第10章 州議会議事堂
木村さんの乗ったグレイハウンド・バスはサンフランシスコをめざして走り去った。それを見送り、本田佑子は自分の車に戻って運転し、サクラメント市の中央へと戻っていく。
リチャーズ=ブールバードを東に走り、七番街で右折して南向きになる。Gストリートまで来たが、ここはこちら向き、つまり西行きの一方通行だから東へは行けない。そのまま走ると七番街は次のHストリートから南行きの一方通行に変わっている。
Hストリートはそこから東へいく一方通行で、いちばん左側の車線を走っていれば左折できたが、佑子はたまたま道路の右側にいて左側を他の自動車が走っているので車線変更ができない。七番街をそのまま走ったが、左折するため左側の車線へと移ってゆく。
今日までの一年間、佑子は山崎先生と話すことはあったが、それは教師と学生の「つましい会話」で、それも短い時間だけである。一昨日は大学に行き、思いがけなく木村さんに会った。そのときは聞くのが主だったが、昨晩と今日は木村さんと久しぶりに日本語で話した。その影響が少なからずあり、本人も気づかない「興奮状態」だったのかもしれない。
このところ夏休みで、大学も授業がない。早く帰っても、家は一人だから誰もいない。大学も図書館と食堂は開いているが、とくに会いたい人がいるわけでもない。山崎先生もロサンゼルスから夜遅く戻ってくる予定で、帰って来てもおそらく大学には行かないだろう。だから話す相手にもならず、大学に行ってもしょうがない。
佑子の自動車はそのままキャピタル=モールまで来てしまった。州議会議事堂の西には、Mストリートのかわりにこの通りがある。この東西に走る道路は、中央が四車線くらいの幅の広い芝生で、左右に分かれている。
交差点を左折してこの通りに入ると、正面にカリフォルニア州議会議事堂のドームが見える。さらに近づくと議事堂のドーム下が、まわりにある大木にところどころ隠されているが見えてくる。周辺は州政府の建物が集中している地域であり、佑子の自動車はまっすぐ議事堂に近づいていった。
そのまま走ると九番街との交差点に信号があり、右側の車線は右折するので、佑子は左側の車線に移って止まる。停車した前を横切る道路は右、つまり南向きの一方通行である。
キャピタル=モールはそこまでは片側が二車線だが、そこから一車線になっている。つまり走路が狭くなっているわけである。それから十番街までの往復のまん中に大きな噴水があり、行きと帰りの道路が大きく丸く外にふくらんでいる。
信号が変わり、佑子はその狭い通りに入って行く。外にふくらんだ通りの左右両側に駐車スペースがあるが、自動車が並んで駐車され、空いているところはまったくない。
また道路の両側には州政府の建物があり、とくに右側の、州の控訴裁判所(日本なら高等裁判所)が目につく。州の最高裁判所はサクラメントでなく、サンフランシスコにあることはすでに述べた。
この通り「キャピタル=モール」の東行きはここで終わる。出口に信号はなく、かわりに一時停止の標識が立っている。その手前で見上げると、正面の少し左に州議会議事堂がある。十番街に至ったところで一時停止し、右から車が来ないので左折する。
十番街は北向きの、つまり右からの三車線での一方通行で、道路は広いが交通はそんなに多くない。両側に駐車スペースがあるが、空いているところはほとんどない。
キャピタル=モールを今来たのと逆に西に行く入り口を通り過ぎる。左側のいくつか先の駐車スペースがひとつ空いていて、一時間の時限付き駐車メーターがあった。佑子はそこに車を止めるが、時刻は二時五十分だった。
まだ暑かったが車を止めたところはもう日影であり、これから陽があたることもなく、日よけをひっぱり出す必要もなかった。駐車メーターに一時間分のコイン(小額硬貨)を入れる。
大型バスが脇をゆっくりと走りぬけていく。どこを渡ろうかと見渡したが、いちばん近くの横断歩道はキャピタル=モールからの出口の南側だから戻らなくてはならない。
佑子は南に歩き、交通信号がない横断歩道を東に渡って議事堂のほうに行く。渡り始めると二台の乗用車が横断歩道の右側に一時停車し、歩いて渡る人を待っている。
