きちんとした楽譜
増田朋美
きちんとした楽譜
その日は曇っていて寒かった。それが普通の2月というものだと思うのであるが、その前後がやたら暖かったために、なんだか順応できないでいてしまうのであった。そのうち、こうなることが当たり前になってしまうのだろうか。だけど、そうならないで、いつまでも穏やかなままでいてくれれば、いいのになと思うけど、そういうことはもう無理なのかなと思われる。
「こんにちは、あの、右城先生の住んで居るところは、ここでしょうか?」
一人の女性が製鉄所を訪ねてきた。隣には、一人の若い女性を連れている。
「はあ、右城は水穂さんの旧姓だよな。お前さん、レッスンに来たの?」
と、応答した杉ちゃんは、そう応答したが、
「ええ、あの、右城水穂先生は、こちらに?」
と、女性は言うのだった。
「じゃあ、まず、お前さんの名前を名乗ってくれや。そこから始まるぜ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「はい。あたしは、小宮山多香子と申します。こちらは娘の鈴子です。」
と、女性はそうなのり、隣に居る若い女性も、
「小宮山鈴子です。よろしくお願いします。」
そう言って頭を下げた。その言い方がちょっと、訛っているというか、正常な日本語の発音ではなかったので、少し、言語期間に障害があるのではないかと思われた。病名などはわからないけど、なにか障害のようなものがあるのだろう。
「小宮山鈴子さんね。それじゃあ、とりあえず、水穂さんを起こしてレッスンしてやれるかどうか聞いてやるから、少し待っててくれ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「待つってどれくらいですか?」
と、鈴子さんは聞いた。お母さんの多香子さんが、そんなことは聞いてはダメよと言うけれど、鈴子さんは気になるようだったので、
「はい。15分くらいかな。」
と、杉ちゃんは言った。そして、ちょっとまっててと言って、直ぐに車椅子を方向転換させ、水穂さんのいる四畳半へ向かった。そして、布団で寝ている水穂さんに、
「水穂さん、レッスンしたいって言う親子さんが来てるんだけどさ。ちょっと、やってくれるか?」
と、急いで言った。水穂さんは、ヨイショと布団の上に起きて、
「レッスンって、誰がですか?」
杉ちゃんに聞いた。
「ああ、小宮山鈴子とかいう人らしい。まだ若い女性なんだけどね。もう玄関先に居るんだよ。」
「はあ、そうですか。とりあえず中に入ってもらって、レッスン、やってみましょうか。」
水穂さんがそう言うと、玄関先で声がした。
「すみません、早くしてくれます?あたし、この後出かけなければなりませんので。」
それと同時に多香子さんが、なんて失礼な事言うのみたいな事を言っていたけど、それはもしかしたら、鈴子さんの特性であるのかもしれなかった。
「ああ良いよ。入れ。」
杉ちゃんに言われて、多香子さんと鈴子さんは、四畳半に入ってきた。
「すごいですねえ。なんか旅館みたいな建物ですね。たてものは製鉄所と名乗っているそうだけど、なんかすごい。ここなら落ち着いて話ができそう。」
そう言いながら入ってくる鈴子さんは、全く悪びれた様子もない。自分の言いたいことは、何でも口に出してしまうのだろう。
「こんにちは。小宮山鈴子さんですね。えーと今日は、なんの曲をやってくれるのでしょうか?」
水穂さんがそういった。
「はい。ベートーベンの月光、第三楽章。」
鈴子さんが言う。
「わかりました。じゃあそこにあるピアノで、弾いてみてくださいますか?よろしくお願いします。」
水穂さんがそう言うと、鈴子さんは、わかりましたと言って、ピアノを弾き始めた。それはたしかに、ベートーベンの月光ソナタではあるのだが、なんだか、機関銃のように叩きつけた演奏で、とても美しい演奏とは言えない。決して、ベートーベンの月光ソナタは指の練習ではないし、指を強くするためにあるわけではない。強弱は全くついていないし、ただピアノを弾いているというより、上からぶっ叩いているような演奏になってしまっている。
弾き終わると、杉ちゃんが大きなため息を付いた。
「それにしてもこれはひどすぎる。」
「そうですねえ。僕もひどすぎるという言葉は使わないけど、ちょっと打鍵がきつすぎるということはあると思います。どこかの先生に習っていらっしゃるんですか?」
水穂さんは、そう彼女に聞いた。
「はい、河野佳代子先生です。」
