それが恋だと知るまでは

漣夏

第1話

「何か食べたいものはある?」

心地よい穏やかさの中に少し冷たさをも感じる声が僕に降った。


前日、大雨だった空とは打って変わって、これでもかと日差しが降り注ぐ正午。

3月にしては気温も高く、少し汗ばむぐらいだ。

天気だけではなく、半袖でもいいと思えるほど体中から発する熱さを僕は一人感じている。


「え、えっと、おねーさん、は…?」


ファミレスに僕と年上の女性がテーブル席に向かい合って座っている。

急に話しかけられてしどろもどろになりながら、目の前の名前も知らない女性に一度も目も合わせられないままたどたどしく僕は聞いてみた。

この状況に舞い上がっている高揚感ととてつもない緊張感とで、感情がジェットコースターのように揺さぶられている。

普段なら目を輝かせて窺うメニュー表も今は全然頭に入って来ない。

眼だけがぎょろぎょろと文字だけを追っている。


「ふふふっ…じゃあハンバーグにしようかな。」


そんな僕を見て少し笑い、僕が好きなハンバーグをその人は選んだ。


「僕も、それでっ…。」


語尾が小さくなる。

ふいに顔を上げると大きな黒い瞳と目が合い、見られていた恥ずかしさがさらに僕を襲った。

ずっと心が浮足立っている僕とは裏腹に店内は冷え切った氷のようにとても静かだった。

店員さんを呼び、手慣れた対応で注文を終え、再び訪れる静寂。

僕は置かれた水を一口飲んで心を落ち着かせる。


ここに至るまでとても長い年月が経った。

─僕にとっては、だが。




2年前の冬。

僕はまだ小学三年生。

その人は僕の世界に突然現れた。


朝、学校に向かう途中のいつもの横断歩道で信号が変わるのを友達二人と待っていた。

大きな道路を挟んでるため、この信号待ちがなかなか長い。


「昨日のあのアニメ見た?すっげーおもしろかったよなぁ!!」

「見た見た!主人公もかっけーよな!!」


二人がアニメの話で盛り上がっているすぐ横で、僕はふと左から歩いてくる女性に目をやった。

濃紺の長いコートに首に巻き付けたマフラーに顔の半分をうずめ、コツコツと軽い靴音を鳴らしながら寒そうに歩いてくる。

急いでいるのか少し小走り気味でだんだんとこちらへ近付いてくる。

今まで何人もの人とすれ違ったのにどうしてか、僕はその人から目が離せない。

靴音が耳に響いてくる。

はぁ、と漏れる白い息。

声が届く距離で黒い瞳が僕を捉える。

視線が外れ、すれ違うその瞬間、

とてもいい匂いがした。


それが始まりだった。


そう、

何気ない、

始まりだった。


信号はとっくに青だというのに、僕はそのまま友達に声を掛けられるまで身動き一つできなかった。


信号を渡りながら逸る心臓の音。

汗ばむ掌でランドセルを握りしめる。

そして最後にごくりと喉を鳴らして後ろを振り返り、白い息を一つ。




あの人はもう見えなくなっていた。

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