十番街を渡りきると、脇のほうには大木が何本も立っているが、建物の正面には木はなく広場になっている。議事堂のすぐ前の広場は舗装されていて、十番街からそこまで、右と左にそれぞれ舗装された歩道が議事堂に向かってのびている。
何人かの観光客がいて、カメラ(写真機)をかまえている人もいる。まっすぐ前はカリフォルニア州の議会議事堂で、星条旗と州旗が正面に高く一本の竿にたなびいている。その後には議事堂の建物がそれらの旗よりも高くそびえている。
中には州知事執務室などもあるらしいが、州議会議事堂の建物はツートーン・カラーというか、一階の色は灰色で、その上、つまり二階以上は白くなっている。もともと二階に大理石の階段をつけて正面から上がる設計だったらしい。費用などの面から外階段はつけられなかったようである。
白い正面の二階と三階はギリシャ建築みたいな柱が八本、前に立っている。その上にはギリシャ建築のような三角形の屋根がのり、屋根のやや奥まったところに丸い塔が見える。
塔は二段の円筒形で下には丸く縦柱が並び、その上には一段引っ込んで縦柱が丸くのり、さらにその上に球形ドームの屋根がある。そして、その上の中央には小さな円筒が見え、その上にはまた丸い屋根のキューポラが乗っかり、その先には金色のボールがある。
アメリカ合衆国の首府ワシントンの連邦議会議事堂の塔には「自由の像」があるが、サクラメントの州議会議事堂では、金発見を意味するのか、いちばん上は金色のボールである。議事堂が完成したとき周囲に高い建物はなかったから遠くからもよく見えたという。
議事堂の正面に来て、それから建物に向かい、佑子は入り口のほうにまっすぐ歩いて行った。入り口の左側には警察官が動かないで立っている。黒色や青色、灰色でなく薄い肌色の制服である。たぶん州の警察官だろう。
合衆国では警察がひとつの系統ではない。独立していると言えば表現が良いが、悪く言えばバラバラである。
カリフォルニアには州の警察があるが、仕事はハイウェイ・パトロールが主となる。といっても、州の議会議事堂を警備しているのは場所から言ってもやはり州の警察だろう。
郡には郡の警察組織があり、カリフォルニアだけでなく多くの州の郡では「シェリフ――保安官」事務所と呼ばれている。たとえば、上級裁判所法廷の片隅に銃を腰にして座っているのはたいてい保安官助手である。
そして大きな都市には別に警察がある。サクラメント市もそのひとつだが、郡の保安官事務所と別の組織になっている。つまり、管轄は警察署であり、保安官はその街の警察業務に口をはさまない。
そして、州立大学にも警察署があるが、そこは別にどこの所属でもない。つまり市の警察でもなければ、郡の保安官の下でもない。大学の警察署であり、そこにはチーフ(署長)がいて、市の警察や郡の保安官事務所と協力はするが従属はしない。
私立大学でもそういう点では同じである。初めから大学に常駐しているのだから、大学紛争が起こってもアメリカでは、日本のように学生が『帰れ』と言って警察官を追い出すわけに行かないのである。中央集権の形式になっていて、たとえば大学内に警察官が配置されていない日本と、分権が徹底している合衆国と、どちらがいいのか分からないが、組織や連携の上では大きな違いがある。
入り口の前にある三段の階段を上がりながら、佑子はドアを引き開けて入る。今はどこにでも金属探知機があるがそのころにはなかった。つまり持ち物検査はなく、まったくそのまま入る。
奥のほうには机の向こうに座った警察官がいて、入ってきた人をただ眺めている。今は真夏だから武器などはすぐ分かるだろう。佑子はと言えば、サングラスをかけて肩に斜めに掛けた小さなポシェットしか持っていない。
しかし厚ぼったい服装が多い冬はどうするのだろうか。後になれば、つまりハイジャックやその他の犯罪が起きるようになってからだが、金属探知機を通ったり、冬の間はコートを脱いだり、いろいろと面倒なこともあっただろうが、そのときは夏で、金属探知機はなく、警察官はそこにいたが、見ていただけである。
そのまま歩いて行くと「ロタンダ」と呼ばれる円形の部屋に入っていく。ロタンダの中央にあったのは三人の人物が石像になったものである。まん中にスペイン女王イザベラが椅子に腰かけ、向かって右に、左の片膝をついたコロンブスがいる。左にいるのは幼い王子か、小さな少年が立って二人のほうを見ている。
