03

「ぼくが生まれたとき、ふたりはこの家で暮らすことにしたんだって。隣の街には国王様が住んでいるお城があってこの村よりも賑わっているから、その頃は音楽の仕事がまだたくさんあったみたいだ。しばらくしてルーナが生まれた。貧乏だったけれど、父さんが楽器を演奏してくれて、母さんがそれにあわせてうたってくれるだけでぼくたちは楽しかった。ふたりが演奏すると、街を歩いているひとたちもみんな笑顔になった。それが、ぼくも誇らしかった」


 ヴォーグンドーは自分にあてがわれた寝室を思い出していた。壁には等間隔に、何本か鉤のようなものが打たれていた。そうか、あれは楽器を壁にかけておくためのものだったのかと、ヴォーグンドーは気づいた。肝心の楽器は、どこにも見当たらなかったけれど。


「演奏することが重罪になるとおふれが出たとき、父さんと母さんは仕事ができなくなった。でもふたりはお金が稼げなくなることより、音楽がこの国から無くなってしまうことを嘆いていたよ。『こんなのおかしい。音楽は国を、ひとを、心を豊かにするために必要なものなんだ』ってずっと言ってた。だから、ふたりは王様に抗議するために、街中で音楽を演奏し続けたんだ。ほかの楽師たちも、みんな参加した。けれど……」


 フィンの目に、みるみるうちに涙がたまっていく。ヴォーグンドーはそっとフィンの肩に手を置いた。


「ある日、ふたりはいきなり警備隊に連れて行かれてしまった。大事にしていた楽器も、見せしめのために壊された。楽譜も、街のなかで燃やされてしまった。ぼくは怖くて、何もできなかった。ルーナを抱きしめながら、父さんと母さんが連れて行かれるのを隠れて見てることしかできなかった。その日からなんだ、ルーナが口をきけなくなったのは……」


 幼いふたりは、目の前で愛する両親を連れて行かれてしまった。それはいったい、どれほどの哀しみだっただろうか。考えただけで、ヴォーグンドーの胸は痛んだ。さっきヴォーグンドーが握りしめたフィンのちいさな手には、ささくれた細かな傷がたくさんあった。フィンはこの手で、愛する両親に代わり、誰にも頼らずに自分と傷ついた幼い妹を養ってきたのだ。両親と音楽と妹の声を国に奪われてから、ずっと、独りで。


「フィンは」


 ヴォーグンドーは酷だとわかりながら、尋ねずにはいられなかった。


「フィンは、音楽が好きか?」


 フィンはためらうように、でもしっかりと頷いた。


「好きだよ、大好きだ。音楽を奏でる父さんと母さんは、いつも楽しそうだったから。ぼくらにもたくさん、いろんな曲を聴かせてくれた。眠れない夜には、母さんがベッドのそばでいつも唄をうたってくれた。悲しい日には、父さんが優しい曲を奏でて慰めてくれた。ルーナは、その曲にあわせてうたったり踊ったりしていた。いまより、うんと笑ってた。音楽は、いつだってぼくら家族のそばにあったんだ」


 ヴォーグンドーはフィンの隣に移動して、彼の丸まってちいさくなった肩を抱きしめてやった。このちいさく痩せた肩に、この少年はこんなに多くのものを背負ってしまっていたのか。ヴォーグンドーはしばらくそうしていた。フィンもされるがまま、ヴォーグンドーの古びた旅服に顔を埋めていた。


 ヴォーグンドーはつぶやいた。


「いっしょに、この国を出ないか」


 フィンは驚いて顔をあげたが、すぐに力ない声で「無理だよ」と目を伏せた。


「ルーナはまだちいさいし、この国を出てふたりでどうやって生きていったらいいの?」


 フィンの声は震えている。その震えを止めてやろうと、ヴォーグンドーはフィンの両肩をぐっと握りしめる。


「フィン、きみには唄がある。さっきの子守唄を聴いただけでわかる。きみの声はすばらしい。そんじょそこらのうたい手とは違う、強くやさしい唄声だ。裕福になるのは難しいかもしれないけれど、きみが唄をうたえばルーナとふたりで生きていけるくらいのお金は稼げるはずだ。なんなら、おれの国にいる知り合いの楽団にきみを紹介してやってもいい。この国に埋もれているにはもったいない。あとはきみがどうするか、だ」


