市はここまでに出てきた逸話や伝承に登場するキーワードを己の記憶と知識を頼りに一心不乱に打ち込んでいく。それらを即座に情報位置エネルギーの変化を観測し波形として表示するアナライザに接続、先ほどと同様にそれらのキーワードが示す波形に変化がないかを凝視する。

 予想外のところから反応があった。最後に打ち込んだ「獏斎坊」。

 これは――いける。

 獏斎坊はいわばどん詰まりだ。九千坊の対として作り出されたブダペストの河童にはそれ以上の広がりがない。

 未市はノートパソコン上に仮想の獏斎坊を形成する。といっても、ただ名前と、獏斎坊がどういった河童であるかという意味づけのテキストをひとつのファイルにまとめただけである。

 同時にノートパソコンに複数の機器を接続する。最後に河童の檻から伸びたケーブルの先端にブランクアンプルをつなぎ、小型ガストーチを用意しておく。

 檻の中の河童――仮想ディスプレイと化したその身体にマウスカーソルを合わせ、ノートパソコン上に形成した獏斎坊にドラッグアンドドロップする。

 本来、河童から獏斎坊に至る情報の筋道は、真っ平らであるはずだ。

 だが、目の前の河童は実在している。生きた情報、概念、ミームである妖怪の存在は、それまでたどれたはずの筋道を、時間と因果律を無視してねじ曲げる。

 今日まで残されてきた妖怪に関する情報、伝承、伝説、逸話。それらは現在、妖怪が実在していることによって、めちゃくちゃに破壊され続けている。

 だからこそ、ズルができる。

 情報のエネルギー化の研究はまだ始まったばかりだ。情報熱力学は近年盛んに研究が進んでいるが、情報そのものを運用可能なエネルギー化するまでの道のりはまだまだはるか遠い。

 一方で、現実に妖怪が出現してから十年が経っている。

 目の前に現れた妖怪をそういった生き物だと納得する者もいるが、未市たちのような研究者は当然、妖怪が過去の創作物だということを知っている。それが実在しているということは、情報がかたちを持って存在していることになり、そこから新たなエネルギー源と事業を興せないかと考えた連中が作り上げたのが、国際日本文化研究開発センターになる。

 妖怪の情報が過去に発生し、現在まで続いている道程。妖怪はもともとその流れ自体が曖昧な存在であった。

 たとえばぬらりひょんという妖怪の場合、現在広く知られているのは、妖怪の親玉であり、人の家に勝手に上がり込んで自分の家のようにくつろぐという性質である。

 だが実際のところ、ぬらりひょんという妖怪が妖怪の親玉だとか、家に上がり込むだとかいう、民俗学上の文献資料は存在しない。

 これらの説明はすべて、藤澤衛彦という風俗史学者が一九二九年に著した『妖怪画談全集 日本篇上』の中で、よく知られたぬらりひょんの絵――鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「ぬらりひょん」につけたキャプションである、「まだ宵の口の燈影にぬらりひよんと訪問する怪物の親玉」が元となっている。それ以前の歴史に、ぬらりひょんの性質を記した資料は存在しない。

 さらにいえば、ぬらりひょんという妖怪はそもそも伝承上に存在しない可能性が極めて高い。

 鳥山石燕がぬらりひょんを描いたのも、石燕が連なる狩野派の絵師が描き継いできた妖怪画の絵巻の中にぬらりひょんも含まれていたからに過ぎず、そこに具体的な性質や文字情報は存在しない。

 元来画像と名前しか存在しなかった妖怪が、後年に付け加えられていった解説によっていつの間にかそういう妖怪として認知されるようになった。それは妖怪には伝説や説話があるべきだという需要が根深く存在していたためだろう。

 そして現在、ちまたに現れるぬらりひょんは、このような性質を持っているように振る舞う。

 本来存在しない設定を自身に付与し、まるで過去から続いているかのように立ち現れる妖怪たち。

 いつ。どこで。誰が。その情報を付与したのか。それらを同定できるものもいれば茫洋としているものもいる。とうの妖怪たちにとってはどちらでも関係がない。妖怪は厳然と存在してしまっている。

 多くの研究者や妖怪好事家たちは一様に頭を悩ませた。その中で一線を画していたのが、国際日本文化研究開発センターの前身となった一団であった。

 彼らは妖怪が過去からの情報連続体であるとするなら、現代と過去において生じているこの重大な齟齬は、過去へと翻って大きなゆらぎを生じさせていると考えた。

 妖怪はその性質からして、因果律に囚われない。

 Aが起こった結果であるBを、Aを行いBを生じさせる妖怪Cであると見做すというのが多くの場合の妖怪現象の来歴である。結果が先にあり、そこから後付けで妖怪が想像される。そして妖怪が定着したことによって、妖怪が原因へと入れ替わる。存在を確立させるために、妖怪は因果律を無視することができる。

 であるならば、現在実在化している妖怪に付与されている設定が、情報連続体を遡って過去にまで影響を及ぼしている可能性がないとは言い切れない。その結果生じるゆらぎ、情報の位置エネルギーを、現代の妖怪を使って取り出すことが可能である――として、日文開は新規エネルギー事業を立ち上げた。

