第11章 オールド=サクラメント

 ウェイターは、本田佑子の前にアイスティーのグラスを、田中さんには、日本のようなジョッキでなく、ビールの大きなグラスを置く。日本ではジョッキの上部に泡があるように注ぐが、その当時の合衆国のグラスには泡はほとんど立っていない。ほんの少し上をあけてグラスいっぱいにビールが入っている。

 そして、この頃の合衆国のバーでは持ってくるごとに、飲み物の代金を現金で支払うのが普通だった。チップも毎回出す。それらを受け取ると、ウェイターはバーのほうへ戻って行った。

 佑子はゆっくりとグラスにストローを差し入れる。田中さんはグラスを持って少し差し上げ、頭を小さく上下させてうなずく――その仕草は日本的と言えるかもしれない。

 佑子はそれに応えるように軽くグラスを持ち上げるが、そのとき何か思い出したように田中さんを見つめた。アイスティー・グラスの下のほうに手をやって、少し斜めにするが飲もうとしない。

 田中さんは一口飲んで、飲まずに自分を見つめる佑子に気づく。

「どうしたの?」

「――思い出したことが。」

「あぁ、そう?」

「この前、日系人のお宅に行きました。」

 田中さんは佑子をじっと見る。

「上野さんという一世夫妻で、市内の南のほうに住んでます。このあいだ、金曜日の夕方に会いました。」

 グラスを右手に持ったまま、田中さんは佑子のほうを見つめる。

「上野さんは八十代なかば過ぎだと思います。お宅には奥さんと二人しかいなかったのですが、お子さんのうち息子が二人いて、上の息子が六十歳の少し前ということです。」

「その上の息子は何してるの?」

「職業は医者だったそうです。東海岸の医学校へ行ったという事です。ただし、いま現在は研究者のようです。」

 合衆国に医学部はない。医師になるには医学校――メディカル=スクール、つまり医学大学院に行かなければならない。医学大学院は卒業するのに四年ほど必要だという。

 日本では大学学部レベルから医師になる勉強をするが、アメリカでは学部の専攻は何でも良いらしい。もちろん学部で取らなくてはならない科目、たとえば生物学や化学があって、化学は生物化学も必須である。医学校に進学するためのプレ・メドという専攻もある。ただし、それを専攻するのは成績の良い学部生だけという。

 つまり学部の成績が良くなければ医学校には入れない。医学校に合格するには大学学部の成績がほとんど「A」でなければダメだというのである。

 また学部生のときの「ボランティア・ワーク」もたいせつである。まだ医学校に入らないうちにずっと学年を通して、週に一回、病院などで深夜まで無給の奉仕をする。その仕事ぶりをもとに、担当医師から推薦状を書いてもらうのである。

 その上、全国的に統一された入学試験も受験するが、その試験結果の成績も良い必要がある。そうして入学した大学院を卒業すると医師試験を受験する資格を得るのだが、とにかく医学校に入学し卒業するのはたいへん難しいという。

