美しい唄
高村 芳
01
青年が目を覚ましたのは、空が橙から紫に染まろうとしている頃だった。そのときフィンは、ちょうど夕食のスープを木匙ですくって味見をしていた。芋を粗くすりつぶし、すこしだけ塩を混ぜたものだ。できたてのスープをひとくちすすると、舌を火傷しそうになった。塩をけちっているから味は薄いが、まあいいだろう。そんなことを考えていると、シャツの裾がくいとひっぱられた。うしろを振り返ると、妹のルーナが立っている。彼女は
「もしかしてあのひと、起きた?」
フィンの問いに、ルーナはこくんと頷いた。フィンは火の始末をしてから、ルーナが指さした部屋へむかう。ルーナはそのうしろをついてきた。
窓際のベッドの上で、青年は上半身を起こしていた。物音に気づいてフィンを見た表情には、困惑の文字がはりついている。青年にとっては見知らぬ部屋で目を覚ましたのだから、無理もないだろう。フィンをおそるおそる見つめる青年の瞳は、この国では珍しい薄い翠灰色をしている。背中にかくれるルーナの肩を後ろ手で抱きしめながら、フィンは青年に声をかけた。
「だいじょうぶ?」
青年の顔には、ここはどこだ、おれはどうしたんだと書いてある。フィンは部屋に入り、床に落ちていた布を拾いあげた。水で濡らし、青年の額に置いていた布だった。きっと起きあがった拍子に落としてしまったのだろう。
「国境から森を抜けてきたんでしょ? 森から続いている道で倒れてたから、ぼくらの家まで背負って連れてきたんだ。ひどく顔色が悪かったし」
青年が身にまとっている異国の旅装らしき服は、ずいぶんと汚れていた。長く伸びた茶髪もボサボサで、飾り紐でなんとかまとめられてはいるものの、毛束がいくらかはみ出ている。脱がせてベッドのそばに置いておいたブーツにも傷が無数についているし、ところどころ穴があいてしまっている。きっと長いあいだ旅をしているのだろう。
フィンは、部屋の壁にかけていた手燭の短いろうそくに火をつけた。薄暗くなってきた部屋の壁に、青年とフィン、そしてルーナの三人の影がおおきく映し出される。
青年はなにか思い出したように、ベッド以外の家具が置かれていない部屋をきょろきょろと見回した。さきほどの戸惑いとは違い、なにか焦っているようにも見える。
「荷物なら、そこに置いたよ。倒れていたときも服は乱れてなかったし、荷の口もかたく縛られたままだったから、何も盗られてはいないと思う」
まあ、このあたりは田舎だから、物盗りなんてめったに出ないけど。またあとで荷物を確かめるといいよ、とフィンは付け加えた。青年はフィンが指さしたベッドの足元側の床をのぞきこんで、自分の荷が姿を変えずそこにあることにホッとしたようだった。青年がカサついてひびわれた唇をゆっくりと開く。
「助けてくれてありがとう。ここ何日かあまり食べてなかったのがよくなかったみたいだ。えっと……」
「ぼくはフィン。それと、妹のルーナ」
フィンはまだ背中にかくれたままのルーナを自分の前に押し出そうとしたが、ルーナは頑なに前に出ようとはせず、フィンのわきからじっと青年を見つめている。そのときはじめて、青年の表情が和らいだ気がした。
「ありがとう、フィン、ルーナ。おれの名前はヴォーグンドー。いろんな国を旅してまわってる」
言葉は通じるが、青年の名はやはりこの国の民のものではなかった。ヴォーグンドーはルーナと目が合い口元をほころばせたが、ルーナはフィンのシャツをちいさな拳でぎゅっと握りしめたままだ。
「フィン、この家に住んでいるのはきみたちだけかい?」
「そうだよ。ぼくたちはふたりで暮らしてる」
ヴォーグンドーはベッドから足を降ろし、幼いふたりとむきあった。フィンは十二、三歳くらいだろうか。短い癖毛によく焼けた小麦色の肌をしているが、シャツからのぞく鎖骨は浮き出ているし、頬もこけている。ルーナはフィンの胸あたりまでの背丈しかないから、六、七歳といったところか。フィンと同じ癖毛をふたつに結んでいる。彼女はフィンほど日に焼けてはいないが、同じように痩せていた。
「親はいないのか?」
「いない。昼間はぼくが村の地主さんの畑で働いてる。ルーナはまだちいさいし、口がきけないから」
ヴォーグンドーは「そうか」とだけ答えて、ルーナの声をまだ聞いていなかったことにそのとき気づいた。
