付録 ラインハルト誕生日ショート

うつくしい世界

 私が生まれた極北では、誕生日というものはきちんと定まりません。

 太陽が一番高く昇り、たっぷりと時間をかけて沈むまでが白夜。一度沈むと長いこと極夜が続き、全てが凍てつききった頃に地平線が仄明るくなり、ゆっくりゆっくりと太陽が顔を出します。そうして再び白夜となって、天頂にたどり着くと、それで一年です。

 短命種の世界では一年の間にこの昼夜の繰り返しが何百回と行われ、それで日数を数えるそうです。私達も彼らと付き合う必要から、一日というものに合わせて動きますが、正直時計などが無い場合に体感で時の経過を知ることは困難です。

 ですから、私達が年を数えるのは決まって夏至。太陽が一番高く昇った時が一年の終わりであり、始まりでした。



「ラインハルトお兄ちゃんには、誕生日はないの?」


 ある冬、レオンの誕生日を祝いに来ていた彼の妹が、彼と同じ狐色の髪を揺らしながら、きょとんと首を傾げて私にそう尋ねました。

 彼女は短命種の、しかも確か、まだ十歳というおさなごです。

 無下に扱うとレオンに叱られるので、私は高圧的にならないよう注意して返答を探しました。


「……無いよ。今の暦とは全然違う世界で生まれたからね、照らし合わせることができないんだ。一年で日が昇るのも沈むのも一度きりなの。毎日が誕生日と言ってもいいかもしれない。」


「んー? でも、生まれる時ってその日だけだよね? 一年かけて生まれたわけじゃないよね?」


「生まれ落ちた瞬間という意味では、それはそうだけれど。」


「じゃあ誕生日がないわけじゃないんじゃない?」


「……とはいえ、私自身が覚えている筈もない。今となっては、分からないよ。」


 そろそろ良いだろうと、彼女の母親のリンに少し厳しい目をやりました。

 リンは、今はウェルと共に一人の短命種としての人生をやっているのですが、ララの状態に戻ったわけではなく、リン/ウェルと名乗り、魔法生命体で分身を作ってそれぞれ一つの体を操っています。

 ウェルの方はレオンに喜んで忠誠を誓い、リンの方は建前上、今も私の巫女ということになっています。

 レオンと私が袂を分かつことがある筈もないので、そこにこだわりはありません。

 しかし最近は、巫女をしていた頃の丁寧な物腰は鳴りを潜め、本来のリンのように私やレオンに対して不遜な態度を取るようになってきました。

 それをするなら短命種の体など捨ててしまえば良いと思うのですが、中々どうして母親という役割も楽しんでいるようです。

 私の視線を汲み取ったリンは少し肩を竦め、やんわりと娘を誘導して手を繋いで帰ってゆきました。


 誕生日を祝うという風習は、私達にはありませんでした。夏至の日、新年を祝う集いが、誕生日の代わりだったのだと思います。極北で生まれた子らは、長命種も混血種も等しくその扱いでした。

 だから、誕生日を祝ってもらうなら、夏至の日。

 カレンダーとやらに律儀に仲間達の誕生日を赤で書き加えているあの方に、ちょっとおねだりしてみるのも良いかもしれません。




「レオン。私の誕生日はいつかって聞かないのですね。」


 壁に掛けたカレンダーをめくり、来月の一日に赤丸をつけて風神の名前を嬉々として書いている主に声を掛けます。

 ……ちょっとタイミングが悪かったかもしれません。

 案の定、彼は目を泳がせて、少しバツの悪そうな顔でゆっくり私の方を向きました。


「……えーと。ラインハルト、自分の誕生日覚えてたのか?」


「ボケ老人みたいな扱いしないでもらえますか?」


「ごめん……でも前に皆の誕生日の話になった時、誕生日なにそれおいしいの? って顔してたから……」


 言われて、そういえば司教達がそんな話題で盛り上がっていたこともあったなと思い当たりました。

 まあ、あの時は誕生日というものそのものにピンと来ていなかったので仕方ないのですが。


「……ごめんなさい。誕生日という風習が無かったもので。本当は今でもよく分かっていないんです。

 ただ、今日のように、こうして毎年特別な日を設けて大切な人の生を祝う、というのが、思っていたより素敵だと感じるようになってきたので……私も……今更ですが、誕生日を頂いても良いですか?」