これには杉ちゃんも水穂さんも驚いてしまった。
「はあ、あの、芸大の先生ですよね。容赦しないことで有名な。」
というほど、よく知られていた先生でもあったのである。
「知っていらっしゃるんですか?」
「ええ、知ってますよ。以前、お会いしたことあるんですが、ちょっと変な先生でよく知られてますよ。もちろん、演奏はされてるし、それはすごいなと思うんですけど、なんだかとてもきつくて、レッスンのときは、変な先生で有名ですよ。」
鈴子さんが言うと、水穂さんは答えた。
「変な先生、なんですか?」
と、多香子さんが言った。
「ええそう言われていますよ。たしかに、演奏はすごいうまいことで知られてますけど、やたら感情的になったり、気分屋としても知られています。ですが、ピアノはものすごくうまいので、ぜひ教えを請いたいという人は多いようですが。日本人はどうしても、権威や称号に弱いから。悪い先生であってもいい先生だと思い込んでしまうんですよね。」
水穂さんは耳の痛い話を始めた。
「だって先程のベートーベンの月光ソナタだって、強弱も何もついてないし、印象に残るのはオーバーアクションと、叩きつけて、ピアノを壊してしまうのではないかと思われることだけです。それでは、何も意味がありません。音楽を伝えるということを考えないと。もう少し、弱いところを、しっかり弱くし無いと、強さが生きてこないですよ。だから全部の音を叩きつけるように弾いていたら音楽は何も伝わりません。あの、失礼ですが、楽譜の出版社は何を使っていますか?」
「はい、ヘンレ出版社です。」
水穂さんがそうきくと、彼女は直ぐ答えた。
「音大の先生なのに、ヘンレを使わせるんですか?」
「はあ、おこちゃまだねえ。」
杉ちゃんと水穂さんは、顔を見合わせた。
「例えば、シュナーベル版とか、クラウディオ・アラウ校訂版とか、そういうものは使わせなかったですか?」
水穂さんが驚きを隠せないままそうきくと、
「ヘンレ版で十分と言われました。」
と、彼女は直ぐ即答するのであった。水穂さんたちは、あまりにも驚いてしまって、しばらく発言できなかった。
「そ、そ、そうですか。本当は、シュナーベル版とか、クラウディオ・アラウ校訂版などで学習するはずなんですけどね。しかも、先生は有名な芸大の先生でしょ。それなら、いくらなんでも、ヘンレ版で良いとしてしまうことは無いと思いますけど、、、。どういうことなんでしょうか。」
水穂さんは、困った顔をした。
「見やすいし、ちょっと持ち運びが不自由ではあるけれど、ベートベンの意志を継いである楽譜だって聞きましたから。」
鈴子さんがそういうと、
「でも、ヘンレ版は、解説も無いし、曲に対する情報が何より少なすぎるので、専門的に学習したい人には向きませんよ。あれはドイツで言ったら全音くらいの普及版です。音大の先生について、ちゃんとベートーベンのソナタを習いたいと言うのであれば、シュナーベル版とか、そっちのほうが良いと思います。ヘンレ版は運指に関しても情報が少なすぎて、変な癖が出てしまうという弱点もありますし。」
水穂さんはそう答えた。
「もし、よろしければ、シュナーベル版に買い替えたほうが良いのではありませんか?」
「そうですね。でも先生に、こういう楽譜でやりたいんだって言ったら、すごい怒られる可能性もありますし。」
鈴子さんは小さくなっている。
「でもね、ちゃんと学習したいのに、それにあった教材を使わせないというのもまた問題だと思いますよ。ヘンレ版で何でもやればいいかって言うものではないんです。バッハであれば、ガセッラ校訂版とか、ショパンであればミクリ校訂版など、そうやって、作曲者によって出版社を使い分けるようにしなければ。もちろん、入手しにくい楽譜もあるけれど、それでも、用意しておくというのは、必要なんだと思いますね。本当に、河野先生はなにも言わなかったんですか?僕からしてみれば、職務怠業のように見えるけど。」
水穂さんは、そう有名な楽譜の名前をあげてみたが、鈴子さんは全く知らないという感じだった。つまり、彼女は、有名な楽譜で何一つ学習してこなかったということである。
「全然知りませんでした。ヘンレ版で全部やってました。それでいいって言われたので、それで良いと思っていました。」
鈴子さんがそういう。顔を見ると、本当に正直な人のようで、本当にそれらの楽譜を知らなかったということが顔に出ていた。有名な楽譜でレッスンを受けていないというのが、なんだか可哀想な気がしてしまうほどであった。
