第四夜【隣人】
男がいなくなった夜、仲間達は男が夜になっても帰宅しない事を不思議に思っていた。普段であれば帰って共に夕飯をつつき、中身の無い、あるいは途方もない空き缶収集の進展を話込んだりしている時間だった。こんな事は今まで初めてではあるが、寝床を構えられたという安心から帰宅が遅くなってしまっている可能性もある。あれやこれや並び立てても男が帰って来る訳も無く、仕方なく眠りについたのだが、翌朝になっても男は帰ってきていなかった。どこかで事故にでもあったのだろうか。若者に絡まれて暴力を振るわれたりしたのかもしれない。仲間は役場の彼にあれから彼を見ていないかと聞きに行くことにした。
彼は年末の業務に忙殺されており、話が出来たのは昼を過ぎてからであった。そして男に昨日起きた事を聞いたのである。具体的な遺書の内容と金額は教えられるものではないが、兎に角、家の条件から外れたのだと知らされた。
男が大金を手にした。
「どっか消えちまったんじゃねえか」
「いやでも、あいつがそんな事するわけねえ。一言くらい言って出ていくもんだ」
「いや、ヤクザに絡まれて連れてかれたんだ」
口口に想像を口走るが本人がいなければ何の意味も無い。掛け合ってくれるか分からないが、警察に失踪届を出しに行くこととなった。
昨日の夜から男は近くのビジネスホテルに泊まっていた。地域の中でも安いホテルだったが、男は一度たりとも泊まった事は無く、ただ仕事で軒先の花壇の基礎工事をしただけだった。そのまま泊まろうとしたがフロントマンに静止され、道中の安い衣料販店に出向き服を一通り買い込んだ。そして備え付けのトイレで着替えると、元着ていた服をゴミ箱に捨てた。
それは男が無意識的にやった行為だが、蛹から羽化する昆虫の様な意味合いがあったのだ。
知らない人が見れば、髭を剃り髪を軽く整えただけで男は最早別人にしか見えない変貌ぶり。鏡を前にした男もそう思っていた。
男は風呂場から出るとベッドの上に置かれた金とシュトーレンを見た。
このシュトーレンは間違いなく本物、言わば神のシュトーレンだ。願いが叶う奇跡の菓子。そのおかげで今何千万と手にしたのだ。あの老人には感謝してもしきれない。仲間の言葉を貰うなら
「生きてりゃこんな嬉しい事もある」
ベッドの上に転がる札束。上には上がいるが三角形の底辺にいた男からすれば大金も大金。夫婦や仲間の事も忘れ何に使うかしか男の頭には無かった。
男は自分の体をまじまじと見、そして一つ思いついた。
「女を呼ぼう」
男はこれまでに女性と付き合った経験も無ければ、きちんと女性を抱いた事が無かった。一度職場の先輩の計らいで部屋に譲を呼んでもらった時がある。その時は初めてで緊張と興奮が高まり過ぎた結果、1分と経たずに達してしまい、恥ずかしさゆえに以降呼ばなかった。
しかし今は金がある。そう……金ならあるのだ。
男は早速譲を呼んだ。
「……天国ってのはこの事を言うんだろうな」
「何急に。そんなに良かった? あなたロマンチストなの? 可愛い」
ベッドの上で裸になり、横になった男はこんな素晴らしい体験があったのかと、一時間前からの情事をつい思い返していた。この譲の手練手管の尽くし方が上手かったのはあるが、男は長年行為に及おらず土方で培われた体力によって納め切ったのである。
「なあ、あと一回」
「何言ってるの、もう時間だし、この後予定があるの。また呼んでくれたらサービスしてあげてもいいわよ」
女は軽く頬にキスをしてホテルを後にした。残された男は未だ悶々と振り返り、まだしたりないと思っていた。店に行く方が手っ取り早いかもしれないが、市街地まで行かねばそういった店が無い。男はまた電話を掛けた。
そして朝になるまで譲を呼び続けたのである。
目覚めたのはチェックアウト直前で、もうこの時期らしい寒空の色がカーテンの隙間から顔を覗かせていた。男は大きく伸びをし、カーテンを勢いよく開くと外の景色を眺めた。
充足感が男を満たしていた。衣食住に困らず、金があり、女を買え、まだシュトーレンも数枚残っている。男は服を着てバッグに金とシュトーレンを詰め込むとホテルを出て、市街地を目指した。
目的は女を抱く事だった。
「おーい!」
遠くから男を呼び止めたのは仲間の一人だ。悪い足を引きずるように男の方へ駆けて来る。
市街地に行くにはバスに乗るか、歩くには遠い距離にある市電に乗る必要があり、仲間の一人はその市電の駅付近を捜索していた。足が悪いからすぐに休めるのもあるが、市街地に乗り継ぎ無しで行けるのは市電のみだからだ。
男は仲間が歩く様を見て何故か妙な不快感を覚えた。
「いやぁ随分探したぞ、一体全体どこにいたんだ心配したんだぞ。ええ? まあ元気そうで何よりだが……ってその服どうした? 買ったのか」
男は返事をせず繫々と仲間を見、自分の首から下を見て、不快感の原因が目の前にいる仲間の風体にあるのだと気付いた。折角手に入れた筈の家にあり、未だ悪臭漂う服を着て何食わぬ顔で外を歩いている。いや、最悪服装はいいとしよう。手に持っているビニールの中には空き缶が山の様に入っており、それがボランティアで回収した缶でないのは一目瞭然だった。
なんてみずぼらしいのだろうか。
自分もずっと他人からこう見えていて、今後ずっとこのままだったのだろうか。想像すると鳥肌が立つほど恐ろしい。
「まあそこで買いましたよ。俺はこれから街に出ます。恐らく帰って来る事は無いでしょう。今までお世話になりました。少ないですけど、これ」
男はバッグから適当に金を掴むと仲間に渡して駅に向かう。
後ろから何度も声を掛けられても無視を決め込み、丁度やって来た電車に乗り込んだ。金の無い仲間は改札前で立ち往生し大声で男を呼ぶが、電車はその声を掻き消して発車する。
男の頭には金と女、願いを何にするかしか残っていなかった。
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