「上の息子は稔(みのる)さんというそうですが、今はメンロー=パークにある研究所に勤めているそうです。」

 佑子を見ながら視線をそらさず、田中さんはビールをゆっくり飲む。

「上野さんのお宅で写真を見せられました。稔さんがカリフォルニア大学を卒業したときの写真です。」

 佑子は田中さんを少し見て、ゆっくりとストローに口をつける。だが飲まないうちに口を離し、相手を見ながら言った。

「その写真に見覚えがありました。以前見たことがあるのです。」

「――そうだね。高校一年か二年のとき、東京の私たちのところにやってきて見たんだ。」

「ああ、やっぱり――。あれは伯父さんの若いときの写真よね。」

「そうだね、私は端に写っている。上野は成績が良かったし、何かと積極的だった。」

「稔さんは大学を卒業して医学校に入ったと聞きました。」

「上野は――サリナスの北のほうの出身だったね――英語も日本語も何の問題もなく使えた。」

「弟の次郎さんも日本語が分かるということで、戦争中、太平洋戦線で働いたそうです。」

「そうだろうね――会ったことはないと思うが。上野はいったん医者になったはず。」

「稔さんは結局、開業医にはならず、以前は大学で教えていて、今は研究所で働いているそうです。」

「あまり会うことはないが毎年あいさつ状をもらう。私もカードを送っている。両親が今サクラメントに住んでいるというのは知らなかった。」

 なんてことはない。初めから田中さんは上野さんの息子と知り合いだったのである。

「あの写真は四一年五月。その後、私は日本に行った。」

「日本に渡ってたんだ。――真珠湾のときは?」

「日本にいた。戦争が始まり、アメリカに戻ろうと思ったけれど遅かった。」

 ぐいっとビールを飲み干し、田中さんは空になったグラスをバーのほうにかざした。バーにいたウェイターが気づいて、OKのサインを送ってくる。

「私は三世、アメリカに渡ったのは祖父母の世代だ。」

「三世だったの。」

「そういうわけで、とっくにアメリカ人になっていて、日本の国籍はない。」

 日本国籍がないなんて、そんなことがあるだろうか。二世、三世は二重国籍の人が多かったというが――。

「父親は私が生まれる前に死んだという。母親はどこかに行ってしまった――再婚したらしい。だから私にはアメリカの市民権はあるが日本の国籍はない。マイケルという英語の名前もある――小さいときにはマイクと呼ばれていた。祖父母に育てられたが、そのときに使われたのは日本語で、読み書きも祖父に教えられた。学校では英語を話していて、まあバイリンガルというわけさ。」


 日本にあって合衆国にないものに住民票と戸籍がある。日本で住民票がないというのは住所不定ということを意味し、普通の人と違う、困った状態である。しかし合衆国には住民票や戸籍がまったく存在しない――住民登録という概念さえないようである。

 しかしながら、住所とか住民という考え方がないかというとそれは違う。だけど引っ越したら役場・役所に行って住民登録しなくては、ということはない。そして戸籍ということもない――アメリカ合衆国で市民権を証明するのは医師の出す「出生証明書」である。今はその他に「社会保障番号カード」も使われているという。

 だから、選挙投票の有権者としての登録は、選挙ごとにしなくてはならない。もちろんアメリカでは普通、選挙は二年に一度しかない――偶数年の「十一月の最初の月曜日の次の火曜日」である。たとえば、連邦下院議員は二年ごとに改選される――あまり現職は落選しないのだけど、とにかく二年ごとに必ず選挙がある。

 大きな投票用紙には普通たくさんの選挙項目と、それに対する、たくさんの選択肢が並んでいる。だから選挙ごとに、つまり二年ごとに投票者つまり選挙人の登録運動が盛んに行われるのである。

ただし二年ごとと言っても例外がある。その大きなものが予備選挙で、大統領選挙の年の春早くから始まる。党員集会や選挙などで各政党が候補者を絞っていくのだが、その手続きに各州の選挙管理委員会が責任を負っているようである。

 それに対し、日本では住民登録して成人になれば選挙人名簿に名前が載ってくる。あらためて選挙人としての登録など必要ない。それに、日本の選挙は決まった時期にあるわけではない。

「戦争が始まる前から日本に住んでいて、読み書きを含めてまったく言葉に不自由していない。もちろん話すのも。」

 ぼう然と佑子はそれを聞いている。ウェイターが右手で、つまり片手でビール・グラスを持って運んでくる。グラスが置かれると代金とチップをテーブルの上に出し、ウェイターのほうにうなずいて、田中さんはビールを持って、喉をうるおす。

「何をしに日本へ行ったのだろう――。」

 話し続ける田中さんを佑子はじっと見つめる。田中さんは早くもビールに酔ったのかもしれない。

「そのときは日本文学に関心があった。時代を言えば明治・大正ということかな。もしかしたら、文学よりは哲学と言ったほうが良いかもしれない。日本語もできたし、大学を出て日本へ行ったのも、そういう興味があったというのが大きな理由だ。」

 明治・大正の日本文学や哲学というが、佑子は日本の大学で勉強していないので、そういうものは分からないようだ。

「とにかく英語を教えて、と思ってた。だが戦争が始まると英語を勉強しようなんて、そんな気がある人はいなくなってしまった。それに『敵性語』である英語を習おうとすると面倒なことになったかもしれない。」

 グラスを傾けて田中さんは少し黙っていた。そして佑子のほうを見ながらゆっくりと言った。

「戦争が始まってしばらくたっても徴兵の知らせが来ない。国籍がないのだから、そしてどこにも戸籍に関することがないのだから。日本人と同じ格好をしているし日本語も話す。不思議な感じもしたがそういうことになる。」

 ちょうど同じ時期に日本を訪れていた日系アメリカ人の女性がいた。「東京ローズ(アイバ・郁子・戸栗・ダキノ)」は一九四一年七月に訪日するが、開戦で帰国できなくなったという。