 大学院で将来が終わりそうになっていた未市は、日文開にスカウトされてこの研究機関に雇われることとなった。

 未市はもともと、大学で人工知能の研究を行っていた。一方でインターネット上のSNSでは妖怪研究や妖怪探求を行うクラスタに属しており、妖怪系の同人誌にも何度か評論などで参加したことがあった。おそらくそこから日文開の目に留まったのだと思われる。

 妖怪が実在化した日のSNSは、それはもう悲惨なものだった。

 妖怪が存在すると信じている妖怪好きなどいない。誰もがその不文律を踏まえて発言し、ふざけ、遊んでいた。ビリーバーは基本的に白い目で見られ、それゆえにいわゆるスピリチュアル界隈や陰謀論とは隔絶されていた。

 ところが、妖怪は実在化した。

 動揺する者、必死に理論化を試みる者、正確な情報を発信しようと試みる者、マニアックな撃退方法を試すために突撃する者。様々な反応があったが、どれも根底にあるのは妖怪が実在化したという世界の複雑さに耐えきれなくなった苦痛だった。

 それまで距離があったはずのスピリチュアルや陰謀論が急速に接近してきたあたりで、未市はSNSを見るのをやめた。

 その、ある種妖怪との接触を断っていた時期の未市に声をかけてきたのが今の上司の川部だった。

 未市の中に生まれた妖怪への諦観を見抜いたかのように妖怪をあくまで情報生命体として扱い、利用するというプランを持ちかけられ、そのまま日文開へと所属した。

 そこで研究を続け、ようやく――未市は、自分の手で妖怪のエネルギー化を実現しようとしている。

 河童から獏斎坊へ、あるいは獏斎坊から河童へと流れる情報は、現在大きなゆらぎを見せている。キーワードごとに設定されたアナライザはそれを可視化するためのものだ。

 おそらく現在どこかで、獏斎坊という河童が人口に膾炙し始めたか、新たな設定が付与され始めている。

 獏斎坊と、檻の中の河童の間に生じる情報の勾配。その位置エネルギーを河童から取り出し、実在化した情報エネルギーとして抽出する。

 河童の檻につないだブランクアンプルの中に、流体が満ちていく。未市はそれがアンプルの半分ほどを満たして流入が止まったのを確認し、ガストーチでアンプルを封入する。

 未市はアンプルの中に溜まった、薄く光る流体を天井のライトに透かして見る。核融合発電も未だ実用化に至っていない現代に、未市は純然たるエネルギーそのものを取り出すことに成功したのだ。プラズマ。あるいは外に溢れたプラズマ――エクトプラズムを。

 未市の口から漏れたのは、溜め息のような短い笑いだった。

 ああ、なんて――くだらない。

「川部局長。はい、十姉妹です。実験に成功しました。今から報告書を作成してデータを送ります」

 内線で川部に報告し、これまで繰り返してきた実験と今しがた成功した実験の報告書をまとめるための作業に移ろうとする。

『ああそうだ、十姉妹くん』

 電話口の川部は、特に驚いた様子も喜んだ様子もなく、ただ言い忘れていた用件を伝えるかのような調子で声を発する。

『なにか異変は起きてないかな』

「いえ。特には」

『そうかぁ。できれば関わり合いたくない――が――るから、気をつけ――と思うよ』

「局長?」

 ひどいノイズが何度も入り、川部の話の内容が聞き取れない。仮にも最新設備を使っている内線でこんなノイズが入ることがあり得るのだろうか――。

『まあ、僕じゃ――し、命が――逃げたほうがいい』

 そこからはずっとノイズが続き、電話が切れたのかどうかもわからなかった。

 おそるおそる受話器を置くと、それがスイッチとなったかのように実験室の電灯が消えた。

 机に置かれたアンプルの中のエクトプラズムが光っている。実験室には非常電源が備わっているはずなのに、非常灯が点く様子はない。

 この状況は――未市はよく知っている。仕事を終えて実験室を去る時、電灯のスイッチを切ったあとの暗闇だ。ならば先ほどの受話器を置いたという行動が、本当にそのままスイッチと連動していたというのか。

 未市は手探りと記憶と経験を頼りに、出入り口の横にある電灯のスイッチを押下するべくそろりそろりと歩を進める。棚や机に劇物などは置いていないが、なにを引っかけるかはわかったものではない。加えて足下はケーブル類が行き交っており、足を取られて頭を打ちでもしたらまったく笑えない結果が待っている。

 なんとか壁際までたどり着くと、内側から施錠されているドアの感触を捉える。手を伸ばせば、もう少しで――と張り詰めた指先に、冷たく柔らかいなにかが触れた。

 脊髄反射で手を引っ込める。同時に電灯が点いた。

「わ、びっくりした……」

 未市が飲み込んだ言葉をそのまま、目の前の女が口にした。

 その手は電灯のスイッチに置かれている。どうやらこの女が電灯を点けたように思われる。

 だが、ありえない。

 この実験室は施錠されている。中にいたのは未市と、実験用の河童だけだ。

 女の姿をよく見てみる。未市よりも背が高く痩せぎすで、長い髪の毛はボリュームがありすぎるのか癖っ毛なのか、前方と左右に分かれて跳ね返っている。手入れを見るにコスプレなどの意図をもった整髪ではなく、自然に爆発したらしき髪は棕櫚の木のようだった。