「良いよ。じゃ、今日にするか?」


「えっ!? だって今日は、レオンの誕生日じゃないですか!」


 思わぬ提案に驚き、少し顔を寄せてしまいました。

 しまった、と思います。

 親しき仲にも礼儀あり、と言うらしいのですが、レオンは普段はあまり私の接近が得意ではないのです。

 私が近付いていいのは、レオンが辛そうにしている時だけ。

 それでさえ、名を呼ばれないと確実ではありません。

 しかし今回は意外にも、真っ直ぐに私を見上げて何も気にしていない様子で首を傾げました。


「誕生日が欲しいって思った日が誕生日で良いだろ。それとも俺と同じ日だと困るか?」


 何だかとても嬉しいことを言われているような気がするのですが、舞い上がってはいけません。

 とりあえずこの近づいた距離を維持しようとその場に跪きました。

 目線が外れることでレオンに与える圧が弱まり、ついでに私も少しだけ、冷静になります。


「……ええ……困る、と思います。

 同じ日だというのは光栄ですが……今日という日はあなたのためだけの祝日であってほしい。

 ついでに私も祝ってもらおうなんて烏滸がましいと思います。」


「あー、まあ確かに、何かのついでに祝われるのはちょっと淋しいよな」


「そういう意味ではないんですよ。」


 いつもそうやって、思いやりから自覚なく無い腹を探りにこられる。困った方です。

 私は顔を上げてしっかり眉を寄せました。

 違うことは違う、とはっきり伝えないといけない相手だということは、前から……ずっと前から存じ上げておりますから。


「じゃあ、いつが良いとかあるのか?」


「そうですね。極北では、夏至が特別でした。極夜が明ける日は緯度によって安定しないので、太陽が一番高く昇る日が、一年の区切りだったのです。年齢を数えるのは、皆その日でした。」


「ああ、サンリアみたいな……」


 レオンが何気なくそう頷いてから、しまったという顔で私を見てきました。

 あの、ですね。

 私は何千歳も今のあなたより年上で。

 もう何千年も、ただあなたと共に生きたいと果てなき夢を抱いていて。

 それが叶った今更、あなたがどんな人間関係を築いていようと、何も心を乱されやしませんよ。

 ……だからそうやって、いちいち虎の尾を踏んだかと顔色を伺うようなこと、やめていただけませんか。

 表情筋ひとつ動かさずにいるのって、意外と難しいんですから。


「……サンリアの世界とか、俺の世界でも昔はそうだったみたいだから分かるぞ。じゃ、お前の誕生日は夏至の日な」


「ええ、そうしていただけると嬉しいです。……ところで、新暦だといつ頃になるのでしょう?」


「え? えーっと……六月?」


「結構間が空きますね。」


「まあ、四月も五月も誕生日の奴いるから……でも六月は誰もいないし、ちょうどいいかも」


「そうですか。では六月は、私がレオンを独り占めできるということですね。」


「誕生日にそんな特典ないけど!?」




 そして待ちに待った六月。フチーの計算によれば、夏至は今年は六月二十一日ということになるそうです。

 夏至の祝いは、私にとっては神々が一堂に会し一年の計を粛々と報告するものであり、十字塔の外での祭りはあまり馴染みがありませんでした。

 会合が早く終わった年は、主神様に連れられ外に出たこともありました。私達の顔も知らない、髪の色も様々な住民達から新年おめでとう、と声を掛けられる度に、この平和な笑顔を守っている主神様のことが誇らしかったのを、ぼんやりとですが覚えています。私に可愛げがあった頃、とでも言いましょうか……。

 今はもう、短命種には微塵も興味がありません。ヒトは庇護などしなくても勝手に蔓延る生き物です。レオンの前でそう言うと困った顔をされるので言いませんが。

 二年。たった二年ではありますが、少しずつレオンはこの世界に馴染み、私はレオンに馴染んできました。

 主神様と同じ魂を持つことは間違いないと思います。それでも、短命種のただの少年としてしか生きてこなかったらしいあの方が、突然夜明けの神と祀り上げられ、主神様は見せなかったような動揺や戸惑いを見せるのも仕方ありません。

 私はあの方に、主神様と同じ能力を期待してはおりませんし、むしろ神としての仕事などしなくて良いとすら思っております。しかし、ヌィワを破壊した一件にどうやらレオンも関わっていたらしく、真面目なあの方は生き残った民を守らなければならないと気負っているようなのです。

 そうであれば、私は全力であの方にお仕えし、主神代行として培った能力の全てをあの方のために発揮し、なるべくあの方の負担を取り除き、今度は健やかに心穏やかに治世を送れるように。そしてあわよくば余暇を私と共に過ごしていただけるように……。おそばで支えてみせようと決意したのでした。



