第9章 トニーズ・レストラン

 サター砦の南の正門から出て東にまわり、砦の周りの公園を突っ切って、北側の道路に止めてあった自動車に戻る。そのとき正午をほんの少し過ぎていたが、駐車メーターは残りがまだ五分弱ある。ここで二時間ばかり過ごしたことになる。

 ウィンドーの日よけをはずして運転席に座り、その日よけを後の座席に置く。運転席横の窓の日よけはそのままにしておく。本田佑子は助手席におさまった木村さんに尋ねる。

「バスに乗るんでしたよね。」

「そう、グレイハウンド・バスのサンフランシスコ行き。だからグレイハウンドの営業所に行かなければ。」

「営業所ってどこですか?」

「え〜と、ちょっと待って。」

 木村さんは膝上のポシェットの中を探して、折り畳んだ地図を引っ張り出してくる。

「こちらに来たときは、タクシーで行くかもしれないと思ってました。そのため、念を入れてホテルで営業所の場所を教えてもらいました。あの人たちは道を教えるのに慣れているよね。」

 グレイハウンド・バスの営業所はサクラメントの北西部にある。ホテルで教わったのは、すぐ前の十一番街に出て北に行き、Gストリートで左折する。そのままGストリートの西行きの一方通行を終わりまで行き、丁字路になっている七番街を右折し北に行くことだった。

 右折したら、そのままリチャーズ=ブールバードまで走り、今度は左折する。その道をしばらく行くとグレイハウンドの営業所が道の左側にあるという。地図の上に赤鉛筆で丸く印がしてあった。地図上ではそんなに面倒ではないが距離がある。

 サター砦からだと二八番街を北に行き、Gストリートで左折して西に行けばいい。後は同じである。

 地図をひっくり返して説明を受け、行く道を教わり、走る道に納得するまでそんなに時間はかからなかったが、それでも二〜三分かかった。佑子がその地図に慣れていなかったというのもある。

「分かりました――。出発しましょう。」

 二人を乗せた自動車は東に向かって走り出す。すぐに信号のない二八番街で左折し、北向きになりそのまま走る。この道路は比較的幅があり、片側二車線の相互通行だった。

「なぜカリフォルニアの州都がサクラメントなのか、日本にいたとき分からなかったけど、昔はここが中心だったんですね。」

「そうです。今ここはあまり大きくないけど、昔はカリフォルニアの中心だったんです。」

「サター砦を見て、なるほどと納得しました。」

「最初はここがいちばん大きかったのですが、金が取れなくなってしばらく経つとサンフランシスコが盛んになり、そして第二次大戦のあと、ロサンゼルスが拡大していったのです。」

 自動車はGストリートで左折して今度は西に向かう。この近くは住宅街であまり車の交通は多くない。通行は中央の二車線だけの二方向で、両側の歩道寄りは道路脇の住宅の駐車のために使われているようである。

 二人の会話はそんな道路と無関係に続く。

「それと、ゴールドラッシュですね。先日、黄金の見つかったコロマに行きました。ここから東に車で一時間ちょっとです。」

「一九世紀に金が見つかったんですよね。――そこに何か特別なもの、ありました?」

「別にどうってこともなかったです。歴史に残る場所とは思えないくらいです。」

「えてして、そういうものね。」

 自動車はゆっくり住宅街を西に向かって進む。最初のうち交通は両方向だが双方ともそんなに多くない。十六番街からは西行きの一方通行になる。そこまで来て、佑子はあまり深く考えていないようにつぶやく。

「ここは昨日の夕方や今朝、先生の泊まっていたホテルに行くときに通った道ですね――道路や周りの建物に見覚えがあります。」

 一方通行になると両側は普通の住宅と違う、いろいろな公共の建物になってくる。中心部になるとホテルや州の建物が建ち並んでいるので交通量も増えてくる。だんだんサクラメントの中心部へと進んでいく。

 佑子はそんな街と関係のない話を続ける。

「で、その後に行ったのが、ゴールドヒルの日本人入植の跡です。」

「日本人が来たんですね。そのゴールドヒルって、どこですか?」

「金が見つかったコロマというのは東のとなりのエルドラド郡ですが、その金が発見された場所からエルドラド郡の中心のプラサビルのほうに向かって、車で四〜五分のところです。」