「僕は、思うんだがね。その、河野佳代子とかいう先生、お前さんの事をバカにしてるというか、教育しようという意志が無いんじゃないのかな?だってさ、音楽を学習するのに、ちゃんとした教材を使わせないっていうのは、明らかに先生としてルール違反だぜ。だから、そういう有名な楽譜を使わせないってことで、お前さんと関わりたくないってことを示してるんじゃないのかな?だって、お前さん、発達障害だろ?思ったことは何でも口にしちゃうし、待ってられないし。そういうやつはうちの教室には来ないでくれ。そう河野先生は示してるんだと思う。」
杉ちゃんに言われて、鈴子さんは、大変がっかりした顔をした。
「私、先生にかわいがってもらっていると思っていましたが、そうじゃないんですか。」
「ああ、それは演技。それよりも、ちゃんとした楽譜を用意させない、その存在を教えようとしないというのは根本的な間違いだよ。まあ言うてみれば、お前さんをお教室から追い出したいんだと思うよ。だから、他の人と差別化を図るために、ヘンレ版しか使わせないと言う。」
杉ちゃんはサラリと言った。
「ええ僕も杉ちゃんの言うとおりだと思います。ちょっとかわいそうだとは思うんですけど、その先生が、そう思っているから、ちゃんとした教材にたどり着けないんですよ。きっと、シュナーベル版であれば、もう少し運指が詳しく書いてあると思うので、弾き方も少し変わってくると思うんですよ。それに、ベートーベンのソナタを学習するには、最高峰の楽譜ですから。やっぱり用意したほうが良いと思います。」
水穂さんは、そう説明した。
「そうですか。それはどこで入手できますか?」
と多香子さんが言った。
「ええ、楽譜屋さんでも入手できますが、通信販売でも入手できますよ。昔は、10000円くらいしたけど、今は、5000円位で買えるんじゃないですかね。」
水穂さんがそう言うと、早速多香子さんは、タブレットを取り出して、シュナーベル版ベートーベンピアノ・ソナタ集と検索欄に入れて調べ始めた。確かに、通信販売サイトを探してみると、クルチ社という出版社出ているらしいのである。値段は、水穂さんが言うとおり、5000円代であった。
「じゃあ、このベートーベンソナタ集、シュナーベル版というのを買えば良いんですね。」
多香子さんがそう言うと、
「はい。それで大丈夫です。そのほうが、色々勉強できると思います。」
水穂さんはそういったので、多香子さんは直ぐにその楽譜を買ってしまった。かなり分厚い楽譜のようだけれど、こちらのほうが、ベートーベンを学習するのに向いているというのなら。
「それにしても、ご指摘くださりありがとうございました。シュナーベル版なんてそんな楽譜があって、それがベートーベンを学習するのに大事な楽譜だったのは知りませんでした。私も、鈴子も知らなかったので、本当にありがたいことです。ありがとうございます。」
多香子さんは、そういったのであるが、水穂さんは、そうですねと厳しい表情で言った。
「多香子さんは、娘さんを、音大に進ませるつもりだったんでしょうか?」
「ええ。まあそうでしたけど。」
と、多香子さんは言った。
「鈴子は、先程指摘くださったように、ちょっと、大変なところがある子ですから、普通の健康な子とちがって、一般的な学校へ進むのは難しいと思いました。そういうことだったら、鈴子の好きだったピアノを存分に学ばせてあげようと思いましてね。それで、音楽学校を受験させてあげようかなと思ってるんです。」
「ああそうですか。そうなると、鈴子さんを音楽学校へ行かせるのは、ちょっと、難しいと思います。音楽学校の先生でも、こうして、ちゃんとした教材を使わせないで、教える意志がない事を示してるような先生では、音大でやり取りするのは、難しいのではないでしょうか。例えば、ピアノの先生を変えるとか、そういう事しないとだめだと思いますよ。ベートーベンを学ばせるのであれば、ちゃんとシュナーベル版でやってくれる先生を見つけないとね。それも知らないで音大に入ってしまっては、鈴子さんが可哀想ですよ。」
水穂さんは、多香子さんの話を受け取ってそういったのだった。
「そういうことですから、ちゃんと鈴子さんの事を教育してくれる先生を探してあげてください。音大の先生であれば、シュナーベル版を使うと良いと言うことをしっかり教えてくれるはずです。」