 彼女は四三年十一月から東京放送局(昔のNHK)の「ゼロ・アワー」にアナウンサーとして参加している。戦後、自分が「東京ローズ」だったことを認め、合衆国で国家反逆罪に問われ、四九年に禁固十年、罰金一万ドルの判決を受けて服役した。

 その後、七七年に特赦で市民権を回復したが、二〇〇六年九月、九十歳で亡くなったという。あの戦争の直接の被害者の一人と言ってよいだろう。

 飲んでいるビールがもうじき空である。田中さんはグラスを持ったまま離さない。しゃべったり飲んだり忙しい。

「そのときにはもう二十二歳を過ぎていたけれど、日本の徴兵検査だって受けてないしね。だけど何もしないわけにいかない。だからよく考えて、いちばん安全そうなところに行った――お役所で仕事をすることさ。」

「お役所?」

「外務省で文書を翻訳することにした。英語にしたり日本語にしたり。」

 ビールのグラスを空けて、またバーのほうに向かってかざす。ウェイターはやつぎばやの注文にびっくりしている。

「それで兵隊に行かなかった?」

「そうだね、日本国籍がないせいか分からないが、とにかく召集されなかった。もちろん、その当時は召集がかかるかもしれないとびくびくしてた。だけど私が外務省で仕事してるというのを近所の人たちはみんな知ってたし、警察の巡査もたまにまわって来て、様子を見てたと思う。そして、戦争のときには神田神保町の南のほうに下宿してたが、どういうわけかあのあたりには空襲がなかった。もちろん防空壕に入ってて、生きた心地がしなかったことは何回もあったけど。結局あの近くに爆弾は落ちなかったし、私は軍隊に行かずにすんだ。」

 うそを言っているわけではないだろうが不思議な感じがする。

 そして注文したビールが届く。ウェイターはそばに来ても何を話しているのか、日本語なので内容は分からない。田中さんは大きな声で話しているわけではない。まわりに次第に客も増えてきたが、近くにアジア系がいないので日系人らしい人もなく、話している内容が分かることはないようである。

「就職したすぐ後、四月の中ごろに東京は初めての空襲を受けた。仕事を始めたばかりなのでよく覚えている。」

 東京の初空襲はドゥーリトル隊長が率いるB―25爆撃機によって一九四二年四月十八日に行われたと言われる。まだ本格的な攻撃ではなかったが、現地での衝撃は大きかったようである。

「四五年三月十日の東京大空襲では江東のほうでたいへんな被害が出た。だけど死んだのはだいたい民間人だろう? アメリカの空襲はだれかれとなく民間の人々を殺してる。ほんとうは、そういうのはダメだと思うのだけど。」

 田中さんはそう言ったが、佑子にもそこのところがよく分からない。無差別爆撃による民間人の大量虐殺ということは戦時国際法違反であることが指摘されている。だが、サンフランシスコ講和条約によりアメリカへの補償請求権を放棄したことで、日本は無差別爆撃を含む本土空襲に関する補償も求めることはなかったという。


「伯父さんは日本に行ったというけど、おじいさん、おばあさんはどこの出身だったの?」

「長崎だ。祖父母は市の中心部の出身だった。」

「ええっ、それじゃあ原爆の爆心地じゃない?」

「そうだ、原爆がそこに落とされている。」

 一九四五年八月九日午前十一時〇二分、通称「ファットマン」と呼ばれた原子爆弾がアメリカ軍によって長崎市に投下されている。市民約七万四千人がそのとき亡くなったとされる。もちろん原爆の被害は爆発のときだけではない。長崎で被爆者として死んだのは、その後の数十年をあわせると約十七万五千人とも言われる。

 広島市はそれより三日前、八月六日午前八時十五分ごろ、「リトルボーイ」と呼ばれる原子爆弾によって攻撃されている。ファットマンはプルトニウムを、リトルボーイはウラニウムを使っているという違いがあるが、どちらも被害は甚大だった。爆発の後、現場にあった建物は壊れ、すぐに死んだ者とは別に何万人という被爆者を残した。

 死んだ者や傷ついた者の多くは民間人で、無差別の大量虐殺であることは東京やその他の空襲と同じである。これも戦時国際法違反であろう。だが戦争に勝ったアメリカはこの責任を問われることもなく、戦後に日本政府から勲章を貰った者さえいるという。もちろん、それは空襲とは別の行動を認められたのであろうが。

 アルバート・アインシュタインが原子力研究をうながすアメリカ大統領あての手紙を出したのは三九年八月のことである。本格的な原爆開発のプロジェクト「マンハッタン計画」が始まったのはその三年後だったという。

