終章 夏の終わりに

 二人で上野夫妻を訪問した後、大友千賀雄は何度か本田佑子の住むアパートに電話をかけてきたらしい。だがいつもそれは佑子が外出しているときである。学生寮に電話すると電話口で待つのが長いので、佑子は二度ばかりかけたが千賀雄をつかまえられず、その後は試みていない。もっとも、カリフォルニア州の市内の電話料金は通話時間と関係なかったようである。映画でも公衆電話で延々と話し込んでいることがよくある。

 つまり、市内通話はどれだけ長く話しても通話時間と関係なく、かけた回数で課金されるので、長く話したほうが「得」なのかもしれない。でも相手が出るまで『黙って』待つというのは、電話料金が余分にかからないとしても、あまり楽しいことではない。

 結局、九月に新しい学年が始まり、第二週に大学のカフェテリアで会うまで、連絡は取れなかった。会ったとき千賀雄は新年度の秋学期にとろうと考えている授業のことを話し出す。千賀雄が専攻したいと思っているのは「ビジネス」ということはすでに述べた。

 それから千賀雄は佑子のことを尋ねてくる。やはり専攻するのは社会学かと訊くが、まだ分からないと佑子は答えている。どうも千賀雄は先を急ぐ癖があるらしい。しかし話すことに困って、というのもあるのかも知れない。

 というのも『千賀雄が佑子に電話をかけてきた』ことは、その時の話題にも上らなかったからである。「意識」してしまうと面と向かって誘うのはやはり難しい。結局そのまま、何も言わず・問わずに、次の機会へということになってしまう。

 さて、上野健蔵さんとのり子さん夫妻は元気で、変わりなく仏教会の日曜集会に出てくるという。あの訪問後、佑子は二人に会っていないし、したがってお礼を言う機会もない。千賀雄によれば、サクラメント仏教会は佑子の実家の寺と宗派が違う。そんなこともあって、仏教会に行ってみようとはなんとなく思わない。

 直接会ってお礼を言うべきだろうか――あまりそうとは思えないのである。それに日本人はよく『この間はどうも』とか言って振り返るが、アメリカの人は以前のことなど、あまり言わないようだ。とりあえず、かわりにお礼を言っておいてと千賀雄に頼んでおく。

 『そんなことよりも』と、千賀雄は別のことを取り上げている。仏教会に来ている人がフリーウェイでスカンクを轢いた、その臭いたるや、ものすごいという。実際に事故直後、その自動車が仏教会に来たが、千賀雄はそのきつい臭いが忘れられない。その前の日曜日のことだから、もう二日前だが、まだ臭いが残っているという。

 もちろん時間が経っていたから、その自動車が仏教会に来たとき近くにいた千賀雄の身体からも、臭いは感じられなくなっていた。しかし、千賀雄は神経過敏になっていて、そのときまだ自分が臭っているのではないかと疑っているようだった。

 また佑子は、ジョーンズ夫妻にはその後会っていないし彼らの家にも行っていない。ジョーンズ氏は新聞を発行したいなどと考えていたようだが、どうも時代が変わって新聞発行というものが難しくなってきたようだ。その替わりに印刷店を考えたようだが、これも将来性を考えると、あまり良いとは言えないみたいである。

 佑子が州立大学に転校するため家を出ても、メアリーさんに影響があるようにほとんど見えなかった。つまりスーパーマーケットでの買い物の他には家に居続けて、家事の他に読書をしているだけである。彼女と夫の信仰する宗教も、あまり表に出てこない――静かに続けていたようである。というか、佑子はその宗教の詳細は知らないから、どういうことをしているのか、どんなことを信じているのか、ほとんど分からなかったのである。

 それからリディア・S・マーチンからは、日本へ渡ってしばらくの間、連絡がなかった。『元気だ』という便りが佑子に届いたのはもうすぐクリスマスというときになっている。クリスマス・カードというわけである。

 手紙には写真が入っていて、同じ学校に通っている「妹」と、女子高等学校の制服姿で写っている。その制服のスカートも、今風の膝が隠れないような、短いものではない。腰かけているのはリディアがホームスティしている「妹」の家の縁側だろうか。

 交換留学で行った女子高の英語クラスで『教えている』という。それが英語教師の助けになったのは間違いないだろう。日本語も『少し』できるようになった――楽しく過ごしているから心配しないで、ということらしい。ただし、これがすべて英語で書かれている。日本語で書くというのはなんとも難しく、面倒なことらしい。