「わかりました。ありがとうございます。でも、他に何も情報がありません。今ついている先生だって、鈴子が子供の頃習っていた先生に紹介してもらっただけです。何もつてのないまま新たな先生を探すというのは、どうしたら良いのでしょう?」
多香子さんがそう言うと、
「そうだねえ。インターネットの口コミサイトで調べてみるとか、音大のマスタークラスみたいなそういうところに参加させてもらって、良さそうだなと思われる先生を見つけてみたらどうだ?」
と、杉ちゃんがアドバイスした。
「ほら、よくあるじゃないか。一日体験入学とかさ。体験レッスンとか、色々あるだろう?それでいい先生を探すという手もあるだろう。その時は、ちゃんとシュナーベル版のソナタを忘れないで持っていってね。」
「そうですね。最近は、シュナーベル版がなくてもレッスンしてくれるかもしれませんが、僕らの頃は、シュナーベル版を持っていかないと、大声で怒鳴られたり、しかられたりしましたね。まあ、今は、先生がいれば生徒が勝手に集まってくる時代ではなくて、それよりも、先生が生徒を巡って、争うような時代になっちゃいましたからね。だいぶ、柔らかくなってきましたけど、でもおんなじことを、繰り返しては行けないですよね。」
水穂さんは、ちょっと柔らかい態度になっていった。
「まあどちらの学校に行かれるにしても、ちゃんとした教材があって、それを使わせないで威張ってばかり居る先生は、行っても意味がありませんよ。それに、そういう楽譜があるというのは知らなくて当然なんですよ。だってまだ、10数年しか生きてないわけですから、それは、仕方ないことです。」
「でも。」
と誰かが小さい声で言った。皆一瞬誰の声かと疑ったが、誰の声でも無いので、多香子さんの娘の鈴子さんであることがわかった。
「でもなんですか?」
水穂さんが聞くと、
「今の先生辞めるのも、本当に難しいことだと思いますし。」
と、鈴子さんは答える。
「なんで難しいと思うんですか?」
水穂さんがそう言うと、
「いえ、私がレッスンに行ったとき、私だけがあなたにレッスンしてやっているんだって言ってましたから。そのとおりだったら、私を見てくれる先生なんていないんだろうなと思います。」
と鈴子さんは言った。
「はあ、洗脳されてるな。そんな事いうなんて余計に、彼女が可哀想だよ。そういうこという先生はろくな人じゃないよ。それなら、こっちから払い下げたと言ってさ、もう二度と来ませんって、宣言しちゃえば良いんだよ。それもちょっと怖いかな?」
杉ちゃんが直ぐ言うと、
「それとも引っ越すから、もう通えないとか、そういう事を言ってしまっても良いかもしれないですね。」
と、水穂さんが現実的な意見を言った。
「確かに、師事した先生が、八方手を回すこともあるので、できれば、それ以上に偉い方についたほうが良いのですが、そういうわけにも行かないかな。それなら、やはり、大学で主催している、オープンキャンパスや講習会などで、先生を見つけてしまう方が速いのだと思いますよ。」
「そうそう、そのほうが良い。」
杉ちゃんも直ぐいった。
「そういうわけだから、いい先生を、早く見つけて、楽しく音楽大学生活を送れると良いね。応援してるから、これからも頑張りや。お前さんの演奏は、機関銃みたいでひどいものだったけど、ちゃんと楽譜を買って、いい先生に付けば、絶対伸びると思うから。」
「ありがとうございます!」
と、鈴子さんは直ぐに言った。こういうときは、鈴子さんのような障害のある人は、良いのかもしれなかった。単純に答えを出してくれるだけではなく、その答えの出し方が、他の子より、よりわかりやすい態度で答えを出すからだ。
「これからも、いい先生見つけて、いい演奏ができるようになるといいですね。」
水穂さんがそう言うと、
「本当にどうもありがとうございました。そうですね、積極的に学校を訪問するほうが、私たちも早く情報が見つかるかもしれません。それができないわけでも無いのなら、私は喜んで娘に付き添います。本当に今日はありがとうございました。」
と多香子さんがそういった。鈴子さんも嬉しそうに、
「ありがとうございます!絶対、私、好きだった音楽を学んで、いい演奏ができるようになります。」
というのだった。その顔は、明らかに喜びの顔で、それに嘘いつわりもない事を確信させた。それなら、きっと、音大で楽しく学べるだろうと、水穂さんも、杉ちゃんも、思ったのであった。
きちんとした楽譜 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます