第8章 サター砦

 午前十時の少し前、本田佑子がウェスタン・ホテルのラウンジに入ると、木村さんはもう長椅子に腰掛けて待っていた。胸のところにはサングラスがかかり、Tシャツ姿でジーンズをはいている。右脇に大きな若草色のスーツケースがあり、長椅子の左脇には小さな白い布製の丸帽子が置かれている。

 ホテルのフロント係は昨夜の男性とは違う二人で、チェックアウトのお客が二〜三組いて、忙しく働いていた。

「おはよう。もうチェックアウトしちゃった。このスーツケース、自動車に積んでいけるよね。」

「ええ大丈夫です。それじゃあ行きましょう。」

 佑子は軽く、あまり大きくない声で言う。そして帽子をかぶりスーツケースをゴロゴロ引いた木村さんを従えて、ラウンジを出る。駐車してある自動車の後部をあけて、スーツケースを押し込む。佑子が運転席に、木村さんは助手席に座り、二人はサングラスをかけて出発する。

 十一番街に出るとき右折する。左から車が三台続いて来ていて、出るのにちょっと時間がかかったが、木曜日の午前十時ということでそんなに交通が多いこともない。そして、すぐまた右折しホテル脇のHストリートに出た。この先で右折する予定なので、右側の車線にいる。

「おとといはサクラメント空港で降り、タクシーでホテルまで来たんですが、空港の近くは見渡す限り水田で、稲の穂がもう伸び始めていましたね。」

「ああ、カリフォルニア米というわけですね。私は見たこと、まだないのですが。」

「いやあ、最初は何だろうと思ったんです。ずう〜と地平線に行ってしまうほど続いていて。」

「空港はサクラメントの北のほうですよね。」

「そうです。おととい、シアトルからの飛行機が着いたところです。」

「サクラメントの北へは私、まだ行ったことがないんです。」

「あら、そう――。田圃(たんぼ)は日本でよく見る風景よね。ただ、こちらは畝(うね)がなく、稲だけがえんえんとつながっていて。」

「田植えはアメリカじゃあ、ないんじゃないかな――。」

「小型飛行機を使って種を播くとか。きっと直播きの陸稲(おかぼ)よね。」

「そ〜ですね。刈りとるのもコンバインとかいう機械を使うのではないですか。写真で見たことしかないと言うか、実物を見たことがないんですが。」

「刈りとると言っても上の穂だけで、稲わらはまた田圃に敷き込んでしまうのではないかしら。」

 十五番街でまた右折して、そのままJストリートまで走り、そこの信号を左折する。十五番街は南行きの一方通行で、Jストリートは東へ行く一方通行である。

 十五番街の左側に停車するとすぐ信号が変わり、大きく左折してまた道路の右側を行く。すぐに十六番街との交差点を通りすぎた。この道は昨日の夕方、木村さんが歩いたところで、右には日本料理店タカノがある。

 それから東へと、道なりにJストリートを走るが、両脇は商店などが続く。ただ店舗は道路に面しているわけではなく奥のほうにあり、ところにより店の前に自動車が止めてある。つまり車道から見て、駐車場や店は歩道より奥にある。

 建物と建物の間があいていて、この辺りでは一階建てや二階建ての建築が多く、三階建てより高い建物はほとんどない。早い話が大都市のイメージではない。

 だがサクラメントは人口が増えているから、このあたりの住民の数も増加しているのだろう。木村さんは周りをきょろきょろ見渡している。

 二七番街との交差点には信号はないが、そこを右折する。この道路は比較的狭いが、センターラインがあって両方向に走れる。両側は住宅地であるが、そのなかを南に向かっていく。そしてすぐにつきあたりの信号のない丁字路でKストリートに出る。正面に見えるのがサター砦で、その周囲にあるのが砦のまわりの公園らしい。

 空いている駐車スペースが交差点のすぐ左にいくつかあるので、佑子は丁字路を東へ左折する。Kストリートも両方向に行け、駐車メーターも通りの両側にある。公園の周囲には木が植えられ、その木影の駐車スペースが空いていて車を止める。

 お昼までの大部分の時間は日影になるようだが、車の窓を少しあけ、佑子は日よけを運転席の後から出してフロントに置く。そして一昨日に買った横の日よけを窓に貼り付ける。鍵をかけていると、木村さんが駐車メーターに二時間分の小銭を入れてくれていた。


 サター砦は正面が東西で一〇〇メートルくらい、奥行きが南北の五十メートルくらいである。それが五〜六メートルの高さの塀に囲まれている。入り口は正面と右に二カ所あるが、それ以外は白っぽい灰色の塀でふさがれている。