 さかのぼって一九二二年末にアインシュタインは日本を訪問しているが、その途中で二一年度分の保留されたノーベル物理学賞を受賞したことを知らされた。それはまだ彼がアメリカに逃げる前で、彼は意外と日本通だったようだ。

 戦後、アメリカを訪れた湯川秀樹にアインシュタインは涙ながらに『原爆で罪のない日本人を死なせてしまった』と語り、許しを請うた。しかし原子爆弾の実際の開発に彼自身は少しも関わっていなかったという。

「長崎に行ったのは?」

「最初は四一年の九月の初め、日本に渡ったばかりの頃だった。」

 あの写真からあまり時間が経っていない。上野さんの上の息子はアメリカ東海岸の医学校に行った。田中さんは日本に滞在していて、長崎市に行っていたという。

「現地では、カリフォルニア大学を卒業したということで、大歓迎を受けた。あのようなことは人生にあまりあることではない。祖父母のきょうだいやいとこがたくさん集まってきて、みんな大騒ぎで大喜びだった。」

 その後、戦争が始まってしまい、再び長崎を訪れたのは原爆と敗戦の後で四六年五月のことだった。そのときの田中さんはU通信の記者に転職したばかりだったという。

「戦争前に行ったところを訪ねた。しかし、そこは爆心地だった――グラウンド・ゼロというわけ。」

 田中さんを知っていた人、つまり戦争前に大歓迎した人は、誰一人残っていなかったようである。

「探したけれど、結局、私をよく知っている人は生き残っていなかったようだ。」

 被爆地は放っておかれ、そのままだった。田中さんは出張の仕事をして東京に帰った。それから四回ほど長崎に行ったが、しだいに街は再開発され、田中さんがその昔、歓迎されたところは「爆心地公園」として整備されていった。何があったのか、それはそこのどこにあったのか、後からはぜんぜん分からなかったが――。

「育ったところでもないし、知っている人もいない。今の長崎は私にとって何も特別な意味を持っていない。」

 祖父母が生まれたところで親戚もいたのではないか。しかし原爆で何もかもなくなってしまったのである。

「おじいさん、おばあさんは?」

「祖父は日系人収容所で亡くなったという。祖母もその後、解放されてすぐに亡くなったらしい。だけど、それを私が知ったのは戦争が終わり、しばらく経った後のことだった。」

「上野さんだとか、カリフォルニア大学の仲間は?」

「戦争中は連絡の方法がなかった。ともかく、四五年の敗戦の後までは。」

 ということで開戦から終戦まで、祖父母を除いて、田中さんはアメリカの誰とも連絡が取れなかったようである。


 昔のことなのに話しているうちに気分が暗くなり、二人は少し落ち込んだようだ。そのとき、かすかな匂いがした。佑子が何も言わず、ゆっくりとまわりを見回し、それに気づいた田中さんが言う。

「誰か、大麻を吸っている。」

 日本語を使って大麻と言う。マリファナとすぐに言わないところが良い――田中さんはそういうことに慣れているのだろうか。もっとも、普通のアメリカ人はいろいろなスラング(隠語)を使い、あまり「マリファナ」と言わないものらしい。しかし、ともかくマリファナは非合法である。だけど吸っている者がいる。

 現在と違い、このころは飲食店でタバコを吸うことが許されていた。合法のタバコが吸われているので煙があがっているけれど、マリファナの匂いは少し違うので分かる。どうやら店内で吸っているらしい。佑子も田中さんもまわりを見渡したがあまりよく分からない。非合法だからおおっぴらにできないのである。

 佑子は若い者が吸っているのではないかと考えたようだが、そんなに若い人は店内にはいない。向こうのテーブルがあやしいのだが、中年のごく普通の格好をした白人男性が三人、ビールのグラスを前に座って、話し込んでいるだけである。

 佑子はマリファナを吸っている近くで匂いを嗅いだことはない――これが初めてである。もちろん、そういう匂いが漂っているのを経験したことは何度もある。

 マリファナには吸い方がある――タバコみたいなわけには行かないという。つまり火をつけて吸い込んだら、そのまま肺に入れたままにしておかないと有効成分が身体に吸収されない。すぐに吐いてしまったらダメなのである。そんなことを「社会問題」の授業で教授が話していたことを佑子は思い出している。そして吸い初めのころ、身体の中で起こる「変化」を察知して、それを「快い」ものと学習する。それが「酔い」の反応を生み出すのだという。