これはラーキン・ミードという彫刻家によって作られた、等身大より少し大きい石像である。この大理石像には「女王イザベラへのコロンブスの最後の懇願」というタイトルがついている。
像の周りにはロープの仕切りがあって、必要以上に大理石像に近づけないようになっている。ロタンダの真ん中に十の字に廊下がはしっていて、その交差したところに大理石像はあり、女王の像が向いているのは佑子が入って来たほうである。
その像から少し離れて北側の壁際には「インフォメーション(案内)」と前に書かれた机に女性が二人所在なさそうに座り、入ってきた佑子をながめている。ボランティアかもしれない。
床には黒と白の大理石のタイルが敷きつめられている――それぞれが長四角形のタイルである。壁はと言えば、上からペンキが塗られているのか、模様がはっきりしない。建物の復旧工事がまもなく予定されているという。壁のほんとうの模様もその工事ではっきりするのかもしれない。
そして天井が丸くあいている。佑子は上に昇るため、ロタンダから少し外れた階段を登り、戻ると大理石像の上の階に出た。床には中央に丸く穴が開いており、下にはあの三人の大理石像が見える。佑子のいる階には腰より少し高い手すりが丸くつながり、穴の周りを囲んでいる。さらに上を見上げると、ロタンダの塔の下面らしい模様が見える。丸く何重にもなった模様には明るいものがあり、きっと照明が入っているに違いない――金色に輝いている。
廊下を見れば、こちらの床は寄せ木細工のようになっているが、これもタイルで出来ている――そのタイルはイギリスに特注したものだという。壁の模様はこの階もあまりはっきりしない。これも復旧工事によって変わるかもしれない。
そのまま南側へ行くと、ドアが開いていて上院議場の上の傍聴席が並んでいるところに出た。議場は下にあり傍聴席がぐるっとまわりを取り巻いている。傍聴席は後に行くほど高くなっていて、出席している議員がよく見えるようになっている。
階下にある議場の正面は議長席になっていて、その左右には事務の机らしいのがあったが、いまはその机には誰も着席せず空席で並んでいる。議長席前の正面は発言が許された者が演説する場所だろう――マイクが立っている。
議場の床は濃い赤い絨毯(じゅうたん)が敷きつめられていて、壁にも赤い色が塗られている。州議会上院は濃い赤が統一色のようである。議長席には、どうも高校生が座っているらしい。そして議場にいるのは高校生だけのようで、警備のほうも緩やかだ――傍聴席のほうにも警備員はいない。本物の州議会議員たちがいるときの警備はもっと厳しいのかもしれない。
そして議長席に座っている高校生だけでなく、議員席にいる者は何かを熱心に討論している。今日は木曜日だが夏休みの終わりのほうだから、上院議員たちはお休みなのだろう。
上院の議場を出て佑子は、今度は反対側の北に行ってみる。こちらは下院の議場だが、議員の数が八十名と二倍になるので、まず広いという印象を与える。そして議場の床の絨毯はみどり色で壁もところどころ、みどりっぽい色で統一されている。そして議員席にいるのは上院と同じで高校生だろう。こちらも何か議論している。
というわけで、カリフォルニア州議会議事堂の見学は二十分たらずで終わりそうだった。今日は午前中にサター砦を見てまわり、木村さんを自動車で長距離バスの営業所に連れて行き、それから昼食をいっしょに食べて見送った。その後だから下院議場の傍聴席に腰をかけ、佑子にとって休憩時間のような意味を持っていた。前のほうの傍聴席にはほかにも観光客がいたが、佑子から離れていたし、ほとんどが座ってあまり時間をおかずに立って出て行ってしまう。
そのとき突然、後のほうから名前を呼ばれた。
「佑子――、佑子ちゃん。」
日本語の小さい声で自分の名前を呼ばれてびっくりする。佑子はそれで『目が覚めた』ように声がするほうを振り返る。右の斜め後には、白い半袖シャツを着て濃紺のズボンをはいた男性が立っていた。佑子は座ったときからサングラスをはずしていたが、この人も胸のポケットに入れている。佑子が座った場所は傍聴席の奥のほうだったが、男性は知らないうちにすぐ後に来ていた。