 地図で見ると、街路は西側が少し北のほうに行っている。そして砦は道路と三十五度くらいの角度がある。つまり外の道路は西のほうが少し北に寄っているが、中の砦は西がほんの少し南に向かっている。また砦裏の西北には小さな池を挟んで建物があるのが自動車を止めたところから見えた。それは地図によると、カリフォルニア州立インディアン博物館だという。

 公園の敷地は前がLストリートで後がKストリート、向かって右が二八番街で左は二六番街である。そして二七番街はこの砦の敷地である公園のところはなくなっている。というわけで、東西が二百五十メートル、南北がその半分くらいの二街区が、砦とまわりの公園敷地である。それと、西北のインディアン博物館も同じ街区に入っている。

 ただし南側のLストリートは直線でなく、外に少しふくらんでいる。砦の南西の角がまっすぐ行ったときのちょうど歩道の端あたりなので、砦の建物を避けるためだろう。街路樹は南側にはところどころしかないが、他の側にはずっと並んでいる。

 午前十時十分過ぎには、二人はサター砦の南の入り口に立っていた。カリフォルニア州のレンジャー(公園監視員)が入口のそばに立って迎える。スカウトの丸帽子をかぶり、ズボンのほうが少し色の濃いカーキ色のユニフォームを着ている。ここは州立公園で観光名所なのである。だけど夏休みも終わりなのか、観光客はそんなに多くない。

「人がたくさんいると予想していたけど、あまり多くない。」

「そうですね、わりと静かですね。」

 受付は入るところの右手で、木村さんは待つこともなく入場券を購入している。佑子は財布の中身を探っていたが、自分の券を木村さんに渡されたので、少しびっくりして言う。

「あ〜、ありがとうございます。」

「今日の案内のお礼です。金額もたいしたこと、ないし。」

 そして二人が中に入って驚いたのは、外側から塀だと思っていたのがすべて建物の外壁だったということである。つまり周りがずっと高さが一定の建物になっている。また、砦の内外は漆喰のようなもので塗り固められている。そして、「サターの屋敷」にあたるところだけが北のまん中から南のほうの中央に突き出た形になっている。この建物はサターが実際に住んでいたところである。

 屋敷だけは二階建てで、その周りは作業場というか庭になっている。そして東南と西北の角を除いて、周囲の建物はみんな平屋のようである。砦と呼ばれているが早い話、サターの住居である。

 サターが当地に到着したのは一八三九年七月、ここがまだメキシコ領だったころのことである。きちんとメキシコ国民になり、その翌年、四万八千エーカーを少し上回る面積の土地を、カリフォルニア中部のモントレーにいたメキシコ人知事から与えられ、「ニュー・ヘルベチア」と名付けた。サターはスイスから来たので、母国を意味する名前をつけたのだろう。

 最初にもらったその土地は縦横十五キロメートルほどと広大だったという。そしてそのまん中に砦を作った。住まいを作り、そのまわりを塀で囲ったのだが、その囲いが建物ということである。もっともそんな建物もすぐにはできないだろうから、時間をかけて整備していったのだろう。

 もらった土地がサクラメント市のもとになったのは一八五〇年、カリフォルニアが合衆国の州になったときである。土地の大部分は結局サターのものにはならなかったようである。

 その地名サクラメントは大きいほうの河の名前であり、河は北から南へ流れていく。そしてサンフランシスコのそばの海から直接、その河に大きな船が入って来たのである。

 アメリカン川は市の北西でサクラメント川に合流するが、上流は東へ行く。サターが製材所を作ろうとしたアメリカン川の南支流にあるコロマで金を見つけたのは四八年であることはすでに述べた。メキシコ戦争の結果、カリフォルニアが合衆国領になったのとほとんど同時である。だから、金が見つかったのはサターがサクラメントに入植してから八年目のころのことである。


 木村さんと佑子はサター砦の外側の建物を、向かって右から見ていくことにした。最初は砦の入り口の右側にあり、門が閉まっていても入口の外が見えるよう、窓が高いところにある部屋である。門扉が閉じられていて扉をドンドンと叩かれたとき、開けずに誰かを確かめることができる。そこには銃がおいてあったという。もうこのころ(一八四〇年代)にはスプリングフィールド銃が出ていて、今のように弾丸と火薬をいっしょに元込めにしていたらしい。

「連発銃はまだ発明されていないんだよね。」

「連発銃ってガトリング銃のことですか? 最初は銃身がいくつもあって、それがグルグルまわっていたんですよね。南北戦争のとき発明されて導入されたと思うのですが違いますか?」

