第2話
あの人と出会ったその日は何も手が付かなかった。
友達の声はもちろん、黒板の前に立つ先生の声さえも聞こえなかった。
黒い髪、マフラーで隠れていた顔、大きな黒い瞳、軽い靴音、白い吐息。
思い出せる限り、あの人を形作るすべてを脳裏に焼き付けようとしていた。
僕の中のあらゆる感情が今にも爆発しそうだ。
叫びたい。
僕に今までなかった「熱」が今も全身を駆け巡っている。
お昼の給食の時間がやってくる頃には一旦落ち着きを取り戻すが、まだ頭はぼーっとしている。
余韻に浸るとはまさにこのことなのだと僕は身を以て知った気がする。
(明日もあの人に会えるかな。)
家に帰ってきでも「明日」を考えるだけでまた熱を感じて、その日の夜は目をかたく閉じてもあの人を思い出すばかりで一向に眠れなかった。
そして次の日、本当に熱を出してしまった。
僕はそれからというもの、信号が変わるまでの約1分間がとても待ち遠しかった。
今か今かと息をのむ。
次の日もあの人は僕とすれ違った。
その次の日も。
またその次の日も。
しかし残念なことに学校が休みの日、同じ時間にあの横断歩道に行ってみたけれどあの人と会うことはなかった。
いつもはあっという間に終わる土曜日と日曜日がとても長く感じられた。
早く終わればいいのにと強く願った。
そして待ちに待った月曜日。
いつもの横断歩道が近付くにつれて脈打つ心臓の音にかき消され、すぐ隣にいる友達二人の会話ももう僕には聞こえない。
信号待ちで止まり、ランドセルをぎゅっと握り直してあの人が歩いてくる方に目を向ける。
呼吸がだんだんと逸っていくのを感じる。
(今日もあの人は来るかな?)
今まで周りの大人の女性や自分と同じぐらいの女の子を見てもこんな感情になったこと、ましてや一人の「人間」のことを朝から晩までずっと考えたこともなかった。
ただ、不思議な感覚に酔いしれている自分がいることだけはわかっていた。
今日も寒そうに小走りで歩いてくるあの人を見ると自然と心が踊った。
まだ寒い日は続いている。
白い息がまた一つ。
すれ違う瞬間、あのいい匂いがして一瞬ほっとすると同時に冷たい頬や手袋を忘れた手に熱が帯びていった。
友達が何かを話しかけてくれているのもそのままに─。
(明日は話しかけようかな?)
(何を話せばいいのかな?)
(でも変に思われるはイヤだな。)
横断歩道を渡りながら、心の中でひたすら自問自答を繰り返す。
しかしいつもすれ違う瞬間になると、僕の頭の中は空っぽになる。
話しかけようとした言葉も忘れ、いい匂いに包まれながらただただあの人を目で追っている。
そして今日も学校が始まる。
あの人がどこから来てどこへ向かうかなんて僕には考える余裕はなかった。
ただ今日も会えたという事実だけが今の僕を満たしていた。
あの人が突然いなくなるまでは。
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