 それから、山崎清子先生は以前と何も変わらず、そのまま州立大学で日本語を教えている。新しい学年の授業もオフィス・アワーも同じ曜日・時刻である。もっともこういうものは他の教授たちもそうだが、あまり変更しないものらしい。そして、たぶん准教授昇格とテニュア(終身在職権)の審査が始まっているのだろう。彼女の日本語の授業は受講生に好評というから昇格審査に有利のようだ。

 すでに述べたように、テニュアは日本にはないが、山崎先生はどういうふうにそれについて考えているのだろうか。もちろん、そういうことは訊かないほうがいいということもできる。彼女の国籍も変わるかもしれない――あるいは現在、変わりつつあるのかも。これも個人情報だから、むやみに質問するわけにいかない。

 ともかく佑子は、今年も月に二〜三回の研究室通いは続けたいようだ。先生もそれを当然のように受け入れてくれている。つれあいのリチャードさんや子どものジョージ君とも、佑子はそのうち顔を会わせることもあるだろう。あるいはいっしょに食事に行くこともあるかもしれない。

 また、山崎先生の同窓生の木村宏美さんからは手紙が届いた――九月末のことである。しかしそれは山崎先生宛てであり、手紙には佑子にも『よろしく言って』と書かれていたというが、佑子の住所を知らせて、というのはなかったらしい。というか、山崎先生はそのことに言及していない。

 自身のサクラメント訪問は、『合衆国に行ったかいがあった』そうである。希望していたカリフォルニア州の裁判所見学や、佑子と一緒にペイス=ラウンジに行ったこと、サター砦を訪問したことなどが、山崎先生への手紙には書いてあったらしい。

 山崎先生によると、木村さんは十月から忙しいという――学会大会のシーズンに入るらしい。今年は大会で話題提供の出番が多い。司法制度をアメリカまで調べに来たのだから、当然のことかも知れない。大会でアメリカの陪審制度について、分かったことを話してほしいということだろう。大会は十月頃から年末にかけて開かれるらしいが、木村さんはそこで、どんなことを言うのだろうか。

 そして、伯父の田中マイケル茂さんからサクラメントの佑子のもとに絵葉書が届いたのは八月末のことである。絵葉書と言ってもワシントンにあるホテルの備え付けのようで、絵はホワイトハウスの白黒の写真である。そこに書いてあったのもワシントンに来ているということだけである。達筆の英語で書かれているが、それはそれで意味深である。

 泊まっているホテルの名前や住所は分かったが、いつまでいるのか。その絵葉書には、もちろん書かれていなかった。それに連邦議会やその他で調べたことも全然なかった。葉書に書けないのは分かっているが、その後も何の便りもなかったのである。

 後から考えれば、田中さんがアメリカに渡って八月十六日から十九日までカリフォルニア州にいたのは休暇だったに違いない。それからワシントンDCに行ったのだが、サクラメントに葉書が届いたころは泊まっていたホテルを引き払った後らしい。

 日本へ、であるが佑子はアメリカに来てから、手紙はよく出していたが、まだ一度も国際電話をかけたことがない。日本に電話をかけるにはアメリカ人交換手を呼び出し、日本の電話番号を『間違いなく』言わなくてはならないらしい。そして『国際電話はお金がかかる』というイメージがある。

 とにかく、いちおう電話器はあるが国際電話をしたことがない。伯父さんの家にも、もちろん電話はあったが、その番号を佑子は知らない。だから伯父さんの家に電話するには母親に番号を訊かなければならないが、そういうことからして、あまり気が進まない。

 そんなこんなで、日本に電話をかけてみようという気持ちに佑子はならなかったのかも。だいいち、伯母さんに何て言う? 伯父さんがアメリカ国籍だということは、もちろん知っているのに違いない。そして電話口に出たのが伯父さんだったら? ゆっくり話せるのは佑子が帰国する来年の夏かも。

 でもまだよく分からない。来年の夏休みに佑子は日本に帰らないかもしれない。来年の予定はまだ「未定」なのだから。


それからずっと経った後日譚(二〇二〇年)

 最後に、ここに書かれたさまざまな出来事の、その後の展開を見てみよう。以下はおもにインターネット(ウィキペディアなど)に出ていることと、毎日新聞に書かれていたことである。

