第4話

夏。

日差しが暑苦しいほどの晴天。

風もない。

耳をつんざくセミの鳴き声。

僕は汗を垂らしながらいつもの横断歩道で信号待ちをしていた。


あの人は今日も来ない。

そう思いながらもなんとなく左の方を見やる。


「あっ…。」


思わず漏れ出てしまった声。

目を見開く。

心臓がドクンドクンと脈打つ。

逸る呼吸。

あの人だと、必死に目が認識しようとする。


歩いてきている。

あの人が。

黒い髪とマスクをして顔が半分隠れているけれど黒い瞳が見える。

カツカツとヒールの高い靴音を鳴らしながら歩いてくる。

だけど。


(…違う。)


すれ違った瞬間、そう思った。

いい匂いがしない。

信号が青に変わり、僕は地面を見ながら歩きだす。


「おはこんちはぁ~ゆうき~」

「っ…!」


突然、横から僕のランドセルを軽く叩きながら遅れてきた友達の一人、まことが変な声を出しながら変なあいさつを交わしてくる。

いつもは聞こえてこないのに今日は聞こえる友達の声。

心臓がバクバクとまた悲鳴を上げている。


「お、お~…。」

「おはこんちは~!!」


変なあいさつが流行っているらしい。

平静を装いつつ、生返事をしたら反対側からもう一人の友達、涼真りょうまがセミの鳴き声などものともしない声であいさつをしてきた。


「おは、よう…。」


僕は恥ずかしくて普通にあいさつの言葉を返した。

まこと涼真りょうまは笑いながら僕の前を歩き出す。


学校に着くと、ものの数分でチャイムが鳴り、大量の紙を抱えた担任の先生とそれを手伝う日直の二人が教室に入ってきた。

忙しなく文字が印刷されたプリントが次々と配られる。

学校は夏休みに入ろうとしていた。


僕はこの長い休みが何より一番きらいだ。




***




夏休み。

お母さんが僕を見ている。

頭上に視線が降り注ぐのを感じて、僕はその「圧」に顔を上げられない。

視線だけを少し上げるとお母さんの片手にはビールと書かれた缶。

それに気付いたときにはもう片方の手が僕の頬を払っていた。


(ごめんなさい。)


声が出なくて頭の中でそうつぶやく。

なんでこんなことをするのかわからない。

でもきっと僕が悪いんだ。

次が来る、そう思って僕は手で頭を抱える。


(ごめんなさい、お母さん。)


そう声に出したいのに目線だけを向けてしまった。

お母さんの冷たい目がこちらを見ている。


「何、その目は…私の声なんてんだろうが!!!」


そう叫ぶとまた僕の頬を払う。

今度は力強く。


頬だけじゃなく、頭や体中。

何度も何度も。


泣きながら。

何度も何度も。


震えながら。

何度も何度も。


何度も何度も。

何度も何度も。

何度も、何度も、


何度も─。


気付いたら僕は冷たい床の上に寝転がっていた。

体中が痛い。

どれぐらい時間が経ったかわからないけれど、まだ痛みが残る体を引きずりながらなんとか窓を少し開けると涼しい風が僕の顔をやさしく撫でた。

陽はすっかり落ちていて夜の闇が目の前に広がっている。


あの人のことを考えていればやり過ごせていたのに、もう僕の中であやふやになってしまってうまく思い出せない。

激しく揺さぶられるあの熱い感情も叫びたくなるような衝動も今はない。


涙が静かに僕の頬を伝う。








金木犀のにおいがする。

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それが恋だと知るまでは 漣夏 @mai_kel_

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