 木村さんはあっさり『ああ、そうねえ』と答える。サターが現地に入植してから南北戦争まで二〇年ばかりである。その部屋にはガトリング銃のようなものはないし、二人とも銃の歴史に詳しくなくあまり関心もないので、展示を間単に通り過ぎて行く。

 すぐとなりは現代のオリエンテーション(解説・説明会)に使われる部屋で、日や時刻によっては人でいっぱいになるのだろうが、今日は夏休みも終わりのほうで誰もいない。椅子が並んでいるだけである。

 次は樽職人の工房だった。もちろん、樽ばかりを作っていたわけではないだろう。いろいろな容れ物を作っていたらしい。そのためのカンナやノミがたくさんあり興味深い。作りかけの樽もひとつ置いてあり、もしかしたら訪問者に見せる実演をするためのものかしれない。

「これは日本でも同じですね。江戸時代には職人が樽を作っていたんでしょう?」

「そうね。でも日本では竹を使って『たが』をはめていた。こちらでは鉄板の『輪っか』ではないかしら。」

「ああ、そうですね。」

「それに樽のかたちも違うみたい。こちらは上も下もないけど、日本の樽は下から上に向かって大きくなっている。そんな違いもあるみたいね。」

 アメリカのものはウイスキー樽を想像すればよい。日本の場合、大きいものは日本酒を発酵させる入れ物である。味噌や醤油も同じような器で醸造していたようだ。アメリカの樽に比べればたいへん大きいものである。

 その次の部屋はなんと牢屋である。東南の角は戦闘のような非常時に上に見張りがいたらしいが、下は窓のないレンガ積みの部屋になっていて、二階建てになっている。ひとつの大きな部屋だから、普通の監獄のように小部屋になっていたことを想像するのは難しい。上の見張りも下の牢屋も使われたことがあったのだろうか。

「監獄といえば、ここに人が押し込められていたわけだけど、誰が入れられていたんだろう。」

「こんな広いところじゃあ押し込めるという感じではないですね。」

「昔は細かい間仕切りがあったのかしら。」

 暗いので二人はサングラスをはずして中に入ってみた。少し低くなっているが、まわりを見渡し、ぐるりと見ても何もない。入り口の上に「プリズン(監獄)」と書かれていたがあまり実感を持って見ることができない。これはサターが住んでいた屋敷だから、囚人がいるというのは、あまり想像できないのである。

 次に、東側の建物の南端には移民の部屋があった。移民と言っても主に合衆国の東部からきた人たちのことだったらしい。ちょっと覗いて見たが、部屋には特段変わったものは何もないようだった。サターのころの東部からの移民はほとんどが南から入ってきた。少数は北のオレゴン・トレイルのほうから来たのかも。まだシエラ=ネバダを通過する道がなかったのである。

 そしてメキシコは合衆国東部から来る移民をあまり歓迎しなかったのかもしれない。ここはメキシコ領で、まもなくメキシコは合衆国と戦争を始めるのである。もっともサターはアメリカ人を歓迎したらしい。『歓迎した』というのは、ここが今は合衆国だからだろう。

 そしてトイレ(観光客用だろう)があり、そのとなりには砦への東からの入り口があったが、今日は閉じられている。

 その次には、砦事務の部屋として東北の角の部屋があてられていた。現在は事務所のほか、州のレンジャーたちが控室として使っているらしい。ドアが閉められていて中は見えない。

 そして直角に曲がって、北側の部屋のいちばん東には編み物の部屋、並んでベーカリー、そしてベーカリー・ショップがあった。編み物の部屋はそれなりのサイズがあるが、その左にベーカリーの小さな部屋が並んでいる。外側の建物の形は概略で四角形だが、これら東北の建物は少し内側、つまり南に引っ込んでいるようである。

 また編み物の部屋の南には大きな木がある。何の木か分からなかったが、この一角に枝葉を伸ばし占領していて、同時に日影を提供していた。木影に入っていないと今日も午前中から暑い。

「編み物の部屋と言うけど、この地方に住む人のため、着るものを作っていたんですね。」

「そうね、メキシコや東部から持ってくるのでは十分ではなかったのでしょう。」

「何でも自給自足だったんですね。」

 編み物の部屋をのぞき込んで、佑子と木村さんはそう言い合う。そう言えば、サターが来たとき女性はいたのだろうか? そこの部屋にはそういうことは書かれていない。もっとも原住民の女性はいたに違いない。