「近いですね。」

「そうです、すぐそばです。」

「日本人入植は何か、金の発見と関係あるのですか?」

「いや〜、ないみたいです。日本人が来た年は明治二年ですから一八六九年。金発見から二十年くらい経っています。金は近くではもう見つからなかったみたいです。」

「明治二年ですか。ずいぶん早いですね。」

「そうです。合衆国本土で最初に日本人移民が来たところということです。福島県会津藩の、明治維新の戦争に負けた人たちだそうです。でも、もう日本人の子孫は今、誰もそこに住んでいないんじゃあないかな。」

「そうですか。で、そこで何か見たのですか?」

「入植した場所だけです。何を見たのかと言われても――、何も見ていないですね。入植したという記念碑が建っていましたが、その土地には入れなかったですね。」

 自動車はだんだんと市の中心部に差しかかってきて、左に上級裁判所が見えてきた。六階建ての立派な建物である。

「そうそう、前の左のほうの建物が裁判所ですよね。昨日あそこの四階にいたのです。」

「すごい建物ですね。裁判所というのは合衆国ではひとつの中心ですね。」

「たしかにそういうことが言えるかも。」

「ああそうです、この間エルドラド郡の上級裁判所を見ました。立派な建物だったけど、こんなに大きくなかったです。――比べるとまったく小さいですね。」

「ああ、そうですか。そういうところでも、陪審裁判が行なわれているんですね。」

「そうですね。――今度、行ってみようかな。」

 そしてそこを過ぎて七番街との丁字交差点に出た。七番街は両方向に走れるが信号を待って右折する。

 右折した後の左側は建物がないようで、その左側の先へ行くと、もう少しでサクラメント川があるはずである。とにかく右折した道路をまっすぐ走り、リチャーズ=ブールバードで左折する。

 営業所に近づいてくると木村さんは一生懸命に左を見ている。でもすぐ分かった――大きなグレイハウンド、つまり「狩猟犬」のサインが看板の代わりに高く掲げてある。

 このブールバードはセンターラインがなく、かわりに中央車線がある。左折するためにそこに入る。対向車が行った後、左折してグレイハウンドの営業所構内に入って行く。

 右側の道路沿いに駐車する場所があって車を止める。サター砦を出発して二十分近くかかり、時刻はもうじき十二時半になろうとしていた。

「ちょっと様子を見てくる。待っててね。」

 そう言って木村さんは車から出て行った。

 それから十分くらいたって木村さんは営業所から出てきた。自動車に乗り込んで、座って状況を説明する。

「サンフランシスコ行きバスの予約は大丈夫だって。出発の十五分前に来ればいい。それで、外で食事する場所を聞いたら、この西のほうにマクドナルドとトニーズがあるって。」

 腕時計を見ると戻ってくるようにと言われた二時十五分まで一時間半くらいの時間がある。

「西のほうですね。それではレストランに行きますか?」

「そうね、一時間とちょっとあればレストランで涼しくなれる。」

 確かにここはすごく暑い。すぐに車をまわして西側の道路から出る。道路にまわり込むと信号機付きの交差点で、信号が変わるのを待つ。そして交差点を左折してリチャーズ=ブールバードに出るとそのまま西に走る。

「えっ〜と、どっちにします?」

「トニーズのほうがいいのでは。」

「では、そうします。」


 まもなく道路の右側に看板があり、英語で赤く「トニーズ」とあった。店の手前に道路があって、それを右折するとすぐ出入り口がある。店前の駐車場に入ると木影があるのでそこに車を止める。大きな木影なので日よけを出すまでもない。いつものように自動車に鍵をかけ、二人してレストランの入り口に立つ。

 出て来た女性マネージャーに二人というジェスチャーをしてテーブルに案内してもらう。座った窓際の席からはリチャーズ=ブールバードを走る自動車がよく見える。冷房が強くきいていて涼しい。

 二人は向かい合って座り、マネージャーが置いていったメニューをそれぞれ見る。一通りメニューを見てから、木村さんは佑子を見ながら言う。

「何でもどうぞ、私持ちで。――私はクラブ=サンドとアイスティーにしよう。」

「私も同じものがいい。」

 レストランで同じものがいいというのが日本では多いが、アメリカではあまり聞かない。まったくないかといえばそうでもないが、アメリカではいろいろ追加の注文が必要なことが多い。