「おっと、ここは――ああ。だから、か」

 女は実験室の中を見渡し、河童の姿を認めると疲れた笑顔を浮かべる。

「妖怪、だな」

 未市はすっと剣印を結ぶ。この場で実用的な護身呪術は九字を切ることくらいしかできないが、こちらが心得があることをまずは示しておく。

 人間と変わらない姿。言語。立ち振る舞い。妖怪ならば間違いなく高位の力を持っている。おそらくは妖怪の親玉の身分を欲しいままにしているぬらりひょんなどよりも、はるかに。

「おお、そんなシームレスに敵意をお出ししてくるか? 普通」

 女は目を丸くして未市の顔を見ていた。未市は表情を変えず、構えを解かない。

「ああ、わかったわかった。私はヒエスト。少なくとも君に対して敵意は持っていない。その剣呑な印を解いたほうが、お互いやりやすいと思うんだが」

 ヒエスト――未市の知る妖怪の中からぱっと思い当たるものはいない。だが人間のかたちをとっている以上、偽名も嘘もいくらでも使える。

「なぜ私が急に湧いて出てきたかをまずは話したほうがいいか。といっても実を言うと私にもよくわかっていないんだが。気づいたら真っ暗な部屋の中にいたから、壁伝いに出口を探していた。そしたら手があそこ、電気のスイッチに当たった瞬間に、君の手が伸びてきた。運良く電気を点けることはできたが、今こうして理不尽な敵意を向けられているというわけだ」

 未市の疑問には答えているが、質問には答えていない。

「妖怪か、どうかを聞いている」

 ヒエストは寸の間呆気に取られたように口を開いて、すぐに力なく笑った。

「定義づけが大事だというのなら、そうだな。どうぞ私を妖怪にカテゴライズしてくれたまえ。魔王だとか悪神のほうが通りがいい気もするが。いや、この場合はストレンヂアかな?」

 こいつは――未市の知っている妖怪とはなにかが違う。

 たとえば魔王と呼ばれる妖怪は、山ン本五郎左衛門などよく知られたものも多い。悪神というのなら柳田民俗学時代の、神の零落した姿が妖怪だという理論に多くが当てはめられるだろう。

 神や魔王級の妖怪との接触は、実は妖怪が実在化してからまだ一度も起こっていない。おそらくは魔王と設定されたことで、この世に一体のみ存在するという設定が勝手に付与されたためだと思われる。河童という呼称は種族名だが、魔王の呼び名は個体名を指す。

 魔王がもし実在化しているのなら、今後も表舞台に姿を現すことはないだろうと思われていた。あるいは人間の姿をとって、身分を偽装して社会に紛れ込んでいるはずだ。

 ヒエストの口ぶりは、たしかに魔王然としているとも言えた。自分が妖怪であることにさえ頓着せず、人間側の尺度に理解を示して定義を丸投げしている。

 妖怪は実在化してもなお、その設定に縛られている。ミカリ婆は十二月八日と二月八日の事八日にしか現れず、目籠や目笊を吊しておけば撃退できる。一つ目小僧も目籠や目笊で撃退できる事八日タイプ、「黙っていよ」と言う『怪談老の杖』タイプ、自由に動き回れる黄表紙タイプなどに分類されている。

 いずれも伝承や説話が強いものはそのまま伝承や説話に縛られ、また自由に動き回れるものであっても、その妖怪が持っている設定に準じていなければ存在を保てない。

 だがヒエストは、その縛りを無視して自分の設定を未市に一任させた。つまり――人智の及ばない存在が、未市にもわかりやすいように自分の立場を妖怪という階層にまで落として話してきている。

 未市は剣印を解いていた。自由になった指は汗でぐっしょりと濡れている。敵意はないとは言っているが、その気になれば未市などどうとでもできるはずだ。

 ただ、自分を「ストレンヂア」と呼称したことも気に留めておかなければならない。民俗学上で「異人」と訳されるこの概念の包含する意味合いは広大だ。もしかすると、本当にただこの場に湧いて出た異界からの表出者であるかもしれない。

 未市が印を解いたのを見てヒエストはほっと息を吐く。そのまま器用に床のケーブル類をよけながら、河童の檻の前まで進んでいく。

 弱っている河童をじっと見つめ、次にヒエストが向かったのは未市のノートパソコンだった。画面ロックをかけていないことを思い出し、未市は慌ててそちらに向かう。

 ディスプレイに表示されている内容を見ても素人にはなにも理解できないだろうが、ヒエストは画面を一瞥するとつまらなさそうに鼻を鳴らしてまた河童の檻の前に移動する。

 ノートパソコンを手に取った未市はなにも触れられていないことを確認し、すべてのウインドウを閉じて画面ロックをかける。

「君さあ、なんでこんな仕事してるの?」

 ヒエストは河童の檻にもたれかかりながら、未市の蒼白になったまま困惑した顔を見つめる。

「なんで――とは」

「妖怪をエネルギー化するような実験をしている君、ええっと名前は?」

 あの一瞬でこの実験の内容に気づいている。焦燥するが、それ以上に名乗るべきかどうか逡巡する。名前は呪術的理論の上で重視される。名前を伝えた瞬間、未市の存在を掌握されてしまう可能性すらある。