 一週間前、共寝を許された幸せな朝。先に起きた私に、レオンが布団の中から声を掛けてきました。


「ラインハルトの誕生日だけど、誰呼びたい?」


「レオンと二人きりがいいです。」


「いつもと変わんなくね?」


「絶対誰にも邪魔されないと分かっている一日がほしいのです。」


「あー、そういうことかぁ……」


 くすり、と柔らかく微笑むレオン。彼の自然な笑みは、これが最大限です。もっと大きく笑おうとすると、わざとらしさが出てしまってうまくいきません。笑顔が下手なことに本人が気づいているかは分かりませんが。


「誰にも開けられない部屋で、一日二人きりなんていうのも良いですね。」


「セルシアは聞いてそうだけどな」


「そこは音の権能を使っていただいて……」


「でももっと、誕生日ってこう、特別なことしていいと思うんだよな」


「そうなんですか? 例えば?」


「例えば、どっか好きなとこに出かけたりとか……」


「好きなところ……」


 パッと思いついたのは極北ですが、あそこは故郷ではあるけれど別に好きというわけではありません。他に居心地が良いのは大樹の梢、王立図書館……大聖堂……くらいでしょうか。どれも、特別な印象はありません。


「……レオンの隣、ですかね……」


「ブレねえなぁ!

 ……んー、じゃあ俺が決めるってことでもいいか?」


「はい。レオンが決めたことなら歓迎です。」


「なんか、お前といると彼氏力が鍛えられる気がするよ……」


「褒められてるんですか?」


「あんまり?」


 その言い草には気分を害したので、私は急遽、今日をレオンの全身デッサンをする日に決めました。当然仕事なんかさせません。したければそのままの格好でどうぞ、と言うと、彼は何やら文句を言いながらも渋々長椅子に座ってくれました。

 絵が好きとか得意というわけではありません。ただ、忘れる筈がないと思っていた主神様のお顔でさえ、かつての私は忘れてしまっていました。レオンと接していて少しずつ思い出されてくる記憶は、もう本当にあったことなのか頭が捏造しているのかの判別がつきません。記憶というものがヒトと異なる精霊が、レオンと主神様は生き写しだと言うので、そうなのだろうなと思う程度です。

 だからこうして絵を描くことで、私はレオンのことをしっかり見て、覚えようと思うようになりました。

 ……まあ、今日のはただの口実なので、大して長続きもしなかったのですが。




「おはよ、ラインハルト。誕生日おめでとう」


 誕生日当日は、そんな優しい声掛けで目覚めました。さすがに夏至、もう陽射しが暖かく、世界が光で満ちています。

 その中に狐色の髪を明るく輝かせて微笑む少年を視認して、今この瞬間で時が永遠になれば良いと、他愛ないことを考えつつ。


「……おはようございます。不覚です……先に起きていたら服を隠しておいたのに……」


「ホントに一日ここから出ないつもりだったのか!?」


「冗談ですよ……ん……申し訳ありません。今、起きます。」


「ゆっくりしててもいいぞ。急ぐ予定じゃないし」


「いえ。私は二千年分寝足りていますので。」


「いっぱい寝られるのは若い証拠だって聞いたことあるな」


「……じゃあ、レオンはもっといっぱい寝ないと。ほら、こちらに。」


「俺は寝ないぞ!」


 そんな会話を交わしながら、なおざりになっていた寝間着を脱ぎ捨て、いつもの服に着替えます。ローブを被り、髪を外に出すと、レオンが寄ってきて私の肩に手を伸ばし、残った毛をローブから引っ張り出してくれました。


「ものすごく長いから、出したと思っても途中で残るんだなぁ」


「地神より短い頃もあったんですけどね。長い方がお好きだと昔、主神様がおっしゃったので……」


「んー、想像できねえな……確かに長いのは好きかも。しゅるしゅるで気持ちいいし」


「飽きたら切っても良いですよ。私自身は特にこだわりありませんから。」


「今はいいかな……ってそれより。準備できたなら、行こう」


 そう言って、レオンはラストリゾートを背負って私の手を取り、転移魔法を使いました。

 転移魔法は、旧世界では神聖魔法と呼ばれていた、極北発祥の精霊魔法です。ですから、今の体系で言えば魔術ということになるでしょうか。

 夢の精霊達の力を借りて、ここにいる私を、別の場所にいると騙す。自身を含めた世界を騙すことで、別の場所にいることの方が現実となる。確か、そういう仕組みだったと思います。