初めは誰か分からなかったが、とつぜん素性が分かった――三年ばかり会っていない義理の伯父である。ゆっくり前に来て佑子のとなりの席に座り、顔を見ながら小さな声でつぶやく。
「佑子ちゃん。私が誰だか分かるよね?」
「伯父さん、田中さん、よね?」
佑子の父の姉が結婚した相手が田中さんだった。結婚した当時ではめずらしく、恋愛結婚だったと聞いたことがある。たしか名前は茂(しげる)と言ったはず。今は五十五歳くらいだったから佑子からすれば三十くらい年上となる。痩せていて背が高い。また歳のわりに黒々とした髪の毛をしていて白髪がほとんどない。
「そうだよ。もう三年くらい会っていないけど、覚えている?」
「それはもう――。おばさんは?」
「おばさん? 純子なら日本さ。」
純子おばさんは普通の会社に勤めていたので、アメリカ旅行は自由にできないだろう。それになにしろ、このころの合衆国訪問はドルが高くてたいへんだった。このときは一ドルが三〇〇円近くもしたのである。もっともその前の一九七三年二月まで固定相場で、一ドルが三六〇円だった。
「そうなの。――伯父さんは誰かと来たの?」
「いや、一人で来た。」
「でも観光で来たの? いや、そんなことないよね。」
「そうだね。少し用事があって来た。この後ワシントンに行く。」
「それってワシントンDCのこと? つまり、東海岸、というか首府の?」
「そうだよ。」
「仕事?」
「そう、仕事。」
あまりはっきりしない返事だったが、佑子はそれほどこだわらなかったようだ。田中さんはU通信の記者をしている。ワシントンに仕事で行くことがあっても不思議ではない。
「しかし、よく私って分かったわね。」
「アメリカ留学していて、今はサクラメントに行ってるって純子が話してた。それでちょっと調べることで、お世話になった家が分かった。それからサクラメントの住所も。調べるのは専門だから。」
「いつ来たの?」
「え〜と、この前の月曜日の午後かな、飛行機でサンフランシスコに着いた。」
この前の月曜日とは七六年八月十六日である。佑子とはそんなに親しくない田中さんのことだから、海外で会うのは思いがけなかった。アメリカに来る前もそれから後も、田中さんのことをすっかり忘れていたと言っていい。
そのとき下の議場のほうで盛大な拍手が起こり、同時にみんなの大きな笑い声がした。田中さんと佑子は下をのぞき込んだが、何が拍手されたのか、そしてなぜ笑ったのか、佑子には皆目、見当がつかなかった。田中さんはじっと耳を傾けていたが、やがて何もなかったように佑子のほうを向いて言った。
「下の模擬議会はもうじき終わるらしい。そんな感じだ。」
田中さんはそう聞き取ったらしい。時刻は三時十五分を少しまわったところである。そして座りなおし、階下で行われていた議論を離れて、佑子を見ながら小さな声で言った。
「実は、私が今アメリカに来ていることを知っている人は日本にはほとんどいない。純子もそうだ――何も知らない。うすうす感づいているかしれないが。――ということで、今、私がどこにいるのか知っているのは佑子ひとりだけ。」
「なんか秘密があるみたいね。」
佑子はそう言って、明るいそぶりをみせた。田中さんも微笑をうかべてゆっくり言った。
「前の総理大臣が逮捕されたというのは知ってる?」
「ええ聞きました。たしか外国為替法違反で捕まったと。」
「そうだね。」
「でも実際の容疑というか、賄賂として五億円を受け取った疑いがかけられているとか。」
「そこのところだよ。総理大臣のとき航空機の売り込みでお金をもらったというんだ。これからワシントンに飛んで、端緒となった上院の外交委員会議事録を調べようと思っている。そのほか関係者に会っていろいろと取材したいんだ。ただ、これは極秘でほかの人、とくにほかの通信社や新聞社の人には知られたくない。」
そんなことを田中さんに打ち明けられ、佑子は知っていることをすべて言わなくてはいけないと思ったらしい。
「それで、事務所の運転手が取り調べを受けた後、自殺したとか。」
「おお、よく知っているね。」
「そこまでは分かるんですが――。」
そういうのは木村さんが日本を離れる前に報道されていたと話したことである。
「そういうことを話してくれたのはT女子大学で教えている木村宏美先生です。」
