神のシュトーレン
久賀池知明(くがちともあき)
第一夜【始まり】
その男はかくも不憫なる人生を送っていた。
学友恩師共に恵まれず、高校を出る事も叶わなかった。些細な食い違い嫉妬意味の無い苛め等々事由を挙げればキリが無いが、兎に角味方となる人物が皆無だった事が一番の要因であろう。
男が幼き頃、両親は詐欺に逢い多額の借金を背負った挙句に自殺。養護施設に引き取られるも施設長の度重なる虐待により人間不信となる。その後一時気の良い中年夫婦に引き取られるが、不況の煽りを受け勤めていた会社が倒産し、高校2年の夏に完全に独り身となる。
容姿は別段悪い訳では無かったが、かと言って特徴も無い平凡、中の下辺りであった。整えればそれなりに見えるであろうが心身への自信の無さから、この顔もコンプレックスの1つになっていたのは間違いない。
仕事は昼夜問わない土方の為に肉体は常に悲鳴を上げていた。六畳一間の公営団地に住み、テレビも無い。唯一の楽しみと言えば、土方の先輩がくれる仕事終わりのジュースと新聞くらいなもので、読み書きがあまり出来ないのが歯痒く、読める漢字と平仮名で穴が開く程読んだ。また新聞のテレビ欄裏にある四コマ漫画を切り抜き自作で本を作っていた。
その土方の仕事に役場のメスが入ったのが27の頃だった。
労働体制も然ることながら、税金関連に先輩らから新人に対する当たりの強さ、裏社会との癒着、そういった積み重ねが明るみとなり瞬く間に会社は消えた。
そして責任の一端を背負っていた男は、安い公営住宅すらも失い、30になる頃には所謂ホームレスに身を落とすこととなったのだった。
それから早数年。男は観測史上稀に見る寒冬に身を震わせていた。すぐ横でも同じ様に震える男達がいたが、彼等はかの男よりも三回り程歳が行っており、突き刺す寒さは骨を軋ませ身体機能を著しく低下させていた。男はまだ若さ故に健康を保てていたが、国内におけるインフルエンザの感染状況を鑑みるに、一度掛かってしまえば生命の危険すらあるだろう。実際に川の対岸に住まいを構えた50代らしきの男は、発汗による脱水と冷却により風前の灯であった。こちら側に住む男等は
「寒いから出てねェんだ」
と、思い込んでいた。
ホームレスは正しく助け合いこそが命であり、無関心を装えば自身へと返って来るとその誰もが知っている。だからこそもう少し雪が止めば様子を見に行かねばなと考えていた。
遅きに失したのだと知るのは、それから数日経って床と同じ温度となったその男を見た時であった。
対岸がこの寒空の如き空間になったのは師走の半ば。
男は一人公園のベンチに座り空を眺めていた。空には瑠璃色の体毛の美しい鳥が一羽、気持ち良さそうに飛んでいる。
男はふとその鳥を見て
「嗚呼、俺もあんな風に自由に何処へでも行ければ幸せだろうに」
そう思った。男は自分の姿を見た。埃が纏わりついた襤褸切れと穴の空いた靴。頑丈さが売りのGパンには幾つもの横線が入っている。手は乾燥や日頃のゴミ漁りのせいでヒビ割れていた。髭も伸び放題だった。鼻から吸い込む臭いは最早俺には分からない。
一体どこでどう間違えたのだろうか。両親に恵まれず保護施設では暴力を受け、高校を中退し流されてここにいる。俺を避ける様に周囲には誰もおらず、この空の虚しさと鳥の美しさを語る相手もおらぬ。
嗚呼、本当に一体どこで間違えたのだろうか。或いは、最初から産まれてこなければこうはならなかったとも言える。かと言って死を望むかと言われれば、その勇気はこの細々とした体の何処にも残っていない。タイミングを逃したと言えばそうなのかもしれないが、兎に角、只只死んでいないだけという状態なのだ。
男は大きく溜息を吐いた。
そろそろ小銭と空き缶を探しに行くとしよう。
顔を上げると目の前に一人の老人が立っていた。
髪も眉も髭も真っ白で綺麗に整えられている。