 次はベーカリーとショップであるが、最初の小さな部屋はベーカリーである。パンのもとになる全粒粉で練ったものがテーブルの上にあったが、イーストが入っているのか分からなかった。イーストが入っていなければパンはふっくらふくらんで焼けないから入っているに違いない。

 窯(かま)は戸外にあった――「蜂の巣型オーブン」と呼ばれるものである。パンを焼くため十九世紀にはそんなに珍しいものではなかったらしい。

「普通の家のパンをどうやって焼いたのかねえ。昔からベーカリー工場があったわけじゃあないんだよね。」

「こういうオーブンが必要だったんですね。」

「もっともパンは普通の家の食卓に出て来ないかもしれない。」

「なあるほど。日本のご飯とは少し違うかも。」

 そのオーブンは建物から少し離れて作られている。大きな窯で、これはいつも火を燃やしていて熱くなるから、ベーカリーの外にあったようである。このオーブンは今も火が入っているらしく、なんとなく熱い。ただ係の人が誰もいないのでパンが入っているのか、いま焼いているのかどうか分からない。

 そしてベーカリー・ショップがあった。パンのいくつかはここの窯で焼いたものらしい。でも、きれいに包装されているのは外で焼いたものを持ち込んで来ているに違いない。お土産として売っているのである。実際、サターが住んでいたころ、こんなショップなどなかったろう。


 そして次は北の壁にくっついた中央の二階建ての建物である。この建物にはサターが住んでいたという。その建物は北側にあり、その南に広場、そしてさらに南側には砦への入り口がある。建物は南北に細長く、敷地幅の半分より少し長い。

 そして外に階段があり、直接東側から二階にあがる。どうやら内側には一階から登る階段がないようで、一階の天井は高さが少し低いようである。下の階は物置のように使われていたかもしれない。

 アメリカの建物に入るとき少しためらうのは、靴を脱ぐ習慣がないということである。日本にいるときの癖で下を見ても、入り口には靴などが脱がれていない。日本においても今では公共の建物では靴を脱がないことが多くなっているが、個人の家では靴を脱ぐ。だがアメリカでは個人の家に入るときでさえ、靴を脱ぐ習慣がない。つまり下駄箱がないのである。その点で個人の家などの建物に入るとき、日本人は少し違和感を覚える。

 二階に上がってみると、二〜三の部屋が展示されている。まずは台所と食堂である。大きな部屋に「かまど」と暖炉があって、そばに食器棚がある――それらは展示物として良いもののようだ。ほかに食卓と椅子が置かれていたが、これらはあまり立派なものではない。あくまで実用を中心としているようである。

 もっとも、実際にここにどんなものが置かれていたかは分からない。今現在、ここにあるものを実際にサターが使っていたとは限らない。一時期、ここは空き家になっていたからである。

「食卓と椅子、これはアメリカ風なのかしら。」

「サターが来たとき、この辺を統治していたのはメキシコだったんでしょう。そのことを考えるとスペイン風かな。」

「ニュー・ヘルベチアというから、スイスの田舎風でサター好みというか。」

 次の部屋は寝室である。大きなベッドが置かれているが、そのまわりをカーテンというか「とばり」というか、薄いベールで囲ってある。もっとも今はその布を四方の柱にそれぞれまとめて縛りつけ、中が見えるようにしてある。中の敷布の上には二つの大きな白い枕が並べてあった。そして柱は高さが二メートル以上もあって天井に届きそうである。

 これも実際にはどんなものが置かれていたのだろうか。

「立派だけど、サターはほんとうにこんな生活をしてたのかしら。」

「最後は借金だらけだというから、ぜいたくしてたかも。」

 どうやらサターはヨーロッパから妻と子どもたちを呼び寄せたらしい。だからこんなベッドがあるのだが、もともとサター自身がヨーロッパから海を渡ったのは借金がだんだん増えたのが一因と言われている。

 コロマで黄金が発見されたとは言え、恩恵もさして受けず借金が増え、サターはこの砦にも居られなくなったようである。借金に追われて逃げることになったのである。合衆国領になったとき、まわりの土地も自分のものではなくなったらしい。

 だが、カリフォルニアがメキシコ領だったとき、メキシコ人として知事から土地を与えられている。ここサクラメントの土地はその最初であり、その他の主なものがずっと北のレディングのほうにあったという。

 また、ここの二階には「交易所」としてのお店があった。半分は昔のもの、たとえば毛皮だとか革製品だとかが展示されていた。残りはお土産品があって、絵はがきや書籍があるのがいかにも州立の公園らしい。木村さんは絵はがきに関心を示し、たくさんの中から選んで一組を買った。