 つまり「酔いの効果」はどの薬物も同じもののようだ。その効果を『快いと感じること』が重要なのである。最初、何も知らない段階では1/3ルールが適用できるという――快い、気持ちが悪い、そしてほとんど何も感じないという三種類の反応である。これはどんな薬物、アルコールのようなものも、あるいはニコチンつまりタバコのような興奮性のものも同じという。

 もっともニコチンは初めて摂取するとガツンと来ることで、誰もが不快に感じるらしい。それを意識的あるいは無意識的に、快いものと学習して習慣になってゆく。つまりタバコにもお手本が居るような、「社会的学習」が重要らしい。

 マリファナはそれに比べ最初はあまり効果がないらしいが、だんだんと酔うようになってくるという。これにも社会的学習がからんでいるようである。

 マリファナ(大麻)は日本にも昔からあったという。濫用が起こらなかったのは日本の品種があまり麻薬成分を含まなかったか、あるいは日本人が吸い方を知らなかったからかもしれない。つまり肺に吸い込んだままにしておくことである。

 第二次世界大戦後、アメリカ兵が日本に駐留するようになってマリファナ濫用が心配された。一九四八年、日本に大麻取締法が制定される――マリファナ濫用が始まったころらしい。

 もちろん佑子にはマリファナを吸った経験はないし、タバコを吸ったことすらない。タバコを長期的に吸うと肺が侵されて自然な呼吸が次第にできなくなっていく。マリファナを吸っても同じだろう。

 合衆国でマリファナ濫用が取り締まられるようになったのは六十年代からという。それまでは放っておかれた。濫用が増えたのは、ヒッピー文化というか、反体制的な「考え」とか「構え」とかが世の中一般に広がったからだろう。

 ただしアメリカ文化では日本の場合と比べ、他の人にしつこく勧めることが少ないのではないか。

 たとえばアルコールである。だんだんとそういう人が少なくなってきたのだが、日本では以前、『俺の酒が飲めないのか』などと言って無理に飲ませようとする人がよくいた。しかし体質ということがあって、東アジアにはアルコールをうまく体内で消化できない人が四割とか五割とかいるらしい。

 ヨーロッパで生まれた人には消化できない人はほとんどいない。にもかかわらず、アメリカ人はアルコールを他人にあまり強要しないようである。タバコやマリファナの場合も同じことだろう。

 匂いはそのまま残ったが、マリファナ吸引のことはどうすることもできない。吸っているのをウェイターも知っているのだろうが何も言わないようである。飲んだり夕食を食べたりという目的でお客の数がだいぶ増えてきたのだが、みんな分かっているのだろう。誰も何も言わないことにしているようだった。


「そう言えば、伯父さんの出身地がどこか聞いていない。どこで生まれたの?」

 マリファナのことをおいて、佑子がそう訊くと、田中さんは相手をちょっと見つめた。そして、きっと分からないだろうな、というふうに言う。

「リオ=ヴィスタって、知ってる?」

 それは聞いたことがあるような、ないような町の名前である。リオは「河」、ヴィスタは「眺望」といった意味のスペイン語だろう――「河の眺望」か。

「たぶん、知らない。」

「だろうね、小さな町だから。」

「どこにあるの?」

「ここから南に一〇〇キロくらい。自動車で行くと時間にしてだいたい一時間半くらい。」

 一〇〇キロなら意外と近い――東京の都心から熱海市に行くのと同じくらいである。ただ、サクラメントからリオ=ヴィスタへのフリーウェイはない。途中からサクラメント川堤防の上の道を行く。

「それだと、サンフランシスコより近いね。」

「サクラメントとサンフランシスコのまん中くらい、ちょっとサクラメント寄りかな。」

「ここの南だと、サンフランシスコの――」

「サンフランシスコの北東だね。」

「その、リオ=ヴィスタという町の特徴は?」

「サクラメント川下流の三角州の上にある。その河口の手前に街があるんだけど、南に河口を出てそれから西に行くと、サンパブロ湾があって、サンフランシスコ湾へとつながっている。」

 サクラメントからサンフランシスコに船で行くとき、その途中にある街ということで、昔はにぎわったという。

「え〜と一八九二年かな、リオ=ヴィスタで大火があったらしい。その少し後で祖父母は行ったという。日系人は一人もいなかった。そこで働き、しばらくして借りた土地を少しずつ増やして、いろんな野菜を作ってサンフランシスコに送った。」

 借りた土地は街の西のほうにあった。三角州のとても肥沃な土地で、野菜農家としてうまく行ったという。

「彼らには息子がいた。サンフランシスコで嫁を――つまり私の母親だが――見つけて結婚したんだが、私が生まれる前に病気で死んだという。私が生まれたのは一九一九年の春だった。」

