第三夜【欲】
自分の叫び声で目が覚める事は初めてであった。バタバタと仲間がやって来て大丈夫かと口にしたが、落ち着いたのは彼等のお陰ではなく、目の前に広がる綺麗なカーテンに差す朝日と雨風を凌ぐ壁、それに無機質でない天井のお陰だった。このシーツの綺麗さや壁の有難みを知ってしまえば最後、もうあの橋の下には戻れない。是が非でも手放せなくなってしまったのである。
呼吸を整え階下に向かうと既に三人が集まっており、加えて例の役場の彼が来ていた。今後の事について説明をしてくれるのだと言う。
大まかには昨日渡された資料と同じであったが、生活保護とも違う所が幾つかあった。それは金銭に関する項目である。
「今まで通りに空き缶を収集して換金するのは今後ご法度になります。その他公園での水浴び等も禁止です。そういった行為を見かけた場合は一回目は警告、二回目でアウトということで、この家から退去してもらいますのでご注意ください。しかしそれでは収入が全くない状態になってしまい、今までよりもより困窮してしまいますので、代替案としてですが、ボランティア活動に参加してもらおうかと思っています。内容は多岐に渡りますが、主に清掃や道路整備だとか、ゆくゆく認められていけば登下校の見守りだとか、そういう事をして貰いたいです。正直な所その段階に行くにはかなりの実績が必要ですし、皆さんの努力が必要不可欠です。社会に戻りたい、貢献したい。そういう気持ちが必要です。そしてその対価として、規定の金銭をお支払いします。恐らく銀行口座をお持ちでないかと思いますので、私か役場の誰か、あるいは現場にいる誰かからお渡しします。金額についてはここの家賃でしたり光熱費でしたりを役場が負担しているものですから、最低賃金よりも低い物にはなりますが」
様々説明されたがどれもこれも願ったり叶ったりの条件でしかない。もう仲間はそれだけで歓喜の涙を流してさえいる。男もそうしたい所だったが、一本の電話がそれを止めた。
「はいもしもしお疲れ様です……はい……はい? ええ、いらっしゃいますけど……ええ、はい、ええ……え? ご親戚の方が、はあ……ええ……えっ? ちょっと確認してすぐ折り返します」
困惑した様子の彼が男を見て言った。
「以前養子に入られてましたか?」
「ええ、十代の頃ですが」
「そうですか。その件で少しお話がありまして、あちらの部屋でお聞きしてもよろしいですか」
奥の部屋に移動し扉を閉めると、神妙な面持ちで男に問うた。
「今でもお二人の事を覚えていらっしゃいますか?」
「そうですね、まあ数少ない優しい人でしたよ。人格者というか」
「成程……実は先程の電話がそのご夫婦に関しての電話でして、お亡くなりになられたそうです」
唐突過ぎる報告に男は言葉を失った。もう長い事連絡を取っていないとは言えども、育ての親とも言うべき人物が死んだと聞くのは衝撃が大きい。男の人生において唯一心から親切にされ、愛を持って接してくれた人物だと言える。その夫婦の死因は交通事故と言われ、巻き込み事故だったという。
だが、その衝撃を吹き飛ばす程の衝撃が男を待っていた。
「そのご夫婦があなた宛てに遺産を残してくださっていたようで」
「い、遺産……ですか」
「具体的な内容は聞いていませんが、遺書が残っていたそうです。原本をお渡しする手続き等ありますので、これから私と一緒に役場まで同行してもらえますか?」
役場に付くと弁護士が待つ部屋に通され、そこで淡々と説明を受ける男。内容を覚えているかは定かではない。
夫婦の死亡も遺産の譲り先が男になっていた事も、男の事を心配し後悔している旨もあったが頭の片隅に置いてしまうしかない情報が遺書に書いてあった。
【高輪にある土地を譲る】
会社が倒産し転居した後に再就職、その会社の業績が伸びたのを機に購入した様だったが、この土地が男の人生を更に大きく変える事となる。
「高輪って東京の高輪?」
「その様です。こちらの資料をご覧ください。10年程前ご夫婦が購入された土地ですが、現在はご夫婦が住まれていた一軒屋が建っています。土地の広さが約80平米。坪で言えば24坪になります」
土方だった経験からパッと広さを想像し、当時流行りだった建築様式で思い浮かべる男。実際には高級住宅であり想像したものとは違うが、その建屋がまた土地の価値を上げた。
「高輪も箇所箇所で違いますが、昨年の平均が凡そ坪単価360万。単純計算で今相続された土地は8640万円の価値がある事になります」
開いた口が塞がらないとは正にこの事だろう。たった一日で今まで稼いだ額の何倍もの金を手に入れたのである。
結論から言えばこの土地と家屋を売却を決めた訳だが、相続税や所得税などを考慮したとしても、男の年齢からすれば質素な生活を送ればもう働かずに済む金額だった。すぐさま銀行口座を作り、入金された。勿論それだけの金を持てばあの家に住む必要性は無くなるし、自立して生きていく事は本来難しくない。故に
ホームレスから生活が一変する。
普通に考えれば事務手続きも銀行への振り込みもかなりの時間が掛かるはずである。それがお役所仕事だと誰もが知っている。それが何の待ち時間も無く事が進んでしまった。
極めつけは大金である。今朝、起床してすぐに
「使いきれないぐらいの金が欲しい」
と願いながらシュトーレンを一切れ頬張っていたのだが、それがこんな形で叶うとは夢にも思わなかったのだ。何度通帳を確認しても八桁の数字が一番上に並んでおり、まごう事無き現実であると証明してくれている。
男は手が震えているのを見て恐怖を感じているのだと思ったが、実の所そうではなく、歓喜に打ち震えていた。今目の前に鏡があれば男の口角が上がっているのを確認出来ただろう。
男は通帳を大事に懐にしまうと、夜の闇へと消えた。
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