 だけど、この交易所はもともとのサター屋敷にはなかったに違いない。ベーカリー・ショップやトイレと同じで信頼が置けないのである。しかし、これらを除いた家の展示は一世紀以上前のぜいたくな生活をよくあらわしている。

 そういうことで中央の建物は終わり、西側の外階段を降りることになった。二人は夏の日差しの中をゆっくりと下っていった。階段は西にあり日影だが、砦の中は暑い太陽が容赦なく照っている。正午までまだ一時間あまりある。

 砦の庭には馬で引くような大きな砲が据えられている。これが実際の戦闘に使われたことはなかったという。だが時代をほうふつとさせる良い展示物のようである。

 井戸もある――形は四角だが全体に日本の昔のものとよく似ている。蓋があるが、江戸時代の日本と少し違うのは屋根が葺かれていたことだろうか。

 それから砦の北西側でひときわ大きな場所を占めるのは酒類製造所である。サターの屋敷とその製造所に挟まれたところに部屋があって窯が置いてある。その部屋は続けて西にある酒類製造所の別室であろう。

 だが酒の作り方も二人はあやふやであまり得意なことではない。木村さんはためらいながら言った。

「ワインの場合、ブドウから作るんだよね。途中で熱を加えることはないんじゃないかな?」

「そうね、よく分かんないけど、ワインは樽の中で作られ発酵し、その後で瓶に詰められるのだと思う。」

 ブドウからワインを作るには窯は必要ないということである。ということは、ここではウイスキーなどの蒸留をしていたのではないか。

 ウイスキーなら大麦から作るが、そのためにはアルコール発酵させ、それを蒸留して樽につめなくてはならない。実際、職人が使っていたらしい樽が大部屋にはたくさん置かれている。ワイン醸造もやっていたかも知れないが、ウイスキーなどの蒸留酒を主に作っていたらしい。

 酒類製造所の西どなりは屋根だけがあって前側の壁がない。よく見ると古い窯が置いてあり、その置き方からただそこにある感じで蒸留していた気配がない。となりには燃料にする材木があり、屋根の下に積まれているが昔も蒸留酒を作っていたようには見えない。

 規制もありアルコール発酵させ蒸留して樽につめるのを展示するのは面倒だったのに違いない。だから百年も前の設備だけをそのまま残しているようである。

 というのも、一九二〇年代には禁酒法があった。合衆国憲法にアルコール類の製造や販売を禁止する条項が加わったのは一九二〇年である。日本では「禁酒法」と呼ばれるが合衆国憲法修正十八条である。そして修正二十一条で禁酒法は廃止となった――三三年のことである。

 もっとも、サターの屋敷跡の二階にあった交易所には、そこから東のほうのシエラ=ネバダのすそ野産や、西のほうのナパやソノマで出来たワインなども置かれていた。サクラメント地方ではワインはあまり作られていないかしれないが、蒸留酒を作るのに比べ、ワインを醸造するのは比較的簡単ということだろう。

 二人が次に入ったのは西側の建物である。いちばん北にカーペンター(大工)の部屋があった。大工の仕事もいろいろあったのではないか。しかし、どちらかと言えば、家を建てるより家具を作っていたのかもしれない。つまり、椅子とかテーブルとかである。

 もしかしたら、カーペンターが家を作るのは日本だけかも。日本の家は主に木造だからである。アメリカの家には木造もあるが、大きいものは石造りのものも多い。

「ねえ、あの箱は何だろう?」

「何でしょうねえ。何か入れるのだろうけど。」

 木の箱があってふたが前に下がるようになっている。何かの家具のようだが、家具職人がいたわけではないのでカーペンターの仕事かも知れなかった。

 こういうのはサターの指示で作ったり直したりしたのだろうか。文化の違いというか、その辺のところはよく分からない。この砦では展示されているだけで、詳しく説明をする人がいない。


 次の大部屋には壁に展示があった。砦の地方とそのときの出来事を絵と写真を交えて順に説明している。

 いちばん左はスペインの統治である。次にメキシコの独立。そしてサター砦が一八四〇年にできたこと。サターは三九年七月に当地に着いたと書いてある。カリフォルニアはその当時、メキシコ領だった。

 そのサター砦の記述の次に「ドナー・パーティ(隊)」という展示があった。いかにも古めかしい夫婦の写真がある。リード夫妻だという――ドナー隊はドナー・リード隊とも呼ばれたらしい。開拓のため西部を行った幌馬車隊の名前である。