「――小野D子」

「ハンドルネームかよ」

 ヒエストは吹き出す。

 ヒエストの言う通り、小野D子というのは未市がSNSを利用していたころに使用していたハンドルネームだ。アニメ『おそ松さん』のキャラクター、松野十四松の声優が小野大輔――通称小野Dだったことから、自分の名字――十姉妹と照応させて名乗ることにした。

「もしかして本名を名乗ったら支配権を奪われるとでも考えてるのか? 心配するな。諱と字の文化が廃れてどれだけ経ったと思ってる。今の時代、本名を知られた程度で手出しできる範囲なんて限られている。怖がるべきはインターネット呪術師のほうで、私など無害もいいところだよ」

 未市は気安いその言葉には気を許さず、裏に垣間見える脅迫を察してしまう。未市の名がハンドルネームであることを瞬時に見抜き、インターネット呪術にも通じているヒエストは、その気になればハンドルネームから未市の本名にまでたどり着ける。

「――十姉妹未市だ」

 ならばこの場でさっさと懐を開いてしまうのが、相手とのやりとりをスムーズに進めるための上策だろう。いつ本名に迫られるのかという切迫感に襲われ続けるよりは、隠し事をなくして懸案事項を減らしておいたほうが頭も回しやすい。

「よし未市。君は妖怪を愛好する馬鹿の一人のはずだ。言うなれば妖怪をメタ視点で見ることができ、それゆえに現状に苦しんでいる。だというのに、君は妖怪を利用したエネルギー開発などという、妖怪が実在化していることを前提とし、その実在性をより強固にする研究を行っている。そこがね、単純に疑問なんだよ」

「私のアカウントを見たのか」

 SNSのアカウントは削除していない。ヒエストはスマホやパソコンを持っている様子はないが、未市から見えていない位相、たとえば意識だけでインターネットに接続していたとしても不思議はない。

「そんな器用な芸当はできないよ。さっきのノートパソコンに並べてあった単語、河童の関連語句の最後が『獏斎坊』だったから、そうじゃないかと思っただけだ。ちょっとというか、かなりマニアックだからな。あとは『河童懲罰』もあったのを見て、ほぼ確定だと思った」

 あの一瞬でそこまで――というより、ヒエストの持っている知識量とその知識層への理解の深さにおののく。こいつは本当に妖怪なのかという疑問がまた湧き上がってくる。妖怪というシステムの構造を理解し、それを熟知しながら運用している未市の中の矛盾を言い当ててきている。メタ視点という言葉を使っている以上、ヒエストもまたメタ視点で妖怪を認識していることになる。そんな妖怪が、はたして存在しうるのか。

「君はこの世界の複雑さに心底嫌気が差している。妖怪は好きだが、妖怪が実在化していることは嫌悪している。なぜなら、妖怪は存在しないという当たり前の世界観で生きてきて、楽しんできて、遊んできたのが君という人間だからだ」

「どこかで折り合いはつけるしかない」

 妖怪が実在化してから、散り散りになってしまったかつての仲間たち。国お抱えの妖怪研究家に収まった者。妖怪排斥運動に傾倒していった者。スピリチュアル商法に取り込まれてしまった者。今もなお妖怪の最新情報を更新しようと採集のため野を駆け回る者。

 妖怪の実在化は、それまでの楽しかった時間をすべてなかったことにしてしまった。未市は悲しくて悲しくて仕方がなかった。だから、川部の誘いに乗ったのだ。

「妖怪は今ここに実在化している。その事実はどうやっても覆らない。だったら、妖怪を使って新エネルギーでもなんでも開発するのが、かつて妖怪好きだった私にできることじゃないのか」

「たしかにこのシステムは、妖怪に対する広汎な知識を持ち、メタ視点を有している者にしか開発できないだろう。君はまさに適任。適材適所というわけだ。だから訊ねたいんだが、君は――妖怪が存在しないとでも思っているのか?」

 河童に視線を向ける。妖怪はそこに実在している。今さらそんな質問は無意味だと示したつもりだったが、ヒエストは小さく笑いながら未市の目の奥を覗き込んでくる。

「今ここの話じゃない。君の世界観の話をしている。君はそもそも妖怪が存在しないと信じて今日まで生きてきている。違うかな?」

 その通りだが、返答はしない。ここまで未市を分析したヒエストには、とっくに答えは透けて見えているはずだ。だから否定をしない時点で、未市は首肯したのも同じだった。

 なぜこんな問いかけをしてくるのか。おそらくは、それこそがヒエストがこの場に現出した理由だろう。

 未市は妖怪のエネルギー化に成功した。そのタイミングで現れた魔王を名乗るヒエスト。並べ立てられる言葉と、その奥に潜む矛盾を内包した未市への誘惑。

 この研究結果をもみ消す――ヒエストの目的にようやく思い至った未市は冷や汗を流す。

 魔王にとっても、魔王であるからこそ、妖怪のエネルギー化という研究とその成果は都合が悪いものに違いない。妖怪にカテゴライズされる自分たちが、際限なく人間たちの燃料として焼べられる未来は、妖怪、あるいは情報連続体そのものにとって悪夢にほかならない。