 たとえばフレンチフライの付け合わせとか、ティーならレモンがいいかミルクがいいか、コーヒーならクリームと砂糖を入れるか。結局、まったく同じものを頼むことは少ない。だからか時間がかかることが多いが、そういう「やりとり」を楽しむのかもしれない。

 そういえば日本では以前に「クリーム」のかわりに「ミルク」と呼んでいたが、最近はクリームと言うようになったようである。またアメリカではコーヒーにクリームと砂糖を入れるか聞いて、そのとおり入れて持ってくることも多い。

 日本では普通それらが卓上にあって、自分で入れたいように入れる。それにアメリカの場合、コーヒーではおかわりが付いていることも多い――何杯でも飲めるのである。

 ウェイトレスを呼んで、木村さんはメニューのサンドウィッチのページで指差しながら注文する。付け合わせにフレンチフライを薦められるがそっけなく断る。

 しかし、そんな木村さんもアイスクリーム二人前を食後に持って来るように付け加える。ウェイトレスが行ってしまってから、木村さんは言う。

「本田さん、アイスクリーム食べるでしょう? 追加で注文しちゃった。食べたいと急に思ったの。」

「いやあ、すみません。私もアイスクリームは好きです。」

 でもどうして木村さんは佑子に尋ねもしないで、アイスクリームを二人前注文したのだろう。ここのアイスクリームは大きくて、しかも一皿でチョコレート、イチゴ、バニラの三種盛り合わせになっている。佑子がアイスクリームのあるページを見ていたということもない。もし佑子が食べなかったら木村さんはアイスクリームを二人前かたづけることになったかもしれない。なぜ何も聞かないで注文したのか、ちょっと不思議な感じがする。

 木村さんは例の地図を持ってきたのだが、それをテーブルの上に広げて佑子にも見えるようにする。

「この地図を見ると、アメリカン川がすぐそこでサクラメント川に合流しているね。」

「そうですね。そこの道路はオレゴン州のほうから来てサクラメント空港の脇を通ってます。これは合衆国道五号線ですね。その後、サクラメント市内の西部を走り、カリフォルニア州のまん中を突っ切って、南のロサンゼルスのほうに行ってます。」

「営業所を出たバスは今いる店のすぐ西でそのフリーウェイ、つまり合衆国道五号線にのり、ちょっと南に行き、ジャンクションで西に走る八十号支線に変わり、サンフランシスコに向かうのね。」

 指でその道をたどって木村さんは言う。合衆国道八十号線の本線はサンフランシスコから来て、サクラメントの北方だけど空港のずっと南を走り、ドナー峠を通ってネバダ州に抜けていく。

 しかし別路線があるということはすでに述べた。サンフランシスコのほうから来た本線は支線と街の西で別れ、その支線はサクラメントの南のほうを走り、東側で直角に折れて二九番街と三十番街の間を北に行き、市の北側でまた本線と合流している。その支線がフリーウェイ五号線に街の西南で立体交差している。

 支線をそのまま東にまっすぐ行けば合衆国道五十号線で、このあいだ佑子が行ったプラサビルを通っている。その後、タホ湖の南を通って、ネバダ州に抜けていく。

 合衆国で「フリーウェイ」といえば自動車専用道路だが、カリフォルニア州ではふつう有料ではない。なにしろ英語でフリーは「ただ」「無料」を意味することもある。実際、カリフォルニア州では有料道路やお金を取る橋梁というものはあまり多くない。

 例えば、あのゴールデン=ゲート=ブリッジのサンフランシスコ行きが渡りきったところで料金を取る。反対車線でサンフランシスコから北に出るときは無料である。

 また、東に走ってベイ=ブリッジでオークランドに行くときも無料だが、反対にサンフランシスコに入るときは有料である。

 だから人口が多いほうに行くとき有料と考えればよい。もっとも普通車に三人以上が乗っていれば無料という規則もあって、相乗りを推奨している。通勤には相乗りで「フリー」というわけである。