 ドナーやリードの家族は州になる前の、つまりワイオミング・テリトリーの、南部にあったフォート=ブリッジアを一八四六年の五月に出発したという。幌馬車隊は一日に二十四キロくらいのゆっくりした速さで西に向かった。最初は牛もたくさんいたようである。オレゴン=トレイルを行くつもりだったか、それともそういう幌馬車隊が初めてのカリフォルニアに向かったのか。彼らが最初に想定した目的地はもうひとつはっきりしない。

 結局、彼らはカリフォルニアを目指すことになったらしい。だがその道を幌馬車で通った者はそれまでまだいなかったという。ともかく、いろいろな理由で遅れて半年もすぎたころ、十一月初めにカリフォルニアに入り、ずっと西のほうに行って、後にそう名づけられたドナー峠で雪にあった。

 本隊が峠に着く少し前の十月末に、リードの夫はサター砦に到着していたという。実はリードは幌馬車隊では仲間はずれのような立場だったらしい。そして、隊の同僚と争ってナイフで刺殺したという。その晩の話し合いで絞首刑をまぬがれ、次の朝、リードは家族と別れてグループに先行した。皆より先に行って積雪より早くシエラ=ネバダを下り、砦に着いていたという。

 他の人たちは現在の合衆国道八十号線のネバダとの州境からカリフォルニア側にしばらく行った場所、つまり後にドナー峠と呼ばれるところで雪に閉じ込められた。この峠は同様に後から名づけられたドナー湖の、すぐネバダ寄りだという。

 まわりは三千メートル級の山でその雪は深いところでは四〜五メートルにもなる。世界中でこれほど雪が積もるのは、この辺りの他はわが国の日本海側くらいしかない。さらにこのころはほとんど初めての通行で道がないものだから幌馬車隊は進めない。もっとも、インディアンに襲われるなどいろいろ事件があって、このころになると牛も馬もほとんど残っていなかったらしい。

 だんだんと食べるものがなくなり、十二月の半ばころ、サター砦に人を送って助けを求めたのだが、実際に援助のグループが来たのは二月の半ばということである。食べ物もなく凍傷もひどい。それから何度かの助けの試みがあり、最後の救助グループが現場についたのは三月十五日と言われる。そして、最後の移民グループがサター砦にたどり着いたのが四月二九日という。

 そこに書かれていることを読みながら、木村さんは言う。

「この幌馬車隊は最初九十人近くの人がいたというけど、食料がなくなり五十人くらいしか助からなかったと書いてある。どうやらドナーは飢え死したらしい。」

「生き残った人の中には死んだ仲間を食べた者がいた。書かれているのはそういうことでしょう?」

「そうねえ。これは家族で移動したのだから、小さな子どももたくさんいたのでしょうに。」

「コロマで金が見つかったのはその次の年ね。――サターはこのグループを助けようとしたのかしら?」

「う〜ん、このころメキシコ戦争の最中だったのでしょう? でも、助けようとしたんじゃないかな。」

 そのころ、東海岸からサクラメントに向かい、陸地を通りカリフォルニアに出る道はなかったという。だが、それから二十年も経つと、大陸横断の鉄道がこのドナー峠を通っていく。線路の建設工事中、数多くの事故でたくさんの中国人労働者が死んだのは、ドナーたちが行き詰まって死んだ、このあたりのことに違いない。

 サター砦の展示だからサターが助けようとしたのは分かるけど、結局どうしたのかあまり詳しくは書かれていない。サターは移民仲間に親切だったというからドナーたちを助けようとしたのだろう。四七年初めには砦から救助隊を何回も出したという。メキシコ戦争(一八四六年四月〜四八年二月)の最中のことである。

 だが、メキシコ戦争も合衆国軍がメキシコに攻め込んでいて、カリフォルニアではたいした戦闘もなく、四六年の八月ころの後には北カリフォルニアでの戦いはほとんどなかったようである。メキシコ国籍を取得していたサターは合衆国軍に捕まったというが戦争初期の短期間の話に違いない。

「フリーモントたちがサターを捕まえたのかな。」

 そのときいっしょに展示を見ていた男性が後のほうで小声の英語で言う。

「フリーモント?」

 木村さんは思わずそう繰り返し、振りかえって言った人を見る。佑子はと言えば、フリーモントという人物をよく知らないと判断したのか、そう言った人をあまりよく見ていない。

 それは濃いサングラスをかけた男性で昨夜、ペイス=ラウンジのバーの端に座って飲んでいた人物である。木村さんからは見えたか知れないが、その店では少し離れており、今はサングラスもあってか覚えていない。佑子と言えば、その男性はそのとき後のほうにいたため、見ていないのである。とにかく、木村さんの反応にその男性は英語で短く答える。