「T女子大の木村先生? おととい州立大学に行った、というか、佑子がちょっと前まで一緒だった。」
「よく知ってますね。」
「州立大で教えている山崎先生の昔の同窓生だよね。おとといの晩、佑子は家に帰ったけれど、山崎先生といっしょにダウンタウンに行き、山崎先生のご主人と会って食事している。えーと、『日本料理タカノ』だったね。」
佑子はそれを聞いてびっくりした。
「昨日は昨日で、佑子と二人でホテルそばのバー・レストラン『ペイス=ラウンジ』に行った。」
「伯父さん、みんな知っているみたい。」
「そうだよ。今日は朝十時すぎにサター砦に行った。ドナー隊の展示のところで余計な口を出し、もう少しで私のこと、ばれるかと思った。」
「えっ、あれ伯父さんだったの。――英語で話していたよね?」
「英語がうまいからね。とにかく、その後あまり近づきすぎないようにした。」
それは冗談のようにも皮肉のようにも響く。
「トニーズにも行ったの?」
「うん、そう。クラブ・サンドとアイスティーを注文して。それにアイスクリーム、食べてたね。」
「いやあ、すごい。なにもかも知ってて、スパイみたいだね。」
「通信社に勤めているとね、どうしてもそういうことが得意になってね。」
うそかほんとうか分からない言い方をする。そして付け加える。
「それよりあの人、『レスビアン』みたいだね。」
「レスビアン?」
「ああ、その〜、同性愛の女(ひと)――。」
レスビアンという言葉はだんだん使われるようになってきたけれど、このころはまだあまり使われていなかった。木村さんが同性愛者だと佑子はそれまであまり考えなかったようだが、言われてみればそういう気がしてきたようだ。だけど見ただけでそう決めつけるのもどうか。
「何か、そういう理由でも?」
「いや直感でそう思っただけ。きっと一人だよね。」
「まだ結婚していない――。いやあ本人には直接聞かなかったけど、独身だと思ってた。」
女子大の先生になると婚期は遅れるのか、あるいは一生独身のままなのか。
「バー・レストランに女性二人で行くところを、そして飲んでいるところを見ると、二人はまるっきりレスビアンだ。」
田中さんはそう言った後で思い出したようにつぶやく。
「それで、タカノでもペイス=ラウンジでも、ワインを一瓶空けていた。よく飲むね。」
確かに木村さんはお酒が強い。そういうところを見ていたのか。
「佑子はあまりお酒を飲まないようだけど、あの人――木村さんか、強いよね。」
「私だって少し飲むけど――。このところ、ずっと運転だから。」
「ああ、そうだね、車の運転があるからね。」
そのとき午後三時半くらいだったが、階下の会議が終わったらしい。ぱらぱらと拍手があって高校生たちは立ち上がり、帰る準備を始めている。田中さんは階下を見たが、すぐに佑子のほうをながめて言った。
「それで、アメリカに来て二年ほど経つけど、留学はうまく行っている?」
「そうね、何の問題もないようね。お金はかかるけど。」
「成績は? 問題になるような成績を取ってないよね。」
「大丈夫、良い成績だから。」
ほぼストレートAという自慢はしない。佑子はなぜそのことを言わなかったのだろうか。田中さんの質問に対して、とにかく、そういうことは言わなかったのである。
「専攻は何? ――といってもまだ早いね。」
「うん、まだ二年終わったところで二十二科目しか取っていない。でも社会学に関心があるかな。」
「社会学か。まだ内容はよく分かっていないんだよね。」
「これまで、秋に社会学概論、春に社会問題を取りました。」
「まだ始まったばかりだ。」
「でね、『法社会学』という分野がおもしろいかも。」
「――あの木村とかいう人がやってるんだろう。」
「そうね。私にはまだよく分からないんだけど。」
「日本ではあまり研究されていないね。」
「日本ではあまり司法とか裁判とかが大事にされてない。そういうことが少し分かってきた。」
「う〜ん、なるほど。そういえばそうだね。」
そして話の内容を少し変える。
「それで、今お世話になっている家は?」
田中さんはさりげなく、佑子の生活について質問してくる。
「今はサクラメントのアパートに一人で住んでいる。前は、東京で英語学校に行ってたときの先生のところ。夫と二人で一昨年の春にこちらに帰って来ていた。私自身はその後を追っかけるように夏に来たのだけど。大学の新学期にあわせて。」