 だがヒエストは未市が抽出に成功したプラズマと、これまでの実験の記録が残されたデバイス類には興味を示さない。

 ヒエストの狙いは、あくまで未市という人間だ。

 未市の自我を揺さぶり、世界観をねじ曲げ、矛盾を抱きながら研究を続けるかつての妖怪数寄者を、ねじれた地平へたたき落とそうとしている。

 ではこの場を切り抜けるにはどうすればいいか。研究結果を持ち出して逃げだすのが最上の策ではあるだろう。ヒエストは現段階で目につくような超常の力を発揮してはいない。つまりヒエストが果たしてどれほどの力を持っているのか、皆目わからない状態が続いている。

 逃げられるのか。逃げることさえできないのか。最悪の想定はしておきつつ、いつでも逃げらるという行動はとれるように腕の中のノートパソコンをぐっと引き寄せる。あと必要なのは、机の上のエクトプラズムが充填されたアンプル。

「現実は……受け止めている。だからここにいる」

 ヒエストの話に乗っておく。逃げるタイミングを見計らうべく、常時意識を張り詰めながら、ヒエストの言葉に絡め取られないように慎重に言葉を選ぶ。

「君の見ている現実に興味はないな。教えてほしいのは君の世界観における妖怪の位置づけだ。妖怪は伝承や伝説、説話に民話、あとは画像や名称が現代まで残り、それらを採集し保存していったことで現代でも参照できる。そういったハナシの中で語られる、現実には存在しない事物。存在しないことを理解したうえで、創作物として妖怪を取り扱い、楽しんできた。妖怪が存在していると信じる行為はまったくナンセンスで、そうした話者がいれば事例を採集するために話を聞くことはあれど、妖怪が存在しないという信念を持った側として、妖怪が存在しているという信念を持った相手に接する」

 ヒエストは妖怪の定義づけを行おうとしているのではない。未市の世界観において妖怪が存在しないという論理を確認している。実際にヒエストの言ったことは妖怪に深入りした者ならば誰でも当然のように持っている価値観だ。その前提がないままに妖怪に深入りすることはできず、持ち合わせないままに突き進めば間違った方向にしか向かわない。

「君の考えずっとこうだ。妖怪は存在しない。存在しないことはわかりきっている」

 一度現実に存在している河童を見てから、未市は小さくうなずく。どれだけ世界が変わっても、未市が生きてきた世界観は易々とは変わらない。

「――というのは、私から見れば、君たちが大事に大事に築き上げた伝統にほかならないんだが」

 急に突き放すような物言いに変わったヒエストを見ながら、未市は思わず腕の中のノートパソコンを取り落としそうになった。

「――は?」

「伝承、伝説、説話、民話と言い換えてもいい。君たちは妖怪が存在しないと信じ込んでいる。それが当然で、今日まで続いてきた伝統だからだ。妖怪が存在しないという世界の捉え方は、言うなればそれだけで独立した世界の存立を意味する。それと、君たちからすれば前近代的な妖怪が存在すると信じ込んでいる世界の捉え方に、傍から見ればいったいどれほどの差異がある?」

 こいつは――いったい

「妖怪が存在しない世界が成立するように、妖怪が存在する世界もまた成立する。十年前までの君たちの社会が前者で、今ここの、そして前近代の社会が後者だ。妖怪はね、ずっと存在していたんだよ。近代的思考というやつが君たちの視界を覆っていただけにすぎない」

「詭弁だ」

「君の考え方のほうが詭弁だと思うが。妖怪が存在しない証拠をいくら並べ立てたところで、それは君の有する世界観の内でのみ有効な証言でしかない。シーボルトと福岡藩主黒田斉清との問答は知っているだろ? 『下問雑載』の水虎問答だ」

 一八二八年、福岡藩主である黒田斉清は長崎のオランダ商館を訪れる。蘭癖大名として知られる斉清はそこで自ら商館医であるシーボルトと対話を行い、それを蘭学者であり斉清の指南役でもある安倍龍平が記録し編集した書が『下問雑載』である。その中で斉清が水虎が描かれた図を示してシーボルトに意見を求める水虎問答と呼ばれる箇所は河童研究や九州蘭学の分野で取り上げられており、未市も把握している。

「君はあの中のシーボルトと同じなんだよ。斉清は水虎を『すこぶる怪異なり』と言ってはいるが、薩摩の老公――島津重豪が現物を見て描いた水虎図がここにあるのだから疑う余地はなく、水虎のミイラもあるし民間に目撃者が大勢いるとして、君――シーボルトからすれば当然の、水虎が実在しないという結論を受け入れることがない。なぜなら、江戸時代において妖怪は存在していたからだ。少なくとも江戸時代の日本社会の内では、妖怪は社会機能として有効に働いていた。妖怪が存在しているという世界観によって世界を認識することは、そのまま妖怪が存在する世界を構築していることになる」