 ヴォーグンドーの翠灰色のまっすぐな視線に耐えきれず、フィンは何も言わずに目を逸らした。フィンの唇はかたく閉じたままだ。それがヴォーグンドーへの答えだったし、彼自身もそれをわかっていた。ヴォーグンドーはフィンの肩を掴んでいた手を離し、コップに入った水をぐいと一気に飲み干す。椅子から立ち上がり、「悪かった。忘れてくれ」とフィンの肩をぽんと軽く叩いてから寝室に戻っていった。フィンはヴォーグンドーの寝室の扉が閉まる音を聞きながら、肩に残ったヴォーグンドーの手のひらの熱を感じていた。



 朝の白んだ陽光と鳥の鳴き声で、フィンは目を覚ました。あくびをしながら厨にむかうと、ヴォーグンドーはもう起きて旅装を整え終わっていた。フィンがあわててルーナをゆすって起こすと、ルーナは目をこすりながら寝室から出てくる。もう行っちゃうの、と言いかけて、フィンは口をつぐむ。ヴォーグンドーは旅の楽師だ。音楽を奏でられないこの国に、もう用はないだろう。そして自分も、ヴォーグンドーの申し出を断ったのだ。ヴォーグンドーがこの国に留まる理由は何もなかった。


「ありがとう。フィン、ルーナ。この一宿一飯の恩は忘れないよ」


 目の前にさしだされたヴォーグンドーのおおきな手を、フィンは握り返した。彼の指先と手のひらには、硬いマメがいくつも並んでいた。よく使いこまれた、楽器を弾くためだけの手だ。フィンは父親のおおきな手を思い出した。ヴォーグンドーは次に、ルーナの頭を優しく撫でる。ルーナは気持ちよさそうに目を細め、すこし照れた笑顔を見せた。


 ヴォーグンドーは楽器と荷を背負い、兄妹の家を出た。家の前の道を行けば、森を抜けて国境まで行ける。その背中を、フィンとルーナは家の前に立ち尽くしたまま見つめていた。そのうち、豆粒のようになったヴォーグンドーの後ろ姿は森のなかへと消えていった。フィンはきのうの夜のことを忘れようと思った。


「さあ、ルーナ。朝ごはんにしよう。パンはもうないけど、きのうの残りのスープを食べよう」


 家の裏の甕で顔を洗っておいで、とフィンは努めて明るい声を出す。しかし、フィンが家に戻ろうとしても、ルーナはそのまま家の前の道に立ち尽くしたままだった。ヴォーグンドーが歩いていった道の先を、その双眸で見つめていた。フィンが「ルーナ」ともういちど声をかけようとした、そのときだった。


 夜明けどきの冷えた風にのって聴こえてきたのは、唄声だった。ほのかに震える、でも芯のある旋律。それはいまにも消えてしまいそうな光でもあり、いまから咲こうとしている道端の草花のようでもあった。二年の月日が経っていても、忘れはしない。ルーナの唄声だった。



 あなたの横顔 しずかな寝息

 明日も あなたの笑顔が 咲きますように


 わたしのかわいい いとしい我が子

 明日も あなたの笑顔が 咲きますように



 こらえきれず、フィンの頬に涙がひとすじ流れた。それはとても、とても美しい唄だった。涙が止まらない。からだの奥底から熱いなにかが湧きあがって、肌があわだつ。ルーナ、ルーナ。フィンはルーナを後ろから抱きしめた。彼女のちいさな肩は朝の空気を深く、深く吸っている。フィンはそのまま耳を澄ましていた。いつまでも聴いていたい唄声だった。


「ルーナ。行くかい? ヴォーグンドーといっしょに。この国を出て、ぼくと、音楽と生きていきたいかい?」


 ルーナは自身の首にまわされた兄の腕のなかで頷いた。フィンはルーナをさらに強く抱きしめる。温かい。ルーナもそれに応えるように、フィンのよく日に焼けた細い腕をぎゅっと握りしめた。それで十分だった。


「ヴォーグンドーを呼んでくるよ。ルーナは家で待っていて」


 フィンは手のひらで涙を拭ってから、ヴォーグンドーを追いかけて走り出した。爽やかな風がフィンのわきを吹き抜けていく。森のむこうから、溶けた鉄のようにあかい太陽が顔を出し、兄妹の涙に濡れた頬を照らしはじめた。




   了

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美しい唄 高村 芳 @yo4_taka6ra

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