02

「やめて!」


 ガタン、と椅子がおおきな音を立てて倒れた。ヴォーグンドーが驚いた拍子に糸のうえで踊っていた手は止まり、旋律がそこで途切れた。立ちあがったフィンの目は恐れに満ちている。ルーナは怯えるように背中を丸め、うつむいている。


「楽器を弾くのをやめて。やめないなら、いますぐにこの家から出ていってくれ」


 フィンの真剣な表情に、ヴォーグンドーは何も言えなかった。フィンはしずかに腰をおろし、拳を握りしめながらつぶやいた。


「駄目なんだ」

「駄目?」

「この国じゃ、音楽を奏でることは禁じられている。重罪なんだ」

「重罪だって? 演奏することが? どうして。だってこの国は、音楽の国なんだろう?」


 この国は音楽がさかんなのだと聞いて来たんだが、とヴォーグンドーは言った。ヴォーグンドーから、フィンの拳が震えているのが見えた。


「そうだよ。この国には音楽が溢れていた。国王様も、街のひとも、音楽が大好きだった。二年前までは」

「二年前?」

「この国が誕生してから節目の年だった。国王様がいろんな国から楽団を呼んで祭を開いたんだ。それはおおきな祭で、たくさんのひとと楽団が集まった。国王様の前で、いろんな楽団が演奏した。ぼくらも街に出て聴いてたけど、すごく楽しかった。なのに……」


 壁にかけたろうそくの火がしずかにゆらめいている。ルーナから、ちいさく鼻をすする音が聞こえてきた。


「楽団のなかに隣国から来た悪い奴がいたんだ。近くで演奏しているときに、国王様に斬りかかって殺そうとした。警備隊がなんとか防いだけど、国王様は怪我をした。幸い大事には至らなかったけど、国王様はそれから音楽のことが嫌いになってしまったんだ。音楽を聴くと夜も眠れなくなって、『音楽を奏でる者は国に仇なす罪人とする』とおふれが出た。大人たちはみんな『国王様は狂ってしまった』って陰で言ってたよ。その日から、音楽は罪になってしまった。音楽を演奏したことが警備隊に知られたら、どこかへ連れて行かれて二度と帰って来られなくなったんだ」


 フィンは食器を片付けはじめた。これ以上話すことはないと背中が言っている。ヴォーグンドーは「ごめん」とだけ謝り、おとなしく楽器に布を巻きはじめた。ルーナはうつむいたまま、別の部屋に駆けこんでいってしまった。厨には静寂だけが残っていた。



 窓からさしこむ月光で、ヴォーグンドーは浅い眠りから引き戻された。深夜の森からは、聞きなれない動物の遠吠えが聞こえる。顔を右手でひと撫ですると、額にじっとりと汗をかいていた。肺を膨らませるようにおおきく深呼吸してから、ヴォーグンドーはベッドから降りた。


 あれからフィンに家を追い出されることはなかったが、兄妹はよそよそしくなってしまった。国情を知らなかったとはいえ、ヴォーグンドーは助けてくれたやさしい兄妹を哀しませてしまったことを後悔していた。彼らからすれば、おれは音楽を奏でた罪人。警備隊に通報されず、見逃されただけよかったのかもしれない。明日になったら早々にこの家を出ようと考えたヴォーグンドーは、夕食のあと荷を簡単にまとめてさっさと床についた。兄妹とのわだかまりが残ったまま寝ようとしたからか、シーツにくるまってもなかなか深い眠りは訪れない。ヴォーグンドーは外の空気を吸うために部屋を出ることにした。


 寝室の扉を開けた瞬間、ヴォーグンドーは息を潜めた。どこからか、声が聞こえてきたからだ。動物の鳴き声ではない、人間のちいさな声。ヴォーグンドーは驚いた。その声は、かすかに旋律をともなっていたからだ。夕食後にルーナが駆けこんだ部屋から聞こえてくる。そこは兄妹の寝室のようだった。ヴォーグンドーは足音を立てぬよう、わずかに開いている兄妹の寝室の扉の隙間から、部屋のなかをのぞいた。



 あなたの横顔 しずかな寝息

 明日も あなたの笑顔が 咲きますように



 それは子守唄だった。ベッドのなかでやすらかに寝息をたてるルーナのそばで、フィンがベッドの縁に腰かけながらうたっていた。夜のぬるい空気に消え入りそうな声だ。ヴォーグンドーは耳を澄ます。弱々しい唄声なのに、まるで母親の温かな手のひらで頬を撫でられているような気分になった。なんて繊細に空気を震わせるのだろう。これほどまでに心動かされる唄を、ヴォーグンドーは聴いたことがなかった。月明かりに照らされた兄妹の姿から目を離せなくなっていた。


 ヴォーグンドーが夢中になるあまり、無意識に一歩踏みこんだそのとき、床板がかすかに音をたてた。フィンはうたうのを止め、すばやく顔をあげて扉のほうに目をやる。扉の隙間からのぞくヴォーグンドーの姿に、フィンの顔がザッと青ざめた。ヴォーグンドーは寝息をたてているルーナを起こさぬよう、焦りの表情が浮かぶフィンのそばにゆっくりと歩みよる。


「おねがい、誰にも言わないで」


 ヴォーグンドーが声をかける前に、フィンはヴォーグンドーの服のすそを掴んでちいさな声で懇願した。フィンの手が震えているのが布越しに伝わってくる。「言わないさ」とヴォーグンドーは応えてから、フィンの目の前にしずかにひざまずいた。


「美しい唄だね」


 ヴォーグンドーはフィンの手を握り返し、膝にそっと置いてやった。その手に、しずくが一滴、ぽたりと落ちた。フィンの双眸から涙が流れていた。


「フィンがつくった唄なのか?」


 ヴォーグンドーがやさしく問うと、フィンはシャツの袖でぐいと顔を拭いながら首を左右にふった。


「父さんと母さんが、ぼくたちのためにつくってくれた子守唄なんだ」


 フィンとヴォーグンドーは、寝ているルーナを起こさぬようしずかに部屋を出て、厨のテーブルについた。フィンはコップに水を注ぎ、ヴォーグンドーと自分の前に置いてから椅子に腰を落ち着ける。鼻水をすすりながら、フィンは水をひとくち飲んだ。月明かりが窓から差しこんで、ろうそくの火は必要なかった。


「フィンとルーナの両親も楽師だったのか?」


 ヴォーグンドーは自分のことをフィンに話した。自国で楽師として生計をたてていたこと。唄をつくり、街でうたって金を稼ぐ日々だったこと。もっといろんな音楽に触れたい。いろんな曲をつくって、いろんな楽師に出会ってみたい。そう思い、音楽の国として有名だったこの国に旅をしながら遠路はるばるやってきたこと。こんな国情だとはまったく知らずに。フィンは落ち着いたのか、鼻声で答える。


「ぼくたちの父さんと母さんも、もとはこの国の生まれじゃなかったんだって。結婚してからふたりでこの国にやってきて、楽師としていろんな街を転々としていたらしい」


 夕食のとき、ヴォーグンドーにはフィンがしっかり者の兄に見えていたが、いまはとても幼く思えた。フィンは壁の吊り棚に目をやる。使い古された大人用の帽子がふたつ並んでいた。


「いろんな街の話をしてくれたよ。海の街に行って船のうえで演奏したこととか、見たこともないくらいおおきな動物の背にのりながら演奏したこととか」


 フィンはコップの中の水に映る自分の顔を見つめながら言葉をこぼす。ヴォーグンドーはしずかに耳を傾けていた。

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