 佑子が乗っていたのは、日本から輸入された自動車だった。その当時、ダットサンという名称は日本でも用いられていたが、日本でも合衆国でも一九八〇年代からそう呼ばれなくなったという。ダットサンは二〇一四年に新興国ブランドとして復活したが、二〇二〇年代にまた終了したということである。

 また、マーシャル金発見州立歴史公園にあった製材所のような木の骨組み(製材所のレプリカ)はその後、新しい場所に動かされている。というか、製材所のレプリカは別の場所で新しいものに作り変えられた。公園内の他のものは動かされていないようである。

 プラサビルの街中も大きく様変わりしている。もう映画館はないし、セキュリテイ・パシフィック・ナショナル銀行の支店もなくなっている。プラサビル=トヨタもどういうわけか、存在しないようである。アメリカン・リバー・カレッジのプラサビル・キャンパスももちろん、もうない。それがいつまであったのか、記録にも(インターネットでざっと見る限り)ないようである。

 それから、第二次世界大戦中の日系人収容であるが、元収容者に一人二万ドルずつ支払うという補償法は、アメリカ合衆国の連邦議会で一九八八年に成立している。そのときの大統領は、第7章でも紹介したが、地元カリフォルニア州出身である。とにかく、連邦議会はそのとき日系人収容について公式な謝罪もしている。

 しかし、カリフォルニア州はなんと二十一世紀まで、大戦中の日系人収容を謝らなかった。強制収容を支持したことを謝罪する州下院の決議が採択されたのは二〇二〇年二月のことである。

 ニカラグアではその後、いろいろな展開があった。アナスタシオ・ソモサ・デバイレが独裁者であったことはすでに述べた。彼の独裁に抵抗する「サンディニスタ」と呼ばれるグループが一九六一年ころから存在し活動していた。

 リディアのニカラグア訪問(七六年)から少し経つと、サンディニスタ革命軍が反乱を起こし、三年後の七九年にソモサ大統領はアメリカのフロリダ州に亡命することになる。彼の独裁政治は終わりを告げたのである。

 ところで、エクスプレトリウムはこの物語の当時、ゴールデン=ゲート=ブリッジのそばの「パナマ太平洋国際博覧会(一九一五)」の跡地にあった。現在は橋から離れたピア(波止場)十五と十七にあるが、移されたのは二〇一三年のことである。

 サクラメントにある議会議事堂と州知事執務室などが入った建物にも大きな変化があった。そこにあった「女王イザベラへのコロンブスの最後の懇願」が二〇二〇年七月七日に撤去されたという。今は州の動物であるカリフォルニア・グリズリー・ベア(ハイイログマ)の像が置かれているらしい。州旗にある、あの熊である。

 コロンブスの「到着」というのは、かつて「インディアン」などと呼ばれたアメリカ大陸原住民の存在を見事に無視している。それに彼が『見つけた』のは、アメリカ大陸でなく西インド諸島にある島だったという。とにかく、像は州議会議事堂と州知事執務室などがある建物に置くにはふさわしくないということになったらしい。

 またオールド・サクラメントに入るところも、ずいぶんと変わってきている。まずフロント=ストリートがなくなったようである。そして、そこにあった鉄道の線路であるが、最近では道路が河から離れて、線路幅に余裕が出来て砕石も敷かれた。そしてこの辺りの建物はすべて駐車場になったらしい。キャピタル=モールから入ったところからニーシャム=サークルと呼ばれ、二番街にぶつかるまでその名前の道路が続いている。

 その二番街が今ではキャピタル=モールに直接つながっている。つまり現在は、ニーシャム=サークルまで行かなくても、オールド・サクラメントに入ることができる。二番街が合衆国道五号線の西側を並行して次第に高くなってキャピタル=モールにつながる。州政府の建物のほうから行くと、五号線の上を横切ったところで、すぐに二番街に右折できるようになっているのである。

 そして、セントラル・パシフィック鉄道の駅は、この後、州立鉄道博物館になった。さまざまな種類の機関車が展示され、おもにアメリカの西海岸を走った車両を見ることができる。鉄道ファンにはちょっとうれしい施設となったようだ。

 そのとき実際の駅は、合衆国道五号線で短く『ちょん切られた』西側のJストリートとKストリートの間の、サクラメント川の近くに移されることになる。そして新しい駅には今、東海岸と西海岸を結ぶ「アムトラック(旅客列車)」が止まるようである。