「伯父さんはそう言うわけで、リオ=ヴィスタ生まれね。」

「そう。母は私が生まれて、ちょっとそこに住んでいたが、他に日系人がいなかったこともあって、結局、サンフランシスコのほうへと戻って行ったという。」

「若い日系人がいないので寂しかったのかしら。」

「祖父母も嫁としてあまり気にいらなかったかしれない。私も小さいときのことで母親の顔を少しも覚えていない。」

 自分の母親のことだが田中さんは他人ごとのように話す。

「それで、おじいさん、おばあさんに育てられたというわけね。」

「そうだね、乳母もいた――彼女はメキシコ系。代々、カリフォルニア生まれだそうだけど。それで子どものころ、スペイン語も少し分かった。でも家で祖父母には日本語で話したし、地元の学校では英語を使った。バイリンガルでやらなければいけなかったがそれがうまく行った。結局、カリフォルニア大学に行くようになった。」

 田中さんはまたビールのお代わりを頼む。酔っぱらったはずだがぜんぜん顔色や態度に出ない。

「私が小さいころ、リオ=ヴィスタには『バス・ダービー』という大会があった。今もあるのかねえ? とにかく街近くの人をおおぜい集めた。」

「魚釣りの大会?」

「そう、十月の中旬だね。バスと言うと川魚かな――日本にあまり多くないね。大きいのだと長さが一メートル五十センチもある。」

 バスは外来魚として日本に居ついたみたいだが、大きいということもあり、あまり好かれていないようである。

「まだ子どもで大会には参加できなかったけど、その日曜日にはみんなといっしょに見物に行ったものだ。」

 田中さんはそんな昔を懐かしく思い出している。

「その『みんな』って?」

「いっしょに大きくなった仲間さ。小学校からいっしょだったし、私は背が高く大きかったから、あまりいじめられることもなかった。外見もあまりアジア人という特徴もなかったし、成績が良くて小さいときから『できた』からかもしれない。」

 またビールが届いて田中さんはちょっと口をつけた。だけど説明に夢中になっている。

「とにかく大会の計測会場へ行って、釣った魚の大きさをメジャーで計るのを見た。小学生のころは自分も将来、この大会に出たいと思ってたね。」

 結局、リオ=ヴィスタ・ハイスクールを卒業すると、成績が良かったのでカリフォルニア大学に進学している。大学卒業後、日本へ行ってしまい、バス釣り大会には実際に参加することもなかったようである。

「それと、サーモンがサクラメント川を遡っていくのを見たね。」

「ああサケね。いつごろ?」

「いちばん多かったのは、毎年十二月の初めごろだったと思う。そのころのわが家は毎日のようにサケを食べてた。」

 サケはサンフランシスコの南のモントレー湾くらいが南限である。だからサクラメント川を遡上する個体は多い。わが国では日本海側の南限が山陰地方のようで、太平洋側では千葉の銚子市か九十九里浜のあたりと言われている。

「祖父母は日本にいたとき、サケを食べたことがあまりなかったみたいだ。しかし、アメリカでは季節になると安いから、煮たり焼いたりしてよく食卓にのぼった。私が小さかったとき、もう実家はそれなりに裕福になっていたが、それでもよく食べた。まあ、私も好きだったんだよね。」

 佑子の家では「荒巻鮭」として塩漬けにしたものをお歳暮に貰っていたようだ。思い出したように言う。

「サケは頭なんかも昆布巻きにして、残らず食べてしまったようだけど。まあ私の家のほうでは、あまり食べられていたって感じがしない――ああ、そうか。今サケは焼かれて、お弁当のおかずなんかになってる。」

 食品流通もだんだん良くなり、冷凍や冷蔵も普及してきている。サケもだんだん塩辛くなくなって、日本のスーパーマーケットに普段から並ぶようになってきている。


「なんか、おなか空いてきたなあ。伯父さん、何か食べる?」

 食べ物の話になって、佑子は急に空腹になったようである。メニューを持ってくるようウェイターに頼もうとしたが、となりの空席のテーブルにあるのに気づく。田中さんは中腰になって、それを取るとテーブルの上に開いた。

 この頃の合衆国のメニューに写真はなく、料理の名前と価格が書かれていて、その他に簡単な説明もある。その開かれたページを見て田中さんは言う。

「ピザがある。」

「ピザって、見たことあると思うけど――。」

「食べたこと、ないのかい。ピザ生地というか、パン生地みたいなのを丸く平たく薄く伸ばしてトマト・ソースを塗り、その上にチーズを載せて焼く、というのが基本かな。イタリア料理だね。その上にいろんなものを載せる。」