 神聖魔法には精霊と世界や神という枠組みに対する信仰心が必要になり、極北でも適性がありました。例えば武神なんかは自分では神聖魔法を使えないため、転移の際は魔法陣を使うか、他の神や神官に手伝ってもらっていました。

 レオンも最初は手こずっていましたが、リンや私と転移を繰り返すことでコツを掴んだのか、最近は割と自由に色々な場所を訪れています。まだ行ったことのない場所には転移できないものの、レオンならばいずれ可能となるでしょう。

 今日転移した先は玉犬達の居住区でした。その中で、ひときわ大きな金色のたてがみをもつ玉犬が、レオンに仕えることを選んだロロです。


「おはよ、ロロ。今日はラインハルトも一緒だ、よろしくな」


 くう、と鳴いて恭順の意を示すロロ。彼らは普段炎神の仕事を手伝っているのですが、それは彼らの自由意志であり、一頭が不在にしたからといって炎神が怒るわけでも困るわけでもないそうです。

 ロロは今のところ玉犬で唯一、有翼の狼の姿を取っています。炎の剣となってラストリゾートに取り込まれた彼の母親が同じ姿まで成長していたそうで、それに代わるシノの分霊体として着実に力をつけてきているのでしょう。


「どこに行くか、決まってるんですか?」


「決まってるし、ロロにも伝えてある。ラインハルトはビックリさせたいから内緒!」


 そう言ってレオンはロロの背に乗り、隣に私を座らせました。いくら巨大な狼とはいえ、羽ばたいている背中に横に並ぶと、ぴったりくっつかないと不安です。レオンの背中に手を回そうとしてラストリゾートに阻まれた私は、彼の膝を掴みました。その手の動きに気づいたのか、レオンの方から腰に手が回ってきました。初めてのことです。年甲斐もなくドキドキしてしまいます。