それから引っ越して、ワット・アベニューをずっと北へ行ったところに今住んでいるアパートはあったが、田中さんは場所については聞かない。どの辺に住んでいるか、だいたい分かっているらしい。
「アパートに一人で住んでいるのか。以前は、日本にいたときから知っていた人たちにお世話になっていたんだね。」
「そうね。アメリカに来て、最初はエルドラド郡だったけど。」
「ああ東の、ネバダ州の手前だろう。」
「そう。自動車を運転するのも少し慣れた。」
「ダットサンだね。小さい車だけど、あると便利だからね。」
「この間、コロマってところに行ったんだ。知っている?」
「昔、金が見つかった。」
「うん、そこでマーシャルという人が金を見つけた。今日行ったサター砦のサターが契約してたという。」
「コロマかぁ。そこに何があった?」
「サター・ミルって製材所みたいなもの、――複製らしいけど。それからモルモンの小屋と中国人の店、といっても展示ね。それに博物館と、マーシャルの像と住んでた家。そんなところかな。」
「ゴールドラッシュのころだ。」
「そう。交換留学で日本に行く高校生と行ったんだ――女の子だけどね。ああそうか彼女、もうハイスクールを卒業してるんだ。その後で、ゴールドヒルの日本人移民が入植したところにも行った。」
「そう言えば、そこは日本人の最初の入植地だってね。」
「よく知っているね。だけど入植したっていう農場は、金網で囲まれていて中に入れない。」
「そうか――。エルドラド郡って日本と関係が深いんだ。」
「そう。カリフォルニアに来るまで、そんなとは思わなかった。」
そのとき、時刻は三時四五分を過ぎていた。時計を見ながら、田中さんは言う。
「自動車に戻ったほうが良くない? もうじき一時間経つ。」
「そうね、まだ駐車違反、したくない。」
佑子は急いで州議会議事堂を出て自動車のところに戻る。田中さんも後をついてくる。
駐車メーターの一時間が終わっている。時間を過ぎた駐車違反を取り締まる警察官が、Nストリートからこちら側にある車に駐車違反の切符を貼っている。次は佑子の自動車だったろう。
ドアを開けて佑子は自動車に乗り込む。そして右側ドアのロックをはずして田中さんを車に招き入れる。田中さんは何も言わず、助手席に座ってドアを閉める――これから行くところを考えていたようだ。
「どこに行きます?」
「オールド=サクラメントではどうかな? この先のLストリートで左折するといい。」
サクラメントに初めて着いたとき、佑子はオールド=サクラメントを観るために車で通ったことがあるが、自動車を降りていない。これからお世話になる夫妻が、州議会議事堂などとともに、こういうところがあるという紹介をかねて見せてくれたのである。
前を向いた田中さんをちょっと見て、佑子は何も言わず、ゆっくりと自動車を発車させる。後を見て右に出るが、いちばん左側の車線を行く。次の交差点でLストリートを左折すると一方通行で西へ行く通りである。そのまま左寄りを走る。
「面倒だからそこで左折しよう。次は右折だ。」
Lストリートから九番街に左折し、キャピタル=モールで右折すると自動車は西向きになった。一時間ばかり前と逆方向に行く。遠くに橋の塔が見える――サクラメント川を渡る橋だろう。車はゆっくりと右側の走行車線を走る。
ふと気がついたのか、佑子は尋ねる。
「伯父さん、自動車でしょう。車はどうしたの?」
「ああ、自動車ね。レンタカーはホテルに預けてきた。佑子が州議会議事堂に行くこと分かったからね。Lストリートにあるキャピタル・ホテルだけど。」
そう言えば、名前は見なかったが左折したLストリートの向こう側に一軒、ホテルがあったようである。
やがて合衆国道五号線の上を通過し、橋の近くまでやって来た。夏だけど水量があまり少なくなっていないサクラメント川が、左の下流に向かってゆっくり流れている。
この大きな河を渡っているのは、近くでは二つの橋だけである。この「タワー=ブリッジ」という橋と、少し北で渡っている「Iストリート橋」である。これら二つはこれから行くオールド=サクラメントの南北の両端にあたる。