 話は変わるが、カリフォルニア州でレストランが禁煙になったのは一九九五年という。それまでのタバコが幅広く認められているとき、レストランのような公的な場所でマリファナを吸ってよいのかと言えば、もちろんダメだろう。結局、マリファナはその当時バーやレストランのような公共の場では公然と吸えなかったし、禁煙となった現在も吸えないということである。

 この物語のときから二十年後の一九九六年には、カリフォルニア州「提案215号」により州民投票が行われ、マリファナ(つまり大麻)が合法化されている。治療法がない人については、医師の判断によって、マリファナを使ってもよいことになったのである。

 だが、この物語のとき(つまり一九七六年八月)、マリファナを吸うこと事体が許されていない。しかも後の九六年に州民投票によって合法化された「治療」というわけでもない。合衆国の連邦最高裁判所は二〇〇一年に、マリファナ合法化について否定的な判断を示している。したがって合衆国レベルではまだ違法のままである。

 しかし、二〇二〇年現在、十一の州(アラスカ、カリフォルニア、コロラド、イリノイ、メイン、マサチューセッツ、ミシガン、ネバダ、オレゴン、バーモント、ワシントン)、それにワシントンDC、北マリアナ諸島とグアムの各州等政府は、州議会等の議決によってマリファナの一般使用を合法化しているという。

店舗などにおける禁煙については、連邦最高裁判所はこれまで何も言っていない。合衆国憲法修正第十条には「この憲法がアメリカ合衆国(連邦政府)に移譲していない権限あるいは諸州に(移譲することを)禁止していない権限は、それぞれ州または国民に留保する」とあり、諸州の規定により食堂などの禁煙が国中に広がっている。マリファナも同じで、各州の法制度が優先されるのだろう。

 さて、日系人最初の入植地は、この後しばらくして歴史的な土地として地元の団体に買い上げられた。そこは州の史跡として指定され、整備されている。そして「記念碑」から離れたプラサビルに近いところに新しく出入口ができ、農場としての体裁を整えている。

 二〇一九年には日本人が一八六九年にゴールドヒルに入植してから百五十年が経った。彼らが現地に着いた六月八日には、かつて「若松コロニー」と呼ばれた跡地に人々が集まり、百五十周年記念式典が開かれている。そこに移り住んだ人たちの子孫のうち数人が出席している――もちろん彼らはもうそこには住んでいない。式典にあわせて埼玉県蕨市の人たちも「蕨エルドラド姉妹都市協力会」を中心に現地に渡って参加している。両都市(郡)の交流は、二〇二〇年で四十五年になるという。

 それから日本において、逮捕された「前の総理大臣」はその後、一九八三年に一審判決があり懲役四年、追徴金五億円の実刑判決を受けた。即日控訴するが、八五年に脳梗塞で倒れて入院、言語や行動の障害が残ることになる。八七年には控訴審の判決があり控訴を棄却されたが、これも上告している。

 一九九〇年には政界を引退するが、八五年の発病以来、一度も登院していない。結局、九三年十二月に七五歳で死去し、ロッキード事件の彼の側面は、上告審の審理途中で公訴棄却になっている。

 また、この物語から三十三年後に、日本に裁判員制度が導入されたが、この物語が述べる七六年には同制度など影も形もなかった。そして採用された裁判員制度は陪審裁判に強く反対した判事たち・検察官たちの主張にそったものと言える。以前の判事だけの裁判をいくぶん改善したとも言えるが、まだ十分ではないようである。

 ちなみに、二十一世紀の日本で行なわれている裁判員制度にも「専断忌避」に相当するものがある(「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」第三十六条/理由を示さない不選任の請求)。「理由を示さない不選任」というのは、合衆国の陪審制度における専断忌避と同じことである。この事実は裁判員になった経験のない人や裁判に関わらない人には知識にないことかもしれない。

 また、弁護人の「被疑者の取り調べ立ち会い」であるが、台湾では一九八二年に認められ、その後、二〇〇〇年には取調べ中に弁護人の発言を許されるなど、権利拡大中だという。韓国では二〇〇三年まで待たねばならなかったが、大法院(最高裁判所)で弁護人立会いの権利が認められ、〇七年に法制化されたという。