 人類学者は世界各地の先住民たちの信仰や世界認識を研究することはあっても、それを否定することはあってはならない。近代的思考を有する研究者は独自の世界像を有する対象者に対して、自分たちは実在しないことを知っており、彼らは実在することを信じているという非対称性を生み、近代的思考を有する自己の世界を特権化させ、常に政治的な勝利を手にしてきたと、諧謔と反省とともに指摘されている。

 対象者である彼らは間違いなくその世界に生きている。それを研究者が感じ取れないのは研究者の有する世界観のほうが問題なのであって、彼らの世界認識を正確に著述できない己をこそ恥じるべきなのだ。

 ヒエストが言っているのは、研究者と対象者の関係がシーボルトと黒田斉清との間、そして未市とかつて妖怪が存在していた社会との間でも成り立っていること。そして――

「だから、私から見れば、妖怪が存在しないことを信じている君たちの世界観のほうこそが、打破すべき迷信に囚われた前時代的な考えに見えてしまう。気づいていないのか? 観測する者とされる者、化けるものと化かされるもの、主体と客体は、とっくに入れ替わっているんだぜ」

 未市はノートパソコンを放り投げ、そのまま駆け出した。これ以上ヒエストの言葉を聞くのはまずい。いや、もう引き返せないところまで未市は突き落とされている。

 日文開の研究所を飛び出し、夜道を全力で走る。

 背後から息遣い、足音、水が跳ねる音、「とっつこうか、ひっつこうか」という声。

 送り狼か、べとべとさんか、びしゃがつくか、とっつくひっつくか。あるいはそのすべてが未市を認識している。

 珍しいことではない。すでに妖怪は実在化している。対処法もすべて頭の中に入っている。だが実践する気にはなれなかった。

 妖怪は未市に干渉してきているのではなく、ただそこに存在していて、未市という前時代的な伝統を後生大事に抱え込んでいる人間を見ているのではないか。今この場、この時、この世界では、妖怪のほうこそが分析者であり、未市は必ず政治的に敗北することとなる。

 夜の闇が、深い。

 日文開の研究所は山の中である。徒歩で飛び出すのはどう考えても無謀だった。

 貴重な外灯の下までやってきて、未市はやっと自分の愚かさを呪った。このあたりではタクシーも拾えまい。かといって研究所までとって返すのは、やはり気が進むものではない。

 顔を上げて遠くを見ると、街の灯りが煌々と輝いている。実際には距離は相当に離れてはいるのだが、未市は灯りを見てよしと強引に己を奮い立たせた。あそこまで行けばいいだけだ。その後のことは知ったことではないし、その前のことも、もはや知ったことではない。

 ただ夜道を妖怪に付け狙われながら駆けた未市は、不思議な高揚感の中にあった。

 なので外灯の光の届く端で、一人の少女が泣いていることに、今さらになって気づく。

「ここは紀国坂じゃないが」

 未市はそうつぶやいてから、少女に声をかける。果たして面を上げた少女の顔は、目も鼻も口もない、のっぺらぼうであった。

 そこに都合よく、空車のタクシーが通りかかる。未市は手を挙げて、止まったタクシーに乗り込む。自宅の住所を告げて、シートに深く腰かける。

「どうかされましたか」

 運転手が心配げに声をかけてくる。

「実はですね、さっきあの外灯の下に、女の子がいたんです。泣いていたので声をかけたんですが、その顔がですね」

「それはこんな顔でしたか」

 振り向いた運転手の顔は、やはり卵のようなのっぺらぼうであった。

「ええ。やはり小泉八雲の『むじな』ですね。再度の怪というなら朱の盤もそうですが、あれはアニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』のおかげですっかりぬらりひょんの子分になっている。あっ、そこを右でお願いします」

 運転手はのっぺらぼうのまま、運転を続ける。未市もそれに口を挟まない。ひょっとしたら、妖怪が実在化している今の社会では、こうしたやりとりのほうが自然なのかもしれない。未市は妖怪の実在を認めることができず、変容していく社会に目を向けることを避けてきた。妖怪が実在している社会を生きている人々は、どこまで順応しているのか。そんな興味深いところへ首を突っ込むことさえ恐れてきた。

 自宅のマンションの前に止まったタクシーに料金を支払い、車を降りる。運転手は最後までのっぺらぼうのままだった。あれでは乗せた客に逃げられて商売にならない気もするが、送り届けてくれた以上文句も忠言も言うまい。

