第二夜【脱却】
朝は夜明けと共に起床する。生活のリズムを整えているという高尚な物ではなく、夜暗くなると電気が目立ち言いがかりを付けられる為、遅くまで起きている事は少ない。そして睡眠時間だけは取れるので、川面に照り返した朝日が室内を明るくするとそのまま起床するのである。早く起床すると良い事もある。酔っ払いや若者が残したビールの空き缶や食べ残しといった物を拾得出来るからだ。上手く行けば昼飯を確保出来るし、金銭を発見する事もある。
だが今日は違った。昨夜が遅かったのもあり朝7時を過ぎても起きられず、今日は緩やかに過ごすのもありかと考えていた。
そうこうしている内に外が騒々しく、時に驚嘆の声を上げるのが耳に入った。もぞもぞと冷えた体を動かし布の隙間から顔を覗かせると、それに気付いた仲間の一人が動かし難い膝を懸命に曲げながら近付き、興奮を抑え切れぬ様子で言った。
「おい! 早く起きねえか! こりゃあぶったまげるぞ! 生きてりゃこんな嬉しい事もあんだなぁ……お天道様に感謝、いや、役人に感謝しなきゃなんねぇな!」
いまいち要領を得ず首を傾げたが、その言葉の真意はすぐに知れた。
住処から這い出すと日向にお馴染みの顔が立っているのが見え、目が合うと彼は気さくに手を上げた。
彼は役場の社会福祉課に勤める人間の内、唯一無二男等に対し社交的な態度を取ってくれる人物であった。ホームレスからすれば余りに多い実績故に割愛するが、彼のお陰でこの街のこの橋の下に居られると言っても過言では無いだろう。情報交換食事の融通その他諸々を手配してくれるのが彼だ。その彼がわざわざ足を運び朗らかに手を振る。それがどれだけ男等にとって歓喜すべき事実かは想像に難くない。
「早速本題なんですが、なんとですね、駅の北側なので少し遠いし何も無い所ではあるんですが、貴方達専用の住居を手配する事が出来ました。築年数だったり設備自体はそこそこ古いのであれですけど、キッチンもお風呂も付いてるちゃんとした家です。ご希望の方はそこに住む事が出来ます! っていうのを詳細に記したのがこちらです」
黒革の鞄からスラリと要綱を取り出し、男に見せた。男はそれを手に取り暫し眺め、言った。
「ちょっと分かんないとこがあんだけども……これ、何て読むんだ?」
「これは管轄(かんかつ)ですね。要は役場が家の所有権を持ってるので従って下さいね、違反があったり犯罪を犯すとすぐ罰せられますよって事がこのページには書いてあります。住むにあたって役場からの条件は5枚目に記載があります。また分からなければ何時でも聞いてください。あ、でもお電話とか持ってらっしゃらないかと思いますので、今日の午後4時と明日朝同じ時間に伺います。これからまた別の所に行っての説明と、再度現地の視察に行きますので悪しからず。何せ今朝急に決まったものですから」
口早に説明し彼は去って行った。残された仲間は不思議がりながらも心底喜んだ。この冬を、どんな病気に掛かろうとも行ける病院が無いこの街を、吹けば飛ぶような頼りない襤褸と段ボールの山を、漸く脱せられるのだから。初老の男は溢れる涙を抑えられずにいる。隣では小躍りをしている。
気持ちは十二分に察せられる。本当は男も喜びたい所だった。
勿論嬉しくない訳では無い。対岸で死んだ者を思えば近い将来自分がそうなってもおかしくはないからで、一刻も早くこの場を出るべきである。名残惜しさや愛着、戸惑いに不安は多いにある。役場からの条件というのも生活を立て直す為に書かれた物と言うよりは、家に拘束し、【市民】に安全と清潔を齎す物である。中には彼なりの精一杯の交渉があったのだろうと察する条件もあった。だから好意に甘えて転居するのはやぶさかではない。
しかし。しかしそう簡単に出来ない理由が、男の寝床にあった。
あのシュトーレンである。
偶然にしては余りにタイミングが良過ぎはしないか。俺が願ってからすぐに、可能そうな範囲で願いが叶っている気がする。それも2つもだ。あの白い老人……何と言っていたか。
「……願いを込めながら」
「あ? なんか言ったか?」
「いや、大丈夫だ。良いんじゃないか、これ断ったらこの先家に住むなんて夢のまた夢になっちまうしな」
「そうだな、そうだそうだ」
彼の再訪を待たずに役場へと出向き、この日の内に新居へと移動した。
新居は確かに駅の北側にあり人気が少なく、男等を囲っておくには申し分ない立地である。思惑に気付いているのは男だけだったが、実際問題として思惑にはまらなければならない状況であるのに変わりは無く、家に入る他取るべき道は無かった。
家は予想以上に新しい造りをしており、公営住宅を除けば男がこれまでに住んだどの家よりも奇麗と言えた。間取りも四人が住むには余りある広さを有している。あの橋の下からすれば十人は住んでも余りある。小さいながらに庭もあるなど信じられない。仲間もまた同じ胸中だろう。驚きに満ち満ちた表情で家中を見て回り役場の彼に感謝を述べ、そして男等は屋根のある素晴らしい住居を手にした。
まず男等がしたのは風呂に入る事だった。気の利いた物は用意されていなかったが、長年のホームレス生活で染み付いた垢や汚れを落とすには十分過ぎる代物であり、天にも昇る気持ち良さであった。普段は公園に備え付けてある水道を使用し夜中に体を洗うか、
若輩として最後に入浴した男は、しかし全身を包み込む温かさの中にあって別の事を考えていた。
あのシュトーレンをどう扱うか。本当に願いが叶うのならば次は何を願うべきか。そもそもが偶然の産物であり自分の勘違いなのかどうか。
永らく果てしない夢物語だと思われていた【食】と【住】がたかだか2日で叶い、まだあと数回の夢物語を叶えられる可能性がある。当人がそれに気付いているかは別として、ある種の欲が男の脳内を侵食し始めていた。
願えば叶う。
その事実が男の頭の中で幾度と無く反芻され、刻み込まれていく。
湯船から上がった男は思わず溜息を吐いた。
何故ならそこにあったのは、昨日と変わらず悪臭を放つ自身の服であり、それ以外に着替えが無かったからである。
ご飯があり家があるが、まだ自分達が人の体を成していないのだとまざまざと見せ付けられてしまったような、そんな気分になったのである。仲間も同様の気持ちだろう。
ーーーー明日の願いが決まった。
夜はまだ長いが新しい住居への移動と気疲れ、湯船の温かみにより急激に眠気が襲い、男達は眠りについた。
この家が夢でないと信じながら。
あるいは、更なる夢が叶うと信じながら。
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