その他に合衆国道八十号線の本線と支線は、これらの橋の上流側と下流側で、それぞれサクラメント川を渡っている。合衆国道八十号線の本線はずっと上流のほうにある。
「そこを右だね。」
キャピタル=モールを橋のすぐ手前で右折するとフロント=ストリートに入る。その通りの脇を鉄道のレールが通っているが、単線だし砂利がなく道路との境がない――ただ軌道があるだけである。この線路はサンフランシスコまで通じている、東海岸から西海岸までの鉄道線だろう。このころにはもう、旅客列車しか走っていないはずである。
次に道路は軌道と分かれて右折し、しだいに下がって低くなってくる。フロント=ストリートはすぐに左の駐車場に入るが、まっすぐに行く道路はニーシャム=サークルと名前を変えて、最後に二番街にTの字にぶつかり終わっている。ということは、一番街と呼ばれる道路はサクラメントにはないということである。
二番街と並行して、すぐ東側は合衆国道五号線が南北に走っている。合衆国道はフリーウェイだから、ニーシャム=サークルという普通の道路はまっすぐ行っても合流できないのである。
「ここは左に。――来たことあるなら知ってると思うけど。」
この三叉路になった交差点を左折して、合衆国道五号線のすぐ西側を走る二番街を行く。交差点の右のところに「二番街」という街路名の看板が高く掲げてある。
オールド=サクラメントはフリーウェイ五号線とサクラメント川に挟まれ、タワー=ブリッジにつながるキャピタル=モールとIストリート橋につながった道の間だけの狭い土地である。通り抜けできる道はこのとき自動車が走った道、つまりフロント=ストリート、ニーシャム=サークル、そして二番街しかない。
ずっと先で二番街はフリーウェイ五号線の下を走るJストリートの下を通ってIストリートの下に出る。Iストリートはそこから西に行く一方通行だが、その取り付けのような道が下にあり、二番街につながっている。だから二番街からIストリートの取り付けを西に行くIストリートと逆に走って、合衆国道五号線の東にある三番街に行くことも可能である。
Iストリートで街のほうから西に行くと、合衆国道五号線の手前で下にさがり、五号線の下をくぐると少しずつ北に寄っていく。そしてサクラメント川に出るところで北に大きく曲がってIストリート橋として川を渡っている。その東行きの帰りは同じ橋だが、取り付けはさらに大きく曲がって合衆国道五号線の下をくぐり、Jストリートにつながっている。
「ここは合衆国道五号線ができたころのままだけど、最近、観光客めあての店が増えたね。」
田中さんは懐かしいという感じでそう言う。初めてではなく、以前に来ているのかも知れない。
合衆国道五号線の横にニーシャム=サークルがぶつかったところは二番街だが、北へ行くと五号線のそば、つまり道路の右側に土地があり、商店などが並んでいる。道路の左側には、バーや土産物の店などが立て込んでいる。二番街をしばらく行くと、両脇の歩道を観光客が歩いている。ここはサクラメントでもサター砦についで古いところで、今は鉄道の駅がある――昔は大陸横断の汽車が走っていたのである。
汽車が走っていたころには、さらに川沿いのところに船着き場があった。以前はサンフランシスコから定期船が入ってきて、昔は外輪で推進する「デルタ・クイーン」が来たのだろう。今は観光船がたまに来るというが、定期的に運行している船はないようである。
そして合衆国道五号線で途切れたIストリートの北側にはセントラル・パシフィック鉄道の駅がある。Iストリート橋は実際にはさらに北のHストリートのあたりでサクラメント川を渡っている。だからオールド=サクラメントのいちばん北は、合衆国道五号線の東側を基準にすれば、Iストリートのずいぶん北ということになる。
合衆国の古い街並みでは左右両側に歩道があり、それが道路の路面より少し高くなっていて屋根がついていることがある。オールド=サクラメントもそのひとつで、屋根がないところも少しあるが、歩道が高くなり下には木板が張られ、上には屋根がある。
舗装がなかったころ、店に入るのにはこの歩道を歩かなければならなかった。こうすることで、昔はドロやゴミが店に入るのが少なくなったかもしれない。今は道路に舗装があるから店の中がドロで汚れることは少なくなった。