 エレベーターで自室のある階まで上がり、鍵を開けて部屋の中に入る。電灯を点けると、ダイニングのテーブルの上にヒエストが腰かけていた。

「おかえり」

 ヒエストは笑って、テーブルの上に置かれた、未市が投げ捨てたノートパソコンとエクトプラズムが充填されたアンプルを指さす。

 未市はもはや驚くことはない。

比衛子督ヒエスト。お前は、無底海大陰女王だったんだな。それとも、その名前を使っているだけか?」

 神道家・宮地水位が神仙界など各種の異界を行き来した際の出来事をまとめた『異境備忘録』の中で、悪魔界に君臨する上位十二体の魔王。その序列第二位として記されているのが、無底海大陰女王である。これと序列第一位の造物大女王はほかの魔王とは別格の――並の神の百倍と記されている――力を持ち、また第六位には神野悪五郎月影、第七位には山本五郎左衛門百谷という、『稲生物怪録』で知られる魔王の名に基づいた魔王が登場することから、一部の妖怪好きからは知られた存在ではあった。

 無論一般にはほぼ存在を認知されていない妖怪であり、さらに「ヒエスト」という別名の知名度は妖怪好きを含めてもより落ちる。

 未市もタクシーの中でスマホで検索をし、無底海大陰女王について詳細に記された妖怪研究家の開設したブログにたどり着いてその呼び名を持つ魔王にやっと思い至った。

「どちらでも問題ない。だがそこに思い至ったのなら、君の後ろに立っているそいつの正体にももっと早く気づくべきだったね」

 部屋のドアは閉めて、施錠もした。ダイニングにまで歩を進めた未市の背後に何者かが立っていることなどありえないはずだった。

「十姉妹くん、無事でよかった。研究室から姿を消していたから、心配していたんだよ」

「川部局長――」

 未市の背後から声をかけてきたのは、未市を日文開にスカウトした上司、川部だった。

 川部の下の名前を未市は知らない。おそらく日文開の中でも、知っている者は存在しないのではないか。なぜそんな状態で今日まで何事もなく過ごしてこられたのか。

 そもそも――どれだけ年齢を高く見積もっても、少年としか呼びようのない川部を上司として普通に接してきたのか。

「局長。局長の名前は、敵冥ですか」

「そうだよ。ようやく気づいたんだね」

 未市の口からは自然と乾いた笑いがこぼれた。

 川部。川部敵冥。ヒントは最初から未市の前に姿を現していた。

 川部敵冥とは『異境備忘録』の中で列挙される十二体の魔王の序列第十二位として名の挙がる存在である。

 未市はそもそも魔王に目をつけられていた。そして未市が妖怪のエネルギー化の実験に成功したことを契機に、より高位の魔王がこの世界に表出するに至った。

「妖怪のエネルギー化。この理論そのものは、あなたたちが私たちに対して使っているものだったんですか」

「ははは。ずいぶんヒエストに痛めつけられたようだね」

 川部は笑いながら、テーブルの上のアンプルを手にとる。

「君たちから見れば妖怪は情報連続体で、そこから情報エネルギーを取り出すことができると思うだろうけど、僕たちから見れば、君たち人間のほうが、よっぽどよくできた情報連続体なんだよ。いかにも僕たちは人間の持つ情報をエネルギーとして抽出して快適な暮らしを実現させている。その結果なにが起きたかというと、人間の情報エネルギーの枯渇なんだ」

「それが、十年前ですか」

「その通り。十年前、僕たちが取り出すことのできる人間の情報エネルギーは底を突いた。そこで妖怪がこの世界に実在化することとなったんだ。この世界から失われた情報を埋めるかのように、妖怪たちは立ち現れた。なんとも健気な登場の仕方だったねぇ。僕たちからすれば君たちの枯渇した情報が、さらに下のレイヤーの存在が表出化したことでかさ増しになった程度の認識だったんだけどね」

 妖怪の存在を認めざるを得ないほど、この世界はとっくに綻びだらけだった。

「そしてお前はこの世界に目をつけたわけか」

 呆れたように、ヒエストがつぶやく。

「私はあらゆる無限次多元宇宙に同時に存在できる。敵冥、お前は私には遠くおよばないが、マルチバースの観測と移動くらいは造作もないだろう。妖怪が実在化しているこの世界でなら好き勝手できると踏んで、こんなことを始めたといったとこか」

「いやぁ、僕は単に恩返しがしたいと思っただけだよ。これまで情報エネルギーを提供してくれた人間に、同じ手法で新しいエネルギーの獲得を促した。その先に待つ結果がどうなるのかは、あずかり知らぬところだけどね」

 人間から情報エネルギーを取り出し続けた結果、エネルギーは枯渇し、妖怪が実在化するに至った。

 では世界の綻びを埋めるために実在化した妖怪から、同じ方法論でエネルギーを取り出し続ければどうなるか。底を突いたタンクに穴を空け、さらに下の地盤にまで打撃を与える行為にほかならない。

 未市は今さらになって背筋が冷える。自分がやってきたのは、世界を滅ぼすための研究だったのか。妖怪の存在と非存在の狭間で揺れる自我を騙すために没頭してきたせいで、まるで考えがおよばなかった。