 先進国と呼ばれる国で被疑者の取り調べに弁護人が立ち会わないのは日本を除いて一つもない。台湾や韓国の法律は、日本の刑事訴訟法がもとになっているという。両国でも弁護人立会いが認められているのだから、日本のみが取り残されているようだ。

 そして、韓国では二〇〇八年から陪審裁判が行なわれているという。日本のような裁判員ではなく、判事が入らない一般人の陪審が有罪・無罪を決めるらしい。また同国で死刑は事実上廃止されている――つまり長いこと執行されていないという。

 合衆国の陪審裁判では有罪にするのに全員一致が必要で、死刑制度があるとき死刑にする場合にも、陪審全員の同意が求められるのである。そしてすべての死刑事件が連邦最高裁判所まで行く。日本の裁判員制度では一般人も入って刑期が決められるが、死刑も多数決で決めることができるし、死刑事件であっても控訴がないことがよくある。日本の刑事裁判では『重大な判断が軽い』と感じてしまうのは理由がないことだろうか?

 それから沖縄の陪審裁判について、伊佐千尋著「逆転」(一九七七年)が扱ったのは刑事裁判である。民事裁判に関しては『民事陪審裁判が日本を変える――沖縄に民事陪審があった時代からの考察』(陪審裁判を考える会[編])という書籍が出版される。この物語の出来事があってから四十年以上が経った二〇二〇年のことである。

 それは民事事件に陪審制度を推奨する書籍だが、裁判員制度十年の節目にちょっと遅れたらしい。また、合衆国占領下の沖縄の民事陪審裁判記録については、その一部だが翻訳され、獨協大学の国際教養学部紀要などに掲載されている。

 さて、この物語のころの円ドル交換レートであるが、ドルが高くてたいへんだったことは本文の中で触れている。しかしそれから二十年近くたって一九九五年過ぎになれば、時には一ドルが八十円よりも安く円高になった。

 しかし、このお話当時(七六年)の一ドルが三〇〇円以上しているので、二十年後の「円が強くなった為替相場」は一般人には想像することも出来なかったのに違いない。二〇二〇年後半では一ドルが一〇五円前後になっている。

 そして昨今(二〇二〇年)の「ケータイ」文化に慣れた人には、ここに出てくる『学生寮に電話を返す』『電話に出る人を呼び出す』『電話口で待つ』などということに、違和感を覚えたに違いない。

 また、それほど過去でない時期の日本とアメリカの間の国際電話に交換手が必要だったということに、読者は驚いたかもしれない。その後、国際電話も自動になって、交換手も必要でなくなった。つまり例えば、アメリカとの間で国際電話をかけるのに、相手が日本人なら、英語が要らなくなったということである。

 電話は「個人的」なもので、かけたいときにすぐにかけられること、どこにいてもかかってくること、そのためポケットに入れて持ち歩くなどということは、今から二十年ほど前に導入された。それまでの電話は「集合的」なものだった。個人的な「スマートフォン」は、日本では二〇〇八年に発売されたという。

 電話と言えば今は携帯が当たり前で、それまでの集合的な電話機は「黒電話」と言われたり、「固定電話」と呼ばれたりしている。「ガラケー」という略称の携帯もあった――携帯電話が出てから、まだ二十年ほどしか経っていないのである。その後で、スマートフォン「スマホ」が増えてきた。しかし携帯電話が昔からずっと手元にあったように感じるのはなぜだろうか。

 そう言えば、「公衆電話ボックス」を見かけることもほとんどなくなってしまった。携帯電話が当たり前になって、公衆電話が街角からほとんど消えてしまったからである。だから、電話ボックスで延々と会話するという「アメリカ文化の一場面」も、新しい映画ではだんだんとなくなってしまうのかもしれない。     (終)



引用:

 毎日新聞

 ウィキペディア、Wikipedia

 https://www.google.co.jp/maps/

 John Okada “No-No Boy” Charles E. Tuttle,

1957: CARP, 1976.

 El Dorado County Homepage

 Placerville City Homepage

 Sacramento City Homepage

 Sacramento County Homepage

 https://ja.wikipedia.org/wiki/松山市

 http://bassfestival.com

 https://www.coloma.com/

 https://www.camelliasocietyofsacramento.org/

 http://www.directcon.net/pharmer/Wakamatsu/

 https://www.sierranevadageotourism.org/

 http://www.ushistory.org/us/51e.asp

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倒木更新――北カリフォルニアの暑い夏 香沢 久郎 @KurosawaKaoru

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