「どんなもの?」

「そうだね、ここのメニューだと、モッツァレラ・チーズ、ハム、ベーコン、サラミ、マッシュルーム、アーティチョーク、トマト、ピーマン、それにオニオンがある。それぞれを載せるのも良いし、二〜三、組み合わせても良いとメニューに書いてある。」

「わりと、何でもだね。」

「前に他所で見たメニューだと、アンチョビがあった。」

「アンチョビ?」

「カタクチイワシという小魚さ。煮て油漬けしたのがヨーロッパ風の平たく四角の缶詰に入ってる。」

「――伯父さん、ピザを食べたいの?」

「そうだね。二人で大きいのを一つ頼めば良いのでは。」

「何を頼むの?」

「チーズ、マッシュルーム、それに生トマト。」

「OK、私もそれでいい。」

 ウェイターを呼んで田中さんはピザを注文する。ウェイターはそれを焼くには二十分くらいかかると言う。それから、田中さんは佑子のアイスティーが少なくなっているのを見て注文し、さらに自分のためにビールを頼む。ウェイターは注文を暗唱して、ビールのグラスをぶら下げて引っ込んで行った。

「ところで、最近リオ=ヴィスタに帰ったこと、ある?」

「この前、六年前かな、行ったことがある。通っただけと言えるかも。ずっと前に五一年のころ、太平洋戦争後、初めて行った。住んでたところには誰か別の人がいた。もともと借りてたのだから、祖父母が収容所に入れられたときから何もなくなったということさ。」

「誰か、知ってる人はいた?」

「十年以上たっていて、知ってる人は誰も見つからなかった。大学に通ったバークレイ市のほうがまだ知ってる人がいる。あちらのほうが都会で人の数が多い。」

 ウェイターがビールとアイスティーを持ってくる。田中さんはすぐにビールを飲まなかった。

「まあ、生活の場所がすっかり日本になってしまったと言えるかもしれない。」

 合衆国で生まれて育った。けれども日本に行ってその後、三十年以上も過ぎてしまった。合衆国に市民権はあるけれど、日本に暮らすほうが長い――そんなことかも。そういった場合、国籍って、いったい何なのだろう。

 それからしばらくして、焼いたばかりの熱々のピザが届いた。佑子にとって初めてのピザである。モッツァレラ・チーズが匂う――ピザの上にのせたチーズをあまり焦げないように焼いている。

 田中さんは1/8の二切れを食べ、もう一切れを取ったのだが、店を出るときも皿の上に置いたままだった。そういういうことで、ピザは大部分を佑子が食べることになった。初めて食べるピザはおいしかった――少なくとも佑子はそう感じたようだ。

 田中さんはピザが好きだったようで、食べたいと言って注文したのである。少し酔ってしまい、取ったもの全部が食べられなかったのかもしれない。残りは佑子が喜んで食べたのだが、そのときチーズの匂いが少しきついという印象が残ったと言っている。


 さて、アメリカ合衆国西部の山々にポンデローサ・パインと呼ばれる松の木がある。たくさん生えていて背が高いのだが、日本の松のように曲がりくねっていない。太く長いのに加え、松の木なのに帆船の帆柱になるくらいまっすぐなのである。

 そして、シエラ=ネバダのポンデローサ・パインの林に入ると奇妙なことに気づく。立っている木々が一直線に並んでいる――これは「倒木更新」に違いない。

 英語で倒木更新は「nurse log」と言うらしい。「nurse」には看護師という意味もあるが、この場合「子守り」だろう。「log」は「丸太」ということを意味している。

 まあしかし、「nurse log」を日本語に翻訳するにしても、日本語の「倒木更新」を英訳するにしても、しっくりこないのではないか。それぞれの言語で強調する点が微妙に違う――通訳するにしても困るかもしれない。ただし、英語も日本語もその意味することはよく分かる――というか、分かったような気がする。

 ポンデローサという言葉からは、昔のテレビ番組「ボナンザ」を思い出す人がいるかしれない。父親ベンと、みな母親が違う息子たち、アダム、ホス、そしてジョーという、三きょうだいを中心とした西部劇である。その父親が所有するという広大な牧場が「ポンデローサ・ランチ」であった。

 カリフォルニア州との境にあるタホ湖を見下ろすネバダ州の山中がその所在地ということだったが、かつてその名前のアミューズメント・パークが湖のネバダ側にあった。放送された物語で、そこに牧場があったという設定である。