フィンの稼ぎがいいものでないことは、閑散とした部屋のようすやフィンとルーナの身なりから、ヴォーグンドーの目にも明らかだった。フィンは気にしていなかった。地主の畑では朝から晩まで働かなければならないし、重いものを運んだりずっとかがみっぱなしで作業をしたりして決して楽な仕事ではないけれど、なんとかルーナとふたりで暮らせている。腹はすくけれど、たまに地主から余ったパンなどをわけてもらえるし、悪すぎる生活ではないのだ。街に出れば、道端で倒れている老人や幼子を見かける。短くなってしまったろうそくのように、いつ命の灯火が燃え尽きてしまうかわからないひとたちだ。この世界には、きっとぼくらより悪い生活を強いられているひとたちが大勢いるだろう。フィンはそう思うようにしていた。
「芋のスープができたんだ。食べられそう?」
ありがとう、とヴォーグンドーはブーツを履いてベッドから立ち上がった。ヴォーグンドーはフィンよりも頭ひとつ分背が高かった。ルーナはすこし慣れてきたのか、ふらつくヴォーグンドーを導くように、小走りで厨にむかった。
厨には芋のスープの温かな香りに満ちあふれていた。フィンはいつもは使っていない椅子の埃を手ではらってから、ヴォーグンドーにすすめた。そのあと、湯気があがるスープを順番に皿にとりわける。自分とルーナ以外の、三枚目の皿を棚から持ち出したのはいつぶりだろうか。ルーナは共用井戸から汲んでおいた水をコップに注いでヴォーグンドーの前に置いた。ありがとう、とヴォーグンドーが礼を言うと、ルーナは恥ずかしそうに自分の椅子に座る。ヴォーグンドーは喉が渇いていたのか、水をひといきにぐいと飲み干した。芋のスープと、籠に入ったちいさなパンが食卓に並べられる。フィンがテーブルにつくと、いつもより空気が温かい気がした。
「無理して食べなくていいからね、ヴォーグンドー」
フィンはヴォーグンドーがいつから食べていないのかわからないが、すきっ腹でたくさん食べると胃が驚いて吐いてしまうと聞いたことがあった。
「食べられそうだったらいただくよ」
フィンはパンをちぎり、スープに浸して口へ運ぶ。パンが古くなってしまっているから、そうしないと乾燥していて食べるのが大変だからだ。食べた瞬間、古くなった小麦の香りが鼻を抜け、舌の上にはじゅわっとしたスープの薄い甘みが広がった。いま食卓にだした分で、地主からわけてもらった余り物のパンは底をついてしまった。ヴォーグンドーはフィンの食事のようすを観察して、同じようにスープに浸したパンを口にする。ルーナは木匙でスープをすくいながら、横目でヴォーグンドーの食事を興味津々といったようすで見つめている。そのおかげで、木匙からスープがこぼれていってしまった。
ヴォーグンドーは最初、おそるおそる口をつけていたものの、胃が受け付けることがわかってからは勢いが止まらなかった。フィンが「ゆっくり食べなよ」とたしなめたが、兄妹が食べ終わる前に彼の皿は空になった。ふう、とヴォーグンドーは血色のよくなった顔で満足そうに息をつく。
「ごちそうさま。おいしかったよ、ありがとう」
おいしい、というヴォーグンドーの言葉がお世辞であることはわかっていたが、フィンは嬉しかった。誰かにお礼を言われるのは久しぶりのことだったから。おなかに入ったスープが、フィンの全身をやさしく温めてくれた。
「そうだ。ちょっと待っててくれ」
ヴォーグンドーは何か思いついたのか、さきほどよりもしっかりした足どりで寝室に引き返した。ルーナはヴォーグンドーに心を許しはじめたのか、頬を赤らめながらその動きをずっと目で追っている。ルーナの口から垂れたスープをフィンが布で拭ってやると、ヴォーグンドーが厨に戻ってきた。その手には、荷のなかでもいちばんおおきかった、布に巻かれた長細いものが握られている。
ヴォーグンドーが布をとると、兄妹がいままで見たことのない、奇妙なものが姿を現した。それは大人の腕ほどの長い木の棒の先に、動物の皮が張られた丸い木枠がついている。木枠の端から木の棒の端まで、三本の糸のようなものがぴんと渡してあった。ヴォーグンドーは椅子に腰かけ、片方の足首をもう片方の
「おいしい夕食のお礼に聴いてくれ」
ヴォーグンドーの指が軽やかに糸のうえを滑りはじめたそのとき、フィンの心臓がどくんと跳ねた。ヴォーグンドーの細い指が糸を爪弾くたび、ぽろろん、ぽろろんと音が鳴る。まるで湖に降りそそぐ雨のように、繊細でつつましやかな音だ。それらの音は心地よい拍子にのって、ときには長く、ときには短く、ときには一音で、ときには和音で奏でられる。音は川のせせらぎのようにゆるやかな流れにのって、兄妹の鼓膜をそっと震わせた。それは優しい曲だった。ルーナは焦茶の瞳を輝かせる。ちいさな肩を揺らし、その曲に聴き入っていた。音階がいちだんと高くなり、ゆるやかだった流れがおおきなうねりに姿を変えようとした、そのときだった。
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