 未市はふと、ヒエストの表情を盗み見た。

 未市が妖怪のエネルギー化実験に成功した途端に現れた魔王。同じ『異境備忘録』の中で語られる魔王の中でも、無底海大陰女王と川部敵冥には大きな隔たりがある。

 これまでの会話でヒエストは、未市の世界観を粉砕し、まったく異なる視点を提示した。そこに感謝することはない。むしろ怒りすら覚えている。

 だが、未市とヒエストの間には、一種の信頼が結ばれている。少なくとも未市はそう信じている。

 未市は川部を止めなくてはならない。それが今日まで妖怪エネルギー化研究を続け、ついに実験に成功した自分の責任だ。

 ただの人間の未市が魔王である川部に敵う道理はない。

 だから、未市はヒエストに信を置く。

 未市はヒエストが座っているテーブルに飛びつくと、ノートパソコンを開く。

 河童から九千坊、獏斎坊への情報位置エネルギーを観測していたウインドウを開き、入力してあったキーワードをすべて削除し、新しくキーワードを打ち込む。

 入力するのは、「川部敵冥」。

「ヒエスト」

 それを横から覗き込んでいたヒエストに、未市は視線を投げる。

 それですべてを察したのか、ヒエストはくつくつと笑った。

「オーケイ。付き合ってやるよ」

 ヒエストは指をノートパソコンに押し当てる。

 未市は作成した「川部敵冥」のファイルを、仮想ディスプレイと化したヒエストの中にドラッグアンドドロップする。

 川部敵冥から無底海大陰女王にまでの道のりは単純だ。互いに『異境備忘録』の同じ項の中にしか存在しない妖怪である。

 だが、未市は知っている。川部とヒエストのこれまでを。未市との対話を。その思惑を。

 未市を起点として、両者の間に凄まじい情報のゆらぎが生まれる。

 妖怪が実在化した世界に降り立った川部に失敗があったとしたら、川部敵冥という魔王――妖怪の名を利用したことだ。

 この世界ではいかな魔王も、等しく妖怪として規定される。そこに川部の持ち込んだ情報エネルギーの抽出技術を、妖怪・川部敵冥と妖怪・無底海大陰女王との間で稼働させる。

 川部とヒエスト間の情報位置エネルギーを、ヒエストから取り出す。ヒエストは煙草でも吹かすように、口から大きく息を吐いた。それはプラズマとなって部屋の中を満たしていく。

「あはは……。そういうことするんだ」

 もはや立っていることもできなくなった川部が、がくりと膝を突く。川部とヒエスト間の情報エネルギーの綱引きは、もともとの力の差に加え、その起点となった未市がヒエストのことをより理解していたという勾配によって、勝負にすらならなかった。川部からヒエストへ、一方的に取り出されたエネルギーはヒエストの口からプラズマとなって宙を舞っている。

「いやぁ参った。降参だ。実際のところもうこうやってかたちを保っているだけで精一杯なんだよ。まさかヒエストが十姉妹くんに協力するなんていう展開は予想できていなかった。それとも最初からそのつもりだったのかい?」

「私はそこまで殊勝じゃないよ」

 ただ――ヒエストはプラズマの降りしきる部屋の中に突っ立っている未市を見て、小さく笑う。

「ああいう子は救われてほしいと思っただけだ」

「優しいなぁ。さて、僕はもうそろそろ退散仕るとするよ。日文開の研究は十姉妹くんに全責任を丸投げしておくから、君の研究をどう使おうと自由だ」

 川部は難儀そうにゆっくり立ち上がると、マンションの玄関ドアを開けて外へ出ていった。その後の行方は誰も知らない。

「私は、妖怪が好きなんだ」

 ヒエストのほうを振り向くことなく、だがたしかにそこにいると確信しながら、未市は口を開く。

「だから、この世界が耐えられなかった。妖怪が実在していることがイヤでイヤで仕方がなかった。でも」

 ノートパソコンを閉じる。振り向くと、テーブルに座ったままのヒエストが笑っている。

「もし、できるなら、川部敵冥が持ち込んだこの方法論を使って、妖怪を救いたいと思ってる。妖怪からエネルギーを取り出すんじゃなく、妖怪にエネルギーを還元することで。それがうまくいったら、この世界で妖怪が実在化することもなくなるかもしれない」

「わかっていることはふたつ」

 ヒエストは真っ直ぐに未市の目を見る。

「結果がどうなろうと、君は必ずやり遂げるということ。そして、この世界から妖怪が消え去っても、私は君の前から消えてやらない――ということ」

「なんだそれ」

 未市は笑っていた。魔王のお墨付きをもらえたことと、魔王に完全に目をつけられたこと。ヒエスト自身が未市に信を置いて、未市という人間を認めているという宣言は、未市に充足感と、若干耐えがたい小っ恥ずかしさを与えた。

 本来ヒエストは未市をより高い視座から見ている。未市が妖怪を認識するのと同じように、ヒエストは未市を認識している。だけど今は、ヒエストは己の理性を減速させ、未市のいる世界を感じようとしてくれている。

 嬉しかった。だからこそ、自分にも同じことが必ずできるはずだと確信した。ならばもう、なにも怖がる必要はない。

 未市は静かにヒエストと触れ合う。それは未市が自らの手で妖怪と触れ合った、最初の一歩であった。

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妖怪の攪乱 久佐馬野景 @nokagekusaba

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