皺1つ無い丸襟の白シャツに青いボタン、ズボンもまた白であり、鼈甲柄の尖った革靴を履いていた。
見知った顔では無い。この辺りのホームレスではないし、小綺麗な見た目をしているが、この寒空の下寒く無いのかと思った。
何か用かと聞こうとすると、その老人は徐ろに手を前に突き出して制止した。
「時は無常に過ぎ行くのだ。無為に過ごしてはならない。荒波に揉まれ流されたとて、停滞を選んではならん。泳ぎ続ければ何時かは岸に辿りつこう。冬の次に春が来るが如く、或いは、置き忘れた木の実が何時か大木となり自らに恩恵を与えんが如く」
老人は男の目を見据え言うと、続いて銀の包みを何処からか取り出した。
「今日より一日につき一枚ずつ、願いを込めて食べよ」
「はぁ」
男はその包みを受け取り中を改めた。銀紙を拡げた途端、えも言われぬ芳ばしい香りが男の鼻を刺激した
中身は数枚に切られた洋菓子、シュトーレンだった。
シュトーレンをくれた理由を聞こうかと顔を上げるとそこにはもう老人の姿は無く、遠くの空に一羽の青い鳥が飛んでいた。
呆気に取られてポカンと口を開け、今し方起こった事について数瞬思考した。夢か幻でも見たのだろうか。しかし手の中に良き焼き色の付いた洋菓子が収まっており、夢でないのだとその重みと香りが訴えた。
男は思考を変更した。折角貰えたのだ。仲間にも渡して共に食べようではないか。その前に一切れ頂くとしよう。
「まぁこれでこの冬が凌げる訳が無いけどな」
言って齧り付いた。口の中には生地から香る濃いバターと、細か切られた彩り豊かなフルーツのハーモニーが瞬く間に広がっていった。
久しぶりの甘味である。至福という言葉では足りない程の時間が過ぎた。
口の中の水分が大分持っていかれてしまったが、あと一切れくらい食べても文句は言われないだろう。
そう思い二切れ目に手をつけようとした時、前方から2人の子供が歩いてくるのが目に入った。
2人は明らかに自分の元へと向かって歩いている。幾つか小言でも言われるのかもしれないが、大抵の悪口は慣れたものだ。土方の時には3Kだったが今は4K。
臭い、汚い、気持ち悪い、来るな。
あれこれ言われる前に消えてしまおう。嗚呼、消えろも入れて5Kだったか。
シュトーレンを包みベンチから立ち上がると、2人は速度を上げて俺を呼び止めた。
「あの、今日の夕方すぐそこの空き地で炊き出しをする事になって、良かったら来ませんか」
なんと図らずもご飯にあり付けてしまったのである。話を聞くとつい先程近所の自治会で急遽決定したらしく、子供達を走り回らせていると言う。それにその炊き出しは週に1、2回やると言うではないか。
災害時でも無いのにわざわざホームレスの為に? しかも子供を使って知らせて回る等寡聞にして聞かないが、男は大して疑問を持たずに仲間を連れ空き地へと出向いた。
多少の目線はあれど飯にあり付けるならばどうと言うことはないのだ。
男は温かいごった煮と白い米をお腹に詰め込み、子供等と近所の主婦、役場の人間に感謝を述べ橋の下へと帰宅した。
男は自身のみすぼらしい家を見て
「嗚呼、温かい食事で腹は満たされた。然しあの子供等はあれから温かい家に帰り風呂に入って汗を流し、温かい布団で寝るのだろうな。白い枕白いシーツ、幾度夢見て幾度諦めた事かもう覚えていない。いや……今はこの腹の温かみだけを考えて眠る事にしよう。久しぶりに米が食えただけでも有り難いのだから」
と思い、腹を摩った。すると日中に貰いまだ仲間に渡していない菓子の膨らみを思い出した。
もう仲間は寝ている。明日渡せば良いだろう。
時刻は夜の十二時を過ぎていた。
男は包みを開いて一口頬張り、襤褸切れに包まり眠りについた。
これから自身の身に次次起こる出来事等夢にも思わずに。
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