「ジョン・C・フリーモント。メキシコ戦争のとき合衆国軍の指揮を取っていて、キャプテン(少佐)だった。」

 フリーモントも興味深い人物である。メキシコ戦争のとき合衆国軍人だったが実際は探検家のようで、軍人としての訓練を受けていない。だから「名誉少佐」だったようである。

 最終学歴はサウス=カロライナ州のチャールストン大学で、卒業していないという。そして、メキシコ戦争が起こったとき西部を探検するという名目でフリーモントたちはカリフォルニアの北、オレゴン・テリトリーにいた。

 そして「熊旗の反乱」が起こった。メキシコ戦争の初期に合衆国人が北カリフォルニアで起こしたものである。現在も州の旗にハイイログマ(グリズリー熊)が描かれ、「カリフォルニア共和国」と書かれているが、もちろんそういう国が独立した史実はない。

 サンフランシスコ北方のソノマにあったメキシコ軍兵営に対して始まった反乱というが、メキシコ軍とあまり戦わないうちに一ヶ月弱(一八四六年六月十四日〜七月九日)が過ぎ、その後で反乱を起こした人たちは合衆国軍の指揮に従うようになった。その軍隊がフリーモントの率いる数十名だった。

 そしてサター砦も戦わないで占領したようである。そのときサターも捕らえられた。でも、すぐに解放されたのではないか。

 話は少しさかのぼるが、二十八歳のときフリーモントはミズーリ州からの合衆国上院議員トーマス・ハート・ベントンの娘ジェシーと結婚し、この大物政治家の「マニフェスト・デステニー(自明の運命)」という思想に大きな影響を受けることになった。

 その考えによれば北アメリカ大陸は合衆国のものであり、これを支配するのは合衆国の運命だというのである。だから、その当時まだよく知られていなかった西部を探検しようと考えた。

 その探検隊の隊長にフリーモントが選ばれ、一八四二年を最初として、五回のアメリカ西部の探検を行なっている。その三回目にメキシコ戦争があったのである。

 一回目の探検旅行では四二年にワイオミングのサウス=パス(ロッキー山脈の分水嶺)に行き、その報告が当時の新聞に載り大評判となる。西部開拓が合衆国民に次第に魅力的になってきたのである。

 二回目は四三年から四四年にかけて、オレゴン路を西に行き、カスケード=レンジを見て、それから南に下ってシエラ=ネバダ山脈の東に出る。白人としてたぶん最初にタホ湖を見て、その後、西に行き山脈を下ってサター砦に到ったという。

 そう言えば、コロマの「マーシャル金発見州立歴史公園」の博物館に、フリーモントが四四年にサター砦を訪問したときの絵があった。道案内のキット・カーソンもそのとき一緒だったという。

 そして、サクラメントから南に行き、今のラスベガスのあたりまで行った。その後は北へ戻りサウス=パスに帰った。

 三回目の旅行はセントルイスから出発して南に行き、アーカンソー川を調査していたようだが、突然、西に向かいカリフォルニアに至る。

 そして、そこにいたアメリカ人たちにメキシコに対して独立するようけしかけたのである。だが、メキシコ軍を恐れて北のオレゴン・テリトリーに逃げ込んでいる。その後、インディアンに襲われる。そのときキット・カーソンがもう少しで命を落とすところをフリーモントが助けたという。

 そしてまもなくメキシコ戦争が始まる。でも、カリフォルニアではあまり大きな戦いはなかったようである。戦争が終わったとき、カリフォルニアはアメリカ合衆国の一部分になっていた。

 四回目は四八年の冬期に東からまっすぐサクラメントに向かって山を越えようとし、あまりうまく行かない。五回目(五三年の冬)にようやくカリフォルニアに着くが、犠牲者も出たようである。

 こうした冒険旅行家であると同時にフリーモントは政治家でもあった。カリフォルニアが州になった一八五〇年、合衆国上院議員に選ばれている。

 そして共和党が結成されたときの初めての大統領候補(五六年)になる。フリーモントは民主党のジェームズ・ブキャナンに敗れるが、次の大統領選挙(六〇年)で同じ党のエイブラハム・リンカーンが勝つ。フリーモントはリンカーンと同じように、奴隷制度に反対の共和党員だったのである。

 フリーモントは南北戦争にも従軍し、最後は少将になった。ただし教育・訓練を受けた軍人ではなかったようで、メキシコ戦争のときには軍法会議で有罪になっているし、南北戦争でもリンカーン大統領に司令官を解任されている。

 そしてフリーモントはカリフォルニア時代の一時は金鉱などであて、すごい金持ちになったというが、晩年にはあまり財産もなく、九〇年にニューヨーク市でさびしく亡くなったという。