 また、フリーウェイではないがモントレー半島の道路にもお金が必要である。有名なゴルフ場があるし太平洋を見わたす景色もすばらしいが、道路を含めて半島のほとんど全域が私有地なのである。料金にはその土地に入るため、という意味もありそうだ。

 とにかく、いつも日常的にフリーウェイを使うのだから道路を走るのにお金が必要というのでは困るわけである。それにフリーウェイがとくに高速というわけでもない。

 つまり自動車専用道路といってもとくにスピードが出せるわけでもない。街と街を結ぶ自動車専用の幹線道路で、入るところと出るところが決まっているのがフリーウェイというだけである。普通、料金所はないのである。

 もちろん、市内の普通の道路は制限速度がフリーウェイと同じ時速六十マイル(九十六キロ)ということはなく、時速二十五マイルなどである。フリーウェイの制限速度もエネルギー危機のころには時速五十五マイルくらいに下げられたこともある。だけど、フリーウェイは日本の高速道路とは少し違うのである。


「夕方にはサンフランシスコに着きますね。何泊するんですか?」

「二泊です。サンフランシスコ市内は初めてですね。来たときは東海岸まで行ったのですが、空港乗り換えで空港しか知らないんです。本田さんはサンフランシスコに詳しいんですか?」

「サンフランシスコは、二年前にこちらに来たときに一泊しただけで、あまり知らないんです。」

「じゃあ、どこが観光にいいとか分かりませんよね。」

「そうですね、分かんないです。」

「昔の日本人街があるでしょう――そこに泊まります。それと『エクスプレトリウム』という科学博物館がゴールデン=ゲート=ブリッジのわりとそばにあるっていうけど、それを見てみたい。」

 日系人がかたまって住んでいたのは昔のことで、その当時の日本人街がポスト・ストリートを中心にあった。今は、そこには日系人はあまり住んでいないという。またエクスプレトリウムは橋のそばの「パナマ太平洋国際博覧会(一九一五)」の跡地にあった。

「日本人街は名前だけ知っていますが、そのエクスプレなんとかというのは分かりません。」

「ああ、そうですか。フランク・オッペンハイマーという教育学者が作ったという博物館で六九年にできたというからまだ新しいですね。いろいろ科学の展示があって、見るだけではなく『参加型』というか体験ができるというので行ってみようかと思ったのです。」

「そうですか――知らないです。」

 フランク・オッペンハイマーは物理学者でもあるが、ロス=アラモス研究所の元所長で「原爆の父」と呼ばれるジュリアス・ロバート・オッペンハイマーの弟である。

「それから、ケーブルカーに乗ろうと思っています。」

「ケーブルカーはいいですねえ。私は見ただけですけど――。」

 そんな話をしていると、ウェイトレスがクラブ=サンドとアイスティーを持って来た。サンドウィッチは量が多く、食べきれるかどうか。フレンチフライなど、注文しなくて良かった。

「サンフランシスコはシティ=バイ=ザ=ベイ、つまり『湾のそばの街』というらしいけど、サクラメントは?」

「リバー=シティですね。つまり別名『河の街』と呼ばれるようです。もっともリバー=シティというのはアメリカのあちこちにあるらしいですが。」

「ここの場合はサクラメント川とアメリカン川ですね。」

「二つの川はすぐそこで合流していますよね。だけど、この街はあまり標高が高くなく、サターのころには冬に洪水の危険性があったという話です。この辺の雨期は冬なんです。」

「なあるほど。」

「二つの川の合流点のすぐ下流にオールド=サクラメントと呼ばれるところがあります。そこには、下のサンフランシスコから上って船が来るという波止場があります。」

 うん、うん、と木村さんはうなずく。ちょうどサンドウィッチを口に入れたばかりである。そして口をもぐもぐ動かしながらアイスティーを飲もうと手を伸ばす。佑子は両手でサンドウィッチを持ったまま話を続ける。

「サンフランシスコからサクラメントまで外航船が河をさかのぼれるよう航路があるみたいで。河の中を浚渫しているようです。」

 佑子はそこでサンドウィッチを口に持って行く。今度は木村さんが言う。

「航路があるって言うけど、サクラメントは内陸よね?」

 サンドウィッチを飲み込み、アイスティーをストローですすり、しばらくして佑子は言葉を継ぐ。

「サンフランシスコ湾があってサンパブロ湾があり、それからずっと東へ来てサンワキン=デルタという三角州があります。サクラメントのあたりはその三角州の上流側にあたるようです。」