 そのアミューズメント・パークには番組に出てきた屋敷があったが、撮影に使った「外見」だけだったようで、観光客はその建物に入れなかった。そしてテレビ創成期の番組が終わり、出演していた俳優たちもすべていなくなった。もっとも、その番組はまだインターネットに愛好者のページがあるし、再放送とかをテレビで見ることもできるようである。

 アミューズメント・パークのほうは二〇〇四年で閉鎖され、もう営業していない。だが昔のそのテレビ番組を知っていれば「ポンデローサ」という言葉に「なじみ」があるだろう。

 もとに戻るが、倒木更新とは文字通り枯れて倒れて地面にある大木の上にまた同じ木が生え、大きくなって成長して行くということを意味している。ともあれ、倒れた老木もまっすぐで、その後に生えてきた木も一直線に並んでいる。倒木更新する木はポンデローサ・パインだけでなく、エゾマツやトドマツなど、北の寒い地方に多いようだが、ずっと南の屋久杉なども含まれるという。

 その後、佑子は田中さんを泊まっているホテルの近くまで送っていった。二番街、ニーシャム=サークル、フロント=ストリートと戻り、キャピタル=モールを十番街まで行く。七時を過ぎていたが夏時間で明るく、まだ州議会議事堂あたりでは夜の照明になっていない。さすがにもう観光客はほとんどいなかったが、星条旗と州の旗はだらりと下がっていた。

 ゆっくりと十番街を北に走り、Lストリートを通り過ぎたところで道路の左側の歩道に寄せて停車する。田中さんは後を見ながら右ドアをあけて降りる。そして歩道に立ったのだが、少し酔ったのか身体がフラフラする。何も言わず右手を上げて、バイバイという仕草をする。

 窓ガラスを下げ運転席から少し見ていた佑子は、それにあわせて左手を振り、ギアを入れて発車した。しばらく行って右側に寄りJストリートまで走り、右折してその通りを行く。あとは州立大学までの道で、そのまま大学の前を通り過ぎて、住んでいるアパートまで帰ったのである。

 次の日の朝九時ころ、佑子はキャピタル・ホテルまで行った。田中さんのことを尋ねたのだが、フロント係は『もう出た』という。最近は宿泊者の情報などやたら出さないのだろうが、そのときのフロント係はまったく気にした様子もなくそう言い切った。古き良き時代というべきだろうか。

 サクラメント空港か、それともサンフランシスコか。そのどちらかだろうが、どの航空会社か、何時の出発かも分からない。田中さんはそんなことを言っていなかったのである。

 佑子はフロント係にどちらの空港か知っているか訊ねたが、もちろん分かるはずもなかった。結局どうすることもできず、住んでいるアパートに戻った。

 自動車を止め、佑子が自分のアパートに昇る階段のほうにまわると、アパート管理人のドアの右のほうにぶら下げたフィーダー(給餌器)にハミングバード(ハチドリ)がやって来ていた。フィーダーは少し前に、管理人夫妻がホームセンターで購入してきたものである。上のほうが針金のようなもので引っ掛ける形になっていて、本体は透明なプラスチックである。上から砂糖水が入れられるようになっており、丸く細長いシリンダーのような形状になっている。

 そして、いちばん下に、ハミングバードが砂糖水を飲めるよう赤いプラスチックの花が四方向の十の字についている。砂糖水はホームセンターでいっしょに買ったもので、紅色に着色されている。ハミングバードはブーンという羽音とともに飛んで来て、空中に停止する。そして細いくちばしを花に差し込んで飲む。さらにもう一匹が飛んで来て、反対側の花にくちばしを差し込んで飲んでいる。

 このフィーダーを購入してから、ハミングバードが砂糖水をどうやって飲むのか、佑子はまだよく見たことがなかった。階段の前に立ったまま、二匹のハミングバードが空中に止まり、紅色の砂糖水を飲むのをしばし眺めていたのである。

 夏のそよ風が吹くとき、ポンデローサ・パインの林から「つぶやき」のような軽い音が聞こえてくる。「ウィスパリング・パイン(ささやく松風)」と呼ばれ、吹く風に葉っぱが揺れてパラパラと小さな、ほんとうにかすかな音が聞こえてくる。

 真夏の昼間、かすかな風が谷を渡ってゆき、松の葉を揺れさせて小さな音をたてる。シエラ=ネバダのポンデローサ・パインの林でかすかな風がそれらの木々を感じさせるのである。


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