第3話

春。

僕は小学四年生になった。

満開だった桜も今はもう散ってしまった。


いつもの朝。

いつもの道。

いつもの友達二人。

いつもの横断歩道。


あの人は今日もいない。


寒い冬が終わる頃にあの人は急に姿を消した。

最初は寝坊か風邪を引いたのかと思っていたけれど、あの人の姿を見なくなって、もう3か月が経とうとしていた。


風邪ではないことだけは僕でもわかる。

でも消えた理由はいくら考えても僕のこの小さな体ではわからなかった。


横断歩道を渡りながら喋る友達二人の声は今も聞こえない。




***




「市川くん。」


頭上でふわりと声がする。

誰かを呼んでいる声。

僕はこの声の主を知っている。


「市川ゆうきくん。」


市川ゆうき、僕の名前だ。

それは女の子の名前みたいで、正直僕は自分の名前があまり好きじゃない。

うつむいていた顔をゆっくりと上げる。

目の前にはやっぱり僕の担任の先生が眼鏡の奥で少し困ったように笑っていた。

もうとっくに下校時間が過ぎていたようだ。

心配そうな声で僕に話しかける。


「大丈夫?帰れる?」

「はい…。」

「市川くん、最近元気がないね?」


耳に髪の毛をかける仕草をしながら僕の顔を覗き込んでくる。

ガラス越しの焦げ茶色をした瞳が少し揺れながら僕の表情を探っている。


最近っていつのことだろう。

新任早々このクラスの担任になった先生は黙ったまま返事のない僕を見てまた困ったように笑う。

知り合って間もないこの先生によれば、いつかの僕は元気だったらしい。

僕は教室の窓から差し込む夕陽に照らされた少し草臥れたランドセルを背負うと先生さようなら、とだけ返して教室を後にした。


家に帰ったらお母さんが待っている。

僕の話なんか聞いてくれるはずがないけれど、ただそこに当たり前のように居る。

あの人と出会う前のいつもの日常。

お母さんが何か話している。

僕は目を閉じてあの人を思い浮かべる。

最近少しぼやけてきてる気がする。


きっと明日もあの人はいない。


そう思っているのにもしかしたら、と少しばかり期待が出てきていたのは数週間のうちだけだった。

はちきれんばかりに膨らんだ風船が空気を裂いて音を立てて割れそうな高揚感も今ではすっかりしぼんでしまった。


きっと明日もあの人はいない。


自分に言い聞かせるかのように頭の中で繰り返した。

何もない部屋で一人、気怠い全身を冷たい床に預けながら窓の外を眺める。

はぁ、と漏れ出るため息を一つ。

僕の心はまた空っぽなまま生温い日々を過ごした。

時間だけがゆっくりと、ただあの日の僕を残して確実に過ぎていく。


あの人にはもう会えない。

そんな気さえしていた。








もう夏草のにおいがする。

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