「つまりサクラメントは内陸でなく、三角州の上というわけ?」

「そうです。『デルタ・クイーン』という船があるでしょう。外輪(がいりん)で推進するのですが、それが船の後ろで廻っています。今はミシシッピィ川のニューオリンズあたりで運行され、昔から、あちらで使われていたと思われているんですが、実はいちばん初めはこちらで使われていたんだそうです。デルタって三角州のことです。そのデルタというのはサクラメント・デルタなんです。」

「へえ〜、そうなんだ。」

「まあ、そんな話も合衆国史の授業のとき教授がしたんです。——ということは、アメリカ人の今の学生たちも知らないんですね。」


 サンドウィッチを食べ終わり、ウェイトレスが皿を片づけて、アイスクリームを出す。そのとき木村さんは佑子をじっと見つめ、ちょっとおいて意を決したように、しかし聞きづらそうに尋ねる。

「本田さん――、日本で大学はどうしました?」

 佑子はそれほど答えづらい質問ではないというふうに言う。

「日本では大学には行ってません。私は地元の埼玉県立A高校に通ったのですが、一〜二年生のころ、成績があまり良くなかったんです。国語と英語だけはできましたけど。それで大学に行くことはないと思いました。」

「ああ、そうですか。A高校はたしか高校野球で有名でしたよね。」

「そうですね、野球では有名ですよね。私はバレーボール部だったんですが。――だけど確かにA高校は普通より上ですが、レベルがそんなに高いというわけじゃあないんです。それで高校を卒業し大学進学を考えることもなく、英語学校に入りました。東京の目白にあるL英語学校です。ところがその学校で英語の力が伸びたと言われました。自分でも英語が得意だと言えるようになったんです。」

 なるほどと木村さんはうなずく。

「でも、英語以外の科目の成績は分かりません。だから日本の大学に行くなんて、少しも考えなかったんです。」

 木村さんはと言えば、出身は区立Y中学校と都立H高等学校である。それも学校で一〜二を争うように成績優秀で、中学生のときからいずれ大学に行くと分かっていた。大学と言えばT大学である。

 木村さんを見ながら、佑子は続けて言う。

「前にお世話になったアメリカ人夫妻の奥さんのほうが、そのL英語学校で先生をやってたんです。ご夫妻が帰国するにあたり、プラサビルに家を買って戻ると言われ、あなたは優秀だしちょうど卒業だから来ないかと誘われました。地元に短期大学もあると言うのです。というわけで、それからいろいろ手続きをし、英語の試験を受け書類を送ったりして、その大学に入学許可をもらいました。」

「あなたは年齢から言ったら、私のところの三年生か四年生でしょう。だけど、ずっとしっかりしていますよ。」

「いやあ、そうですか――。」

「私が大学生だったころもまわりにあなたのように落ち着いた人は少なかったですね。ここの大学の成績も良いのではないですか?」

「成績は良いです。英作文はBだったんですが、他は全部Aです。」

「ええっ、すごいねえ。」

 木村さんも良かったし、T大学にはもっと成績の良い人がいたかもしれない。だけど、ほとんど全部Aというのは、まだ二学年だけだけど、抜群に良いといえるかもしれない。

 カリフォルニア州立大学はカリフォルニア大学と違って、州の秀才が行く学校ではないし、そこの学生の年齢も平均すれば二十七歳を超えていると言われる。だから、どんなに良い成績で卒業しても分野によっては、カリフォルニア大学群の大学院へは進学できないと言われている。進学の応募手続きをしても(アメリカでは大学や大学院の入学試験は普通なく、個別に審査される)合格にならないのである。もっとも佑子はまだ大学院を心配する段階ではない。

「英語が分かるようになれば授業は大丈夫ですね。授業がよく分からなかったのは最初の一カ月くらいで、後はどの科目も『すいすい』というくらいに分かるようになりました。」