 こういうフリーモントについての細かいことはドナー隊の展示には書かれていない。そして次の展示にあるのかと木村さんと佑子は一生懸命に読んだけれど、そういうことは書かれていない。

 フリーモントは州立大学での合衆国史の授業に出てきたかもしれないが、佑子はあいにくあまり覚えていなかったようだ。その話があるとすれば前期の終わりのとき、教科書に書かれていたかもしれない。

 そして振り返って見たが、フリーモントについて指摘をした男性はもういなかった。展示を読んでいる間にいなくなったようである。二人はドナー隊の記述を読んだ後の重苦しい気持ちで部屋を出た。


 次に二人が入ったのは「ヴァンケロ部屋」だが、スペイン語で「カウボーイの部屋」といった意味らしい。サターはスイス人で、若いころはドイツ語を使っている。そして英語やスペイン語も必要に応じて使えるようになる。

 サターが着いたころにはカリフォルニアはメキシコ領だったのだからスペイン語が使われていたのである。メキシコ戦争後、カリフォルニアは四八年には合衆国領になっている。公的に英語が使われるのはこの後のことだが、結局、カリフォルニアにはスペイン語しか話せない人が大勢いるのである。ヴァンケロ部屋という言葉はそういうことも意味している。

 佑子がようやく、いくらか元気を取り戻したらしい。

「カウボーイというけど、今のカリフォルニア州はどちらかと言えば牧畜は盛んではないですね。」

「そうねえ。でもサターが入植したころは放牧していたかも。」

 記録ではほんの数年でサターの飼っていた牛は一万三千頭を超えたという。当時は放牧が土地に合っていたのだろう。カリフォルニアの初期は今のメキシコのように牧畜が盛んだったかもしれない。

「まあしかし、『セントラル=バレー』は今では放牧はあまり多くないと思います。」

 たしかにカリフォルニア州中央の平野セントラル=バレーは現在、野菜作りなどを中心とした農業が盛んで、牧場はあまり多くない。

 そしてサター砦の次には鉄砲鍛冶の部屋があった。壁に銃が並んでいるが、このころの特徴は銃身が長いことである。

「やはりこのころは鉄砲が重要だった。」

「そうね、でもこの砦に鉄砲鍛冶がいたなんて。」

「昔は弾丸を一発一発、込めていたんだね。」

「やはり元込めでしょうね。もっとも先込め銃もまだあったかも。」

 このころにだんだんと元込めに変わっていったのだろう。西側の部屋はそれで終わり、今度は南西の角にあった鍛冶屋である。

 正面に火をおこす「かまど」があって、煙突がその向こうにある。左には鉄床(かなとこ)の上にハンマーが横たわっている。これは「ふいご」で風を送って火をおこして鉄を熱し、鉄床を用いてハンマーで叩き、道具を作るということを示しているに違いない。

「日本にも刀を作る鍛冶屋があったけど――。普通の鍛冶屋は日本でも、あまり見たことないね。」

「そうね、あまり知らないけど。」

「でも、こうして見ると普通の鍛冶屋も大切な仕事なんだ。」

「そうみたいですね。」

 この部屋にも、誰もいない。樽職人もカーペンターも鍛冶屋も実際に作業しているところを見ないと想像しにくい。仕方ないので展示してある部屋を見るだけという感じで次に行く。

 その次の部屋ではろうそくを作っていた。芯になる糸をロウの中に垂らし引き上げる。ゆっくり何本もいっしょにロウの中から引き上げ、それを繰り返すことでだんだん太くする。その途中のところが展示されている。

「なるほど――、ろうそくはこうやって作るんですね。」

「今は電気があるから夜も明るい。だけど、このころはろうそくの明かりしかなかった。」

「そうですね。ろうそくなんて想像もつかないけど。」

 そして二人は日本のことを話している。

「日本も昔は停電が時々あったけど、今はあまりないね。今は家にろうそくなんてない。」

「仏壇や神棚があれば話は別ですよ。灯明として今も多くの家で使われてますから。」

「マンションに一人で住んでると、ろうそくはないよね。」

「仏壇も神棚もない、というわけですね。」

 ろうそくを作っているとなりは、どうということもない普通の部屋だった。使用人の部屋ということらしい。木村さんと佑子はちょっと中を覗いたが、あまり興味を引かれるものがない。

 最後は入口の左にある、鉄砲などが置かれている部屋であるが、最初に見た右にある部屋と同じでわざわざ入るほどのこともない。これでサター砦も終わりである。


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