「さすがに、ここは観光客が多い。」
「そうですね。」
とにかく、オールド=サクラメントは合衆国の古い街並みが残っているところである。古い建物もたくさん残っているし、昔の雰囲気の酒場などの店もある。河沿いのところにはサンフランシスコから上ってくる波止場があるし、大陸横断の列車が止まる駅もある。
あまりスピードをあげないで走っていたが、自動車がKストリートを過ぎたとき、田中さんはゆっくりと言う。
「そこの右側にしよう。」
右側には「アナベルズ」という観光客向けの大きなバーがあり、店の前に斜め駐車で止められる。自動車を止めて鍵をかけると、二人は店のなかに入って行った。
そこは大きな店だったが、あまりお客が入っていない。というのも、まだ夕食には時間があったからである。二人が店に入ったのは四時を十分ばかり過ぎている。
しばらく入り口で待っていても店の人は誰も出て来ない。仕方ないので田中さんは店の中を歩いていって、二番街沿いのいちばん奥の席を選んで入口のほうを向いて座った。佑子は二番街に背を向けて、田中さんと直角になるように座る。
店の人が出て来ないときにはどうするか? 佑子はアメリカの店での「作法」を知らなかった。レストランのようなところは、昨日の晩や今日の昼のほか、あまり行ったことがない。ここでは田中さんのあとについて、黙って座っただけである。夏の午後の日差しが差し込むのをカーテンが遮っていて、店の中は冷房がきいている。
ようやくウェイターが現れて近づいてきた。黒いヒゲとポニーテイルの髪型をした、少し痩せて背の高い若い白人の男性だったが、『ハ〜イ』と言って愛想よく微笑みながら、小さなメニューをひとつ出してくる。ここはバーであって、レストランと違い、マネージャーが案内しないのかもしれない。
メニューを見ずに、田中さんは「ビア」と注文したが、バーのほうを見て、中央に五つほどビールのコックがあるのに気づく。コックの上には銘柄のマークがあったが、その中のひとつを選んで言い直す。佑子はあいかわらずアイスティーだった。注文を取ってウェイターはバーのほうへ戻って行った。
佑子が田中さんの後を見ると、夏なので閉め切ったガラス戸が並び、その外に屋根付きの歩道があった。その向こうにフリーウェイで行き止まりの、合衆国道五号線に『ちょん切られた』短いJストリートがある。
そしてJストリートの向かい側は公園で建物は何もないのだが、その公園のこちら側の二番街との角に銅像が見える。田中さんは佑子の視線に気づいて振り返り、その銅像を見て言った。
「ポニー・エクスプレスだね。」
それは疾走する馬に乗って郵便物などを運ぶ若者の像だった。郵便といっても公立の郵便局ではなかったらしいが、郵便を運ぶこともあったという。また、ポニー・エクスプレスといっても「仔馬」ではなく、普通の馬のようである。
電信線が敷かれるまでの十九ヶ月間、ミズーリ州セント=ジョセフからカリフォルニア州サクラメントまでの約三千百キロを十日間で走った。サクラメントから先のサンフランシスコまでは、すぐそこの船着き場から、船で行ったということである。
最初の便が一八六〇年四月三日に出たというから、カリフォルニアが州として認められてから十年ほど経っている。そして、南北戦争が始まった六一年四月十二日のほぼ一年前である。また、レールが東海岸と西海岸を結んだのが六九年五月十日というから、もちろんそのとき汽車はまだこの辺を走っていなかった。
ポニー・エクスプレスは十マイル(十六キロ)毎くらいに駅、つまり交換場所があり、馬を換えて休まず走ったらしい。馬が疲れないよう、騎手は小柄な若者が選ばれている。
インディアン襲撃もあり騎手が殺されたこともあった。カリフォルニア州内では合衆国道五十号線を走り、タホ湖からプラサビルを抜けてサクラメントに出たという。一年半くらいで電信が敷かれて終わりになったというからあまり儲からなかっただろうが、記念する銅像がここに立てられている。
「そう言えば、短期大学での合衆国史でもその話があった。」
佑子はそう言ったが、そこへウェイターがビールとアイスティーを運んできた。
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