「私の場合、英語の会話はあまり習っていないので、話すのは得意じゃあないのですが、聞くのはなんとかなりますからね。」

「こちらの先生の授業の英語はほんとうに英会話のクラスに出てるようで、ちゃんとしてるって思いました。」

「そうですか。」

「と言っても、私も勉強しました。クラブ活動もしないでひたすら勉強です。」

「え、勉強だけですか?」

「そうです。他に何もすることがないので、教科書や参考図書を何回も読んでます。図書館で参考文献も探して。」

「そういうことも可能なんですね。」

「まあ、最初の一年間は夕食の手伝いくらいはしましたけど。独立したので、今では他にあまり用事はありません。」

「でも、ストレートAに近いというのはすごいですね。」

「秋と春の学期で、私が取ったのは二十科目で六十単位です。それと夏学期の授業も取りました。二科目で六単位ですね。だから今までに取った単位は二十二科目、六十六単位です。」

「それがひとつ・三単位を除いて全部Aというわけですね。すごいね。」

 あらためて見直したというふうに木村さんは佑子をながめる。

「だけど二学年が終わって、六十六単位では少ないのでは?」

「日本ではどうか分かりませんが、こちらでは成績が悪ければ即座に退学です。――というか、成績が良くなかったら次の一学期間は猶予が与えられますが、それで成績が良くならなければアウトです。だから単位は四年間で卒業するのに、ぎりぎりしか登録しません。一年で三十から三十六単位というのはだいたい標準ですね。」

「なるほどねえ。」

「それに月水金と同じ授業があります。」

「一週間に三回授業があるのですか?」

「ええ、月曜、水曜、金曜と授業があって、午前九時からとか、午後一時からとか、五十分が三回あります。火曜と木曜の場合には一時間十五分ずつで週二回です。」

「ああ、それで三単位なんですね。日本では一時間半の授業が週に一度だけ。それで二単位です。」

「日本では二単位なんだ。――でも時間的には計算が合いますね。」

「うん、そうですね。」

「とにかく、週に三回授業があり、宿題もあります。」

「宿題もあるんですか?」

 佑子は当然という顔をしてうなずきながら、アイスクリームのスプーンを口に持っていく。

「それとレポートもあります。」

「大学では徹底して勉強というわけですね。ちょっと聞くと教師もたいへんそうね。」


「ああ、そうだ。春学期に『社会心理学』を取りました。」

 佑子は思い出したように言う。

「その授業の課題はレポートだったのですが、文献を探すのがレポートの目的でした。もちろんテストは三回ありました。」

「うん、なるほど。」

 二人はそれぞれアイスクリームをスプーンですくって食べる。

「それは良いのですが、学期の終わりころ、教授が『心理学実験と統計』という心理学専攻の必修科目を履修していた先輩たちのことを話しました。専門の心理学、つまり実験心理学を専攻している人たちですが、教授は社会心理学が専門でその科目を教えていたんですね。」

「それで?」

 木村さんは先が聞きたいように促す。

「その人たちはレポートのために『現場実験』をやったグループです。アメリカでは何かとグループを作るんですねえ。グループを作るのが自発的なことも、教授がそうしなさいと指導することもあるようですが。」

「集団主義って日本人のことかと思いましたが。」

「いやあ、日本人よりアメリカ人のほうが集団主義的だと言えるんじゃあないですか。」

「そうですか?」

「集団主義的かといえば、日本人のほうがアメリカ人より個人主義的というか、集団主義ではないと思います。――まあ、そのことはともかく、その現場というのが『バート(BART)』だったんです。」

「バート?」

「サンフランシスコの地下鉄です。」

「ああ、『湾岸地区高速鉄道』のことね。」

「そうです。そこで『バイスタンダー効果』の追試実験をやろうとしたのです。」

「バイスタンダー? え〜と、日本では傍観者効果と呼ばれているかな。」

「困っている人を助けるかというのですが、その場に居合わせる人数が多ければ多いほど助けない。常識だとそこにいる人が多いほうが助けるだろうと思うのですが逆なんですね。え〜と、ラタネとダーリーという二人の社会心理学者が一連の実験をやっています。」