 暫く空中散歩を楽しんでいた私は、ロロの翼が大樹から離れていくことに気づきました。


「えっ、待ってください、この先は海ばかりで……」


「そーだよ、そんで、目的地だ!」


「いやっ、うわああぁ!?」


 突然急降下した私達は、ドボンと大きな音を立てて海に沈みました。

 ずぶ濡れになるのを覚悟しましたが、ロロも含めて私達の周りを風の幕が包み、大きな気泡のようになってそのまま潜ってゆきます。


「海の、中に……!」


「うん、よし、できたできた。圧力さえ気をつけておけば、きっと深くまで潜れるはずだ」


 レオンは隣で満足そうに見回しています。私もようやく落ち着いて、周囲を見る余裕が出てきました。


「水面が、あんな高さに……不思議な光の模様になっていますね。海の中って、意外と透明じゃないのですね……っわ、あの大きな影は?」


「ああ、大樹の根っこじゃないかな。ロロ、あっちに行ってみよう。生き物が見られるかもしれない」


 けれど、ロロは鼻を鳴らして翼を畳んで座り込んでしまいました。


「ロロ?」


『泡の中、空気の流れが変、飛びにくい。これ作ってるのレオンだから、レオンが動かせるはず。俺は、お役御免。空飛ぶ時また呼んで』


「えぇ? お前なぁ……」


 突然念話を送ってきたかと思うと勝手に主の胸元の宝玉に飛び込んでしまったロロに呆れた様子でレオンが声を掛けますが、返ってくるのは沈黙のみ。

 レオンは溜息をひとつつくと、諦めたように水流を操作して泡を動かしはじめました。


「ごめん、あんまり器用じゃないから、揺れるかも」


「大丈夫ですよ。精霊に手伝わせましょうか?」


「ん……せっかく二人きりになったんだから、別にこのままで良いんじゃないかな」


「レオン……!?」


 まさかあなたが、二人きりを積極的に肯定してくれるとは。

 私の思いの十分の一でも、あなたに伝わって、少しずつ私のために気持ちを返してくれようとしている。

 その思いやり、心遣い、優しさが本当に、本当に胸に沁みて、私は思わずレオンを抱き締めていました。


「……ええ、ええ、弁えておりますとも。あなたが私を好いてくださるのは、一人の同胞として……仲間、理解者、そのようなものとしてです。

 もう誰も死なないでほしい、一緒に生きてほしい、その願いのうちに私もたまたま含まれていただけ。

 それでも、私は構わないのです。あなたに一緒に生きてほしいと望まれることが、どれほど……」


 いや。

 言っても、伝わらないかもしれない。

 言い過ぎると、優しいあなたに負担を与えるかもしれない。

 私は、主神様への愛を、この少年に押し付けようとしている。

 二人は違う人生を送ってきた、別人だというのに。

 私を渇望していたあの方とは、違うというのに……。


「……。レオン。今日は私の我儘を聞いてくださって、ありがとうございます。

 明日からは、あなたのお役に立つラインハルトに戻ります。

 ですから、ご安心くださいね。我儘は、また来年まで封印しておきます。」


「? 何のことだ? 俺がお前を楽しませたいって思うのは、どっちかって言うと俺の我儘だろ。ほら、根っこが近づいてきた」



 そこには。

 地上では考えられないほど色とりどりの見たこともない生き物達の憩いの場となった大樹の巨大な根が横たわっていました。

 虹色の花畑のように水流の中で枝を振るもの。

 陽の光に透ける体で漂うもの。

 鱗を鮮やかに煌めかせる、大小様々な魚達。

 なんと形容して良いのかもわからない、滑らかな動きをする不定形のもの。

 星のような形の飾り。

 大きな葉のようなものに、すずなりに群生する、小さな卵のようなもの達。

 大樹に貼り付く石のようなもの。

 これら全て、大樹の根が海に沈んでからわずか二年足らずの間に、花開いた命達なのです。


「凄い……なんて、うつくしい……」


 私が息をするのも忘れてその光景に浸っていると、レオンがよしっと小さく拳を握りました。


「ラインハルトにうつくしいって言わせてやった」


「えっ、言ってましたか、私。」


「言ったぞ、ちゃんと聞いたぞ!

 お前が世界をうつくしいって言うの、初めてだな」


「だって、海の中なんて、初めてで……」


 そうか。

 そうなのですね。


 レオンは、私が再び世界を愛せるように。

 世界に絶望していた私を救うために。

 こんな簡単なことだったなんて。

 うつくしいと思えることが、

 こんなに嬉しいなんて。

 そうです、今日は。

 私の、誕生日。

 特別な日。

 生まれ直して。

 今度は、あなたと。

 今度は、間違えないで。

 今度は、幸せになるために。

 やり直すのに、ちょうどいい日。

 レオン、信じてくれて、ありがとう。

 あなたのいる世界なら、きっと愛せます。


「……誕生日おめでとう、ラインハルト」


「ありがとうございます……レオン、やっぱり私、あなたのことが大好きです。愛しています……お許しください……」


「えっ、え、泣くほど!?」


 レオンが動揺しているので、なんだか泣き笑いみたいになってしまいました。

 ……ええ、純粋な嬉し涙だと思い込んでくれればありがたいですね。

 私の……この涙は、幸せなど幻想だと言い切った、かつてのあなたに捧げます。


 幻想でも、良いではないですか。

 これほど幸せな夢なら、何度だって見ても良いではないですか。

 たとえ明日は絶望が待っているとしても、幸せな夢を見て一日一日を生き延びることの、何が間違っていたのですか。


 私は、生きました。

 何千年も、ただ息をするだけの日々を送りました。

 その報いが、これほど幸せな夢を再び見られることなのだとしたら。

 また何千年でも、生き延びてみせましょう。

 あなたに……あなた達に頂いた愛を抱いて。

 何度、あなた達に絶望させられたとしても。

 それでも世界は幸せで、うつくしいのだと。

 幸せな夢は、誰にも冒せない。冒させない。


 私にも、あなたにも、世界にも。

 二度と奪わせるものか。

 これが、私の生きる意味なのだ。


 怒りにも似た激情が私を包み、中々涙を止めることができませんでした。



「落ち着いたか?」


 涙もようやく止んで、うっとりと海の楽園を眺めていると、そう声を掛けられました。


「はい、お騒がせしました……。何年でもこうしていたい気持ちがあるんですが、そろそろ日も暮れてしまいますよね?」


「いや、まだそんな時間じゃないけど、冷えてきたし、何よりそろそろ酸素が足りなくなるかも……。もっと見たいなら一度上がっていいか?」


「はい、いえ、もう今日は十分です。自分でも潜る楽しみができました。今は……」


「暖まりたい?」


「そうですね……」


 本当は、暖なんて魔法で簡単に採れるんですが。

 そんな野暮なことは言わず、冷たい手と手を取り合って、私達は住処へと帰ったのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【BL】果ての地のうつくしい千年 千艸(ちぐさ) @e_chigusa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画