「うん、うん。それでサンフランシスコまで行って、その追試をやったんですね?」

「そうです。さすがに朝晩は混むでしょう。やっぱり空いた車両でないと実験はできないですよね。」

「まあ、そうでしょうね。」

「それで昼間ですけど、誰かの具合が悪くなる。そこに居合わせる人数が多いか少ないか、それによって助けてもらえる割合に違いがあるかどうか、調べてみようということでした。」

「元の実験では実験室で助けてもらえるか調べているんですね。それに気づく人数が多いほど、つまり同じ実験に参加している人数が多いほど助けてもらえないという結果が出たんですが、実際の『現場』で同じ結論が出せるかどうか、調べて見ようと思ったわけですね。――なかなかおもしろいアイデアです。」

「というわけで、具合が悪くなって、たまたまそばにいる人がそれに気づいて助けるか? そばにいる人が一人のときと、もっと多くの人たちがいるときと、きちんとした追試実験を考えたというのですが――。」

「どうなったのですか?」

「体調が悪いという演技をしてそれが真に迫っていたのか、電車が駅で止まってしまって救急車が呼ばれたのだそうです。」

「え、救急車?」

「そうです。実験のつもりだったのですが、高速鉄道が全線で止まってしまったというのです。」

「いやあ、それはたいへんですね。」

「実験をやっていた人たちもたいへんなことになったと思って、やって来た人たちに一生懸命、状況を説明したと言います。」

「始末書ものですね。」

「ところが高速鉄道の人たちは説明を聞いて、学生たちの責任を追及しなかったというのです。」

「何もなかったのですか?」

「授業をしていた教授によれば、責任の話はなかったそうです。」

「責任を追及しなかったのですか? う〜ん、鉄道の対応が日本と違いますね。」

「そうですよねえ。――ところでバイスタンダー効果ってなんて言うんですか、日本語で?」

「傍観者効果でしょう。」

「――傍観者というのは否定的な意味だけですよね。つまり何にもしないような。バイスタンダーにも傍観者という意味があると思うのですが、もっと中立じゃないですか?」

「そうかも知れませんね。日本語で傍観者効果と言うと何もしないのが当たり前のように感じられます。そういうことで、まあ、意味はネガティブですね。」


 そのとき、佑子は時計を見た。二時十五分になろうとしている。

「あ〜、もう時刻です。」

「うわっ、たいへんだ。」

 木村さんも時刻に気づき、二人はあわてて席を立った。アイスクリームはほとんど食べてしまっていた。

 テーブルにチップを置き、入り口のところで勘定をして、自動車へ走るように戻っていく。そして、大急ぎでバスの営業所に行ったが、サンフランシスコ行きのバスはすでに来ていた。

 佑子は自動車を止め、すぐに後にまわって、スーツケースを下ろす。木村さんがそれを引いて、バスのほうに行く。佑子は自動車の鍵をしめ、木村さんの後を追った。

 帽子をかぶった運転手らしい黒人の男性がバスの入り口の前に立ち、左手にバインダーのようなものを持ち、待ち受けている。木村さんはチケットをその男性に渡し、男性はそれを一瞥しスーツケースを見た。それを入り口ドア左の車体下側の荷物置きに置くように右手で指示する。

 木村さんがスーツケースを納めると何やらチケットに印をつけ、それを木村さんに返した。あとは木村さんが乗ればいい。四分ほど前だったが運転手はそのことについて何も言わなかった。他に乗客がまだ次々と現れてチケットを見せて乗り込んでいたが、そちらにも何も言わなかったのである。

「間に合ったみたい。良かった。」

「そうですね。ちょうどいい時刻だったようです。」

「あなたの住所、もらってないですが山崎さんに手紙を書きます。」

「そうですね、山崎先生に手紙を送れば、私にいつでも連絡がつきます。」

「お世話になりました。日本に帰るときは知らせてください。」

「予定のことで分かりませんが、当分帰らないと思います。日本に行くときにはお知らせします。」

 木村さんはそれでバスに乗り込んでいった。佑子はバスの反対側にまわった――バスの入り口は右側の前だったが、木村さんの席は運転手のすぐ後で左側だったからである。

 まもなく時刻が来て扉が閉まりバスが出発する。木村さんは窓から佑子を見て、手を振りながら出て行った。


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